■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 8話6
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卓に置かれたランプの炎が、室内をほの暗く照らしていた。
長らく立入禁止になっていた敷地南の別棟は、当時と少しも変わっていない。衣装箪笥や卓や長椅子、棚に立てられた飾り皿の配置にいたるまで。
子供用の寝台が、右手の暗がりに埋もれている。それはアディーと同じ娼館から引き取られた幼い男の子が寝ていたものだ。出歩くことのできない病人の遊び相手として引き取られた男児は、同じ別棟で寝泊りし、常にアディーのそばにいた。あたかも彼女を守る騎士のように。
テラスへ出られる大扉が入って左の壁にあり、今は厚いカーテンが引かれている。アディーが使っていた寝台は、入口向かいの窓辺にあり、診察時には部屋と寝台とを仕切ることができるよう、天井からカーテンが取り付けられている。その間仕切りが、今、開いていた。
外の暗闇を切り取った窓辺の寝台に腰をかけ、身形の整った青年がそっと枕を撫でていた。慈しむように。慰めるように。灯火が照らす横顔は、憂いを含んでうら寂しい。抜け殻のようにやつれた頬は、心ここに在らずといった態。灯火ゆらめく室内に、人の姿は他にない。
颯爽としていた、かの子息の予期せぬ姿に、エレーンは困惑して目をそらした。目先のことに囚われて、あくせくここまでやってきたが、遅まきながら思い出す。そうだった、この部屋は、
──あのアディーが亡くなった場所。
彼女が寝ていた白い枕を、アルベールは愛しげに撫でていた。とても静かな面持ちだ。胸が痛くなるような──。彼の秘めた事情を察して、エレーンはそっと唇を噛む。
彼はまだ、立ち直っていない。
アディーが逝った、春もまだ浅い、肌寒いあの朝から。そこで彼の時間はずっと止まってしまっている。
ひっそりと時間が淀んでいた。踏み入ってはならない領域に、土足で踏み込んでしまった気まずさがあった。ここは彼の聖域なのだ。彼がアディーを悼む場所。許可なく踏み入って良い場所ではない。騒々しくも忙しない街の気配を引きずる自分は、ひどく浮いていて場違いだ。
居たたまれない思いでおずおず見まわし、はっ、とエレーンは我に返った。胸の拳をぎゅっと握り、気弱なためらいを叱咤する。いや、気後れしている場合ではない。獄中にいるアドルファスの釈放を、彼に口添えしてもらわねばならない。いや、そもそもアドルファスは無実なのだ。話せば、きっと分かってくれる。当主の力をもってすれば、監獄に話を通すなど、造作もなく容易いはずだ。そして、それを果たしたら、ダドリーの救助も頼むのだ。そうして共にトラビアへ赴く。ダドリーを迎えに行くために。
神聖で不可侵なひと時の邪魔をするのは心苦しいが、出直すような猶予はない。アルベールは近日、現地トラビアへ赴いてしまう。彼の繊細な感傷に気兼ねしている場合ではない。意を決し、足を踏み出す。ふと、アルベールが顔をあげた。
「……君は」
不思議そうに小首をかしげ、寝台から立ちあがる。
「これはこれは」
友好的な笑みをつくり、大股で戸口に歩み寄った。知己を迎え入れるがごとくの親しさで。薄暗いはずの室内が、ぱっとそれだけのことで華やかになる。
背筋を伸ばし、正しい歩幅でゆったりと歩き、エレーンの目の前で足を止めると、貴公子然とした優雅な物腰で、アルベールはおもむろに腰を折った。壊れ物でも扱うように、エレーンの手をそっと取る。
「公爵夫人にはご機嫌麗しく」
手の甲に軽く口づける。街の男が真似すれば、芝居がかった気障で鼻につく所作でしかないが、彼の流れるような振る舞いは、少しも嫌みを感じさせない。三領家の頂点に立ち、一門を束ねる、ラトキエの若き現当主。
眼下にある手入れの良い栗色の髪に、用件も忘れてエレーンは見とれる。アルベールはゆっくり身を起こし、端整な笑みを向けた。「それで、どうなさいました? こんな夜分に」
「──あ、あのっ! ち、違うんです、アルベール様!」
はっ、とエレーンは顔をあげた。
「あの! ダドが使者と会わなかったのは、ラトキエを助けたくなかったからとかそういうことじゃなくて──だって無理なんです! クレストは貧乏で、若い人とかも少なくて、おじさんやおばさんばっかりで、みんな農家とか牧場の人だとかで、商店のおじさんたちも気がいいばっかで体とか鍛えていなくって、だから強い人とか全然いなくて、兵士になるのなんか全然無理で! だから助けに行きたくてもできなくて! だからダドは無理だと思って──!」
アルベールは面食らった顔をした。芳しからぬ反応に、エレーンはやきもき凝視する。
「あの、決して──決してクレストは、ラトキエに弓引く意思など決して──!」
アルベールが苦笑いで手をあげた。
「──あ、あの?」
「いや、お話はよく分かりました。クレストには食糧の補填をお願いしようと思っていたのです。ですが、そちらはすぐに、こちらで目処が立ちました」
笑いを収め、穏やかな顔で振りかえる。
「失礼ながら、クレストに兵の調達は無理でしょう。国境のない北方に、国軍の配備はない、それは承知していたのですが、なにぶん突然包囲され、こちらも動揺しておりまして。ディールから奇襲を受けるとは、夢にも思いはしなかったもので」
そうか、とエレーンは今更ながら気がついた。この国の軍事を仕切っているのは、他ならぬこのラトキエなのだ。兵力の配置を、民の人員構成を、動員可能な人員がどこにどれだけ在住するのか、把握していないはずがない。呆然としながら、エレーンは訊く。「……では、あの……怒っていらっしゃらない、んですか?」
アルベールは微笑んで、エレーンの肩に手を置いた。
「貴領のご判断は当然です。ディールに組し、当家の領土を攻めたというなら、また別の話ですが、クレストはディールに攻められながらも中立の立場を貫き通したではありませんか」
「……アルベール様」
穏やかな相手を凝視したまま、エレーンはへなへなと息をついた。重く心にのしかかっていた懸案事項が片付いて、密かに胸をなで下ろす。
(使者に負けなくて、まじで良かった〜っ!)
むしろ使者との会談で、ディールの圧力に屈していれば、今頃はこの大ラトキエと敵対していた……? それに気づいて、今になって震えあがる。
「それで」
「……はい?」
ふと、落ち着いた声で我に返る。アルベールが涼やかな笑みを向けた。
「他にお話がおありでは? それを伝える為だけに、わざわざお出でになったのですか?」
「──あ、いえ、あの」
はた、とエレーンは成すべき事を思い出した。そうだ。ここへはアドルファスの釈放を頼みにきたのだ。そして、トラビアで捕虜になったダドリーの救助を。ふと、昼に会った主の顔を思い出し、上目使いで盗み見る。
「……あの、レノ様から、お聞きになりました?」
彼は伝えてくれると請け負った。だが、アルベールは首を振る。
「いえ、今日はまだ、レノとは会っていませんが。朝から政務所に出向いていましてね。遊民が出頭するなど、例のないことなので」
「……遊民が、出頭?」
アドルファスだ!
エレーンは息を呑んで瞠目した。アルベールは苦笑いで続ける。
「わたしも正直驚きました。罪を犯したと言われても、相手が遊民というのでは、裁く条文がありませんからね。遊民は他国民ではありませんし、無論、自国民でもありません。それで担当が扱いに困り、呼びつけられた次第です」
「そのことです! そのことであたし、アルベール様にお願いがあって!」
エレーンは身を乗り出した。そうだ。なんとしてでもアドルファスを救わねば。アドルファスは何もしていない。真犯人は妻なのだ。だが、その名を出すのは憚られる。事実はわかりすぎるほどにわかっているが、犯人の名を伏せたままで、どう言えば釈放してもらえるだろう。──そうだ。草原を南下していたアドルファスに、ロマリアでの犯行は不可能だ。ケネルがそう言っていた。そこをきちんと説明すれば、彼はきっとわかってくれる! 勢い込んで、顔をあげる。「──あのっ! その遊民のことですが! 実はあたし!」
「釈放しました」
「──え?」
エレーンは怯んで口をつぐんだ。
「彼は既に牢を出ています。彼から暴行を受けた、と言い立てる者が現れましてね。評判の良くないならず者ですが、それでも証言者であることに何ら変わりはありません。諍いの現場を商人も目撃していますし」
「……どういうことです?」
「ロマリアで幼児が殺害された事件は、公爵夫人もご存知ですね。出頭した遊民というのが、事件当日、ロマリア近郊の未開地で、そのならず者の集団と、やりあっていたらしいのです。もめている所を、商人の一団が偶然通りかかったようで、危ないのでどうにかしてくれ、と苦情をもちこんできましてね」
優雅な笑みを頬にたたえて、アルベールは経緯を説明した。
遊民の方は知らないが、ならず者の方なら特定できる、と苦情を持ち込んだ商人が言うので、ロマリア事件の担当は、レーヌから当事者を呼び出して、ジャイルズというならず者を聴取した。すると、先の商人が再び政務所にやってきて、「ならず者と争っていた、よく似た遊民が引っ立てられて行くのを見かけた」と言う。それで、出頭した遊民とならず者とを引き合わせたところ、「諍いの相手は確かにこいつだ」とならず者が認めたために、当該遊民を釈放する運びとなった。犯行現場以外での目撃証言が出た以上、遊民の犯行は成立しえない。
「……はあ」
話のあらましを聞き終えて、エレーンはぎこちなく生返事をした。アドルファスが釈放された、そのこと自体は喜ばしい。話の辻褄も合っている。いや、合いすぎるほどに合っている。だが、どうも何かが腑に落ちない。どうも話ができすぎている。
だって、時間に追われる商人が、あんな何もない野っ原を「偶然通りかかった」りするものだろうか。街道の向こうの、誰も行かない原野のことなら、この目と耳で存分に味わい、実際に接して知っている。草木が野放しで広がるだけで、そこには本当に何もないのだ。そう、諍いを目撃したという商人は、そんな所で一体何をしていたというのだ?
「ご納得いただけましたか?」
穏やかな彼の声に、はっ、とエレーンは顔をあげた。
「あの! 実はもう一つ、お願いがあって」
そうだ。そんなことを、今、悠長に検討している場合ではない。
「なんでしょう、公爵夫人」
にこり、とアルベールは笑みを向ける。
「──あの、実はダドリーが」
「ダドリー?」
その名が話題に出た途端、アルベールが顔を曇らせた。
「頼みというのは、それですか」
軽く嘆息して、目をそらす。今の口振りでは、ダドリーがディールに囚われたことを、ラトキエは既に知っていたらしい。だが、彼の様子が何か奇妙だ。
「──あ、あの」
「申し訳ないが、お引き取りいただけますか」
「ア、アルベール様」
「あなたのお役には立てそうにない」
思わぬ反応に胸騒ぎを覚え、エレーンはアルベールを振り仰ぐ。
「あの、一緒にトラビアに連れていって下さいませんか。わたし、しなければならないことがあるんです! トラビアにダドリーがいるんです。あの、ダドリーを助けて下さい! ダドリーを──」
「それは、できない」
愕然と、エレーンは見返した。今の言葉は聞き違いだろうか。ダドリーを助けることはできない、と? それとも彼が断わったのは、同行させてほしい、と頼んだ方? 不安に駆られた胸を押さえて、エレーンはよろめき、部屋の間仕切りをとっさにつかむ。
びくり、と背中がそり返った。
『帰りたい!』
声が、意識に飛びこんだ。
「え?」
エレーンはうろたえ、視線をおろおろめぐらせる。今、叫んだのは誰の声? アルベールではない、女の声だ。それは強い強い切なる叫び。聞き覚えのある女の声──不意に、声の持ち主を思い出し、エレーンは鋭く息をのんだ。
(……アディーの、声?)
そう認識した途端、四方八方の薄暗い壁から、一気に気配が押し寄せた。そう、気配だ。目には見えない重苦しい気配。押し潰されそうに圧倒的な淀みのような見えない何か──
どくん、と何かが息づいた。
首の詰まった制服の中、胸に下げたお守りの石だと気がついた。それが、どくどくどくどく──と、かつてないほどの恐ろしい速さで、うねるように脈動している。乱打するような脈動は、すぐにも全身に伝播して、徐々に激しさを増していく。
ぱっ、と白熱のまばゆい光が、たじろいだ脳裏で放たれた。事象の全てが丸ごと一瞬にして明瞭になる。
この別棟でアルベールと二人きりで対峙しているものとばかり思っていたが、実際にはそうではなかった。この別棟の内外には、四人もの者がいる。自分とアルベール、屋根の上に一人、そして、テラス戸に下がったカーテンの陰にもう一人。
月下の草に、黒光りした大型犬が赤い舌を出していた。二人組の警備員が、黒い犬を連れ、裏庭の方を巡回している。馬車道側にも、もう一組。門番が立つ正門では、明かりが赤々と焚かれている。
夜のしじまの暗がりで、白い花がふわりと揺れる。直立した草の根元で、こおろぎが黒い羽を震わせている。戸口の外の、ひさしの下に、正体不明の闇があった。それが何であるのかは意識を凝らしてもわからない。ただ全ての色が吸い込まれたような、深く淀んだ闇を感じる。全てを吸い込む漆黒の闇。
愕然と凍りついたまま、エレーンは身動き一つできなかった。それらの知覚は外から雪崩こんだというより、一瞬にして、つまびらかになった感じだ。全ては元からそこにあり、それを覆う薄いベールが一気に取り払われでもしたように。
テラス戸を覆うカーテンの陰に隠れた者が、驚いた顔で目を見開いていた。彼にはおぼろげに分かっているのだ。こちらが嵐の只中にいるのが。荒れ狂う強風にさらされているのが。視界の外にいるはずの、灯りが届かぬ暗がりの、カーテンに隠れた者の表情が、意識を向けるまでもなく、ありありとわかってしまう。そう、その者の正体さえも。あれは「翅鳥」だ。個体の名は「ジェリオ」
同時に開示された数千数万の「認識」が、虚空で渦を巻いていた。
目がくらみ、視界が歪んで、ぐるぐる大気が回っている。何かを見届けられそうな気がした。何かに手が届きかけている。
今、世界のありようは、細部まで鮮明に余すところなく差し出されている。一気に目の前に開示された世界。その根源を、今であれば見届けられる気がした。
そう、確信があった。それを見るには、条件がぴたりと合っている「今」「この場」でなければならない。
膝をつきそうなめまいをこらえて、ぐっとエレーンは意識を凝らす。ずっと知りたかったことがある。何か腑に落ちなかったこと。何か変に感じていたこと──。
純白が強く輝いて、視界の全てを凌駕する。雲が分厚くたちこめて、視界を覆う白が弾けた。
天高く、龍が飛んだ。
蒼穹の極みを天馬が駆け、鳳が大きくはばたいた。巨大なそれらが視界を圧して迫りくる。霧が晴れるように薄まった先に、エレーンは霞む目を凝らす。
……あれは、何?
市場を行き交う大勢の人々の姿が見えた。晴れた真昼の大通り。とりたてて特徴のない、よく見る街の光景だ。だが、どこか様子が変だった。そう、決定的に何かが変だ。一体、何が変なのか。
人通りの少ない道ばたを、老婆が腰を曲げて歩いている。向かいから来た警邏の馬がためらいもなくすれ違う──すれ違う? 乳母車を押す若い母親、その向かいから、馬車が猛スピードで走ってくる──そうだ、あれだ。真正面から行き合っているのに、互いに相手に頓着しない。どうしたわけか、ぶつからない。相手の体を通過して、どちらも何事もなくゆき過ぎていく。それと全く同じことが、いたる所で起きているのだ。
……ぶれている?
街の景色がぶれている? 景色が二層になっている。二層?──いや、違う、
三層だ。
交差する人々。交差する人々の波。
同じ地表に在りながら、決して交わることはない。同じ地平を共有する、けれど、永久に出会わない人々。互いの存在を知ることさえない、決して出会ってはならない人々。
世界の枠が取り去られれば、混乱と恐慌がたちどころに起きる。馬車が轟音をあげて乳母車に突っこみ、腰を曲げて歩く老婆に警邏の馬が激突する。そう、彼らは決して出会ってはならない。──いや、
──もしも、出会ってしまったら?
あの彼らが、どこかで出会ってしまったら?
時空をくぐってきた者を、世界は予定しておらず、その存在を認知しない。そうした者とその世界に属する者が、やがて結ばれ、子孫を残す──それは理に外れた禁忌にも等しい行為だろう。異界からの渡来者は、その世界に属していない、本来存在せぬ者なのだ。ならば、子供の片親は、どこにも存在しないことになる。
ならば、 己の血の半分を異界の血で占められた子供は、半分存在していない。そう、世界の狭間に産み落とされた、その子供の正体は、一体どこの誰だというのだ?
つまり、彼らは、
──世界の理から外れた者。
何かに、今、触れた気がした。
とても大事な、大切な"何か"に。
ふっと肩が軽くなる。そうだ、"それ"を探していた。真理に満ちたこの場所を、"それ"を探すために突き進んできた。今、手にした"それ"はたぶん、常にくすぶっていた「わだかまり」の答えだ。
霧が再び立ちこめて、世界がにわかに閉じていく。分厚い霧で、昼の街が覆われていく。──ああ、そうか、とおぼろげな意識の端で理解した。耳で打ち鳴る脈動は、重なり合った世界の鼓動。だからこんなにもばらばらで、こだまのように鳴っているのだ。
世界の織り成す脈動に、かすかな耳鳴りが入り混じった。
キーン、と意識に忍び込んだそれは、みるみる音量を増していき、脈動に取って代わるほどに大きくなる。呼吸が浅く、思考がぼやけた。立っていることさえ困難だ。ほどなく視界が純白の洪水で焼き切れる。
密かに割り込んだ耳鳴りは、今や耐えがたいほどの大音量となり、事象の全てを塗りこめた。
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