CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 8話13
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 棚の灯火が橙の炎をくゆらせて、壁で影がうごめいていた。
 彼の闊達な面持ちに、暗い翳りが降りている。視線を床にそらしたままで、アルベールは微動だにしない。
 エレーンは唇をかみしめた。
「……否定を、なさらないんですね」
 苦いものを飲みこむように、アルベールはわずか目を細めた。
 犬の吠える声がした。
 警備員の警笛がかすかに聞こえる。誰かの怒鳴り声が、重い静けさを束の間破った。侵入者でもあったのか、庭の方が騒がしい。騒ぎが遠く聞こえてくる。アルベールが静かに口を開いた。
「君は覚えているだろうか、アディーが危篤に陥った日のことを」
「──え、ええ、それはもちろん」
 思わぬ名前に、エレーンは面食らってうなずいた。「事情は、ダドリーから聞いています」
 彼女が引き取られてから日も浅い、初夏の晩のことだった。彼女は主のお供で繁華街に足を運び、意識不明の泥酔状態で運びこまれた。それから数日、彼女付きの白ひげの医師が足しげく別棟に通い、別棟はしばらく立ち入ることができなくなった。普段は柔和なその医師の切迫した横顔を、肌を刺すような只ならぬ空気を、今でもはっきり覚えている。
 この事件は表沙汰にはならなかったが、その「度を越した悪ふざけ」に、ダドリーとラルッカの二人の友が関わっていたのを知っている。買い受けた娘の愛らしさを、主は友に見せびらかしたが、彼らは「元娼婦」との触れ込みで、彼女の価値を軽くみた。つまり、"相手が元娼婦なら、多少のことは、、、、、、構わない" と。
 アルベールは当時を思い起こすように、薄闇に沈んだ木造の部屋に、ゆっくり視線をめぐらせた。
「あの二人は、アディーに酒を飲ませて手篭めにしようとした。いや、ラルッカは単に見ていただけで、手を出したのはダドリーひとりだ。そして、アディーの腕を折った」
 彼らはそれに驚いて、陰湿な遊びは頓挫した。だが、難病の末期にさしかかっていたアディーの方は、それだけのことでは済まなかった。
「僕らが細心の注意を払い、どうにかなだめていた病状が、あれで一気に悪化した。病が一たび進行すれば、二度と元には戻らない。あの頃のアディーにはもう、余力は残っていなかった。考えなしのダドリーの愚行が、アディーの寿命を縮めたんだ」
 不意に苦笑いに頬をゆがめ、アルベールは自分の額をつかむ。
「あいつらの言い分を聞いたかい? 友人の女を盗っただの盗られただの、実に下らんたわ言だ。そんな子供じみた報復の為に、そんな馬鹿げた諍いの為に、アディーは未来の時間を奪われたんだ!」
 激昂して拳を握り、ふと我に返って目をそらした。行き場のないその拳を、アルベールは捻じ伏せるように膝に置く。
「……アルベール様」
 彼らしくない強い語調に、エレーンは密かに戸惑った。この人はこんなに気性の荒い人だったろうか。常に明朗で機知に富み、快活な姿しか、エレーンは知らない。
 あの事件がきっかけで、ダドリーとラルッカ、エルノアが、別棟にアディーを訪れるようになったが、領家の嫡男たるアルベールは、当時から政務に忙しく、その輪に加わることはついぞなかった。だが、仕事の合間にアディーの元へと足を運び、二人でお茶を飲みながら、出歩くことのできない病人の気晴らしの相手をしてやっていた。壊れものを扱うように彼女を労わり、遠くから優しく見守っていた。
 アルベールは息をついて気を落ち着け、静かな声で仕切り直した。
「その後、彼がどうなったか知っているかい?」
「……その後、ですか」
 エレーンは戸惑い、当時のダドリーの記憶を探った。だが、特別なにも出てこない。
どうにも、、、、ならなかった、、、、、、
 アルベールは自嘲するように苦笑いした。
「彼はなんの咎も受けなかった、、、、、、、、、、、。信じられるかい? 僕らは彼に、謝罪を求めることさえ、できなかったんだ」
 事件を起こしたダドリーは、訴え出れば差し障りのある、、、、、、、「三領家の子弟」だった。そして、アディーを保護していたアルベールたちも、それと同じく三領家の一。身請けされた娼婦の為に、他領との関係を悪化させることは、彼らにはできなかったに違いない。
「そんなことが許されると思うかい? あれだけのことをしておいて、アディーは死ぬほどの目にあったのに、事実、寿命が縮まったのに、当のあいつはケロリとしている。まるで、何事もなかったように!」
 アルベールが真摯に目を向けた。
「公爵夫人。あなたの問いにお答えしよう」
 息詰るような、間があった。
否定は、、、しない、、、よ」
 アルベールの瞳に力がこもる。
「僕はあの卑劣な男に、罪の深さを知らしめてやる。あいつが奪った半年の、その分の償いをさせてやる。誰にも裁けないというのなら、僕がこの手で裁いてやる」
「……アルベール様」
 エレーンは息を呑んで、彼を見つめた。今はっきりと、それを悟った。この人はアディーを
 ──愛していた。
 彼をここに訪ねた晩の、憔悴した姿がよみがえった。
 彼はこの寝台に、魂が抜け落ちたように座りこんでいた。彼女のいない別棟で、思い出の詰まったこの部屋で、彼は幾たび、あの事件に思いをめぐらせていたのだろう。自責と痛恨の波に呑まれて。
 彼は公平で寛容だ。明朗で機知に富み、誰にも優しい。だが、無論、優しいだけの人物ではない。その並みならぬ彼の器量が、凡庸ならざるその才と巨万の富を以てして、一点に狙いを定めたら──。
 その様を想像し、エレーンは背筋を凍らせる。慌てて取り成そうとした刹那、彼の顔から鷹揚が消えた。
「あなたには悪いが、僕は彼を許しはしない」
 猛々しい色を瞳に宿して、冷淡に、決然と言い捨てる。
「他人の命を奪った代価は、命を以て、あがなうべきだよ」
 はっとエレーンは我に返り、驚いて目をみはった。
「い、いいえ、いいえ! いけませんアルベール様! アディーは報復など望んでは──」
 とんとんとん、と扉が控え目にノックされた。
 アルベールは怪訝そうに振りかえり、「失礼」とエレーンを寝台におろした。
 シャツの前立てを軽く直して寝台から立ちあがり、薄闇に沈む戸口に歩く。扉を細く開けて、隙間を覗いた。小声で何事か応答している。外に人がいるらしい。
 しばらくそうしてやり取りし、アルベールは扉を閉めた。早足で寝台に戻ってくる。
「スティーブンスでした」
「……スティーブンス、さん?」
 エレーンは面食らって復唱した。"スティーブンス"とは、ラトキエ邸の執事を務める人物の名だ。執事が別棟にやってきたということは、どうやら何かあったらしい。よほどの急用でもない限り、彼は主の時間の邪魔をしない。
 案の定アルベールは姿勢を正し、胸に手を置き、頭を下げた。
「申し訳ない。急な来客がありまして。食事はすぐに運ばせますので」
 辞去を悟って、エレーンは顔を振りあげた。
「ま、待ってくださいアルベール様! わたしの話を聞いて下さい! あの男は──!」
 アルベールは明朝出立する。ひと度扉を出ていけば、しばらく商都に戻らない。ここに人知れず取り残された自分は、あの蒼髪に、
 ──殺される。
 アルベールが手にした猿ぐつわを見て、エレーンは必死に首を振ってもがいた。だが、彼は有無を言わさずそれを噛ませて、屈めた上体を引き起こす。
「それでは失礼いたします。窮屈なことで申し訳ないが、もうしばらく、ご辛抱ください」
 哀れむように見おろして、アルベールは踵を返した。
 
 バタン、と扉が無情に閉まった。
 手足を縄で縛られたまま、エレーンは愕然と凍りつく。奈落に突き落とされた絶望の中、切迫した緊急課題が頭をもたげた。
(……逃げないと)
 今すぐに。
 必死で視線をめぐらせた。
 それには手足の拘束を解かねばならない。何か縄を切れるものは──。
 忙しなく見まわして、かたわらの卓で目を止めた。今しがた水を飲みほしたグラスが、ぽつりと一つ置いてある。精一杯肩で這い、寝台の端から転げ落ちた。顔と肩をしたたかに打ったが、今は構っていられない。卓の足を目ざして必死で進んだ。
 薄暗い中、直立する卓足に、肩の後ろを打ちつける。卓のグラスはゆれるだけで倒れるまでには至らない。エレーンは歯を食いしばり、二度、三度とくり返す。
 ガタン──と卓が横倒しになった。投げ出されたグラスが床に当たり、けたたましい音で砕け散る。エレーンは顔を振りあげて、手近な破片を目ざして進む。
 縛られたままの後ろ手で、破片を一つつかみ取り、その断面で縄をこすった。
(──お願い! 切れてっ!)
 しゃにむに縄をこすりつつ、エレーンは歯を食いしばった。だが、手首の縄はびくともしない。だが、希望はこれしかないのだ。
 アルベールの辞去と共に灯火は消され、別棟は月明かりのみの薄闇に包まれていた。あの見慣れた飾り棚の足が、暗がりの中に沈んでいる。額にうっすら汗が浮いた。縄は、切れない。エレーンは歯を食いしばる。隙間風だろうか、さわりと微風が頬をなでる。
 ゴトン──と固い音がした。
 大きく響いたその音に弾かれ、エレーンは肩越しに振りかえる。
 冴え冴えとした月光が、床を四角く照らしていた。その中央に、何かある。「それ」は鈍い光を放っている。近頃見慣れたあの形状。あれは──
 ナイフだ。
 唖然とエレーンは天窓を見た。そこにあるということは、天窓から落ちたということだ。屋根の上に人がいる? 一体、誰が──。
 だが、すぐさま視線をナイフに戻した。そんなことは、どうでもいい。あれがあれば、縄が切れる!
 荒い息をつきながら、苦心して身をよじらせ、ナイフを目ざして必死で進む。それは短剣ほどに大振りな、黒い柄を持つナイフだった。真上から差し込む月明かりに、刃が妖しくきらめいている。
 ようやく、その前に辿り着き、体をよじって反転する。ナイフの方に、縄で縛られた利き手を向けて、肩越しに背中を見ながら、後ろ手でナイフを探った。
 指に、鋭い痛みが走った。
 エレーンは弾かれたように顔をしかめた。焼け付くような強い痛み。そうとう切れ味が鋭いようだ。指は痛いが、構ってなどいられない。ナイフの柄をつかみ取った。
 それは、ずしりと重かった。
 手首の縄の位置を探って、今度は慎重に刃を引く。何度か往復させる内、ブツリと確かな手応えがあった。手が、不意に自由になる。
(やった……!)
 すぐさま両手を縄から引き抜き、床に手をつき、身を起こした。床のナイフをひったくり、ブーツの足首の縄にあてがう。
 今度はすぐに縄が切れ、久方ぶりに両足が離れた。頭の後ろに手を回し、じれったい思いで猿ぐつわを取る。急いで床から立ちあがった。いや、立ち上がろうとした途端、足がふらつき、ガクリと床に膝をついた。
 椅子にすがって立ちあがり、よろめきながらも出口に向かう。のたうつように床を進んだ。逃げなければ。
 一刻も早く!
 あえぐようにドアへと進む。
 ふらつく視界に、出口の扉が目前に迫る。浅く速い自分の呼吸をいやに間近に聞きながら、エレーンはノブに、つかみ取るようにして手を伸ばす。あのドアを出さえすれば──!
 カチリ──と鍵の回る音がした。
 ぎくり、と全身が凍りついた。
 ドアのノブをつかみかけた手を、エレーンはのろのろ引っこめる。きゅっと唇を強くかんだ。
「……もう少し、だったのに」
 顔をゆがめ、薄暗い戸口に立ち尽くす。
 ──蒼髪が、戻ってきた。
 震える両手を握りしめ、暗がりの扉をなすすべもなく見つめた。食事の盆で手がふさがり、それで手間取っているのだろうか、扉の向こうにいるであろう相手は、まだ扉を開けようとしない。
 無言のドアが、目の前にあった。
 エレーンは一人逡巡する。扉があいてしまったら、ここに立っている自分を見たら、蒼髪はどんな顔をするだろう。手足の縄は断ち切ってしまった。猿ぐつわも取っている。逃げようとしていたのは明白だ。この期に及んで、言い訳は、きかない。
 動揺した頭の中で、蒼髪の冷たい視線がよみがえった。あのあざけりが渦をまく。
『おい。楽しみにしておけよ? 次に俺が戻る時が』
 ──お前の生涯最期の時だ。
 どきん、どきん、と胸が大きく波打った。他には何も聞こえない。打ち鳴る鼓動が耳を圧してうるさいほどだ。扉は静まりかえっている。それを凝視し、エレーンは震えて後ずさる。
「……外に、出る」
 扉を凝視したまま身をかがめ、床からナイフを引ったくった。強ばった両手で柄をにぎり、扉を見すえて、胸元で構える。
 高揚してのぼせた脳裏で、目まぐるしく考えた。蒼髪と乱闘になるだろうか。だが、自分に人が刺せるのか。傷つけることなどできるのか。だが、やるしか道はない。他に脱出できる手立てはないのだ。そうだ、
 ──刺し違えてでも、外に出る!
 シン、と冴えた月光が、床を四角く照らしていた。
 部屋の四隅は暗がりに沈み、テラスの分厚いカーテンは重たく壁をおおったまま、寝台もカーテンも動かない。
 ギイィ、ときしんで、扉がひらいた。
 
 
 
 
 

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