CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 8話15
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 木立生いしげる月下の草で、夏虫が静かに鳴いていた。
 数日囚われた別棟の屋根が、庭木の先に見え隠れしている。左手には、敷地の西を占める裏庭が、夜梢を黒々と揺らしている。
 裏木戸から脱出するつもりであるらしく、ザイは裏庭の東端沿いに、樹陰の暗がりを北上していた。敷地南西の別棟から、北壁の裏木戸へ向かうには、敷地を縦断せねばならない。
 慎重な足取り。草を踏みしだく靴の音。月あかりの影の中、ザイは素早く移動した。彼の先の言いつけ通りに、エレーンはその首にしがみつく。
 遠いざわめきは警備員の声だろうか、不意に怒鳴り声が耳に届く。敷地の北西の方角からだ。母屋の西側、迎賓館や記念館がある辺り。
 そうか、とようやく気がついた。囮になるなら、別棟から最も遠い場所に、警備員をおびき出す必要がある。つまりは敷地の北東のことだが、そちらには、門番の立つ北門と、大勢の使用人が居住する使用人用の宿舎がある。それでは不利だ。だから、彼らは北東で騒ぎを起こすのは断念し、母屋をはさんだ西側で陽動を展開しているのだ。更に都合のいいことに、迎賓館周辺は、このところの奇襲騒ぎで人けもない。
 だが、とエレーンは密かに気を揉む。目的地・裏木戸があるのは北壁だ。つまり、騒ぎになっている迎賓館付近から程近い。そちらに向かって行ったりしたら、つめかけた警備員らと、むざむざ鉢合わせになりはしないか──
 不意に、ザイが足を止めた。
 前のめりに体がゆれて、エレーンはあわてて辺りを見まわす。
 ぐんと視界が開けていた。月下にひろがる広大な青芝、芝庭を越えた向こうには、馬車道を照らす等間隔の外灯が、敷地をゆるやかに縦断している。左の先には、遠くに見える館の灯り──ちょうど敷地のまん中あたりだ。
 大木の陰に身を寄せて、ザイは耳を澄ましている。負ぶさった手に力をこめて、エレーンはびくびく見まわした。どこかに警備員がいるのだろうか。
 夜気を裂くような鋭い音が、突如、耳朶に飛びこんだ。
 縮みあがってしがみつき、エレーンはおろおろ木立に視線を巡らせる。だが、抑揚のついた伸びやかな音は、警備員の呼び子ではない。むしろ、深い森に響き渡る鋭い鳥声のそれに近い──はっ、と気づいて振り向いた。今のはザイの指笛ではないか? だが、何故いきなり、こんな所で?
 すさまじい爆音がとどろいた。
 左手の方角、母屋辺り、厨房で何かあったのだろうか。門番が現場に向かっているのだろう、にわかに北門付近が騒がしくなる。
 ザイが素早く地を蹴った。
 身を隠していた樹陰を出、月下の青芝に走り出る。
(ちょっ! まじ? 正気!? 出たら即刻見つかるじゃん!)
 不意の加速にのけぞって、ぎょっとエレーンは引きつった。月下にひろがる芝庭は、短く刈り込んだ青芝が平坦にひらけているだけで、視界を遮る物がない。
 薄茶の髪をひるがえし、ザイは夜気を切って駆けていく。進行方向は馬車道だ。外灯ともる馬車道は、馬車が三台すれ違うことのできるくらいの幅があり、正門と母屋をつなぎ、北門まで通じている。つまり、敷地の中央を貫くこの道は、正門、北門、どちらの門番の目からも丸見えなのだ。彼らの誰か一人でも、気まぐれにこちらを振り向けば、たちどころに発覚してしまう。
 だが、ザイは足を止めない。
(行くの!? マジで?)
 いよいよ馬車道が目前に迫り、エレーンは固く目を閉じた。
 ザイの足が道に踏み込む。
「──お? なんだなんだァ?」
 声が、聞こえた。
 右手の方角──正門からだ。
 だが、門番の呼び子や怒声はない。そして、今聞こえただみ声は、なぜか面白そうな色を含んでいる。
 にわかに正門方面が騒がしくなった。降って沸いた喧騒の中、たがが外れたようなだみ声が聞こえた。いい調子で声を張りあげている。門番の追い払うかのような制止の声。
 正門に酔っ払いの一団がいるらしい。北門の騒ぎを聞きつけて、何があったか一目見ようと、野次馬がつめかけているのだろう。
 疾走するザイの背で、エレーンは目を開け、恐々視線をめぐらせた。
 先と変わらず、辺りはひっそりと静まっている。件の正門と北門から、それぞれ騒ぎが聞こえてくる。道の先に目を凝らすが、門番が駆けてくる様子もない。
 ほっと胸をなで下ろした。無事に横断したらしい。
(でも、どこに行く気?)
 間近にある横顔を、エレーンはそわそわ盗み見る。
 馬車道を横断したということは、ザイは東に向かっている。だが、その先どこへ行こうというのか。車道を渡った東にあるのは、花壇と資料館と馬車の停車場くらいのもの。その先は、高い塀で突き当たる。出口の類いなど無論ない。足がかりもない石壁を、負ぶったままよじ登ろうというのか。まさか。いくらザイとて、そんなことができるわけない。
 ひっそり暗い資料館を眺めて、エレーンはおろおろ周囲を見る。あんなに野次馬がいたのでは、もう正門からは出られない。北門からも出られない。母屋の警備も門番も、ケネルたちの侵入騒ぎで、とうに増員しているはずだ。そして、目指す裏木戸も、騒ぎの渦中で近寄れない。これでは八方ふさがりだ。ザイはどうするつもりだろう。
 夜梢を揺らす木立がひらけ、閑散とだだっ広い停車場に出た。薄闇に沈む停車場には、ぽつん、と一台だけ馬車がある。立派な黒塗りの大型馬車だ。そういえば、アルベールは来客の報せで退出した。ならば、あの立派な馬車は、客が乗ってきたものに違いない。
 外灯が照らす黒塗りの扉に、ラディックス商会の紋があった。このラディックス商会というのは、ドゴール商会、エンブリー商会と並び、商都三大商館に名を連ねるカレリア屈指の大商館だ。その中でも、領主と面会できるほどの人物というなら、しかも、こんな夜更けに取り次ぎを頼むことができるとなれば、客人は恐らく、ラディックス商会の代表者。
 停車場の隅にある外灯の下、御者の身形の男が一人、制帽の後頭部をこちらに向けて、手持ち無沙汰そうに喫煙していた。馬車道の先にある母屋の方を、どこかそわそわと眺めている。主人の帰りを待つ間、内緒で喫煙しているらしい。
 ザイは暗がりをすり抜けて、ぽつんと停まった馬車の陰に滑りこんだ。さぼりをきめこんだ御者は幸い、馬車より母屋が気になるようで、全く気づいてない様子。
 ザイが馬車の扉を開けた。馬車の床にエレーンを下ろし 車内の奥へと体を押しこむ。
「入ってください」
 続いて、自らも素早く乗りこむ。すぐさま扉側の壁に背をつけて、足を投げて腰を下ろした。
 いきなり馬車に押し込まれ、エレーンはあわてて訴える。
「で、でも、これ、お客さんの馬車なんじゃ……」
 主が使うひざ掛けだろうか、月あかりさしこむ座席の上に、黒い布が畳んである。もし、馬車の主が戻ってきたら、その場でたちどころに捕まってしまう。扉があき、主が馬車を覗いたら──黒いひざ掛けを注視して、おろおろ車内を見まわして、ふと、エレーンは目を止めた。
 車内の様子に違和感を覚えた。大型馬車なら大抵は、座席が向かい合わせになっているが、この馬車には、走行時に後ろ向きになる方の座席がない。座席がすっかり取り払われて、がらんと広くなっている。その隅の暗がりに、ザイが座り込んでいるのだ。商用の荷でも積む為に、場所を広く開けたのだろうか。それとも、商人たちが使う馬車は、こんなふうになっているのか──
「こっちへ」
 ザイがおもむろに目を向けた。
「そんな所じゃ丸見えだ。俺の足の間に座ってください」
 ぎょっ、とエレーンは瞠目する。
「で、でも、こんな所に隠れても、持ち主がすぐに戻ってくるって。そしたら、すぐに見つかって──」
「いいから早く」
「……む」
 四つんばいで手をついて、やむなくエレーンは近づいた。ザイの真向かいにぺったり正座、むう、と口を尖らせて、いちおう抵抗の姿勢を示す。だが、ザイはにべもない。
「向かい合って、どうすんです」
 エレーンはもそもそ膝をかかえて、背を向け、ちんまり体育座り。顎の下に腕が出た。ぐい、と後ろに引っ張られる。
「なっ、なにすんのよこのすけべっ!」
 エレーンはあわてて振り向いた。
「やっぱ、そーゆー魂胆なわけ!? どさくさに紛れてなにする気よっ!」
 ザイの顔をキイキイ押しのけ、力の限りに、わたわた抵抗。ザイは辟易とした顔をした。
「静かにしろと、言いやしませんでしたかね」
「だってえっ!」
「だって、じゃないでしょ。まったく困ったお嬢さんだ。いいスか? 俺たちはこれから隠れます。そっちにいると、窓の外から見えちまいますから、扉側の死角に入り、じっとしている必要があります。なるべく体を小さくして。わかりました?」
「でもー」
「わかりましたね」
 有無を言わさず言い渡されて、エレーンは、むう、と口の先をとがらせる。理屈はわかるが承服しがたい。照れてる場合じゃないのはわかるが、どうも積極的に参加できない。
「俺のことは、長椅子だとでも思えばいい」
 言うなり、ザイは座席の黒布を取りあげた。、それを無造作に振り広げ、意外にも大判だった黒布を、ばさり、と頭の上まで引っかぶせる。
 突如、目の前が真っ暗になり、エレーンは密かにぶー垂れる。
(ちょっとお〜! 他人のもん勝手に使っていいわけ?)
 顔の布をぶちぶちどけて、はた、と現状を認識した。そう、頭上に被さった布の下、ザイに後ろから抱きかかえられている。
 それを意識した途端、総毛立って動揺した。そろり、と背中を密かに浮かせ、さりげなくザイから身を離す。
 むんず、と肩がつかまれた。
「石ころになってください」
「へっ?」
 顔の真横、左側の耳元に、ザイの声と息づかい。
「気配を消せと言ったところで、あんたには土台無理でしょう。だから息を、ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。そして何も考えない、わかりました?」
「……むぅっ……はい」
 なんとなく逆らいたいが、逆らえる要素がどこにもない。
 月あかりのみの馬車の中、じっとり気詰まりな時間が流れた。
 この汗ばむようなぎこちなさ。体が強ばり、カチカチだ。隠れる為とは分かっていても、馬車の狭い暗がりで、図らずもザイと密着し、そわそわ腰が据わらない。
 馬車の車内はひっそりと暗く、外からの物音が遠く聞こえる。ケネルたちはまだ、逃げ回っているのだろうか。暗がりの頭上で、声がした。
「構わず、俺に寄りかかって下さい。いきなり動いて、くたびれたでしょ」
「え、でも」
「寝てていいスよ。むしろ、その方が助かりますし」
「ね、寝るぅっ!? 今の、この状態でっ!?」
 エレーンはあたふた振りかえる。なに呑気なこと言ってんの!?
「はい、"石ころ"になってー」
「……う゜」
 ザイには、きっと神経がない。
 なんか、ぐんにょり気が抜けたので、指示された通りに、すーはーゆっくり息を吸い、"石ころ"になる練習をする。
 ぐっ、とザイが、顎下の腕に力をこめた。
 すぐに、複数の足音が聞こえてきた。主を迎える御者の声、気配がどんどん近づいてくる。
 不意の緊張に頬が強ばる。ついに持ち主が、
 ──戻ってきた。
「夜分にお越しいただき、恐縮です」
「いえいえ、ミモザ祭はすぐですから、急いだ方が良かろうと」
 馬車の外の会話が、はっきりと聞こえた。意外にも若い声だが、馬車の持ち主、ラディックス商会の代表だろう。そして、先に聞こえた挨拶の声は
(──アルベール様!?)
 エレーンは鋭く息をつめた。
 手足が震え、体が勝手に逃げようともがく。思わず叫びそうになった口が、すぐさま手の平でふさがれた。身じろぎさえもできぬよう、ザイがかかえこんでいる。
 動いてずり落ちた右頬が、ザイの胸に押しつけられていた。規則正しい鼓動が聞こえる。意外なことに、ザイはまるで動じていない。この瀬戸際の局面で。
 固く目を閉じ、無我夢中でしがみついた。何も考えずに息を吸い、そして、ゆっくりと息を吐く。外の会話は何事もなく穏やかに続いている。
「奇襲騒ぎがあって以来、客足が遠のいていますからね。今が大変な時だというのは、重々承知しておりますが、しかし、ここは他ならぬ商都です。苦難の時こそ、祭を盛大に催して盛り返さねばなりません」
「まったく仰る通りです」
「まあ、そうした訳でして、我々もお手伝いをさせていただきます。ほんの些少で申し訳ないが」
「とんでもない。ありがたく使わせていただきます」
 どうやら、祭の寄付に来たようだ。客人の声がした。
「時に、何やら騒がしいようですが」
「いえ、どうか、お気になさらず。どうも不審者が入り込んだようなのです。ですが、ほどなく捕まるでしょう」
「それは大変な時にお邪魔して。お取り込み中と知っていれば、出直しましたものを」
「いえ、何度もご足労いただくには及びません。商人の方は、時は金なりが信条でしょう? お忙しい中、無駄足を踏ませては申し訳ない」
「お互い、忙しい身の上ですからね。──では、これで」
 会話が途切れ、ほどなく扉が開かれた。
 ひやりと夜風が吹き込んで、気配が馬車に乗りこんでくる。
 ──見つかる!
 エレーンは強く首をすくめた。
 扉を閉じる音が響きわたり、挨拶の声が聞こえてくる。
 馬車がゆっくりと動き出した。石畳を走る振動と音。しばらく走って振動はやみ、御者の声らしき、やり取りが聞こえた。相手は正門の門衛らしい。短い応答の後、特に止められることもなく、馬車は再び走り出す。
 馬車の主は、黙したままだ。何故、不審に思わないのか。頭から黒布を被っているとはいえ、往路にはなかった不審な荷物が、何故か足元にあるというのに。
 知らず強く首をすくめて、エレーンは身を硬くする。
 石畳を走っているのだろう、振動で床がガタガタ揺れた。相手は黙したまま語らない。いや、座席から落ち着いた声がした。「──首尾は?」
「上々」
 頭上の声が、、、、、、おもむろに応えた。
 あわてて振り仰いだその刹那、ばさり、と布が剥ぎとられた。隠れ蓑が不意になくなり、とっさにザイにしがみつく。
 ガラガラ、車輪の音が聞こえた。
 ザイも男も、何も言わない。
 伏せた顔を恐々あげて、エレーンは座席に目を向ける。スーツの足を組んだ男が、座席で静かに見おろしていた。
「お久しぶり、奥方様」
「……あなたは」
 エレーンは呆気にとられて絶句した。
 思わぬ人物が、そこにいた。こんな所にいるはずもない、丸眼鏡のあの彼が。ザイが事もなげに口を開いた。
「言ったでしょ。俺たちは今、総力をあげて、、、、、、動いている、と」
 エレーンは唖然と座席を見た。真ん中分けの、肩で切り揃えたウエーブの髪。どことなく羊を連想させる細面に丸眼鏡。街着のない自分の為に、生成りのワンピースをみつくろってくれた──
 ルクイーゼで世話になったあの彼が、店主のハジが、そこにいた。
 
 
 
 
 

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