CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 8話10
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 初夏の陽うららかな青芝の庭を、白いひげの白衣の医師が、厳しい顔で突っ切っていく。
 黒鞄をぶら下げた後ろ姿が向かう先は、梢の向こうの赤い屋根、あの別棟にアディーがいる。主の友人から浴びるように酒を飲まされ、意識不明で運びこまれた。
 ダドリーたちの"悪ふざけ"が過ぎ、骨折しているはずなのに、別棟には鍵がかけられ、誰も中に入れない。
 事件当夜、彼女を診察した医師は、難しい顔で、まずい、と言った。健康体というならまだしも、彼女は元より死病に蝕まれた病人なのだ。
 この騒ぎの原因は、彼女の主の不行状だった。その塁が無力な彼女の身に及んだ。そして、主を懲らしめる為の度を越した"悪ふざけ"が彼女の容態悪化を引き起こし、街から運び込まれた時には、既に危篤に陥っていた。
 ひっきりなしに扉を叩く音がする。
 白ひげの医師が、焦れて声をかけている。
 別棟の扉はひっそり閉ざされ、今日も誰も出てこない。
 
 
 ぼんやり現れた視界の中に、床の陽だまりが映りこんだ。
 四角く切り取られた昼の日ざしが、木板の床を温めている。あの別棟にいるらしかった。あの朝アディーが亡くなった、あの──。
 エレーンはうつろに顔をあげ、ぼんやり視線をめぐらせた。隅の方に置かれた椅子に、黒い上着がかかっていた。そして、同じく黒い帽子、警備員の制服だ。あの窓辺の寝台には、分厚いカーテンが引かれていて、その裾から漏れ入る光が、寝台の隅でたゆたっている。その手前、アディーが使っていた寝台で、誰かが横になっていた。手足を伸ばし、まっすぐに。無論、あの彼女ではない。怪訝に思い、目を凝らす。
 思わずエレーンは眉をひそめた。
「……蒼い、髪?」
 ぱち、と蒼髪が目を開けた。
 天井に向けた顔だけを、くるり、とだしぬけに振り向ける。その白い顔には、仮面をかぶったように表情がない。何の感情も読み取れない。
 靴を履いたままの細長い両足を、ひょいと直角に持ちあげた。それを振りおろした反動で、ばね仕掛けのように起きあがる。あやつり人形を思わせる、どこかいびつでぎこちない動きだ。革靴の足を床につけ、蒼髪はおもむろに立ちあがった。
 それは氷のように整った端整な顔立ちの男だった。長い前髪が顔に垂れ、他は短く刈りあげている。青白い頬、鋭い瞳、細身に張りついた黒装束──ぴたりと細身に張りついた黒い丸首の長袖シャツと、細長い足に張りついた黒いズボンと黒い革靴。骨格に筋肉がのっただけの細くて長い男の手足、だが、贅肉のないその体は、硬い鋼を思わせる。
 どこかで見た男だと思った。初めて見るこの男を、不思議なことに知っている、、、、、。だが、どこで見たのか思い出せない。一体どこの誰なのか、これほどはっきり知っているのに。
 硬い靴音が床に響いた。
 こきこき首を回しつつ、蒼髪がおもむろに歩いてくる。それを下から見上げていた。床に倒れているらしい、とエレーンはようやく気がついて、視線をのろのろめぐらせる。
「……アルベール、様は?」
 起きあがるべく床に手をつき、いや、手をつこうとしてつんのめり、エレーンはぎょっと顔をあげた。手が何故か動かない。いや、体が全く動かない。
 我が身に起きていることの答えを求めて、感覚がせわしなく瞬いた。縄で手足を縛られている。両手を後ろに回した体勢で、床の上に転がされている。何故、こんなことになっているのだ?
 すっ、と視野に黒い靴が滑りこむ。蒼髪が履いていた革靴だ。
「どういうこと!?」
 エレーンは顔を振りあげた。目の前まで来た蒼髪は、小首を傾げて見おろしている。
「ちょっと! なにこれ! 早くとってよ!」
 強烈な衝撃に、エレーンは鋭く息をつめた。
 激しく咳きこみ、身をかがめる。いきなり腹を蹴られたのだ。いや、蒼髪の暴行はそれだけに留まらなかった。続け様に二度、三度──砂袋でも蹴るように。情け容赦なく無造作に。気を失いそうになった頃、冷淡な声が降ってきた。
「静かにしろよ」
 浅い呼吸であえぎつつ、エレーンはうつろに目をあげる。
 わずかな時間で反発を根こそぎ奪ってしまうと、蒼髪はズボンの隠しから布きれを取り出し、たるそうに肩を揺らして、目の前にしゃがみこんだ。
 だしぬけに顎をつかまれ、口に布きれを押しこまれる。息苦しさにもがく間に、蒼髪は床からスカーフのような布をとり、鼻から下をそれで覆って、頭の後ろで縛りあげた。しゃがんだ時と同様に、たるそうな仕草で立ちあがる。
「騒がれると都合が悪いんだよ。わかるだろ」
 猿ぐつわで転がされ、エレーンは愕然と固唾を飲んだ。相手がか弱い女というのに、躊躇も慈悲も何もない。冷ややかに見おろす男の瞳が、どこか青みを帯びていた。蒼髪のかかる耳の上端が、ほんのわずか尖っている。「異なる種」──そんな言葉が脳裏をよぎった。姿は紛れもなく人間のそれだが、何かが決定的に違っている。「遊民」と呼ばれる人たちにも独特の雰囲気があるけれど、そんなものは誤差の内、そんな些細な違いなど、蒼髪のそれとは比べ物にならない。この蒼髪は全く違う。人と同じように呼吸をし、同じ外見をしていても、その成り立ち自体が根本的に違うのだ。ならば、これは
「人」では、ない──?
 蒼髪が冷淡に見おろしていた。作り物めいた無表情で。だが、不思議と感情が読みとれる。ひしひしとそこから伝わってくるもの、それは
 憎悪。
「おい、女。いい気になるなよ」
 見おろす薄い唇が、笑みの形をとってゆがむ。
「お前に仕えるなんざまっぴらだ。あいつが相手じゃ歯が立たないが、お前みたいな小娘ひとり、片手だって事足りる。そうとも、その首へし折りゃ、それで済む。俺の"真名"を呼ぶ前に」
 
 飾り棚に時計があったが、その針は止まっていたから、カーテンを締め切った薄暗い部屋で昼と夜とを見分けるよすがは、天窓からさしこむ日ざしの具合だけだった。床の陽だまりが明るければ昼、月明かりなら夜。夕方と朝は判別しにくい。
 今は、夜のようだった。天窓からの月明かりが、四角く床板を照らしている。薄暗い室内に、灯りはない。あの窓辺の寝台も、ひっそり暗がりに沈んでいる。誰も、いない。
 知らず息を殺していたエレーンは、ほっ、とようやく息をついた。あの蒼髪は出かけたらしい。日がな寝台で寝転がっていたが。
 張りつめた緊張がゆるんだ途端、鈍痛に襲われ、途端にうめいた。短く浅く息をつき、ひどい痛みに顔をゆがめる。蹴られた腹がズキズキ痛んだ。いや、痛みを訴えているのは腹だけではない。
 全身が悲鳴をあげていた。硬い床に長らく転がされているからだ。何故、こんな目に遭っているのか、どんなに考えてもわからない。目が覚めたらここにいて、手足を縛られ、硬い床に転がされていた。思い出せる直近の記憶は、子息アルベールとの面会のさなかで、それもふつりと途切れている。ならば、これは、あの子息の指示なのか?──まさか。
 そんなことがあるはずはない。彼の人となりは知っている。何か手違いが起きているのだ。とんでもない間違いが。
 あの蒼髪は、はっきりと自分を憎んでいる。ならば、この監禁は、あの蒼髪の一存か? だが、ここはラトキエ邸の別棟だ。立入禁止ではあるけれど、邸主たるアルベールが知らないなどということがありうるだろうか──脳裏を目まぐるしく模索が回る。ともあれ、今が脱出のチャンスには違いない。誰もいないこの間に、なんとかここから外へ出ないと。
 縛られた両手を腰の上で擦り合わせる。手が自由にならなければ、足の拘束を解くことはできない。だが、手首にある結び目は固く、指がそこまで届かない。力任せに引き抜こうとしても、手首に縄が食い込むばかりだ。
 力んでもちあげたその頬を、エレーンは溜息で床におろした。やはり、拘束は解けそうもない。これまでも蒼髪の目を盗み、何度も身をよじって試したが、縛めは皮膚に食い込むほど強く、まるでびくともしなかった。助けを呼ぼうにも、猿ぐつわをかまされていて、出てくる声はうめき声ぐらいだ。それでは誰にも届くまい。
 そうか、とそこに気がついた。蒼髪は騒がれることを嫌っていた。つまり、この監禁は、外を巡回している警備員たちは預かり知らぬことなのだ。ならば、自力での脱出は叶わなくても、知らせることさえできたなら、きっと彼らが助けてくれる!
 床に頬をつけ、横臥したまま、縄で縛られたブーツの足を持ちあげた。靴底を床に打ちつける。不審な物音を聞きつければ、中を調べにくるだろう。それが彼らの仕事なのだ。そう、たとえ立入禁止でも。
 エレーンは必死で床を叩いた。だが、待てど暮らせど、誰もやってくる気配がない。今は巡回する時間ではないのか、道から外れた別棟からでは音がそもそも届かないのか──それに気づいて暗澹たる気分に襲われた。だが、今とれる方法はこれしかない。
 遮光された薄暗い別棟に、どたん、どたん、と靴底の音が響きわたった。足を床からもちあげる都度、蹴られた腹に力が入り、息が詰まる。歯を食いしばるその額に、うっすら汗が浮きあがる。だが、少しでも大きな音を出し、一刻も早く知らせねば。何が起きているのかを。
 がちゃり、と鍵の回る音がした。
 続いてガタガタ、ガラスのテラス戸がひらく音。夜風がさわりと頬をなで、外から闇が踏みこんだ。
「なにやってんだよ」
 ぎくり、とエレーンは硬直した。無我夢中だったから、うっかりそれを忘れていた。別棟の付近にいる可能性が高いのは、音にいち早く気づくのは、他ならぬ蒼髪だということを。
 ガシャン、とテラス戸が閉じる音。カチャリ、と鍵をかける音。ばさりと上着を椅子の背に投げる音。硬い靴音を床に響かせ、殺気がぶらぶら近づいてくる。
 視界に、革靴が入りこんだ。何度も蹴られた蒼髪の。恐る恐るエレーンは見あげる。
「元気があり余ってるようじゃねーかよ」
 薄い唇がゆがんだ途端、蒼髪が片足を振りあげた。
 エレーンは鋭く息をつめる。したたかに蹴り上げられて、無防備な腹に激痛が走った。腹となく肩となく腰となく、すさまじい勢いで打ち据えられる。蹴りあげ、踏みつけ、転がされた。打撃のその都度、エレーンはあえぎ、激痛にうめく。手加減などは一切ない。物音を気にする蒼髪は、体を壁に叩きつけこそしないが、その暴行には容赦がない。
 感覚が麻痺し、頭が朦朧としてきた頃、横臥した顔を踏みつけられた。涙にかすむ視界の中に、苛立った顔が一瞬よぎる。蒼髪が足を振りあげた。エレーンは硬く目を瞑る。今度は顔を蹴り飛ばす気だ。
 それがいかばかりの苦痛であるか想像している暇もなく、顔に風圧が押し寄せた。首をすくめ、体を硬くし、エレーンはなすすべもなく身構える。
 ややあって、不審に思い、恐る恐る目を開けた。衝撃が何故か、やってこない。
 すぐ目の前に、黒い革の靴先があった。大きく視野に写りこんだそれは、鼻の先で止まっている。
「──やべ」と焦ったような呟きが、横臥した頭上から漏れ聞こえた。蒼髪は足を引っ込めて、苦々しげに舌打ちする。何事か思い出したような横顔。
(た、助かった……)
 エレーンは浅い息であえぎつつ、とりあえず、ほっと息をつく。
 全身から汗が噴き出た。固い靴で蹴られていたら、今頃どうなっていたことか。歯が折れ、鼻が折れ、失明していたかもしれない。
 今更ながら身震いした。だが、一体急にどうしたというのか。女性の顔を蹴るのはまずいと寸前で心を入れ替えたのか。いや、情け容赦ない蒼髪が、そんなことを思うだろうか。そうだ、何かそぐわない。なんとなく腑に落ちない。
 蒼髪は興醒めしたように舌打ちし、窓辺の寝台に踵を返す。面倒そうに横になり、土足のままで足を組んだ。
 
 意識がとぎれとぎれで、頭の中が朦朧としていた。こうして拘束されてから一体何日経っているのか、それさえ、よく分からない。
 痛みのことしか、考えることができなかった。全身が痛みでうずいている。微熱でもあるのか顔が火照り、体中が脈打っている。
 どこもかしこも、ずきずき痛んだ。いつものように痛みが引かない。痛みのことなど、これまでは不思議と気にならなかった。賊に襲われ、殴られても、一夜明ければ回復し、そんなことがあったことさえ、午後にはすっかり忘れていた。なのに今は、こんなにも弱い。痛めつけられた体がだるくて、石のように重くて動かない。何故、急にこんなことに──
 いや、それは違う。今の方が正常なのだ。腕が一ヶ所痛いだけで、足の爪がはがれただけで、足の裏に棘がひとつ刺さっただけで、人はたちまち動けなくなる。自分だって、そうだったはずだ。少し前までは、そうだった。ならば、これまでの方が普通ではなかった──?
 あの冷酷な蒼髪は、昼はいつでも、窓辺の寝台で眠っていた。夜になると起き出して、警備員の上着をはおり、裏庭に続くテラスを開けて、かったるそうに外へ出て行く。しばらく戻ってこないので、食事でもとっているのだろう。今は夜で、蒼髪はいない。
 うつろに静まる視界の先に、棚のそれが目に入った。水差しとグラス。蒼髪が喉を潤しているものだ。瞼の裏に、グラスにたっぷり注がれた冷たい水が思い浮かぶ。
(喉が、渇いた……)
 目を細め、エレーンは唾を飲みこんだ。閉じ込められてからここ数日、食事はおろか、わずか一滴の水さえ与えられていなかった。このままでは体を動かすことはおろか、意識を保つこともままならない。
 無性に喉が渇いていた。喉が張りついて苦しいくらいに。水が飲みたい。一口でもいいから。その切実な欲求は、あのひどい暴行の後から、耐えがたいほどになっている。
 ぼやけた視界を振りあげて、エレーンは猿ぐつわを食いしばる。
(……水)
 水!
 もう、何も考えられなかった。
 体を縮め、体を伸ばし、しゃくとり虫のように床を這う。水差しとグラスが載った棚を目指して、ただひたすらに、しゃにむに進む。
 それからどれだけ経ったのか、まだ、床でのたうっていた。苦痛を訴える重苦しい体で、その上手足を縛られていては、体をよじるのも一苦労で、いくらも先に進まないのだ。だが、切迫した頭が膨張し、あの水差しとグラスしか、もう目に入らない。
「今度は何をしようってんだ?」
 ぎくり、とエレーンは凍りついた。
 とっさに顔を振りあげれば、あの蒼髪が立っていた。いつ、戻ってきたのだろう。さっきまではいなかったはずだ。いや、テラスを出る後ろ姿を見送って、どれだけ時間が経っている?
 蒼髪はかったるそうに歩いてくる。不機嫌そうに眉をひそめて。エレーンは目を見開いて、あわてて首を横に振った。違う。何も企んでいない。ただ「水」が欲しいだけなのだ。
 足が目前に迫った途端、激しく床に転がった。
 顔をしかめて、エレーンはうめく。口に鉄の味が広がった。こみあげた血で激しくむせる。うつ伏せた肩に、腰に、声さえ立てられない痛打があびせられる。腹を立てたらしい蒼髪が、伏臥した体の下に靴の先をさしこんだ。体を仰向けにしようとしている──とっさにエレーンは、膝を折って丸くなった。蒼髪が背中を腹立ちまぎれに蹴ってくる。
 そのこと、、、、に、エレーンは気づいていた。
 どんなにひどく蹴られても、背中であれば、、、、、、感じない。背中には刀傷があって、まだ癒えてもいないのに──いや、それで神経が麻痺してしまって何も感じとれなくなっているのかもしれない。振動は伝わってくるものの、痛いとは思わない。ただ激しく揺さぶられ、突き動かされている、そんな感じだ。
 だが、怪我した背中を蹴られれば、服の中で何が起こるか──生傷を踏みにじられるその様を想像すると、ぞっと背筋が凍りついた。だが、背に腹は代えられない。
 息を荒げた蒼髪が、上になっていた右肩を靴の裏で踏みつけた。背中を蹴るのに飽きたのか、飛びあがって体重をかける。
 肩で嫌な音が、した。
 エレーンは目を見開いて絶叫した。
 声にならない絶叫のうめきが、こらえきれずに口から漏れた。冷や汗が吹き出、右の上腕がずきずき痛む。悶絶しつつもそれでも必死で、伸びかけた体をのろのろ丸める。硬い床に朦朧としながら頬をつけ、浅い呼吸で力なくあえいだ。もう、動けない。
 ……ここで、死ぬの?
 アディーが逝ったこの場所で。
 閉じた瞼を震わせて、エレーンはぼんやり目を開く。蒼髪は、はあはあ肩で息をつき、業を煮やして睨みつけていた。
「そうか。そんなに死にたいか」
 うつ伏せた背中を力任せに踏みつける。
「だったら、すっぱり殺してやらあ! 爪を全部はいでやる。指を切り落として、首を鉈ではねてやる。できる限り、むごたらしく殺してやる」
 激昂して気色ばみ、ぐりぐり憎々しげに踏みにじる。
「それもこれも、お前が悪い。他人の貌を、、、、、覗き見たりするからだ、、、、、、、、、、
 ビリ──と背中にしびれが走った。
 真上から矢で射抜かれたような、体を稲妻で貫かれたような、息も止まるようなすさまじい衝撃。蒼髪の靴裏をも貫いてきたような──?
 蒼髪が弾かれたように飛びのいた。
 あわてて振り払うように首を振り、顔を振りあげ、狼狽もあらわに天窓を仰ぐ。「──な、なんだ今のは。しびれたぞ?」
 しびれをとるべく両手の指をばたばた振って、我が身を薄気味悪そうに点検している。
 朦朧と見ていたエレーンの頬を、さわり、と冷たい風が撫でた。
 窓におりたカーテンの、裾がわずか揺らいでいる。だが、この別棟は閉て切っている。どこから風が入ってくるのか──
 夜色の天窓から、ひゅん、と大気を切り裂いて、透明な塊が飛びこんだ。
 ぐん、と空気が重くなる。空気がいびつにねじれるような、見えない重圧がのしかかる。
 宵闇を写す天窓が、ガタガタうるさく鳴りだした。屋根にとりついた何者かが激しく揺すっているように。棚に置かれた水差しが、カタカタかすかに震えている。飾り棚の時計の針が、ぐるぐるでたらめに回りだす。
「な、何をしやがった!」
 蒼髪は呆然と立ち尽くし、きょろきょろ室内を見まわしている。まごつく視線が、床に転がるエレーンを捉えた。足を鋭く振りあげる。
「──この化け物がっ!」
 パシン──と小屋が鋭く鳴った。
 パシン、パシン──とそこかしこで火花が散る。大気に亀裂が生じたような、空気が爆ぜるような連続音。鞭がしなる音にも似ている。乾いた焚き木が弾ける音にも。
 はっと何かに思い当たったように、蒼髪が息を飲んで振り向いた。
「……まさか、お前が月読、か?」
 瞳に畏れるような色を浮かべて、愕然とわなないている。
 エレーンは当惑した。のろのろと首を傾げる。まったく訳がわからない。蒼髪の顔から血の気が引いた。
「だったら尚更、生かしておけねえ。あいつは駄目だと言っていたが、もう、そんなことはどうだっていい。そうだ、構うものか。みんな、お前のせいなんだ!」
 エレーンの首を、荒々しく引っつかむ。力任せに体を引きあげ、両手で首を締めあげた。
 喉を締められる苦しさに、エレーンは首を振って顔をゆがめた。抗おうにも手立てがない。手の自由が奪われていて、逃れたくても、なすすべがない。
 部屋の四方をとり囲む壁が、窓が、扉が、天井が、爆ぜるように鳴っていた。
 どくん、どくん、と大きな何かが息づいている。大気が鼓動の波にゆらいでいる。大きな津波に呑まれるように荒いうねりが迫ってくる。そこにあるのは大いなる
 怒り。
 ピシ──と壁が鋭く鳴った。
 月光が壁を走り、光が壁で乱反射する。雲が走り、月は落下し、風が狙うように床を這う。
 漆黒の闇が訪れた。
 どこからか、霧が吹きこんでくる。それは壁伝いに分厚くよどみ、中心の二人を取り巻いて何かを狙うように流れている。
 それは純白の腹となり、壁伝いにとぐろを巻いた。輝く鱗がひるがえり、巨大な蛇が鎌首をもたげる。カッと見開いた真紅の瞳。それがじっと凝視しているのは──
 蒼髪がひるんで手を放した。
 唇をわななかせて走り出し、椅子にかけた上着と帽子を、我も忘れて引っつかむ。カーテンのおりたテラスの扉にとりついた。ガチャガチャ鍵を焦れたように回している。
 分厚いカーテンがひるがえり、新鮮な夜風が吹きこんだ。ガチャガチャ鍵をかける音。裏庭へ出て行ったらしい。
 床で激しく咳き込みながら、エレーンはぼんやり見送った。何をあんなに怯えていたのか。そうか、"彼女"の方が上位だからか。そう、あの彼女と会ったことがあった。蒼髪が口走ったあの名前──何か、とても懐かしい……。
 息苦しさが収まると、じわりじわり、と腕の痛みが戻ってきた。意識をそちらに向けた途端、それは怒濤のように押し寄せて、あらゆる感覚を押し流し、それらをたちまち凌駕する。今にも手放しそうな虚ろな意識で、ひっそりと静まった別棟を眺めた。
 光が、明滅している。
 あちらでも、こちらでも、薄闇の中を舞うように。
 ほたるのような、うすらぼんやりとした、もえぎの光。
『……大丈夫?』
 声が、した。
 遠慮がちな、気遣わしげな呼びかけ。甲高い、女の「声」
『しっかりして』
 さわさわさわさわ──腕をかすかに撫でていく感触──風?
 衰弱した意識が混濁する。ざわざわ、ざわざわ、何かが異様にざわめいている。夜風にゆれる梢だろうか。いや、その気配はもっと確かで、ずっと近くで鳴っていた。そう、感じるのは音だけではない。実質を伴った確かな体感──ようやく、それに気がついた。ずっと、それが微動していた。気配の波長に共鳴し、服の中で震えている。お守りにしているあの石が。
『お願い』
『しっかりして』
『しっかりして』
 ぱちん、ぱちん、と「声」が弾ける。部屋が、、、、語りかけてくる。
『エレーンさん!』
 泣き出しそうな、あの子の声で。
 四方の壁が、満ちた大気が、全身に囁きかけていた。降りしきる霧雨のように。
 これは現実逃避が聞かせる幻聴? ここがあの子が逝った場所だから? それで勝手に記憶にすがって、あの子の声を捏造している? 哀れな自分を慰める為に。それともこれはアディーの声? あのアディーの
 ──残留思念、、、、
 気配を感じた。
 肉体を持たないそれらの光が、顔を覗き込むようにして取り巻いていた。小さな声がいたる所でひしめいている。繁った梢が風にあおられでもしたように、それはいつまでもざわめき続け、部屋が「声」で充満する。
 同じ声の大勢が、一斉に喋りかけていた。それを全身で感じているのに、蔓延して飛び回るそれらを、頭がもう捉えきれない。
『大丈夫?』『大丈夫?』『エレーンさん』『ひどい』『しっかりして』『ひどい』『ひどい』『大丈夫?』『大丈夫?』『許さない』──
「声」が混沌と渦を巻く。
 部屋に満ちた数多の声を、気遣ってくれる切実な声を、自分に呼びかける一つ一つを、もう意識が拾いきれない。
あの人、、、を、呼ぶわ』
 膨張したざわめきを、決然としたささやきが貫いた。
 
 
 
 
 

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