CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 7話3
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 開け放った窓の外から、涼しい風が吹いてきた。
 木板の床には影が落ち、宿の部屋は濃い陰影の中に沈んでいる。窓から差しこむ夕焼けが、うつ伏せで寝入った髪を、頬を、伏せたまつげを、茜色に包んで染めている。
 連絡の都合を考えて、異民街にほど近い、目抜き通りの西に宿をとった。さっそく部屋に押しこむと、彼女は寝台に腹ばいになり、しばらくぶつくさ不貞腐っていたが、いつの間にやら眠っていた。どうやら疲れていたようで、昼からずっと目覚めない。
 ファレスは座った膝に肘を置き、寝台の縁に腰かけていた。うつ伏せの寝顔を静かに眺める。
「ここまで、なんだよな」
 彼女の身柄を引き渡せば、それで行程は終了だ。ケネルは端からそのつもりでいた。行程終了、それはつまり、闇医師の手に委ねた瞬間ときから、赤の他人になる、ということだ。
 ファレスは眉をひそめて目をそらした。これは予定された別離であるし、ケネルのそうした意図についても以前に聞いて知ってはいたが、いざ、その段になってみれば、実感がまるで湧かなかった。むしろ、ざわざわ気持ちが騒ぎ、何か、どうにもすわりが悪い。
 護衛対象との別離など、数え切れないほどくり返してきた。そうした者の大半は、もう顔も思い出せはしない。まして相手が女なら、今後の処遇等々に何ら影響を与えるでもないなら、そうした傾向は尚更だ。他人を領分に入れることなく出会う者すべてを切り捨ててきたファレスには、それは当然のことであり、これまでも、これからも、かくあるべきはずだった。だが、「縁が切れる」ということに、今回はどこかで抗っている。
 自身の思いがけぬ反応に気づいて、ファレスは戸惑い、苛立った。そうしたことは、かつてなかった。どうやら、この赤の他人に情がわいている、、、、、、、らしいのだ。
 何故こうまでおたついているのか、何をそんなにそわついているのか、何をそうまで恐れているのか、ファレスにはわからなかった。それが苛立ちをあおる一因だった。その中に、どうやら怯えが入り混じっているらしいことも。そうした不可解の只中で、一つはっきりとわかっているのは、あまりにも長い時間、近くにいすぎた、、、、、、、、ということだ。
 行程はすでに終盤だ。もう目的地まで来てしまっている。後は、先方の闇医師に彼女の身柄を引き渡すのみ。そして、当の闇医師にしても、近隣に避難して帰郷の機会をうかがっている、というだけのことだろう。単に留守にしているだけで、遠からず診療所に戻ってくる。
 別れは着実に近づいている。手を離した瞬間から、それぞれの道を歩き出し、別々の明日が待っている。一時交差したそれぞれの道が、再び分かたれ、離れていく。今まさに、その分岐点に立っているのだ。行く先の異なる各々の道は、放射状に拡散し、遠く遠く放たれて、二度と交わることはない。
「……ここまで、なんだよな」
 夕日に照らされた寝顔を眺め、組んだ指をそわそわほどき、又もどかしく組み合わせる。どれだけ考えても、結論は同じだった。ここが紛れもなく終着点だ。その先は、ない、、
 クレストの領主がどうなるにせよ、彼女が領家の正妻である、という事実には、なんら変わりがあるでもない。よしんば戦で連れ合いを失い、領邸を出奔してきたとしても、部隊に女を置くことはできない。
 ロムは戦場を渡り歩いて生計を立てる生業だ。自分の身も守れぬ者は足手まといになるだけでなく、その当人も命の危険にさらされる。だが、身の安全を第一に隠れ里に押しこめば、故郷を思って泣くだろう。まして、街から離して連れまわした挙句、戦死でもすれば最悪だ。彼女は知らない遠くの土地に、ひとり取り残されることになる。だからといって傭兵を辞めれば、たちまち食い扶持を失って、日々の飲み食いにさえ困窮する。身元保証のないロムは、市民のようには働けない。
 ファレスは夕焼けの寝台を眺め、もちあげた手をのろのろ伸ばし、指の先をさ迷わせ、拳を握って引っこめた。首を振って嘆息する。行く手は、暗然として閉ざされている。ロムは街では暮らせない。彼女は街でしか、、、、暮らせない。それぞれは初めから相容れない。別れは初めから組みこまれている──
 ばたん、とドアが唐突にひらいた。
 飛びあがって振りむけば、茶色い大振りな紙袋をかかえ、よっ、と男が足で扉を蹴飛ばし、部屋の中に入ってくる。もう片方の右手には、牛乳の入った瓶が二本。相手を認めて、ファレスは苛々舌打ちした。「入ってくるなら、ノックくらいしろよ」
「おや。なにか障りでも?」
「──ねえよっ!」
 大振りな紙袋から覗いているのは、さらさらした薄茶の髪。片手でかかえた向こうから、ザイが非難がましく目を向けた。
「おイタは駄目スよ、副長」
「俺はなんにもしてねえよ!」
 ファレスは逆毛を立てて怒鳴り返した。ぶらぶら窓辺に歩きつつ、ザイは疑わしげに盗み見る。「妙なこと、考えてんじゃないスよねえ?」
「妙なことってのは、なんだよ」
 すれ違いざま、ちら、とファレスを一瞥した。
「"このまま、さらって逃げちまおう"とか」
「──なっ!?」
 ファレスは絶句で立ちあがる。
「な──な──な──っ!」
「なにムキになってんです。冗談ですよ。──あ。もしや、マジだったとか?」
 ぐっ、とつまって、憮然とザイから目をそらす。「んなわけねえだろ。なんの用だよ!」
「食いもん持ってきました。こもりっきりで腹減ったでしょ」
 寝台脇の卓の上に、大振りな紙袋を、どさり、と置く。
 忌々しげな舌打ちで、ファレスは卓へと足を向けた。紙袋に手を突っこみ、中のものをガサガサ漁る。「で、首尾は。闇医師の方はどうだった」
 夕焼けの部屋を見まわしながら、ザイはぶらぶら歩いている。
「仰せの通り見てきましたが、どうみても留守ですね。鍵がしっかりかかっていて、戻った形跡はありません。バードも近隣を捜索しているようですが、そっちの方も、さっぱりのようで。まったく、どこ行っちまったんだか」
 寝台に背をかがめ、「よく寝てますねー」などと言いながら、うつ伏せの寝顔を手持ち無沙汰そうにながめている。ひょい、と顔だけファレスに向けた。
他人のもん、、、、、スよ、わかってますよね」
 棒状のパンを食いちぎりながら、ファレスはギロリと睨めつける。「──あァ?」
「あ、言ってみただけっス」
 両手をあげて降参し、ザイは敵意を受け流す。かがんだ背を寝台から起こし、扉に向けてぶらぶら歩いた。
「いやなに。あの坊主が二度も脱走してくれましたからねえ。隊長も、客が海に落っこちて以来、えらく暴走してますし。引きかえ副長は立派だと思いますよ。普段と変わらず冷静だ。客をレーヌで見た時は、亡骸になっちまったかと思いましたが、副長はまるで、取り乱しもしねえってんだから」
 ファレスは苦い顔で目をそらした。「──そんなんじゃねえよ」
「いえいえ、さすが世のお嬢さん方に冷血漢と罵られるだけあって」
「……てめえ、何気にけなしてねえか?」
「滅相もない」
 ひょい、とザイは肩をすくめる。
「ほら、俺が言いたいのはこういうことっスよ。色恋沙汰ってのは厄介でしょう。今も未来も見えなくなって、てめえでてめえを御せなくなる。だが、そうなりゃ傍が、、迷惑する。ま、副長にそれはねえでしょうけど。じゃ、俺はこれで」
 薄茶の後ろ頭が戸口をくぐり、パタン、と扉がそっけなく閉まる。ファレスは瓶の牛乳をがぶ飲みし、苛々しながら吐き捨てた。
「──そんなんじゃ、ねえよ」
 とん、と卓に瓶を戻す。
 夕焼けに染まった薄暗い部屋に、夕刻の鐘が鳴り響いた。
 間に合わせの晩飯を腹に収めて、窓辺に立って見渡せば、どこまでも連なる屋根屋根が、茜色に染まっている。立てこんだ建物の足元が、忍び寄る宵の気配に沈み、粛然と静まる街並みに時計塔の鐘が鳴り響き、一日の仕事の終わりを告げている。宵に呑まれた夜の足は速い。壁に寄せた寝台では、伏せて横たわった黒髪が、静かな寝息をたてている。
 ファレスは嘆息して寝台に戻り、再び端に腰を下ろした。しばし無言で寝顔を眺め、膝に置いた気怠い腕をもちあげる。顔にかかった彼女の髪を、指の先でそっと払い、その手を宙に浮かせたままで、少しの間ためらった。そして、
「起きろ。いつまで寝てんだ、飯がきたぞ」
 くい、と寝顔の鼻をつまんだ。
 
「もー。なんで宿にこもるわけえ? こーんな早い時間からー」
 棒状のパンをばくばく食いつつ、ふくれっ面でエレーンは言った。宿で待機するよう言い渡されて、以来、ずっと不機嫌なのだ。そうして不貞寝を決めこんでいる内、いつの間にやら、本当にぐっすり眠ってしまった。
「せっかく帰ってきたのにさー。あたしにだって色々あんのにー」
 ファレスは薄肉をつまみあげ、口の中へとほうりこむ。「なんだよ、色々ってのは」
「だからー予定よ予定! きまってんでしょー。気になってたお店のぞくとか、おいしいもん食べに行くとか、友だちに会いにいくとかさー!」
「ダチなら、さっき会ったじゃねえかよ」
「たったの八分だけでしょうが!」
 口のものを、ごくりと飲みこみ、エレーンはぷりぷりしながら瓶をとる。「なによー。すーぐ帰ってきちゃってさー。せっかくリナと話してたのに。ほーんと、こらえ性ないんだから」
「──うるせえ! あんだけくっ喋りゃ上等だろ。とにかく、しばらくここで待機だ。一歩たりとも出さねえからな!」
 むう、とエレーンがふくれっ面で振りかえり、どん、と瓶を叩きつけた。
「もーっ! なんで、あたしの邪魔すんのよ。なら、明日も出ちゃ駄目なわけー?」
「そうだ」
「だったら、ここで明後日もー?」
「そうだ!」
 エレーンが鷲づかみでパンをとる。「もーっ! 何をちんたら悠長な! あたしはアドを迎えにねー──!」
「いいから、てめえは大人しくしていろ! てめえがうろつくと、ろくなことがねえ!」
「でも、アドがー!」
「てめえは動くな! そいつは、こっちでどうにかする」
「どうにかってぇー?」
 不貞腐って言い返され、ファレスは一瞬、答えに窮した。
「──だから、どうにかったら、どうにかだ。とにかく、てめえは気にするな」
 むに、とエレーンが口の先を尖らせた。
「どうせ、なんにもしないくせにぃ!」
「連絡があるまで、とにかく待機だ!」
 いささか強引に話を切りあげ、ファレスは扉の前に椅子を置いた。出口をふさいで腰を下ろす。
 むっ、とそれを見咎めて、エレーンはかじりかけのパンを叩きつけ、ぷいと刺々しくそっぽを向いた。寝台にうつぶせに身を投げて、ジタバタ足をばたつかせる。しばらくそうして癇癪を起こし、やがて、手足を伸ばしてくったり伸びた。もそもそ両手で枕をかかえ、顔をこすりつけている。
「……また遅くなっちゃうね、トラビアに着くの」
 ファレスはそれには返事をせず、彼女には聞こえないようにつぶやいた。「──奴が向かってたのはトラビアじゃねえよ」
 とん、と軽い音をたて、黒猫がひさしに飛びのった。
 ひと声鳴いて窓のふちから覗きこみ、だが、すぐに興味を失ったらしい、そっけなく毛皮をひるがえす。
 開いた窓辺のカーテンが、夕風に力なくゆれていた。卓や長椅子や床の荷物の輪郭が、夕闇に呑まれてあやふやになる。何を考えているものか、彼女は両手で枕をかかえ、腹ばいになって、じっとしている。その突っ伏した後ろ頭が、むずかるように小さく動いた。「……ねー。ケネル、怒ってた?」
「たりめえだろ、あほんだら」
 ファレスは呆れて言い返した。勝手気ままに突っ走るが、一応気にはしていたらしい。
(ぬ。まずい……)ともちあげた顔を強ばらせ、エレーンが背を引き起こした。寝台の背もたれからポシェットの紐をひっつかみ、わたわた足を靴に突っ込む。「ま、まじで? ならケネルんとこに行かないとっ!」
「駄目だ」
 ファレスは苦々しく一蹴した。
「今言ったばかりだろうが。てめえはしばらく大人しくしていろ。大体、奴がいるのは異民街だぞ。しかも、裏通りのヤサの中だぜ」
 はあ? とエレーンは顔をしかめる。「だからそれが何だってのよ」
「あんな物騒な界隈に、てめえみたいなのを連れて行けるか」
 ガタン、と夕闇で音がした。
「いいもん。だったら一人で行くもん! 場所なら、あたし知ってるしぃ。向こうで訊けば、ケネルの居場所だって、どうせすぐにわか──」
「駄目だ!」
 突進してきた人影を、ファレスはとっさに払いのけた。予期せず、勢いよく人影が転がる。はっと弾かれたように振りむいた。
 赤く染まった薄闇の床で、黒髪がうずくまっていた。床に手をつき、のろのろ体を起こそうとしている。
「──わ、悪りぃ! 痛かったか?」
 驚いて床に膝をつき、ファレスは軽い体を引っぱり起こした。「──ここんとこちょっと、苛ついててよ」
 全身総毛立っていた。あわてて目を凝らすファレスの脳裏を、あの壮絶な光景がよぎる。レーヌの小屋で見た生々しい刀傷。塞がっていない傷口をひどく打ちつけやしなかったか? 今、床に当たったのはあの背中ではなかったか──ざわり、と焦燥が胸を走る。
「大丈夫か? 痛くねえか?」
 細い肩をかかえこみ、ファレスはせかせか腕をさすった。視線をなすすべもなくめぐらせる。華奢な背中を切り裂く傷口。大きく開いた赤く生々しい刀傷。あの驚きと衝撃は、未だ胸の底で渦巻いている。
「どうなんだ! おい、返事しろ!──おいっ!」
 黒髪はぺたりと座りこみ、されるがままに揺すられている。うつむいた目元を指先でぬぐい、流れ落ちた髪の下から、蚊の鳴くような声がした。「……なんで、出かけちゃいけないの?」
「あ?」
 ファレスは面くらって手を止めた。
 気がぬけ、床にへたりこむ。どうやら背中は平気らしい。だが、安堵したのもつかの間で、常にないしょげた様子に、戸惑い、視線を泳がせる。「……な、なら、飯でも食いに行くか。な?」
 とっさに譲歩し、反応をみた。
 黒髪は顔をあげようとしない。焦って、おずおず慰めた。「あれっぱかしじゃ足りねえしよ。食いに出るくらいは構わねえだろ。ああ、いや、そんくらいは構わねえ! 食わねえと死ぬしよ!」
 うつ伏せた黒髪が、さらりと揺れた。見あげた顔が笑っている……? 
 呆気にとられたファレスの前で、エレーンはにんまり指を立てた。
「あっ、そ〜お? んじゃあねー、あたし、行きたいお店があるんだけどおー」
「……行きたい……おみせぇ?」
 ファレスは顔を引きつらせた。まんまと嘘泣きに引っかかったらしい。
 
 
 
 
 

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