■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 8話11
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全ての輪郭があいまいな、ぼんやりと白い空間だった。
足元にどんな床もなく、頭上を見ても、天井もない。この場をどこかに喩えるとすれば、一面に広がる雲海だろうか。いや、無音の深い水底か──
白い服に身を包んだアディーが、はにかんだ笑みで立っていた。後ろ手にして、困ったように。
薄い茶色の柔らかな髪が、彼女の華奢な体を覆い、黄金の輝きを放っている。つま先までを覆い隠した、ゆったりとした白い服は、ふわふわとしていて柔らかそうだ。二年前に逝ったあの子が、こうして目の前にいるのなら、ならば、自分は死んだのか……
悲嘆はなかった。
動揺も。気分は安らぎ、凪いでいる。不安も恐怖も弾け飛んだ、さばさばとした開放感。手放しで浸れる幸福感。これでやっと肩の荷がおりた。もう何も苦しまなくていい。
知らず知らず頬がほころぶ。彼女が迎えに来てくれた。
手を伸べ、彼女に足を踏み出す。だが、距離が縮まない。確かに歩いたはずなのに、一歩も前に進んでいない。
困惑して、しゃにむに歩き、ようやく、そうか、と気がついた。きっと彼女には触れられないのだ。それができるくらいなら、とうに彼女から抱きついてきている。
静かに微笑んで佇むアディーが、体の後ろに回していた手を、そっとこちらにさし出した。
手の平の上に、何かある。
細長くて硬そうな、握って収まるほどの小さな物。離れたところに立ったアディーは、ぱくぱく口を開閉している。
──ケイタイデンワ
その口の動きから、知らない単語が読みとれた。
何かの道具であるらしいが、あんな物は見たこともない。いや、似たような物を、最近どこかで見たはずだ。あれと似た小さな道具を。
そう、あれは、保護されたレーヌのあの小屋だ。アルノーの店の、棚の片隅。そこに無造作に置いてあった。何に使うのかと尋ねたが、「あなたに言ってもわからない」とアルノーは困ったように微笑うばかりで、やがて諦めたように首を振った。
『ここでは、使えないんですよ。こっちには基地局もありませんし』
意味不明だった言葉の真意が、すっと脳裏に舞い降りた。そう、当然だ。ここで使えるわけがない。それは「ここ」では機能しない。位相が狂っているからだ。
アディーが人差し指をまっすぐ伸ばして、すっと指を突きつけた。「それも同じ」と言っている。
怪訝に思い、彼女に指された胸の辺りに視線をおろした。そこに何があるというのか。自分が身につけている「ここ」では機能しない道具……
アディーはどこか悲しげに首を横に振っている。だから駄目なのだ、というように。だから、助けてあげられない──。
いつか見た、あの光景が脳裏をよぎった。晴れた真昼の大通り。市場を行き交う大勢の人々。何故かぶつからない乳母車と馬車。交差する人々。交差する人々の波──
そうか、とようやく気がついた。
そう、使えるわけがない。だって、"条件"が整っていない。
「……蛇は、嫌いなのに」
ふと思い出して、そうごちた。
悪かったわ、とアディーは微笑った。
天窓から射す月明かりが、白々と床を照らしていた。
どこかで、ふくろうが鳴いている──ふっ、とエレーンは目が覚めた。体中が汗ばんで、意識が頼りなく、ふわふわしている。
灯りのない室内が、闇に呑まれて静まっていた。重く闇に呑まれた暗がり。頬に当たる硬い床。急速に自覚がせりあがる。まだ、自分は、ここにいる──
軽い失望を味わいながら、エレーンは暗がりの床で溜息をついた。アディーの夢を見ていたらしい。
彼女はあの頃と変わらなかった。子供のように細い体も、人懐こいあの笑みも、柔らかそうな長い髪も。けれど、触れることはできなかった。すぐ目の前にいたけれど、彼女は遠く隔たっていたから。
柔らかな光の満ちた、ひっそりと広大な場所だった。彼女は無音の虚空の中で、「何か」を自分に伝えようとしていた。懸命に、とても大事なことを。
ふと、怯えが目を覚ます。あの蒼髪はどうしたろう。知らない間に気絶したらしいが、あれからどれくらい眠っていたのか。
そう、蒼髪が別棟を出て行く前に、何か奇妙なことがあった気がする。あれも今の夢の一部だろうか──いや、あれは現実だ。だって、蒼髪に踏まれた腕が痛い。そうだ、ほんの一時でも、なぜ忘れていられたのか不思議なほどに。
一度気づいたら、たまらなかった。たちまちズキズキ痛み出し、全身が燃えるように熱くなる。冷や汗が一気に吹き出て、呼吸さえも、ままならない。
歯を食いしばり、エレーンは木床をのたうちまわった。右の腕が動かなかった。指が全く動かない。たぶん骨が折れている。
涙でにじんだ視界がぼやける。痛みに支配されかかった意識が、だしぬけに「それ」を捉えた。
ぎくり、と鋭く肩を震わせ、エレーンは背筋を凍らせる。何か、いる。
誰かがそばに立っている。
暗がりに沈んだ靴先に気づいて、とっさに視線を振りあげた。
月明かりを背に浴びて、人影がそこに立っていた。逆光に佇む体格は、一瞥して男のものだ。小首をかしげた、黒い上下の痩せた人影。黒い上着、黒いズボン、そして、あの黒い革靴──息を呑んで目を見開き、たまらずエレーンは視線をそらす。総毛立って身構えた。
──蒼髪が、戻ってきた。
ついに、自分を殺す為に。
うめきにしかならない悲鳴をあげ、無我夢中で後ずさる。
床に落とされた尺取り虫のように、死に物狂いでエレーンはもがいた。逆光に佇む人影は、必死で逃げる後を追い、ぶらぶら足を運んでいる。
背中が壁に突き当たった。震えあがった全身が、覆い被さった絶望に呑まれる。エレーンは固く目を閉じた。
(──もう、だめ!)
恐怖に全身が戦慄した。
影は覗き込むようにしてしゃがみこみ、そのまま動きを止めている。首に、冷たい手がかかった。
(首を締める気!?)
くぐもった呻きをあげて、エレーンは必死に抵抗した。顔をしかめて、かぶりを振る。だが、どれだけ首を振ろうとも、強いその手は放れない。
激痛が、腕に走った。
エレーンは奥歯を食いしばる。折れた腕をつかまれている?
引きつったように硬直し、嫌な冷や汗が全身に噴き出た。折れた腕が燃えるように熱い。力なく身をよじり、浅い呼吸でエレーンはあえいだ。痛みが意思を凌駕して、意識が徐々に遠のいていく。
『──ち! 案の定だ、あの野郎』
闇に落ちるその刹那、奇妙な声を聞いた気がした。
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