■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 8話5
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投宿先に一旦戻り、少し早めの夕食を済ませて、件の宿に向かっていた。街には宵闇が舞い降りて、目抜き通りの店先に、灯りがぽつぽつ灯り始めている。
ファレスはずっと仏頂面で、夕方の歩道を歩いている。立ち去る主を見送った直後、眉をひそめて踵を返し、以来ずっと、むっつりしたまま。エレーンは何事もない風を装いながらも、内心そわそわ、ついて歩く。「ね、ねえ、ファレス。レノ様は別に──」
「うるっせえんだよ! 黙ってろっ!」
たちまち怒鳴り飛ばされて、首を縮めて耳をふさいだ。まったく、えらい剣幕だ。
やむなく、後ろをうろうろ歩く。暮れゆく夕陽をやきもき眺め、エレーンは連れを盗み見た。
『──今夜なら』
ファレスの突進をかわした時の、あの主の耳打ちが、不意に耳元で蘇る。
『アルは一人で離れにいる。色仕掛けなら、落ちるかもな』
薄く笑った素早い一瞥。
『時間はねえぞ? 奥方様』
その言葉を反芻し、エレーンは密かに唇を噛んだ。
「時間がない」ということは、いよいよ当主がトラビア入りするのだろう。正午前の時刻というのに、居室にアルベールはいなかったが、既に出立の準備に追われているのかもしれない。恐らく、戦の終わりは近い。ならば、彼はどんどん多忙になる。けれど、今夜であれば、別棟にいる。
そう、今夜だ。今宵アルベールになんとしてでも会わねばならない。戦の部外者のこちらには、今後の予定を知る術はない。リナたちにも頼んだが、話に戦が絡むとなれば、恐らく容易には探れまい。できたとしても時間がかかる。それでは遅い。そもそも連絡ひとつとろうにも、領邸の寮にいる彼女らに会いに行くのは無理だから、彼女らが宿を訪ねてくれるのを待つしかない。
一方、当主は日を追うにつれ忙しくなる。ただ面会するだけでも大変なのに、そんな忙しない日程の中では、接触はますます困難だ。今夜を逃がせば、機会はない。
だが、領邸に行くとファレスが知れば、邪魔立てするのは確実だ。ファレスがラトキエを良く思っていないのは明らかだし、彼は自分の力をみくびっている。どうせ、何もできまいと。だが、この石頭は分かっていない。かのアルベールに掛け合うことができるのは、領邸に伝のある自分をおいてはないのだと。
夕食で外に出た際に、どうにかしようと思っていた。だが、隙を見て逃げたとしても、すぐに捕まるのは目に見えている。だから、ファレスから離れる口実を、道中ずっと考えていた。だが、いい手は何も思い浮かばず、まして今日のファレスは、ちょっと声をかけただけで、けんもほろろの険悪さで、まるで取りつく島もない。
途方に暮れて嘆息し、エレーンは焦れつつ街角を曲がる。現れた路地に、顔をしかめた。
曲がった先は、見覚えのある路地だった。すぐに宿についてしまう。なんの手も打てぬまま、ずるずる戻ってきてしまった。せっかく外に出られたというのに、むざむざ機会を逸してしまった。
暗澹たる思いで玄関をくぐり、まだ灯りの点いてない薄暗い帳場を通りすぎ、ほの暗い階段を無言であがる。
人けのない廊下を歩いて奥の部屋の扉を開けると、ファレスは先に部屋に入り、どさりと長椅子に背を投げた。相も変わらず、不機嫌そうな顔。
エレーンは離れた寝台にちんまり座り、そわそわ向かいを盗み見た。夕闇が立ちこめ始めたほの暗い部屋で、ファレスは両膝に腕を置き、木板の床を睨んでいる。
開け放った南の窓で、カーテンが風にひるがえった。
街の屋根屋根が赤く染まり、黙りこんだ夕刻の部屋を、薄闇が侵食し始める。ファレスは膝の間で手を組んで、軽くうつむき、微動だにしない。陰の暗がりに沈みこみ、眉をひそめて気難しい顔。いや、どうやら腹を立てているようなのだ。
エレーンは身じろぎ、そわそわ焦れた。ファレスをどうにかして煙に巻き、抜け出すとっかかりを作らねば。機嫌が悪そうなのは承知だが、今こうしている間にも、わずかに残された貴重な時間は、どんどん無為に過ぎていくのだ。
ファレスのいる長椅子に近づき、後ろ手にして、顔を覗いた。「ねー、ファレス、あたし、ちょっとリナたちと──」
「……そんなに頼りにならねえか?」
え? とエレーンは面食らった。床を睨んだファレスから、押し殺した声がした。「俺はそんなに頼りねえかよ」
「な、なにいきなり変なこと言ってえ〜! 思うわけないでしょー、そんなこと」
「なら、なんで!」
なだめる隙を与えずに、ファレスが顔を振りあげた。
「なんで、あいつの前では泣きやがる! 普段は意地でも泣かねえくせによ!」
たまりかねたようにまくし立て、苦々しく目をそらす。憮然としたその顔に、エレーンは唖然と口をあけた。
「あいつって──それって、もしかしてレノ様のこと?」
侵入が見つかった領邸で、とっさにへばり付いて泣きついた、あの時のことを言っているらしい。なら、今までそれで怒っていたのか? たかだかほんのあれしきのことで? つまり、ずっと、すねていた──?
返す言葉を失って呆気にとられて見ていると、ファレスが腹立たしげにねめつけた。
「てめえはとうに辞めたんだろうが! あんな嫌みな女誑しに、なんで未だにへいこらすんだ!」
エレーンは顔をしかめて額をもむ。
「……あのねー。あの人はなんていうか特別なの。家族とか親代わりとかそういう感じで──あ、ううん。正確には、前のご主人様だけど、でも、それだけってわけでもなくて──なんて言ったらいいのかな。あたし達、共通の友だちを亡くしているから、特別なつながりがちょっとあって──」
「どっちを選ぶ」
「え?」
「俺とあいつの、どっちを選ぶ! どっちか一人しかとれねえなら、俺とあいつのどっちにつく!」
まなじりつり上げ、ファレスは真顔だ。
「……もー。なに。あんたまで」
はあ、とエレーンは嘆息した。あの主もそんなようなことを言っていたが、あの気まぐれなお遊びに、ずっと、こだわっていたらしい。
「もー、そんなの、あたしに選べるわけが──」
暮色に染まった蒼闇で、薄茶の髪がひるがえった。
硬い何かが、顔にぶつかる。床に膝をうちつけて、引かれた背が反りかえる。
エレーンは息をのんで硬直した。後ろ髪に食い込むファレスの大きな手を感じた。その手が後ろ頭をまさぐっている。思っていたより、よほど硬い平らな胸。普段と違う荒々しい息づかい──
夕闇に沈む薄暗い部屋に、夕刻の時鐘が鳴り響いた。
窓にさがったカーテンだけが、夕風にかすかに揺れている。
「な、なにっ? どしたの?」
あわてて、とっさに腕の中でもがく。じっと肩にうつむいたファレスが、弾かれたように身震いした。
出し抜けに、床に転がった。突き飛ばされたらしい、と気がついて、エレーンは唖然とファレスを見る。
夕闇の中、長椅子に腰をおろしたファレスは、眉をひそめて目をそらした。
「──悪りぃ。今、こっちに来ねえでくれ」
おろおろ床から腰を浮かせて、エレーンは手をさし伸ばす。「……ファレス?」
「来んじゃねえ!」
鋭くファレスが怒鳴りつけた。
とっさに伸ばした手を引っこめ、エレーンは息をのんで、たじろいだ。「……な、なに、まじで怒ってんのよ」
ファレスは大きく息を吐き、苛立ったように頭を掻いた。
眉をひそめて立ちあがり、ズボンの隠しを片手で探り、目で追うエレーンの肩を押しのけ、窓の方へと歩いていく。
窓辺にもたれ、ファレスは眉をひそめて煙草をくわえた。気を鎮めようとするように、せかせか忙しなく紫煙を吐き、暮れゆく街に視線を投げる。一切目を合わせようとしない。
(……い、今の、なに?)
ようやく、おろおろ立ちあがり、エレーンはどぎまぎ横顔を見つめた。
気まずい空気がたちこめた。いつものように笑って流してしまいたいが、強い拒絶に弾かれて、気楽に声をかけることができない。
灯りのない、暮れなずむ部屋に、紫煙だけが漂っていた。
眉をひそめた端整な横顔の半分が、窓からの夕陽を浴びている。薄暗い部屋は閑散と静まり、空を染める夕焼けに、街並みが赤く照らされている。
ファレスは顔を背けて窓辺にもたれ、無言で紫煙をくゆらせている。夕景に投げたその視線が、ふと何かに釘付けになった。その目がみるみる見開かれる。
「──野郎!」
憎々しげに舌打ちするなり、ひらりと窓を飛び越した。
エレーンは呆気にとられて見送った。はっと気づいて振りかえる。今、気楽に飛び越したが、数日借りているこの部屋は、
二階だ。
「ファレス!?」
一拍遅れて、開け放った窓に飛びついた。窓枠をつかんで身を乗り出し、路地にすぐさま姿を捜す。
誰の姿も、そこにはなかった。誰も、血まみれで倒れてはいない。
ほっ、とひとまず息をつく。
「い、いきなり、どこ行っちゃったの?」
おろおろしながら、夕暮れの街並みを見まわした。ファレスらしき薄茶の髪が、遠くの街角に消えたのが、ほんの束の間、垣間見えた。だが、路地には建物が立てこんでいて、そこからどちらへ行ったものか、先の足取りは分からない。
かたわらのカーテンを握りしめ、エレーンは困惑して立ち尽くした。一体何があったのか。腹立たしげな横顔は、何かを見つけた顔だったが。
「……なに見て追っかけてったのよ」
エレーンは唇を噛んで、窓辺にもたれた。さっぱり訳がわからない。だが、置いてけぼりをくったのは、今はむしろ好都合だ。そうだ。早く部屋を出るのだ。ファレスが戻ってこぬ内に。
影の伸びた夕暮れの部屋を、何気なくうかがい、耳をすます。木板の床をひたひた歩いて壁際に置いた椅子に向かい、その背にかけておいたポシェットの肩紐に手を伸ばした。
夕暮れに染まった道ばたに、吸い殻がいくつか落ちていた。
宿の持ち場に戻ったザイは、怪訝な顔で見まわした。仮眠を終えて戻ってみれば、交代していたセレスタンがいない。
素早く視線をめぐらせる。件の旅舎の建つ路地は、何事もなく静かだった。人影もなく、ひっそりしている。何かが起きた形跡はない。
「……気の回しすぎか」
ほっとザイは息をついた。赤い西日に照らされた件の窓を眺めやり、上着の懐を片手で探って、宿の向かい壁によりかかる。彼らがいる二階の窓には、まだ灯りはともらない。
ひっそり静かな裏路地に、たそがれの風が吹いていく。
建物の影が路地に伸び、子供の笑い声が遠く聞こえる。夕刻の鐘はとうに鳴った。子供は家に帰る時間だ。夕焼けの空に雲が動いて、植え込みの青葉がさわりと揺れる。人通りは、ない。
ザイは紫煙を吐きながら、灰になった手慰みの煙草を、厚い靴底で踏みにじる。
夕陽に染まる街角を、男が足早に曲がってきた。禿頭に黒眼鏡、緑のランニングと黒いズボン──後を頼んだセレスタンだ。しきりに肩越しに振りかえり、なにやら首をかしげている。
「──何やってんだ」
ザイは苦りきって声をかけた。
ふと、セレスタンが振り向いた。陰に佇む相手を認め、腕を振って駆けてくる。「──いや、妙な奴が、窓から覗いていたからさ」
「覗く? 客の部屋は二階だろ」
ザイはいぶかしげに窓を見上げる。前まで来て足を止め、セレスタンは腕を組んだ。
「な、妙だろ。そいつ、そこのひさしに載って、窓から中を見ていてさ。べったり壁に張り付いて」
「で、そいつは」
「逃げられた。途中までは追ったんだが、そう遠くまでは行けねえし」
ザイは小さく舌打ちした。
「──又、例のゴロツキか」
ジャイルズと名乗った海賊崩れを、先日、街で見かけている。セレスタンは首をかしげた。
「いや、そういうのとは多分違うな。帽子で人相はわからなかったが、そら恐ろしいほど身軽な奴で」
目線で先を促され、「──ああ、それがさ」と先を続ける。
「そいつ、目が合った途端、屋根から屋根へと飛び移って。まるで、どこぞの曲芸師だ。後ちょっとのとこなのに、どうしてどうして捕まりゃしない」
今来た道を肩越しに見やって、降参したように肩をすくめる。ザイもそちらに目をやった。「向こうの連中、ということか」
「いや、バードの動きっていうんでもない。むしろ、人の動きじゃないような」
「人じゃない? どういうことだ」
セレスタンは肩をすくめた。「だから、それが妙なんだって。足場の悪い屋根にいるのに、まるで頓着しないっていうのか、思い切りが良すぎるっていうか。敢えて言うなら、野生の猿の動きかな。猿ってのは躊躇なく、枝から枝へ飛び移るだろ、あんな感じ。で、とどのつまりが──」
「逃げきられた、か」
帰結を引き取り、ザイは考え込むように顎を撫でた。「……どうも、嫌な感じだな」
「一体何が起こるっての?」
セレスタンは笑って、ズボンの隠しを無造作に探る「ここは治安のいい商都だろ。そして、身内の仕業でもない。なら、どんなに変わった奴だって、覗きかコソ泥が精々だって」
立てた親指で二階をさす。「それに、部屋にいんだろ? 副長が」
「ああ、客についている」
「いいよなあ、副長は。いつも姫さんと一緒でさ。あー、マジでうらやましい」
嗜好品を口にくわえて、セレスタンは点火する。ザイは呆れた顔で一瞥した。「酔狂なこった」
「夜通し外より、断然いいだろ」
指先で紫煙をくゆらせて、セレスタンはきょとんとザイを見た。
ザイはやれやれと懐を探る。「ぬけてんな。あんなのと二人きり、夜通し一室に閉じ込められてみろ。副長もさぞや、夜ごと悶々としてんじゃねえか」
「……お預け食らった犬よろしく?」
あぜんと、セレスタンは窓を見る。
ちら、と横目でザイを見た。「……だ、大丈夫だよな? 副長」
「いや、乗っかってた。食う寸前」
俺は見た、とうなずくザイ。
「ノックしろ、とか、えらい剣幕で言ってたしな」
瞠目して乗り出したセレスタンに、苦笑いして肩をすくめた。
「預かりもんに手ぇつけるほど、間抜けじゃねえだろ副長も。釘は刺しておいたしな」
煙草をくわえて、その先に点火し、ザイは宵闇に一服吐き出す。「で、どんな具合だ、坊主の方は」
セレスタンは指先でとんとん叩いて、長くなった灰を地面に落とす。「もう、いないんじゃないの? 商都には」
「いるだろ。惚れた女がいるからな」
件の窓の様子を見がてら、ザイは紫煙を空に吐く。
「ま、いねえならいねえで、俺はどうでも構やしねえが」
「──にしても」
肩をすくめてセレスタンも同意し、件の窓をおもむろに仰ぐ。
「もう、寝ちまったのかね、姫さんは。部屋に灯りも点けないで」
ふと、ザイも窓を仰いだ。なるほど、窓は暗いまま、開けっ放しの薄暗い窓で、カーテンが白く揺れている。
はっ、と弾かれたように身じろいだ。
点けたばかりの煙草を踏み消し、つかつか宿に足を向ける。
「念のため、様子を見てくる」
建物の玄関に飛びこんで、ザイは階段を駆けあがる。
暗い廊下を足早に進んで、突き当りの扉を開け放つ。
カーテンが白く、ひるがえっていた。
がらんとした板張りの床に、荷物の影が長く伸び、部屋にあるものおよそ全てが、夕刻の陰影に沈んでいる。人は、いない。もぬけの殻だ。
「……やられた」
顔をしかめて舌打ちし、ザイは歯ぎしりして立ち尽くした。
宵闇に包まれた通用門では、灯りがこうこうと焚かれていた。
紺の制服の門番が厳しい顔で立っている。領邸のぐるりをとりまく壁の角から様子を覗いて、エレーンは渋い顔をした。
「……うーん。どうやって中に入るかなー」
昼より警戒厳重だ。どうやら、昼の一件で検問が強化されたらしい。領邸の制服こそ着ているが、あれでは容易に入れない。手引きをしてもらおうにも、寮にいるリナたちとは連絡さえもとれないし。
途方に暮れて、うろうろ歩く。街路樹の配された薄暗い歩道に、人けはない。灯りの届かぬ壁際の歩道は、明るく賑わう北門から見えにくそうなことだけは救い。はた、とひらめいて顔をあげた。
「……もしかして」
街路樹の陰に隠れつつ、北壁沿いにそろそろ進む。エレーンは例の場所に近づいた。昼に脱出を果たした裏木戸。錆びたドアノブに手をかける。
「もしや開いたりなんかして〜? いやー。そんな都合のいい話があるわけないか〜」
ものは試しと、とん、と笑って押しやると、キィィ……と軋んだ音がした。
え? と瞠目して振りかえる。宵闇に紛れた暗がりで、裏木戸がわずかに開いている。
「レノ様、閉め忘れたんだ……」
しばし、まじまじ凝視して、エレーンはにんまり微笑んだ。
「らっきー」
通用門の門番を、きょろきょろ抜かりなく警戒し、ささっと素早く裏木戸をくぐる。
ぱたり、と後ろ手に戸を閉めて、植栽の影に身を潜めた。右手に迎賓館、左手に領邸、前には青芝の庭がひっそりと開けている。そして、広い青芝を越えた先は、裏庭へと続いている。
領邸内の植栽は豊かだ。庭師が丹念に手入れする青葉が、常に瑞々しく茂っている。その中には、枝を張り巡らせた大木も多い。
これから目ざす別棟は、広大な敷地の南に位置し、裏庭の小道を道なりに進み、途中で左に道をそれた場所にある。つまり、別棟のある場所は、今朝侵入した北門よりも、南の正門にほど近い。
迎賓館はひっそりと暗く、蒼い宵闇に沈んでいた。その向こうに建つ記念館にも人の気配はまるでなく、窓のどこにも灯りはない。昨今の物騒な騒ぎで、さすがに夜会どころではないらしい。
がらんと広い青芝を避け、迎賓館の前をそろそろ通過、記念館の壁に身を隠す。壁から様子をうかがって誰も来ないのを確認し、再びそろそろ足を踏み出す。
警備員の姿は、見たところ、ない。見咎められることのないように注意の上にも注意を重ね、エレーンは素早く裏庭の小道に入りこんだ。領邸の道は敷地の東側を通っているゆったり広い馬車道が本道で、西にある細い小道は、主に使用人が行き来する、いわば裏道というところだ。部外者は基本的に立ち入らないので、警備も恐らく甘いだろう。
ここまで来れば、しめたもの。後はこのまま道なりに進み、途中で左に折れるだけ──左右の梢がさしかかる通い慣れた暗がりの小道を、敷地の南を目指して進む。月下の道を辿りつつ、エレーンは密かにほくそ笑んだ。
「なんか、うまくいきそう」
なんという幸先の良さ。これまでのこちらの努力に報い、神様が後押ししてくれているようではないか。ファレスは勝手に飛び出して行ったし、宿をこっそり出た時も、ザイの姿は付近になかった。それだけでも幸運なのに、更にその上、裏木戸を閉め忘れていたなんて。抜け目のないあの主が──。ふと、昼の攻防を思い出し、腑に落ちない思いで首をかしげた。それにしても、彼は何故、ああもファレスを構うのか。
あの時、彼は明らかに、ファレスをからかって遊んでいた。ずっと近くで見てきたから、彼の人となりは知っている。不快な相手と出くわせば、さっさとどこかへ逃走する、他人のことにかまけはしない、あの主はそういう人だ。唯一彼が執着したのは、自分の知る限りアディーだけ。もっとも、そのアディーにしても、散々猫かわいがりした挙句、病状が進み、床から起きられなくなったと知るや、そっぽを向いて見捨てたが。ともあれ彼は、嫌な相手にいつまでも時間を費やしはしない──
はた、と齟齬に気がついて、エレーンはぱちくり瞬いた。ということは、もしや、あれでもファレスのことを
──気に入っているのか?
エレーンは額をつかんで、うなだれた。
(……レノ様って、よくわからない)
もっとも、逆毛を立てて威嚇していたファレスの方はさにあらず──というより、むしろ真逆であるのだが。そう、ファレスはどうも、彼とは反りが合わないらしい。
夕暮れにひるがえる薄茶の髪が、不意に脳裏に蘇る。
「……ファ、レス」
ぎくり、と肩を震わせて、エレーンは怯み、うろたえた。
今になって、どぎまぎしながら、唇を軽く噛みしめる。あの夕暮れの部屋の情景が、取り乱した脳裏をよぎり、胸がざわざわ落ち着かない。
エレーンは強く首を振った。頭から無理やりそれを締め出し、往くべき道に目を向ける。今は気をとられている場合ではない。よそ見をしている暇などない。これが最後の機会なのだ。
気を鎮めて、歩を進める。生い茂る木立の先に、懐かしい別棟が見えてきた。赤い屋根に白い壁。かつてアディーが暮らした小奇麗な離れ。梢に見え隠れするその窓から、灯りがわずかにもれている。人がいる。立ち入り禁止の別棟に。アルベールが室内にいるのだ。あの主が言った通りに。あの耳打ちは本当だった。
かつての主が気まぐれに与えてくれたのは、瑣末で確かなとっかかりだった。ややもすれば切れそうな糸だが、なんとしてでもたぐり寄せ、突破口を開かねばならない。
そう、今夜を逃がせば、次はない。嘆願の機会を失ってしまう。ダドリーの救助の。そして、アドルファスの釈放の。あの別棟に、アルベールがいる。窓の灯りを一心に見つめ、エレーンはもどかしい思いで足を速める。
(ダド、アド、もう少しだけ待っていて! 必ず、必ず助けるから!)
アルベールと顔みしりのダドリーの件は、彼に会うことさえできたなら、容易く解決するだろう。問題はアドルファスの方だ。彼はアドルファスを知らないし、事情がいささか込み入っている。むしろ、彼は女医と親しい。だが、事情を真摯に説明すれば、きっと分かってくれるはず、説き伏せる自信は十分にあった。
小道の梢に見え隠れする小さな灯りに目を据えて、エレーンは知らず小走りになる。
「──あと、少し」
あと少しだ。
あと少しで願いが叶う。
あと少しで全てが終わる。これで、やっと救われる! やっと、やっと、
──やっと!
これが全部終わったら、ケネルにちゃんとお礼を言おう。ここまで連れて来てくれたファレスやあの首長たちにも。ザイやセレスタンやロジェたちにも。そして、本人にとっては多分どうでもいいのだろうけど、あのノッポの少年にも。
彼らには甚大な迷惑をかけた。ずっと必死で走っていて気にかける余裕なんかなかったけれど、ダドリーが無事に戻ったら、事の全てをつまびらかにし、できる限りのことをして彼らの厚意に報いよう。
そうだ。全ての片がついたら、綺麗な服にきちんと着替え、あふれんばかりの花束を抱えて、彼らの元を訪おう。そうして言うのだ、「ありがとう」と。飛びきりの笑顔でおしとやかに。彼らはどんな顔をするだろうか。
その様を想像し、エレーンは一人くすくす笑った。きっと、狐につままれたような顔をするに違いない。それが見られるのも、もうすぐだ。
風に揺らぐ夜梢の下に、懐かしい別棟が建っていた。
窓から灯りが漏れている。広大に開けた青芝も、木立生い茂る裏庭も、ひっそり穏やかに静まりかえり、警備員の姿もない。
低い階段を数段あがり、見慣れた扉の前に立つ。いよいよだ。
エレーンは胸に手を当て、深呼吸した。気合を入れて、顔をあげる。
「──よし!」
ひさしの影で静まった、金のドアノブに手を伸ばした。
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