CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 7話6
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 まいどありー! と店主に送られ、ズボンの尻ポケットに財布をしまいこみながら、正午前の店を出た。
 勘定は当然の如くにこっち持ち。リナが「ごちそうさまー!」とすかさずラナの手を引っぱり、とっとと店を出て行ったのだ。
(まあ、どっちの双子も、いくらも食ねえから、いいけどよ)
 飯もまずまず旨かった。若い娘が定食屋とは案外渋いチョイスだが、量も味も申し分なく及第点、中々どうして男の好みを知っている。小うるさいリナは案の定「こんなダサい店はやだ!」と散々駄々をこねまくったが無視して入って本当に良かった。もっとも、向かいの席に座った双子は、二人でこちょこちょ喋っていただけで、大して食いはしなかったが。
(そういや、あいつは、最近いやに食うようになったな……)と連れの顔を思い浮かべる。
 街宿に入ってからここ二日、三度の飯は気晴らしも兼ねて街の飯屋に出かけたが、連れはたいがい「お薦め定食メシ多め」を注文する。そして、あたかも張り合いでもするように、がつがつ飯を掻っこんでいる。そう、小鳥の餌のような小じゃれた店に引っ張っていくかと思いきや、大盛り自慢の定食屋で。まあ、食わないよりは、よほどいい。
 のんびり夏の日ざしの街路を、ファレスは両手に双子をぶら下げ、あくびを噛み殺して、ぶらぶら歩く。つか、こんな昼日中から、自分は何をしているのだろう。何やらうらうら良い天気で脳みそのシワが消滅しそうだ。もっとも、この後予定があるでなし、あれにもザイがついている。商都入りした特務班はウォードの捜索で出払っているから、人手がいささか心許なくもないが、ザイの仕事なら問題ない。
 街の人通りは、相変わらず、まばらだ。通りの歩道は、三区画先まで人がいない。その先の街角に、若い男の二人連れ、その先の向かいの角に、白い前掛けの暇そうな店主──通行人の人数まで、はっきりと数えられる。空は青く澄み渡り、雨が降るような気配もない。
「よお、兄ちゃん。いい身分だな」
 やさぐれた風情の一団が、道の前方に立ちふさがった。
「両手に花かよ、うらやましいねえ」
 六人ほどもいるだろうか。にやにや意味ありげに笑っている。中央にいるのは四十絡みの痩せぎすの男。その倦んだような荒んだ目が、蓬髪の下でギラついた。
「わかってんだよ、お前が連中の仲間だってことは。あの時はよくもやってくれたな。ここで会ったが百年目。きっちり片をつけてもらうぜ」
「……誰だ? おめえ」
 ファレスは眉根を寄せて見返した。見覚えがあるのかないのか、よくわからない。襲われた回数が多すぎて、どの賊なんだか特定できない。
 リナがげんなり嘆息した。
「ちょっと! なんだか知らないけど、そこ、どいてくんないー? 道ふさがれて邪魔なんだけどー」
 両手を腰に、ねめつける。「さっさとどかないと、おまわりさん呼ぶわよ」
「さがってろ」
 つけつけ突っかかるリナの腕を、ファレスは舌打ちで引っぱり戻した。居並ぶ向かいに目を向ける。
「丁度よかった」
 あざ嘲笑っていた一団が、口をつぐんですがめ見た。
 居並ぶ向かいの悪党面を、ファレスは左の端から眺めやる。「苛ついててよ、ここんとこ。──たく。わざわざ南まで出向いたってのによォ。──なんで軒並み店閉めてんだよ。なんであらかた埋まってんだよ。つか、なんでメンツが揃ってねんだよ。いくら閑古鳥が鳴いてるたって、てめえらプロだろ根性みせろよばかやろう」
 ぶつぶつぼやく恨みつらみに、何故だか向かいの男たちも、うんうん腕組みで同調している。あたかも旧知の友の如くに。
 一方、解せない双子の方は、何故だか仲間意識が芽生えたらしい男どもを、ぽかんと口をあけて眺めている。そう、今の今まで野犬の喧嘩のごとくにすごんでいたのに。
 呆気にとられた双子をしり目に、ファレスは三白眼で向かいを一瞥、立てた親指で路地をさした。
「おう、そこの路地まで面貸せや。こんな目立つ道ばたじゃ、何かと都合が悪いからな」
 こっち来んじゃねえぞ、おかちめんこと泣き虫女! と鼻息荒く双子に命じ、一団を引き連れて角を曲がる。
 薄暗い路地に入ったところで、ファレスは「ここらでいいか」と足を止めた。人通りもなく、通報されるような窓もない。警邏の姿もどこにもない。つまりは誰にも見咎められる気使いはない。
 それを確認した振りむきざま、一団に向けて駆けだした。側壁を蹴って、中央のボス格に踊りかかる。
 一同が消えた路地裏から、どたんぱたん、と剣呑な音が響きわたる。わけがわからぬリナとラナが呆然と見守った数分後、ファレスは一人で、ぶらぶら元の場所に戻ってきた。
 我に返ったリナとラナが、あたふたファレスに駆けよった。リナが口をパクパクさせつつ、上から下までわたわた叩く。「あ、あんた平気っ? 大丈夫っ!? 大丈夫っ!?」
「……おう。ちっとは、さっぱりしたぜ」
 なにやってんだおめえ、と鬱陶しげに手を払い、ファレスは、ふと目をそらす。何かが右端を動いた気がしたのだ。
「──ち! もう戻ってきやがって!」
 背後で忌々しげな舌打ちが聞こえた。
 動きを目で追ったその直後、青い顔で突っ立っていたラナが、短い悲鳴で掻き消えた
 とっさにそちらに踏み出した途端、左でぶんむくれていたリナも消える。
「おい、どっちだ!」
 見知らぬ男の二人組が、双子をそれぞれ捕まえていた。
 折り良く現れたところをみると、今のならず者の一味らしい。吹っかけてきた一味は全員、あの路地裏で伸びているから、二手に別れて待機していた、ということらしい。
 身をよじり、顔をしかめるラナの顎を、右の男がぞんざいにつかんだ。
「──ち! 外れだ。こっちじゃねえ!」
 忌々しげな舌打ちで、リナを捕まえた左の男に向かって怒鳴る。「そっちの女だ! そいつを逃がすな」
「ちょっと! あんた! さっさとラナを放しなさいよっ!」
 拘束から身を乗り出して、リナがまなじりつり上げ、隣の賊を威嚇している。捕えた賊の顔に手を突っぱり、今にも顔を引っかかんばかりの勢いで。じたばた足を蹴飛ばされ、賊は顔をしかめている。そうとう手を焼いているようだ。
「そいつら放せや」
 あァん? と賊が険しい顔で振りむいた。ファレスは三白眼で右手に歩き、一歩大きく踏みこんだ。
「手ぇ放せっつってんだ!」
 ラナを捕えた右の男が、またたく間に吹っ飛んだ。振り抜いた腕を素早く戻して、ファレスは左の男に振りかぶる。
 けたたましい音を立て、男が石壁にずり落ちた。懐にかかえられたリナの体も一緒に飛んでいきそうになり、ファレスは素早くリナだけもぎ取る。ぶん回された反動で、リナがよろけてたたらを踏んだ。
 さて、もう一人はどこ行った、とファレスは視線をめぐらせる。あわててそちらに足を向けた。
「おう、怪我はねえか」
 ラナが横座りでうずくまっていた。腕をとり、細い肩をかかえて引っぱりあげる。右の賊を張り飛ばした際、とっさに腕を引き戻したが、反動で壁にぶつけたらしい。
 顔をしかめ、腕をすがったラナを立たせていると、「いたたァ……」と道ばたで声がした。
 見れば、リナだ。顔をしかめて歩道にへたりこんでいる。あの後、蹴っつまずいて転んだらしい。ラナを片手で抱えつつ、ファレスは首をひねって利き手を眺めた。力が少し強かったらしい。普段扱う傭兵どもとは重みがいささか違うので、どうも加減がわからない。
 腰をさすっていたリナが、ふと顔を振りあげた。
「あーっ! ずっるーい! あたしにもー!」
 早くー早くぅーと肘を振り、身をよじって催促する。ふつふつ怒りを溜めていたファレスは、ぎろりとリナを振りむいた。
「──てめえは勝手に起きやがれ!」
 むぅ、とリナが不服げに口を尖らせた。
 だが、それ以上は食い下がるでもなく、ぶちぶち言いつつ膝を立てた。「ねー。なんかラナばっか、ひいきしてなーい? ラナにばっか優しくなーい?」
「てめえは俺よりたくましいだろっ!」
 一瞬、苛立ちが沸点を超過、ファレスは拳を握って怒鳴りつける。
 リナは服を払って立ちあがり、ぷりぷりしながら腕を組んだ。「あのねー。あたしが密かに傷ついてるとか思わないわけぇー?」
「嘘だ! てめえがそんなことで傷つくようなタマか!」
「……お、同じ顔!?」
 素っ頓狂な声がした。
 今度は何だ、と目をやれば、歩道にへたり込んだ賊だった。二人の男は唖然としたように動きを止め、双子を指さし、交互に見、殴られた顔を見合わせる。
「……ど、どうなってんだ」
 ふんぞり返った仏頂面と、ぱちくりまたたくメイド服の双子──三人の顔を、怯んだように順ぐりに見る。
「い、一体こいつはどうなってんだ? だが、確かに、女を連れ歩いていたのは、女みたいなこいつだろ。いや、確かに女を二人、連れちゃいるが……」
「とっとと、うせろ」
 ファレスは舌打ちで吐き捨てた。
 びくり、と賊が飛びあがった。あわあわしながら起きあがり、前のめりになりながら近くの路地に駆け込んでいく。それを怪訝に見届けて、ファレスは腕を組んで首をかしげた。
「こんな街中でまで仕掛けてくるとはな。つか、なんで、いんだ? こんな所に。縄張りはレーヌじゃねえのかよ」
 官憲の膝下・商都の街は、賊には鬼門ともいうべき所。悪くすると、警邏に見咎められただけで、しょっ引かれることさえある。そんな後ろ暗い連中が、昼日中の明るい内から、何故、大手を振って歩いていられる? 何か特別な事情でもあるのか? 堂々と街を歩ける理由が──腑に落ちない思いで視線をめぐらせ、ん? と左手の路地で目を止めた。薄暗い路地裏で、男が二人の警邏を相手に身振り手ぶりで釈明している。
「……なにやってんだ? あの野郎」 
 ザイだ。どうも、警邏にしょっ引かれそうになっているように見受けられるが──。
 シャンバールのどこかの街というなら、ああした光景もさもありなんだが、それは隣国シャンバールでの話だ。カレリアではない。この国で、ザイに前科はない。「──ですから、覗きじゃないって言ってんでしょ」とザイの抗弁が漏れ聞こえた。ほとほと困ったような声音で。
「──あの馬鹿。なに覗きなんか、していやがる」
 ヘマしやがって、と舌打ちし、はた、とファレスはまたたいた。今はウォードの捜索で商都の人手は出払っている。つまり、連れの監視は基本的にザイ一人だ。そのザイがああしてとっ捕まっているということは、つまり、ザイが張っていたあの連れは、
 ──野放しに、、、、なっている、ということだ。
 ぽん、と結論が飛び出して、ぎょっと宿の方角を振りむいた。
 賊がうろつく街中で、あれが野放しになっている!? 賊の狙いはあの連れだ。つまり、襲われるのは時間の問題。
 舌打ちして踵を返す。いや、踏み出そうとした時だった。
「ねーねー見て見て? 男なのに長い髪ィ〜!」
 甲高い嬌声と共に、リナに引っぱり戻された。リナは騒いで、わたわた袖を引いてくる。「ねっ、ねっ、あんたとおんなじじゃん!」
「──てめえ、失礼だろ。赤の他人をつかまえて」
 リナの手を振り払い、ファレスは舌打ちで目を向ける。
 ぎくり、と顔が強ばった。人けのない日陰の歩道に、奇妙な男が立っている。そう、奇妙な、、、男だ。長身痩躯に古びた旅装をまとっている。今、ちょうどフードを被ったところだった。そう、この真夏にわざわざフードを。
「もー。やだ、ちょっとおー!」
 リナはきゃいきゃい騒いでいる。
「あの人、まじでかっこいいー! あたし、ちょっと行ってみちゃおうかな〜!──あのっ、すみませ〜ん!」
 無邪気に呼びかけるリナの声。
 横をすり抜けた気配に気づいて、ファレスはとっさに腕をとった。
「──よせ!」
 きょとん、とリナが振りむいた。「なに? なんで止めんのよー──あっ、やだっ! もしかして、やいてるー?」
「ばか! あんなもんに声かけたら、おめえ──」
 もどかしい思いで怒鳴りつけ、先の言葉を呑みこんだ。
 フードを被るほんの束の間、男の髪が銀色に見えた。ひどくまばゆい銀色に。光の加減か何かだろうか。幸い、男は見向きもせずに、二つ先の街角を右手に折れて曲がっていく。
 ほっ、とファレスは息をつき、肩にこもった力を抜く。
 だしぬけに、膝に震えがきた。
 鼓動が激しく打ち鳴って、嫌な汗をかいている。そうだ、あんなものに声をかけたら、ただでは済まない、、、、、、、、
 今のは一体何なのだ。一体あれは何者なのだ。全身から放たれる禍々しい気。とてつもなく強靭な、「死」そのものであるかのような──。
 不意に焦燥が胸を焼いた。
 ──あんなに危ない代物が、、、、、、、、、、、ここでは平気で歩いているのか?
 ぬるま湯に浸かって鈍くなった頭が、恐怖に弾かれ、回転を始める。こんな時に、連れがいない。安否を切実に確認したいこんな時に。いや、ただ「いない」わけではない。
 やんわり封じられた数々の懸念が、掛け金が外れたように次々湧きたつ。そうだ、
 何故、リナが宿にいた?
 何故、連れが宿にいない?
 抜け目のないあのザイが、こうも都合よく排除、、される?
 どす黒い焦りが胸に広がる。それらが指し示す結論は一つ、出し抜かれた、、、、、、、ということだ。
 拳を握って立ちつくし、ファレスは声を押し殺した。
「……どこへ行った」
 リナはくさって肩をすくめた。「……もー。なに、いきなりー」
「答えろ! 阿呆はどこへ行った!」
 顔をしかめたリナの肩を、ファレスは両手でつかんで強く揺すった。
 
 
 紺の制服の門番たちが、手元の書類を繰りながら、申し送り事項を確認していた。
 敷地北にある通用門に、朝の光が降りそそいでいる。夜番と昼番の交代の時間、始業前の領邸は、穏やかに静まりかえっている。
 広大な敷地をとりかこむ高い煉瓦塀の外路に、通行人の姿はない。領邸を訪れる人々が道を行き来する前に、ぐるりをとりまくこの道を、朝一番に清掃するのも、領邸メイドの大事な仕事だ。
 領邸に雇われたメイドとは、いわゆる屋敷の「お掃除部隊」だ。領邸業務の始業前に、来邸者の目に触れる場所を、領家の威名に恥じぬよう整えておくのが主な勤め。
 使用人を大勢かかえるラトキエ邸では、仕事は細分化・高度化され、厨房も洗濯室も一流の専門職集団が牛耳っているため、下働きのようなメイドでも、他の領分にまたがって仕事をするということはない。各部署は守備範囲を堅持して、高度に熟練した技術をもって各々の職責を果たしている。よって、どの部門の使用人であれ、自分の仕事に、そして、所属を示す制服に、誰もが誇りをもっている。
 外路掃除の一団に紛れて、エレーンは仲間と歓談しつつ、通用門を通過した。その姿が目の端に写っているのだろう門番たちは、しかし、ろくに目も向けない。外路の清掃は毎朝のことで、門番たちにしてみれば、日常業務で立ち働く同僚たちの制服姿は邸内の緑や建物と同じ、見慣れた「背景」の一部にすぎず、格別に注意を向けるべき価値がないのだ。まして、エレーンは元本職のメイドであるので職業独自の立ち振る舞いが芯から身についている。同集団に紛れたそれを、誤たず選別せよという方が、むしろ無理な注文だ。
 だが、作戦をたてたメイドたちは、念には念を入れ、古株の門番が輪番から外れるこの朝まで待った。どれほど完璧を期したとしても、場数を踏んだ古株の目は、誰もが見すごす些細な異変をやすやすと見破ってしまうからだ。熟練した職人の目がどれほど確かで恐ろしいか、皆、経験上知っている。
 ここで、万一仕損じれば、全てがふいになってしまう。いや、それのみならず、これを手引きをした彼女らの信用が失墜するのは元より、クレスト邸の奥方の無断での立ち入りが発覚すれば、上を下への大騒動になる。単なる悪戯では済まされない。
 あの午後の行きつけの店で、エレーンから相談を受けたリナは、すぐに寮にとってかえし、同僚たちに声をかけた。事情を聞いた彼女らは俄然協力を表明し、早速こたびの作戦を練った。
 とはいえ、彼女らが特別反抗的というわけでも、給料や待遇に不満があるというわけでもない。むしろ、誠実で行儀のよい、社会の範となるような者ばかりだ。だが、リナの口からもたらされた件の事件の全貌は──女医の詐欺まがいの職権乱用は、善良な彼女らの義憤をあおり、大いに道義心を刺激した。心身共に満たされたつつがない平穏の中にあっても、いや、それだからこそ、皆、非日常のスリルと刺激を心のどこかで求めている。
 検問を無事やり過ごし、懐かしい寮舎を左手に眺めて、エレーンは敷地に踏みこんだ。事情を知れば妨害すること確実なファレスは、リナたちが連れ回してくれている。影の如くにつきまとうザイも、リナと部屋で入れ替わる前に、ラナが「不審者がいる」と通報し、道から退けておいてくれたので、宿から出るのに苦労はなかった。今ごろは警邏と顔つきあわせ、必死で釈明していることだろう。無論、こちらを尾行するような余裕はない。
 これは苦肉の策だった。
 殺伐とした戦時下で、他領の夫人が正面きって主に面会を求めれば、公的な色彩が一気に濃くなり、あまりに人目を引きすぎる。そう、「会談」という形にでもなれば──ディールの使者と相対した時の嫌な緊張を思い出し、エレーンは顔を曇らせた。そう、あの時発した一言で、軽々しい自分の啖呵で、何人の兵士が死んだというのだ。
 土嚢のように道ばたに積まれ、野ざらしになった遺体たち。歴史に名さえ残らない犬死に同然の多くの命。閉じてしまった彼らの時を示すかのように、鈍く目を射た腕時計──。
 両手で我が身を密かにいだき、エレーンは身震いして首を振る。もう二度と、あんな過ちを繰り返してはならない。ここは是非とも秘密裏に、話を進める必要があるのだ。
 石畳を歩くにつれ、息を詰めたエレーンの視界に、心身に馴染んだ風景が色鮮やかに飛びこんできた。白い壁の厳粛な領邸、その前庭の瑞々しい青芝、南向きの正門から領邸玄関までゆるやかに伸びた馬車道のアプローチ。木々が青々とおいしげる綺麗にならされた並木道──緑豊かな邸内にゆっくり視線をめぐらせて、神妙な気分で深呼吸する。
 ──帰って、きた。
 きゅん、と切なく胸が詰まった。
 万感の思いがこみあげる。この地を離れてまだ半年も経たぬというのに、耐えがたい郷愁に囚われる。この朝独特の雰囲気が、身内のみが知るこの舞台裏の風景が、なにかひどく懐かしかった。一日の来客を迎える前の、始業前の穏やかな時間。領邸の関係者のみが──身内のみが流れ歩く、どこかゆるんだ親密な時間。まさか再びこんな形で訪れることになろうとは、全く夢にも思わなかった。そう、アドルファスの釈放を乞うために。──いや、潜入した目的は、実のところ、それ、、だけではない、、、、、、
 ここに赴く道すがら、気づいてしまったことがある。いや、本当は、ずっとずっと以前から、胸のどこかで温めていた。
 たぶん事の初めから、自分はここ、、を目的地と定めて、ここを目指して歩いていたのだ。だからこそ、今こんなにも、しっくりくる。だからこそ、伴侶の命が風前のともしびという絶望の底にあってさえ、平常心を保ってこられた。非情な現実に目を向けぬよう精一杯の努力はすれども、目標があるから錯乱もせず、総じて正気を保ってこられた。つまりは成算がある、、、、、と思うからだ。そして、ようやく、ここ、、に立っている。
 改めてそれを自覚した途端、ざわりと肌が泡立った。
 血がざわざわ波立って、心臓が激しく打ち鳴った。のぼせた頭はしびれてしまったようになり、指先はふるえ、感覚がない。歓喜と不安がない交ぜになった震えたつような感慨が、不意に胸をつらぬいた。
 ──ついに、来た。
 ついに、、、ここまで、、、、やって来た、、、、、
 緊張に頬をこわばらせ、エレーンはそれを振りあおぐ。その白い領邸は、こずえを揺らす青葉の先、清浄な朝の空気の中に、凛として建っている。
 輪郭がぼやけてくるほどに領邸の館を凝視して、すくんだ呪縛を解くように、利き手の手の平を軽く握った。これから、あの、館におもむく。
 大商都を治めるラトキエ当主に──領家の頂点に立つ大立て者、クレイグ=ラトキエに会いに行くのだ!
 
 
 
 
 

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