CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 8話8
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 黎明の闇が押しやられ、明けの時鐘が鳴りわたる。
 どこかで雀が鳴いていた。商いの支度に向かう商人が、閑散とした通りを歩いている。
 今やすっかり明るくなった宿の一室。窓辺でつリ下げられたまま、そよとも動かぬ白いカーテン。窓を開け放った早朝の部屋は、清々しくも、がらんとしている。薄く居残った影に沈む、ひっそりとして冷たい寝台。連れ発見の一報は、夜通し待ったが、未だない。
「──あのあほんだらが」
 昨夜、部屋に転げこんで以降、まんじりともせずに空の寝台を睨んでいたファレスは、膝に手を置き、忌々しげな舌打ちで立ちあがった。
「今日という今日は容赦しねえ」
 既に力のある夏の日ざしが、街路樹の遊歩道を照らしていた。ラトキエ領邸・北門では、今朝も物々しい警備が続いている。そこから右の角まで歩き、東壁に沿って南下する。
「こいつがラトキエの使用人寮か」
 向かいに佇む建物を眺め、ファレスは頓着なく外壁を蹴った。
 塀の上から跳躍する。目指すは二階の開いた窓。ちなみに塀から向かいの窓までは大人の身長分は離れている。これと同じ幅の水たまりを地上で飛びこすというのなら、大した苦もなく飛べるであろうが、如何せんここは二階である。普通の者なら怖気づくこと請け合いだ。だが、こうも簡単で些細なことに何故そうも躊躇するのか、身体能力に著しく秀でたファレスにはよく分からない。
 とん、と難なく窓枠に着地し、ひょいとファレスは窓枠をくぐる。
 部屋に頭を突っこんで、ぐるりと視線を巡らせば、壁に寄せた寝台の前で、ぎょっ、と女が振り向いた。
 ふむ、とファレスは思案する。女がここにいるのなら、建物手前の東棟は女性用の寄宿舎だったらしい。
 女はあたふた紺の布地を掻きいだき、警戒に全身をこわばらせている。唇をわななかせ、今にも悲鳴をあげそうだ。
 すぐさま、ファレスは窓枠を蹴った。女の口を片手でふさぎ、手近な寝台になだれこむ。
 窓から飛びかかった不審者に突然真上に乗りかかられて、いきなり口をふさがれた女は、押さえつけられた仰臥の体を硬直させて、これ以上ないというほど目を大きく見開いている。
「おう、騒ぐな。別に襲いにきたわけじゃねえ。ちょっと、こん中に用があってよ」
 ファレスは事もなげに声をかけ、親指の先でドアをさした。聞いているのかいないのか女はかたく目を瞑り、必死で顔をそむけている。がたがた震えるむき出しの肩に、光沢のある細い紐、つまりは下着姿、着替えの途中だったらしい。
 思わず視線を下に滑らせ、む? とファレスは口をつぐんだ。顔をそむけた細いうなじ、柔らかそうな白い肩、透けたレースの下の肌──なんとはなしに、そわそわ身じろぎ。
「……いや、その、なんだ……ま、いいか、今さら」
 細くつややかな肩紐の下に、そろりと指を忍ばせる。
「そうだよな、十分やそこら遅れたところで、今さら大差ねえんだし──」
 肩から滑らせようとした刹那、頭が横なぎに吹っ飛んだ。
 くらつく頭を片手で押さえて、ファレスはすさまじい衝撃に首を振る。視界の右の足元に、枕がぼてんと転がっているから、それで頭をぶっ飛ばされたらしい。
 枕が飛んできたそちらへと、すごんで顔を振りあげた。「──何すんだこら!」
「なあにしてんのよっ!」
 紺の領邸メイド服の女が、仁王立ちで立っていた。まなじりつり上げ、両手は腰に、怒り心頭に発した形相。肩まであるウエーブの髪、見覚えのある気の強そうな顔──エレーンの同僚、この領邸の使用人リナだ。
 寝台の女が悲鳴をあげて、あわててシーツに潜りこんだ。ファレスは床にあぐらで座り、おう、とリナを顎で指す。
「ちょうど良かった。今、てめえを捜しにいこうと思ってたところだ」
「あらそー。デートのお誘いかしらー? でも、その前に!」
 ぎろり、とリナは睨めつける。
「ラナにかぶさって何してたわけ」
 らな? とファレスはまたたいて、壁の女を振り向いた。顔を引きつらせて身を引く女に、よう、と笑って手をあげる。
「なんだ、お前か、泣き虫女!」
 組み敷いた女の正体に、ようやく気づいたものらしい。リナはわなわな拳を握る。
「なあにが、お前か、よ! あんたって、まじ信じらんない。害虫! 変態! このケダモノっ!」
 ファレスは不本意そうに見返した。
「てめえだって、やったじゃねえかよ。俺んとこに夜這ってきやがったくせして(よ)」
「ちょ──!? あんた何言い出すの!?」
 リナが目を見開いて遮った。壁のラナはあんぐりと口を開け、絶句で真偽を問い質す。リナはあたふた、それを気まずそうに一瞥し、ぷい、と腕組みで顔を背けた。「な、なに言ってんのよ。あれは、ちょっとした冗談じゃない。そう、言うなれば、朝のご挨拶よ!」
「俺も朝のご挨拶だ」
 うむ、と追随、うなずくファレス。悪びれた様子は全くない。
 ふるふる体を打ち震わせて、きいっ、とリナが目を向けた。「で! 朝っぱらから、なんの用よ!」
「──ああ、そいつだ」
 膝に手を置き、ファレスは床から立ちあがる。腕を組んで、顎をしゃくった。
「出せ」
「何を」
 リナは剣呑に言い返し、無礼な侵入者をすがめ見る。
「だから、アレだよアレ! 来てんだろ? な?」
 ファレスはじれったそうに舌打ちした。
「俺に断わりもなく夜遊びなんぞしやがってよ。しかも無断で外泊するたァ、一体どういう了見だ。おら、突っ立ってねえで、とっとと出せよ。今日こそ、ぜってえシメてやる! おう、隠すと為になんねえぞ」
「……もしかして、エレーンのこと?」
 ぱちくり、リナがまたたいた。
 扉が開いた廊下の先へと、ファレスはせかせか、胡乱に視線をめぐらせる。「ここにいんだろ? てめえに会うっつってたからな」
「つまり、帰ってないってこと?」
 リナは眉をひそめて確認し、白いシーツにくるまって部屋の壁にひっついたラナと、互いに顔を見合わせた。ラナはわずか眉をひそめて、ファレスの顔を注視する。
「こっちには、来てないけど」
 注意深くそう言って、いぶかしげに首をかしげた。
 
 
 店備え付けの新聞を、ばさり、と卓の端に置く。
「……そろそろ、潮時か」
 窓の外の街並みを、頬杖で気鬱に眺めやり、ケネルは溜息をついて席を立った。
 帳場に歩き、ズボンの隠しに手を突っ込む。会計を済ませて、長居していた店を出た。
「さてと、どうやって暇を潰すか」
 両手を隠しに突っこんで、真夏の街路樹に彩られた、人けない歩道をぶらぶら歩く。閑散とひなびた商都の景色を見渡して、ケネルは街の南に足を向けた。
 ウォード拘引の命を受け、街には特務班が散っている。もっとも、召集された時にこそ真面目に報告するものの、彼らは奮起しているようではなかった。むしろ、その反対だ。
 酒好きで陽気な豪腕ロジェと温和な顎ひげの射手レオンは、西街区の路地裏の茶店で、書き売りを退屈そうに眺めていたし、飄々とした発破師ジョエルは南街の女を冷やかしていたし、いつも生真面目な毒薬使いのダナンでさえ、領邸に配された鳥師の仲間と暇そうな顔でだべっていた。偵察、工作、近接戦と多芸多才なセレスタンに至っては、うらぶれた食堂の片隅で、靴の足を卓に乗っけて昼寝を決めこんでいた有り様だ。そうしただらけた仕事振りを、ケネルも薄々知ってはいたが、それを咎めるつもりは、彼にはなかった。
 バパ隊選り抜きの第一班、表向きは長の護衛の特務班だが、この異質な班の特色はむしろ、彼らの裏の役目にある。
 特務は言わば「内に向ける刃」だ。彼らは上層の指示により、同胞を内偵し、必要とあらば、これを排除する任を負う。組織の秩序を維持すべく不穏分子を取り除き、組織をあるべき様に浄化する。水面下で活動するそうした特務の存在は、隊員一般には伏せられているが、同胞を狩りとる特殊な敵の存在には、彼らも勘付いているらしく、さりげなく遠巻きにされている。それと同じく群れから敬遠されていた幼いウォードを、特務の彼らが何くれとなく面倒を見、事あるごとにかばってきたのも、ウォードの身柄が長に預けられていたという、それだけの理由からでもないのだろう。
 上からの命令は絶対である為、特務も指示には従うが、ウォードが立ち寄りそうな潜伏場所は、ことごとく周到に避けている。今、商都に詰めているロムの内、真面目に従事しているのは、副長と共に件の客に張り付けたザイくらいのものだろう。
 今回の捜索には、商都の情報収集を任とする鳥師も動員しているが、身体能力・腕力共に格段に劣る彼らでは、あのウォードを捕らえるどころか追いつくことさえ至難の業だ。戦闘が生業のロムでさえ、ウォードの向こうを張れるほどのつわものは、数えるくらいしか存在しない。つまりは彼ら特務のことだが、その特務にしても現にさっぱりやる気がなく、よしんばそうではなかったにせよ、ウォードといざ対峙した際、押さえ込むことができるどうか、そこからしていささか怪しい。つまり、事の成否はケネル次第ということだ。
 そして、そのケネルにしても、例えウォードを遠くの街角で見かけても、走ってまでは追いかけるつもりはなかった。それについては見なかったふりで、これまでずっとしてきたように暇つぶしの散歩を続けるだけだ。そう、運悪く鉢合わせでもしない限りは。
 はっ、とケネルは足を止めた。
 素早く壁に張り付いて、引きつり顔できょろきょろ見まわす。そして、脱兎のごとくに全力疾走。
 日よけの大きな肩掛けを頭からすっぽり被った老婆が、壁際で商品を並べている。路地に敷かれた物売りのゴザに、ケネルはとっさに飛びこんだ。
「悪い! かくまってくれ!」
「──あいよ」
 ひょい、と片手で持ち上げられた大量に積まれた布地の山に、ケネルは頭から滑りこむ。
 遠くの街角で見かけた男は、街角で視線をめぐらせて、通りを渡ってやってくる。周囲をおもむろに見渡して、老婆と目がかちあった途端、ぎくり、と向かい壁まで飛びのいた。
 何故だかそそくさ、早足であわてて通過する。老婆がにっこり手招きしたが、決して目を合わせようとしない。
 気配が遠のいてしまうのを、布地の下で、ケネルは待った。澄ました耳が街の雑踏を拾ってくる。遠くで鳴った甲高い物音、通りを通過する馬車の音、ふりしきるセミしぐれ──ぽんぽん頭を叩かれて、ふと、ケネルは目をあげた。老婆がにっこり笑っている。
「茶でも飲むかね、色男」
「今死ぬほど飲んできた」
 積み重なった布地の山から、ケネルは四つんばいで這いずり出、たぷたぷの腹を片手でさする。老婆はにこにこ眺めている。
「また来てくれるとは嬉しいねえ」
「……う、うん。まあ」
 ケネルはたじろぎ、引きつり笑い。なにせ、初日にとっ捕まって以来のだべり仲間マブダチである。
 ゴザに座った膝の横から、老婆は手慰みのつくろい物をとりあげた。「で、今のは誰だい? 色男」
「俺の親父」
 至極大真面目にうなずくケネル。老婆はからから、笑いながら手を振った。「あんた、冗談がうまいねえ」
「ま、まあな」
「本当はあんたの兄ちゃんだろ? 顔立ちはそうでもないけどさ、あんたら、どことなく似てるもの」
 ケネルは苦笑いで首を振った。
「……赤の他人だよ」
 頭の後ろで手を組んで、あぐらで壁に寄りかかる。通りの先の街角を、荷馬車がガラガラ往きすぎた。ぼんやり投げた視界の中を、まばらに人が行きすぎる。
「……おばちゃん、俺さ」
 しばらくそれを無言で眺め、ケネルはぽつりと呟いた。
「俺も、物売りやろうかな」
 片手間仕事のつくろい物をしながら、老婆は微笑って横顔で尋ねた。
「どうしたい。いい若いもんが弱音なんか吐いてさ」
 ケネルは気だるげに身じろいで、膝に置いた腕の上に、長い溜息でうつ伏せる。
「……嫌になっちまってさ、何もかも。なんで子供は、自分の親を選べないんだろうな」
「そんなこと言ったら、お父さんが可哀相だろう?」
 老婆は笑った。
「それじゃあ立つ瀬がないじゃないか。一生懸命育ててきたのに、息子にそんなこと言われちまっちゃ」
「普通の親はそうだろうが、あいつに限って、それはない」
「どんな親でも、みんな同じさ」
 つくろい物を続けつつ、老婆はさばさば、取り合わない。
「"普通の親"なんか、どこにもいないさ。あんたら若い者だって、うまくやれる奴もいりゃ、不器用な奴もいるだろう? 親もやっぱりまちまちで、愛情表現が下手くそで、不器用な奴もいるってだけさ」
 ケネルは苦笑いで首を振った。「──いや、あいつは本当に違うんだ。例外ってのも、やっぱりあるよ」
「だったら、いっそ」
 ぽん、と頭に手の平がのった。
 皺だらけの手でつかまれて、ふと、ケネルは顔をあげる。にっか、と老婆が白い歯をむき出して笑った。
「おばちゃんの子になるかい? あんた一人くらいなら、このあたしが養ってやるよ?」
 太い腕を横から伸ばして、ぐりぐり頭を撫でている。
「どうせ、あたしは一人身だからね。こっちはいつでも歓迎さ。ま、老いぼれて立てなくなったら、そん時ゃ、あんたに養ってもらうけど」
 ケネルは呆気にとられて老婆を見やり、苦笑わらって膝に手を置いた。よっこらせ、と立ちあがる。
「邪魔してすまなかった。助かったよ」
「なんの」
 老婆もにっこり、片手を振る。
「嫌になったら、いつでもおいで。あんたの日よけも用意しといてやるからさ」
「……ご親切にどうも」
 ひきつり笑いで、ケネルは通りに踵を返す。やれやれと首を振り、あの男が行ったのとは逆方向に足を向けた。
 ウォードの処分を指示したあの後、あの男──デジデリオは満面の笑みで、ケネルの部屋にやってきた。そして、突如抱きつかれ、頬ずりの抱擁を散々受けた。どうやら現金なあの男は、母親の話をしている内に、すっかり彼女が恋しくなってしまったらしいのだ。以来、幼い子供であるがごとくに、後をくっ付いて回っている。そして、ついには、熟睡していたその夜更け、枕を抱いてやってきた。親に添い寝をせがむ幼児のように。無論ケネルは、すぐさま逃げ出し、その足で宿屋に飛びこんだ。
 人けない歩道を歩きつつ、ケネルはつらつら考える。さて、これから、どうするか。異民街に戻ったりすれば、即刻捕まること請け合いだ。だが、そうかといって、真夏の炎天下の街中を、延々当て所なく歩き続けるというのも、これはこれでけっこう難儀だ。
 やむなくケネルは、目についた街角の喫茶店に入った。
 店主に飲み物を注文しながら、窓際の卓を特に選んで、椅子を引く。無論「敵」の接近をいち早く察知し、逃走することができるようにだ。椅子の背もたれに背を投げて、顔を隠す為の新聞を広げた。
「──あのくそ親父! 覚えておけよ」
 口を尖らせて舌打ちで毒づき、ケネルはぶつぶつ不平を零す。
 うっかり口をきけば、すぐこれだ。何故だか触りたがるガキどもも、顔を見た途端に突進してくるが、あの男も基本的に腕白坊主と同じ部類だ。これまでも顔を合わせるたびに、ちらちらちらちら視線を送り、こちらの顔色を窺っていたから、あえて無視していたのだが、蓋を開けてみれば、案の定だ。事によっては、しばらく宿をとった方がいいかもしれない。あそこに戻れば、いつ何時、甘ったれ親父に襲われかねない──
「見いいっけ!」
 ぎくり、とケネルは飛びあがった。
 わたわた舞いあげた新聞を、卓にばたばた押さえつけ、引きつり顔で振りかえる。
「何をしているんです? こんな所で」
 線の細い見知った顔が、後ろ手にして覗きこんでいた。さらりとした黒い髪、きりりと整った白い顔、じっと見つめる全てを見透かすような黒い瞳。
 ケネルはとっさに目をそらし、素知らぬ顔で小首をかしげた。「……ちょっと貧血、かな?」
「ほう、どれ」
 ずい、とクロウがすぐさま身を乗り出した。有無を言わさず、ケネルの額に手を当てる。
 じっとり視線が絡み合い、しばし無言で見つめ合う両者。じろり、とクロウが腕を組んだ。「本当は、何をしてるんです?」
「べ、別に……」
 ケネルはそそくさ目をそらす。じぃ、とクロウが睨めつけた。
「本当は、なに企んでるんです?」
「そんなに不審か? 俺が休憩していると」
 あんまりな言われように、むっ、とケネルも振りかえる。いかにも、やれやれという顔で、クロウが向かいの椅子を引いた。
「まったく、あなたという人は。今まで、どこにいたんですか。ずっと捜していたんですよ」 
 少し不機嫌になりながら、ケネルはげんなり嘆息した。「──なんだ。急用なのか」
「昨夜、特務の頭目が担ぎこまれました」
「バパが?」
「ええ、しかも意識不明の重体で」
 思わぬ話に、ケネルは怪訝に見返した。
「どういうことだ」
 向かいの水に手を伸ばし、クロウは勝手に喉を潤す。
「なんでも、ラトキエの焼却炉に突っこまれていたとかで」
「──焼却炉?」
 ケネルは絶句し、面食らう。「……一体なんだって、そんな場所に」
「さあ。本人の意識が戻らないので、それについては、今はなんとも。本部に担ぎこんだ調達屋も詳しい経緯は知らないようで、事の詳細は不明です。それより、もう一つ報告が」
 クロウは卓で手を組んで、黒い瞳を振り向けた。
「あの客、消えたようですよ?」
 
 
 
 
 

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