■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 8話1
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ノックをしたが、返事はない。
「控え室」という名の踊り場は、ひっそり静まりかえっている。
開いた窓で微風がそよぎ、静かな日ざしが木床に影を作っていた。生き物全てが死に絶えたような、索漠とした遠い静寂。突き抜けたように、空が高い。
主人一家の居住階は、豪壮な領邸の三階だ。この階には、主人の世話をする執事を除き、許可なく立ち入ることは許されない。そして、三階に通じる入口は、邸中央にある大階段一つだけ。その階下では、屈強な守衛が昼夜を問わず厳しく目を光らせている。強行突破はまず不可能だ。
だが、邸の裏方・メイド達の間では"それ"は暗黙の了解だった。邸中央の大階段を物々しく警備しているが、そちらは外向けの入口であり、実は、通路はもう一つある。
主人の求めに応じて急行するのが常の執事は、大階段のある広い屋敷の中央まで、いちいち迂回したりはしない。そうした場合、二階の自室にある螺旋階段を駆け登る。階段をあがったその先は──自室の真上にある踊り場は、主人の部屋の控え室に続いているのだ。
舞台裏の「螺旋階段」に、メイド達は目をつけた。とはいえ、二階にある執事室の扉は、常に厳重に施錠されている。だが、この扉さえ突破できれば、三階への道は開ける。となれば、大勢のこわもての守衛を相手にいたずらに押し問答するよりも、執事一人を煙にまく方が遥かにたやすいと言えるだろう。
皆が朝食で出払った後、エレーンは空っぽになった寮の一室でパンをかじって腹ごしらえをし、朝礼と仕事の割り振りが邸のそこここで行なわれている隙に、速やかに邸内へと移動した。そして、リネンの交換、紙くず等の回収のため部屋部屋を回るメイドのワゴンに、順路の途中で合流した。
決行は、執事が「朝食の給仕」を終え、自室を出る朝十時。三階から集めたリネンの類いをいつものように引き渡していた執事が、「──あ! 調理場から火が!?」と窓を指さしたメイドにあわて、廊下の向かいまで飛び出した隙に、エレーンは素早く室内に潜入、隣接している食器室にじっと身を潜めていた。そして、執事が日常業務で部屋を出たのを見届けて、直通階段で三階にあがってきた、という次第である。
だが、ノックはすれども、扉の向こうは静まりかえり、物音ひとつ聞こえてこない。
閉じた重厚な扉の前で、エレーンはどぎまぎ唇を噛んだ。リナから借りたメイド服のエプロンを握りしめる。この扉一枚を隔てた向こうに、雲の上の存在だった、かつてのあの雇い主がいるのだ。辣腕で知られる大領主、屋敷の主クレイグ=ラトキエが。
穏和で公平な邸の主は、使用人には人望の厚い主人であるが、巷では峻厳な為政者として知られている。彼が二十代の若さで現職に就任した折、大貴族にして名誉ある徴税官ドロッギス=ロワイエを更迭するという一大政変を起こしたからだ。
市場を把握し、税務を統括するこの徴税官という役職は、商売で成り立つここ商都では、宗家に次ぐ高位高官の肩書きとされる。つまり、実質的には家門随一の権力者の首をあっさり切って捨てたことになる。まして、当時のクレイグは、周囲の支持と協力なしには領地の統治もままならない、就任間もない若者だったはずだ。よほどの自信があるでもなければ決行できるものではない。だが、クレイグは、いささかの混乱も招くことなく事態を速やかに収拾した。己の実力を裏付けるがごとくに。
その彼を、国がこんなにも荒れている折柄、まして「他領の夫人」という微妙な立場で、密かに訪問しようというのだ。
……やはり無謀だ、と怖気づき、エレーンは今更ながら縮みあがった。全部なかったことにして、今すぐここから逃げ出したい。アドルファスを助けたい一心で突っ走ってしまったが、風格備わる大領主と、まだ駆け出しの領主夫人とでは、あまりに格が違いすぎる。
膝がかすかに震えだした。意識が緊張で遠のきそうだ。資格の有無を試すように、扉は厳粛に閉じられたままだ。それを前にして、一歩も前に進めない。
「──突然のご無礼をお許しください。本日伺いましたのは──かような事情でございますので、何卒お聞き届け願いたく──」
用意してきた口上を、ぶつぶつ口の中で練習する。頭に血がのぼって混乱をきたした。何をどう言えばいいのだろう。どんな風に言葉を尽くせば、追い返されずに済むだろう。真意が彼に伝わるだろう。
ふと、貴公子然とした青年の顔が頭をよぎった。領主の一人息子アルベール。もしも、この場に彼がいれば、こんな苦労をせずとも良いものを。聡い彼なら如才なく父親に取り成してくれる。いつでも真摯に話を聞き、解決方法を探ってくれる。それがメイドあがりの言葉でも。彼とて無論、雲の上の存在には違いはないが、彼とは年齢が近く、アディーを介して言葉を交わした時期があるから、壮年の大領主より、よほど彼の方が面識がある。無論、親しいわけでは全くないから、同席を頼めるような筋ではないが。
やきもきしながら、更に待った。だが、ノックの返事は未だにない。
いささか焦れて、再び扉に手をあげる。はっとエレーンは手を引っ込めた。安易な手落ちに気がついた。主の間近で立ち働く執事は、主の部屋に入るにあたって、ノックをしない。なのに、執事専用の出入り口から、ノックの音が聞こえたら──。
(もしかして、あたし、怪しまれてる?)
ざわついた胸を、動揺が走った。つまり、未だに返事がないのは、主はこちらを不審に思い、警戒しているということか? ならば、いくら待っても無駄だ。むしろ、いつまでもぐずぐずしていたら、主に人を呼ばれかねない。
(──ええい。ままよ!)
エレーンは奥歯を食いしばり、のるかそるか腹をくくって扉を開けた。すぐさま、勢いよく頭を下げる。
「突然失礼いたします! わたくし、以前、こちらでお世話になっておりました──」
室内はひっそり静まっている。闖入者が声をあげても、驚く気配も、叱責や警戒の動きもない。奇妙な雲行きに首を傾げ、エレーンはそろりと視線を上げる。
広々とした明るい部屋が、視界の中に飛びこんだ。左の壁に大窓が並び、麗らかな日ざしがあふれている。厚い絨毯の敷かれた広い部屋の中央に、豪華な刺繍の長椅子がゆったり向かい合わせに置かれている。右の壁には廊下に続くと思しき扉、室内は清潔に整えられ、壁には飴色の飾り棚──どうやら居間であるようだった。だが、がらんとしていて、人の姿はどこにもない。
思わぬ光景を目の当たりにし、エレーンは拍子抜けして立ち尽くした。主はどこへ行ったのか。まだ自室にいる頃なのに──おろおろ視線をめぐらせて、向かいの壁で、ふと気づく。
「……部屋?」
壁の隅に扉があった。右手の廊下側に近い場所だ。ここが居間だというのなら、扉の向こうは書斎か寝室、いや、衣裳部屋へと続いているかもしれない。無人の居間をそそくさ突っきり、扉の前で足を止める。
どうせ怪しまれるならノックはナシで、と金のノブに手を伸ばし、ふと、エレーンはためらった。扉の向こうが書斎ならまだしも、もしも、着替えの最中なら? もしも、寝室だったなら? 人目をはばかる私的な場所にずかずか踏み込んでいくなんて、いくらなんでも無神経では……
はっ、と気づいて、首を強く横に振った。遠慮している場合ではない。今こうしている間にも、獄につながれたあの彼が、どれほどひどい目にあっているか。蓬髪の首長の釈放を、一刻も早く実現せねばならないのだ。意を決し、ひんやり冷たい金のノブを、震えをこらえて、そっと握る。
静かに扉を押し開けた。
さらり、と前髪が舞いあがった。だしぬけの向かい風に、怪訝に視線をめぐらせば、窓辺でカーテンがひるがえっている。
左手の窓が開いていた。天井まである大窓だ。大きな窓から差しこむ日ざしが、窓辺を明るく照らしている。──ああ、そうか、と気がついた。控え室に続く扉が開けたまま、そして、この部屋の開口部は窓しかない。この扉を開けたから、風が一気に吹き抜けたのだ。
陽が当たらぬ壁の隅に、大判の画布が幾重にも重ねて立てかけてあった。筆や絵の具が台に置かれ、中央の画架には描きかけの画布が置かれている。淡い萌葱の水彩画。だが、窓辺に大きな寝台がある。
果たして、そこは寝室だった。窓辺の白い寝台で、誰かが背を向け、窓の外を眺めている。ガウンを羽織った痩せた肩、白髪交じりの灰色の頭髪、向こうを向いた面長の頬。見覚えのある初老の男が、そこにいた。クレイグ=ラトキエ──領邸の主だ。
「と、突然のご無礼をお許しください。あの──」
寝台の背もたれまでおずおず進み、身じろいだ背中に声をかける。「──あの!」
灰色の頭髪が咳きこんだ。
出鼻を挫かれ、エレーンは反射的に口をつぐむ。主は体を前に折り、いやに激しく咳き込んでいる。ずいぶんと苦しそうだ。エレーンはおろおろ、無人の室内に視線をめぐらせ、突っ伏した背に声をかけた。「あの、お背中さすりましょうか」
「……ああ、ありがとう。助かるよ」
主は咳き込む肩越しに、切れ切れに礼を言った。その目を何気なく向けた途端、はっ、と鋭く肩を震わせ、弾かれたように振りかえる。
「君に教えて欲しいことがある!」
「……は、はい?」
エレーンは驚いて肩を引いた。主の手に、腕を強くつかまれている。主は目を見開いて、せっぱつまった面持ちだ。
「民は──民はどうしている? 家を焼かれて飢えてはおらぬか? 戦に駆り出され傷ついてはおらぬか?」
すがるように腕をつかまれ、エレーンはあわてて首を振った。「い、いいえ、どこもなんともありません。商都は無事です、旦那様」
「……そう、か」
主は唇を震わせて、ほっとしたように息を吐いた。指の先で額をつかみ、じっと眉をひそめている。意外にも骨張った彼の手が、ガウンの胸を押さえている。
主の頬が紙のように白い。顔色がひどく悪い。これは思いも寄らぬ光景だった。かなり具合が悪そうだ。執事を呼ぼうかと見かねて訊けば、当の主は「必要ない」と、眉をひそめて首を振る。
「手をわずらわせるまでもない。そろそろ、医師が来る頃だ」
エレーンは密かに困惑した。こんな取り込み中に来合わせるとは、まったく、なんと間の悪い。だが、すごすご引き揚げるわけにはいかない。皆に協力してもらい、ようやくここまで漕ぎつけたのだ。二度も三度もやり直せるようなことではない。
主は胸が苦しいらしく、自分の膝に軽く屈んで、じっと目を閉じている。どう話を切り出したものかと、やきもき機会をうかがいながら、ガウンの背中をさすっていると、やがて、主が顔をあげ、弱々しく微笑んだ。
「ありがとう。大分楽になった」
「……そ、そうですか」
エレーンは気まずく目をそらし、何とかとっかかりを探すべく室内に視線をめぐらせる。
窓から風が吹き込んで、居間へと続く扉の方へと吹き抜けた。明るい外光に、窓枠の形が木板の床に映っている。緑が映る大きな窓、木の椅子と作業机、画布、バケツ、瓶に立てられた幾本もの筆、茶紙でくるんだ四角い包み。
「──あの、この絵はみんな旦那様が? 絵をお描きになるなんて、わたし、存じあげませんでした」
何気なく言葉が零れたそばから、はっと気づいて口を押さえる。今の自分はメイド姿だ。立ち入った話は身分不相応というものだ。叱責されても、おかしくない。とっさにうつむいた視界の端で、主は困ったように微笑んだ。
「それはそうだろう。必死で隠していたからね。だって、施政を預かるラトキエの当主が、実は絵を描いて遊んでいるなんて、世間に知れたら、ことだろう?」
エレーンは面食らって顔をあげた。「お、お上手ですね、とても」
「ありがとう、嬉しいよ」
意外にも、主は寛容だった。使用人が対等な口をきいているというのに、別段気を悪くした風もない。穏やかな主の瞳は、壁に立てかけた自作の絵画を慈しむように眺めている。
「わたしは絵を描いて暮らしたかった。だが、生れ落ちた瞬間から、わたしには"座るべき椅子"が用意されていた」
皮肉な色を口ひげのある唇にのせ、壮年の主は静かに微笑う。
「果たして、どちらが幸せなのだろうな。望みもせぬのに椅子に座らねばならぬ者と、望んでも椅子に座れぬ者と。だが、それも、もう終わりだ」
なんと返していいやら分からずに、エレーンは曖昧に返事をし、おろおろしながら黙り込んだ。
窓から、風が吹き込んでくる。
三階の窓からは、中庭の緑が見渡せた。光があふれた窓の外、そのせいで室内が幾分薄暗く見える。光の白と、窓枠の黒。ひざ掛けの置かれた揺り椅子の影。陽の翳った主の部屋。気持ちの良い風が吹く、静かで穏やかな画家のアトリエ。
主がおもむろに振り向いた。
「すまないね」
ぼんやりしていたエレーンは、は? と主に訊きかえす。
「何かわたしに頼み事があって、ここまで会いに来たのだろう? だが、わたしは、君の力になってやれない。もう、なんの力もないのだよ」
穏やかに見返す灰色の髪に、日ざしが柔らかく当たっている。主は首をめぐらせて、窓の外に目をやった。
「隠居したのだよ、少し前に。後は、アルベールとあいつで境界を、商都を守っていくだろう」
エレーンはいささか呆然と、やっとのことで返答した。
「そう、なんですか……そうでしたか」
そういえば婚儀の折り、ラトキエは確か、代理が出席していたはずだ。欠席の理由は体調不良と聞いていた。ならば、それは本当のことで、その後、代替わりがあったということか。
「……では、今は、ご子息が」
エレーンは密かに、ほっと安堵の溜息をついた。
つまり、現当主はアルベール。相手が彼なら、何も心配することはない。面識のある彼ならば、障害も難問も介在せず、用件は速やかに片付くだろう。彼は物分かりが良く、誠実で優しい。何事にも道理を通す明朗快活な人となりは知っている。彼は情けの深い人物だ。あの娼婦あがりのアディーにさえ見下した態度をとりもせず、むしろ、忙しい仕事の合間を縫ってまで、病に伏せった別棟に様子を見に行ってやっていたくらいだ。
(なんだ。アルベール様なら、楽勝だわ)
気負いが一気に抜け落ちて、エレーンはしばし呆然とした。
ひっそりとした静かな部屋に、さわり、とそよ風が吹き込んでくる。
窓枠の影が、白いシーツに落ちていた。ふと、エレーンはかつての主に目を上げる。やつれた頬に乱れ髪、ずい分痩せた、そう思う。この人はこんなに弱々しい人だったろうか。時おり邸で見かけた主は、常に姿勢をぴんと伸ばして紳士然としていたが、今、目の前にいるこの人は、紛れもない病人だ。
働き盛りの壮年の彼が一門の当主を引くからには、よほどの事情があるのだろう。とはいえ、病み疲れた姿から、凡その見当はついていた。理由は恐らく治る見込みのない病。彼の時間は、残り少ない。
穏やかに陽が射していた。巷の喧騒から忘れ去られたような静謐。一日が始まるこの時間、皆いそがしく立ち働いている時間というのに、ここだけ、いやにひっそりとして、時の流れから取り残されているかのようだ。
窓辺の寝台をそっと離れて、エレーンはゆっくり室内を歩いた。「……気持ちのいい、お部屋ですね」
「ふふ。そうだろう?」
瞳を少年のように輝かせ、嬉しそうに主は笑った。
「ここはわたしの秘密基地なんだ。やっと、こもることができたのだよ」
感慨深げに、寝室に視線をめぐらせる。
「わたしはやっと居場所に戻れた。一人の絵かきに戻ることができた。──ああ、そんな顔をせずともいい。わたしは今、幸せなんだ」
はっ、とエレーンはまたたいた。痛ましげな顔をしてしまっていたのだろうか。だが、主は不躾な態度を咎めるでもなく、遠い空を眺めやった。
「君は、こんな風に思わないか? 人の幸せは人それぞれだと。わたしは貧乏な暮らしでも、ぼろをまとい、食べるものがなくても、年中腹をすかせていても、絵を描く時間が欲しかった。富より名より権力より、何より時間が欲しかった。好きな時に、好きな所で、好きなだけ筆を動かす、それさえできれば、わたしは何も要らなかったんだ。──君は、ぜいたくな悩みと笑うだろうが」
こけた頬に投げやりな笑みを浮かべて、掠れた声で画家は微笑う。膝のシーツに置かれていた、乾いた骨ばった手をゆるく握った。
「名声も喝采も望まない。世界のこの在りようを、この美しい光と影を、神の創りたもうたこの奇跡を、ひとつでも多く画布の上に残せたら、それだけでわたしは満足なんだ」
奇妙なものをふと感じ、エレーンは画家を見返した。静かな情熱を秘めているにせよ、穏やかで真摯なこの画家は「苛烈な大領主」との印象と合わない。本当にこの人が、かつて大貴族を追い落とした当人だろうか。自らが表舞台に躍り出る為に?
険しい目をした主の横顔を、脳裏に思い浮かべてみた。だが、やはり、うまく想像することができない。彼は常に穏やかな紳士で、声を荒げたことさえ一度もないのだ。
そう、彼の描く絵は、どれも優しい。柔らかな線と、溶けいるような色使い。一体どれほど長い時、彼はこっそり一人きりで、これらを描いてきたのだろう。
おびただしい数の作品に、エレーンは視線をめぐらせる。その一枚に行き着いた時、はっ、と鋭く息をのんだ。
淡い萌黄が、かがやき、弾ける。
さわり、と涼風が腕をなでた。耳をすませば、聞こえる気がする。青芝をわたる「あの夏」の足音が。
全身が硬直し、呼吸さえも、ひと時忘れた。釘付けの視線をそらすことさえ叶わずに、エレーンはわなないて凝視する。
「……ア、ディー」
柔らかにゆれる緑の中で、あの娘が微笑んでいた。半袖の白い服で、はにかんだような笑みを浮かべている。二十歳で逝った最後の家族が。
「未完成なんだ、その絵は」
静かにかけられた画家の言葉に、エレーンは弾かれたように振り向いた。
「い、いいえ、いいえ! まるで本人の生き写しです! 誰が見てもアディーです!」
画家は微笑い、困ったように頬を掻いた。「……その、まだ納得がいかなくてね。どうしても何かが欠けている気がして」
「そんな──」
エレーンは愕然と絶句した。これでも、まだ足りないと言うのか?
一目で胸が鷲掴まれた。本人が目の前にいるようだった。あの懐かしい陽だまりの匂いが、確かにそこに漂っている。梢がさらさらなびく音。風が芝を渡る音。顔を寄せあい、くすくす笑うあの彼女の愛らしい声。誰に邪魔されることもない伸びやかで安らかな遠い喚声。「あの夏」の姿がそこに在る。二度と触れることのない、遠く過ぎ去った「あの夏」が。
画布から溢れる生命感、圧倒的な存在感、見る者に訴えかける、目には見えない温もりときらめき──たしなみがなくても十分わかる。恐ろしいほどの才能だ。
画家は静かに微笑っていた。穏やかに。無心に。
はっ、とエレーンは気がついた。彼は孤高の画家なのだ。際立った才を持ちながら、誰に認められることも許されぬ生涯。存在することさえ許されない、孤独で清らかで敬虔な画家。自分を頼る人々の為、ただただ領民の為に費やされる一生。
そして、彼が愛したこの世界は、やがては彼を取り巻いて、静かに殺してしまうだろう。光に満ちあふれた牢獄で。
抑圧された生涯を思い、エレーンは声をつまらせた。「……この絵、好きです。わたし、とてもっ!」
「そうかね」
画架に置かれた絵を眺め、画家は嬉しそうに目を細めた。「実は、わたしも気に入っているんだ、クレスト夫人」
エレーンは息を飲み、たじろいだ。
「……ご存知でしたか」
ドレスや宝石で着飾っているというならともかく、今の成りは、リナから借りたメイド服だ。主は目を閉じ、弱々しく苦笑いした。
「もちろんだ。一目で君とわかったよ。我が家から巣立ち、クレスト領家に嫁いだ人だ。なにぶんこの有り様で、正式な礼もとれないが、どうか許してくれたまえ」
「──いいえ! いいえ! そんな、とんでもございません! わたしの方こそ、突然朝から押しかけまして!」
軽く頭を下げられて、エレーンもあたふた膝まで頭を下げ返す。上目使いで、ちらと見た。「……あの、でも、わたしの顔など、なぜ旦那様がご存知で」
「知らなかったかね? わたしは君を採用した男だよ?」
主は微笑い、いたずらっぽく目を向けた。
「屋敷に来てもらうにあたっては、相手の身元は入念に調べる。無論、君のことも調べさせてもらった。雑貨通り三番街のスレーター商店の一人娘。ご両親他界の後、十代の若さで店を切り盛りするとは大したものだ」
「──いえ、結局は潰してしまいましたから」
かつての苦い日々を思い出し、エレーンはそっと目を伏せる。主は労わるように目を細めた。
「少女の細腕には重すぎる荷だ。経験豊富な商人でも、競争に敗れ、去る者は多い。まして君は、過酷な日々にありながら、試験を突破し、活路を開いた」
「……そ、そんなことまで、ご存知でしたか」
恐縮して赤面し、エレーンはしどもどうつむいた。寛容な笑みで、主は微笑む。
「何も特別なことではない。仕えてくれる者一人一人を、わたしは全員知っている。わたしたちは一つ屋根の下で暮らす家族じゃないか。当たり前のことではないかね?」
「……旦那様」
エレーンは驚いて顔をあげた。主は簡単にそう言うが、屋敷の広い敷地には、百人を優に超える大勢の使用人が、常時、随所で働いている。
「君はよくがんばった。並大抵の苦労ではなかったろう。わたしは無能な男だが、せめて君に拠り所を、安らげる"家"を提供できればと思っていた。そう、君たちはみんな、わたしの娘のようなものだ。だが、偉そうなことを言いながら、わたしは何もしてやれなかった。あの娘が逝った時、君はふさぎこみ、憔悴していた。無力な自分をどれほど歯がゆく思っていたか」
心地良い風が吹いていた。
揺り椅子の背もたれに、えんじ色のひざ掛けがかけてあった。壁際の机に、日よけの帽子が置いてある。使い込まれたいくつもの画板。絵の具のついた着古したスモッグ。
一つゆるく首を振り、主が笑顔で振り向いた。
「また訪ねてくれたまえ。今度はわたしの友として。そして、彼女の話をしよう。それまでに、あの絵を仕上げておくよ」
「──あ──は、はいっ! お邪魔しました!」
辞去を促されているということに、遅まきながら気がついて、エレーンはあわてて頭を下げた。
「今日はご迷惑をおかけして! ご無礼の数々、お許しください。これで、お暇いたします」
逃げるように扉に向かう。
「──公爵夫人」と主がおもむろに呼び止めた。
足を止め、エレーンは恐る恐る振りかえる。風吹きわたる窓辺のベッドで、主はそっと微笑んだ。「これでようやく肩の荷がおりたよ」
え? とエレーンは怪訝に見返す。
「幸せになったのだろう? ダドリー=クレストは良い青年だ」
返事に窮し、エレーンはそっと目をそらす。「……ええ」
穏やかに眺める主は知らない。彼には愛妾がいたことを。既に子までいることを。ディールの手に落ち、死と紙一重にあることを。
主は寛容に微笑んだ。
「今度こそ、君は幸せになりなさい」
静かに閉めた扉を背にして、エレーンは床にへたり込んだ。
無人の居間が、明るくひっそりと静まっている。強く噛みしめた唇が、どうしようもなく、わなないた。意気揚々と嫁いだ先の、北の街で起きた出来事が堰を切ったように駆けめぐる。ほんのわずかな短い間に、境遇が著しく一転していた。馴染みのない北の街、妾子の発覚、ダドリーの失踪、使者との応酬、ディールの侵攻、一人ぼっちでとり残された、がらんと広い領邸の自室──うつむき、エレーンは目元をぬぐう。
「ダド、リー……」
どうしようもなくこみあげた涙を、こらえることはできなかった。
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