CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 8話12
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 衣服のほこりを、誰かが無造作に払っていた。
 硬い床から体が浮いて、柔らかな何かに降ろされる。ひんやりと冷たい、なめらかな布の、安心できる手触りだ。それを味わう間もなく、顔に何かが押し当てられた。柔らかな濡れたもの──この感触はタオルのそれだ。タオルで顔を拭かれている。
 頬に食いこむ猿ぐつわも外されて、口に突っ込まれていた布きれが、口の中から取り出された。新鮮で十分な空気を求め、肺が慌しく呼吸した。自由に息ができるのは、どれくらい久しぶりのことだろう。だが、ようやく息苦しさから解放されたと思ったのも束の間、乾いた別の布きれを口の中に突っこまれる。
 エレーンはぼんやり目を開けた。天窓からの月明かりが、板床を四角く照らしている。無灯の部屋は静まりかえり、別棟の外の草むらで、夏虫の鳴く声がする。
 どうやら夜であるらしかった。頬の下には、洗い立ての清潔なシーツ。窓辺の寝台に寝かされている。
 微熱でぼやけた視界の端で、血のついた猿ぐつわが運ばれていった。それをさげているのは黒の上下のあの蒼髪──
 身辺の異変をにわかに悟り、エレーンは待遇の落差に戸惑った。では、寝台に運んだのは蒼髪なのか? 服のほこりをきれいに払い、タオルで顔をふいたのも? だが、そうした親身な世話の一方、猿ぐつわは依然として噛まされたまま、手足の縄も解かれていない。一体なにがどうなっている──?
 蒼髪はぶらぶらと、闇に沈んだ向かいの戸口に歩いていく。その手が扉の取っ手にかかり、正面のドアが開かれた。
 青と黒の陰影の月下に、人影がひっそりと立っていた。月明かりの逆光で、相手の顔は定かでないが、その身形と背格好から、それは男性であるようだ。
 彼は玄関のひさしの陰で、かたわらの蒼髪に目をやると、おもむろに室内に踏みこんだ。蒼髪は左壁に歩いて灯りをともし、闇にまぎれた来客の姿があらわになる。
 白いシャツとスラックスだけの、だが、さりげなく品の良い、乱れのない部屋着。端然とした闊達な面持ち、思慮深げな茶色の瞳、手入れの行き届いた栗色の頭髪──エレーンは息を呑んで目をみはった。
(……アルベール様)
 面会したあの晩以来、姿を見なかった子息だった。いや、今は正式な領家の主。だが、何故、彼が現れるのだ? 何故、今になって現れた? 
 混乱が脳裏に渦を巻く。
あの人を、、、、、呼ぶわ』
 はっとエレーンは思い当たった。あの「声」が言った、あの言葉。
 ならば、彼女が「呼んだ」のは、あの子息なのか? 彼女が彼を差し向けた? 蒼髪の暴行を食い止めるために。だが、果たしてあの蒼髪が、素直に彼に従うだろうか。いや、そもそも、蒼髪が招き入れたということは、彼は敵方の者ではないのか?
 固い靴音がコツコツ響いた。
 部屋を突っ切るアルベールを見すえ、エレーンはじりじり後ずさりする。ふと、異変に気がついた。折れたと思った右の腕が、自分の意志で動いていた。鈍い痛みはあるものの、気を失うほどの苦痛ではない。いや、体の異変はそれだけではなかった。体中の痛みが軽減している。そう、ずいぶん楽になっていた。昨夜、アディーの夢を見てから。
 はっ、と気配に顔をあげる。アルベールが寝台の脇に佇んで、痛ましげに見おろしていた。
「トラビアに向け、明朝発ちます。今日は暇乞いに参りました」
 胸に手をおき、頭を垂れる。
 身構えていたエレーンは、拍子抜けして見返した。先日と変わらぬ丁寧な態度だ。まじまじ顔を見ていると、礼から目を戻したアルベールと、不意に視線がかち合った。
 唖然とアルベールは絶句して、みるみる、その目を大きくみはった。
「──何故、こんなにやつれているんだ」
 わななくように呟いて、弾かれたように振りかえる。視線の先には、件の蒼髪。
「さあねえ。さっぱり、お召しあがりにならなくってねえ」
 灯火の乏しい壁にもたれて、蒼髪は投げやりに肩をすくめた。
「まさか、食事を与えていないんじゃないだろうな」
 アルベールは険しい顔で問い詰める。蒼髪はくさって返事をしない。アルベールがたまりかねたように振り向いた。
「食べて、いますか?」
 真摯なまなざしで尋ねられ、エレーンは必死でかぶりを振った。そうだ。何も食べていない。水の一滴たりとも与えられていない!
 壁にもたれた蒼髪が、弾かれたように振り向いた。呆気にとられた顔つきで、まじまじこちらを凝視している。もう訴える気力も失せ果てたと思いこんでいたのだろう。確かに、いつも意識はうつろで、、昼となく夜となく朦朧としてはいたけれど。
 信じられない面持ちで凝視していたアルベールは、愕然としたように絶句した。
「……なんて、ことだ」
 苦々しげに眉をひそめ、蒼髪を険しく振りかえる。
「ドネリー! これはどういうことだ!」
 ……ドネリー、、、、
 エレーンは呆然と首をかしげた。あの男は、そんな名前だったろうか。何かとても、そぐわない気がする。
「どういうことだと訊いている!」
 アルベールが声を荒げた。蒼髪はうるさそうに舌打ちし、もたれた背中を引きはがす。
「外がばかに騒がしいな。どこぞにネズミでも入り込んだか?」
「質問に答えろ!」
 ついにたまりかねた様子で、アルベールがつかつか近づいた。
 蒼髪は、憤懣やる方ないその肩を叩いて、するりと脇を通りすぎ、寝台に片膝ついて乗りあがった。窓におりたカーテンを、指の先でわずかにめくる。
「あー、いるいる。やっぱり何かいやがるな。この命知らずがよ」
 窓に乗り出した蒼髪の喉が、くつくつ嘲笑い声をたてている。男の胴に頭上を覆われ、エレーンはびくびく身をすくめた。寝台に載ったあの膝が、腹を蹴ってくるのではないか。上にある蒼髪の体が、突如押し潰してくるのではないか。冗談や不注意を装って。
 ちら、と視線だけを、蒼髪が落とした。
(おい、楽しみにしておけよ?)
 口端をゆがめて、にやりと笑う。アルベールは天窓の下だ。彼の耳には入らぬように、計算して囁いている。
(次に俺が戻る時が、お前の生涯最期の時、、、、だ)
 言い捨て、肩を引きあげた。
 ひらり、と身軽に寝台を降り、蒼髪は椅子の背から上着をとる。歩く肩にそれを担いで、薄暗い戸口に向かっている。アルベールには見向きもせずに、扉の取っ手に手をかけた。「様子を見てくる」
「待て! 話はまだ終わっていないぞ」
「そっちが済んだら呼んでくれ」
 蒼髪はそっけなく言い捨てて、振り向きもせずに出て行った。
 
 閉じた扉をねめつけて、アルベールは憤りを吐き出すようにして息を吐いた。
 壁の飾り棚につかつか歩き、水差しをとりあげ、中の水をグラスにそそぐ。それを手にして、早足で寝台に歩み寄った。
「すまなかった。そんなこととは知らなくて。食事はドネリーに命じて運ばせる。とりあえず、この水を」
 寝台の端に腰を下ろし、縛られたエレーンを抱き起こす。
「騒がないでくれるかい?」
 間近な相手を凝視しながら、エレーンはびくびくうなずいた。
 アルベールはかたわらの卓に水を置き、エレーンの後頭部に手を回す。猿ぐつわを取り去って、グラスをエレーンの口にあてがった。
 エレーンはあわてて水を飲んだ。ずっと、ずっと待ち焦がれていた水だ。水が喉を下りおり、生き返る心地がする。
 不自由に縛られたエレーンを眺め、アルベールは痛ましげに目を伏せた。
「すまない。縄は解いてあげられないんだ」
「──助けて下さい!」
 エレーンは顔を振りあげた。彼の顔を凝視する。
「助けて下さい、アルベール様。あたし、あの男にたくさん蹴られて!」
「……ドネリーから暴行を受けた、と言うのかい?」
 アルベールは面食らったように目をみはった。「──そんなはずは、ないんだが」
 戸惑ったような面持ちだ。エレーンは、解かれた猿ぐつわを目で示す。
「見てください! その布に血だって──!」
 言いかけ、はっと気がついた。なんという間の悪さ。猿ぐつわは新しいものと取りかえられてしまっている。今までしていた猿ぐつわが肝心な時にないなんて──!
 エレーンの姿を一瞥し、アルベールは困惑したような顔をした。
「……夢でも見たのでは?」
 エレーンは驚いて瞠目した。
「いいえ! いいえ! 違います! そんなんじゃありません! あざが体中にあるはずです! この服の──」
 下に、、
 はっ、とエレーンは言葉を呑んだ。
 胸に暗雲がにわかに広がる。今になって、ようやくわかった。あの男の魂胆が。あの残忍な蒼髪が、なぜか不思議と、顔や手足だけは傷つけなかったその理由が。目立つ場所には決して手を出さなかった理由が。
 誰かに告げ口するのなら、相手はこのアルベール。だが、あざがあるのが服の下では、証拠を容易く見せられない。女性の羞恥心を利用して直訴の口をふさごうというのだ。
 だが、とエレーンは唇を噛む。
 あの男は自分を甘くみている。今は火急の非常時だ。恥ずかしがってなどいられない。あの男の手には乗らない!
 意を決して唾を飲み、きっぱり顔を振りあげた。
「調べてください」
 アルベールは面食らったように見返した。
「……なんだって?」
「わたしの体を調べてください! なんならこの服、脱がしてくださって構いません! そうしたらきっと、アルベール様にもお分かりになるはず──」
「君は」
 当惑した面持ちで、アルベールは気まずそうに目をそらした。
「僕を誘惑するつもりかい?」
 エレーンは怪訝に瞠目した。はっとそれに思い当たる。この彼の周囲には、夫人の座を狙う娘たちが常時数多ひしめいている。それは貴族の令嬢に限らない。領邸に雇われる娘たちも然りだ。制服を着た彼女らは、まず初めに「それ」についての注意を受ける。彼を誘惑してはならないと。誤解を受けるような行動は決してとってはならないと。
「そ、そんなつもりは!──違います! 違うんです! そんなつもりはありません!」
 エレーンはしゃにむに首を振った。
 静かな部屋に、自分の声だけが空しく響いた。アルベールは形の良い眉をひそめ、いぶかしむように目を細めている。口元は固く閉じられたまま、開く気配も見受けられない。
 ジジ──とかすかな音を立て、灯火の陰影が揺らめいた。
 遠くで警笛が鳴っている。誰かが追われる慌しい気配。じりじりするような時間が流れた。気ばかり急いて首を振る。「本当です! 本当なんです! 本当にあの男が──」
「わかりました」
 静かな声が遮った。エレーンは顔を振りあげる。
「あなたがそうまで言うのなら、調べさせていただきましょう」
「……は、はい」
 思わず、エレーンはたじろいた。
 肩を抱き起こしていたアルベールが、身じろぎ、体をかかえ直した。わずかうつむいたその顔が、互いの息がかかるほどに近い。
 エレーンは赤面して唇を噛み、そっと彼から目をそらした。かたわらのシーツを凝視して、拘束された後ろ手を、軽く密かに握りしめる。
 彼のしなやかな利き手の指が、服の襟のボタンにかかる。二人きりの薄暗い部屋、かすかに聞こえる衣擦れの音、間近な彼の息づかい、ゆっくり動く指の気配。全神経をそばだてて、その気配を探っていた。目を瞑り、身を硬くして、時の経過をひたすら待つ。
 ふと、エレーンは目を開けた。
 怪訝に視線をめぐらせる。視線が間近でかち合った。アルベールが動きを止めて、じっと顔を見つめている。
 灯火が壁でゆれていた。
 裏庭の騒ぎが遠く聞こえる。木立を大勢が走る音、人の罵声、荒々しい気配、何やら妙に騒がしい。だが、ここは、こんなにも静かだ。
「──いや。やめておきましょう」
 アルベールが身じろいだ。はっとエレーンは我に返る。
「ア、アルベール様! ですが、それでは──」
 アルベールは情けない顔で苦笑いした。
「あなたの服を脱がせたりしたら、僕の理性がもちませんよ」
「──で、でも」
 エレーンはもどかしい思いで首を振る。「でも、あざが、本当にあざが体中に──」
「魅力的なご婦人を前に、実は少々残念ですが、僕はご亭主ではありませんしね」
 冗談めかしてウインクし、アルベールは肩をすくめて受け流す。
 一縷の望みを予期せず失い、エレーンは視線をさまよわせた。ならば、どうしたらいいのだろう。一体どうしたら、わかってもらえる。あの蒼髪の冷酷な仕打ちを。
 蒼髪は周到だった。服についた靴跡を払い、寝台に寝かせ、顔はきれいに拭いてある。血濡れの猿ぐつわも持ち去った。アルベールが一糸乱れぬ揺るぎない紳士であることも、きっちり計算に入れている。女性の服に手をかけるような卑劣漢ではないことも。
 後手後手に回って打つ手がなかった。動揺しきりで、エレーンはアルベールを振り仰ぐ。「あ、あの、でも、わたし、アルベール様を騙してなど──」
「あなたの言葉を信じます」
 え、と拍子抜けして、エレーンは面食らった。
 アルベールはいたずらっぽく笑いかける。
「申し訳ない。実は、反応が見たかったのです。あなたの言葉が事実かどうか」
 エレーンは唖然とまたたいた。恐る恐る、涼しい顔の青年を窺う。「あ、あの、それでは──」
「あのドネリーなら、やりかねない」
 唾棄するように吐き捨てて、アルベールは忌々しげに首を振る。
「女性に暴力をふるうなど以ての外だ。まったくもって許しがたい!」
 真正面から、顔を見た。
「あの男に代わって非礼を詫びます。恐い思いをさせてしまって、あなたにはすまないと思っている。以後、無体な真似は決してさせない。この僕の名誉にかけて」
「──アルベール様、それでは!」
 瞠目し、エレーンは顔を振りあげた。それは蒼髪を遠ざけるということか。つまり、それを約束するということは、つまり──
 乗り出したエレーンを見て、アルベールは痛ましげに表情を曇らせた。ゆっくり首を横に振る。
「だが、あなたをここから出すわけにはいかない」
「──な、なぜですか」
 エレーンは詰まり、たじろいだ。
「今、あなたを自由にしたら、僕の邪魔を、、、、、するだろう?」
 エレーンは愕然と言葉を呑んだ。
 思考が止まったその脳裏に、闊達で寛容なこの彼が、突如苦々しく表情を曇らせ、別人のように突き放した、あの言葉がよみがえる。
『それは、できない』
 あれは、ダドリーの救出を哀願した際のことだった。
 だが、彼がダドリーを疎む理由に全く思い当たらない。政敵というには、ラトキエの規模はあまりに巨大で、辺境領家のクレストなど、その足元にも及ばない。個人的な諍いも、二人の間にはなかったはずだ。むしろダドリーは、アルベールに好意的でさえあったはず。なのに何故、この彼が──? 混乱して首を振り、目をそらした相手の顔を覗きこむ。
「理由を聞かせてください。何故そんなに──」
 ふと、エレーンは言いよどんだ。
 その先を口にするのは、ためらわれる。だが、思い切って顔をあげた。
「何故、ダドリーを黙殺、、しようとなさるんです」
 
 
 
 
 

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