■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章 interval06 〜番狂わせ〜
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夜のしじまに、鋭い呼び子が響きわたる。
"対象確保"を知らせるザイの指笛を聞きとどけ、ジョエルが吹き飛ばしたごみ箱に警備員が翻弄されているその隙に、ファレスは裏道に降り立った。
暑苦しい覆面をとり、ぶらぶら歩道を撤収する。
「たく、笑わせやがる。なにがラトキエの精鋭だ。てんで看板倒れじゃねえかよ」
容姿で特定されぬよう、髪を束ねているので窮屈だ。
領邸のぐるりを取りまく歩道には、およそ人けというものがなかった。怒声と呼び子でかしましい領邸構内とは一変し、等間隔の外灯が乏しいあかりを歩道に投げ、昼には彩りを添えるであろう枝を張り出した街路樹も、路傍にひっそりたたずむばかりだ。構内に通じる出入り口が一つもない西側は、領邸敷地の裏道に当たる。
夜気は、ひっそりと動かない。
外灯が照らす寂しい裏道、延々続く経路の先に、暗い通りと曲がり角が見えている。角を曲がったその先は、騒然としている正門に続く。
構内の気配に耳を澄まし、領邸の高い外壁を爪先立って眺めやり、気もそぞろで、やきもき歩く。
「──ザイの野郎、ドジなんか踏んでいやがらねえだろうな」
ザイに代わって自ら別棟に乗り込むというなら身柄の奪回は確実だが、囮の脱出方法を考慮に入れれば、これは止むを得ない人選といえた。警備員を煙にまくだけならザイでも十分務まるが、垂直な塀を駆け登り、かたわらの幹を蹴りつけて、夜空に身をひるがえす、そんな芸当ができるのは、いかな手慣れたロムといえども、ファレスとケネルくらいのものだ。
もっとも、計画は万全だ。件の停車場に辿り着くには、広々とした芝庭の先の、道幅の広い馬車道の横断が難関となるが、領邸構内の警備員は、賊の捕獲に動く部隊を除き、北に位置する母屋を守って、そのあらかたが集合している。更に、ジョエルが爆破騒ぎを起こして北門の門番を釘付けにし、馬車道南の正門では、ロジェらが酔漢を装って門番たちに絡んでいる。段取り通りに事が運べば、しくじるような気遣いは万に一つもないのだが──
ふと、脇見の視線を前に戻した。
刹那、とん、と肩に衝撃。
すぐさま、脇に飛びのいた。左の脇腹が何か気になる。よそ見をしていて街路樹にでもぶつかったのか。いや、今のは人だ。前から当たってきた者がいる。
だが、この歩道には、人など見渡す限りいなかったはずだ。
事情がよく飲み込めず、面食らって目をすがめる。
あかりの届かぬ暗がりに、人影がひっそりとたたずんでいた。直線的な外形から、その人影は男のようだ。領邸の警備員だろうか。いや、母屋付近を爆破され、構内が紛糾している緊急時に、人けなく寂しい裏道を無為に見まわる者などいるだろうか。だが、無関係な市民というには、この西壁を北上しても、どこの通りへも抜けられない。突き当たりで東に折れ、件の北門に行きつくだけだ。
薄暗い石畳に、固い靴音がコツコツ響く。
ほどなく向かいの靴先が、地面のあかりに踏みこんだ。
黒い衣服が痩身にぴったりと張りついていた。ボタンのない丸首シャツと、同様に黒い細身のズボン。束の間、相貌が露わになる。
「……蒼い、髪?」
はっと鋭く息をのみ、ファレスは脇に飛びのいた。刹那、銀の閃光が間近を走る。
立て続けに銀光がひらめき、空気が鋭く引き裂かれる。いやに重たく感じる体を引きずり、ファレスは攻撃を際どくかわし、腰から護身刀を引き抜いた。
暗がりに溶けこむ前髪の下の、薄い口端が吊りあがる。
「まあだ動けるのか、民草風情が」
ファレスは怪訝に向かいを見た。どことなく奇妙な物言いだ。暗がりの蒼髪はクツクツ笑い、利き手の刃を軽く振る。
「むしゃくしゃしてたんだよなあ、お預け食らって。だが、それも、あと少し」
カツン、と一歩、外灯のあかりに踏み出した。
「まずは、お前を血祭りだ」
銀光が鋭く闇にひらめく。
踏みこんできた刃をかわし、ファレスは護身刀を振り払う。
銀の軌道をわずかに残して、蒼髪がひらりと飛びのいた。小馬鹿にしたような笑みさえ浮かべ、闇の中にたたずんでいる。ファレスは舌を巻いて、眉をひそめた。
速い。
中の警備員の比ではない。いや、常人の速さでは到底ない。それに引きかえ自分の方は、どうしてなのか体が重く、思うように動けない。
皮膚を斬った手応えがあった。だが、相手は痛痒を感じていない。いや、確かに斬った、そのはずだ。蒼髪が面白そうに目を細めた。
「お前、同じ匂いがするな」
舌の先で刃先を舐める。チロリと覗いた尖った舌が、いやに赤い。
「あー、あれか、雑種の余胤か」
「──あァ? なに、わけのわかんねえこと、ほざいていやがる」
銀光が闇にひらめいた。
寸でのところで、それをかわして、ファレスは向かいに突進した。
素早く飛びのいた蒼髪の足が、歩道の段差でたたらを踏んだ。わずかにもたついた右の背を、ファレスは素早くなぎ払う。
奇妙なうめきが、蒼髪からあがった。「ぐえ」とも「うぎゃ」ともつかぬ声。踏ん付けられた獣のような。
数歩よろよろ歩道を歩く。蒼髪の背中が露わになった。ファレスは荒く息をつき、その異様に目を凝らす。
横なぎに斬った裂け目から、黒いものが覗いていた。それはみるみる盛りあがり、黒い服地の裂け目から、ぞろりぞろりとあふれ出す。
巨大化した先端が、ばさり、と暗い歩道についた。
「黒い、翼……?」
ファレスは息を呑んで絶句した。
背から黒翼が生えていた。身の丈ほどもある片翼が、ばさりと力なく垂れさがっている。抑制不能に陥ったように。
蒼髪が黒翼をかばいつつ、忌々しげな舌打ちで振り向いた。動きを止めたその異相が、外灯のあかりで露わになる。少しこけた青白い頬、氷のように整った顔立ち、長い前髪が顔に垂れ、横は短く刈りあげている。蒼髪からつき出た耳の先端が尖っている。そして何より、青みがかったあの双眸。
向かいの蒼髪を睨み据え、ファレスは刀柄をにぎり直す。
「ふざけた色のその頭、ただのイカレ野郎じゃなさそうだな」
巨大な片翼を引っ下げた異形の者がそこにいた。世にも珍しい蒼い髪の鳥人──不意に、とある記憶に思い当たる。ならば、あれが北で全滅したという
──青い髪の民族
かつて記録を当たった時に、数多の中で一つだけ、「青い髪の民族は鳥人だった」との胡散臭い記載を見た覚えがあった。それによれば、彼らは「青い髪の鳥人」だった。だが、その翼は白かったはずだ。
向かいの黒翼の鳥人が、経路の暗闇に引き返した。巨大な片翼を引きずりながら、右に左に大きくよろけ、覚束ない足取りだ。うまく均衡がとれないらしい。
「待てや、こら!」
闇に紛れこむ黒翼を追い、ファレスは歩道に踏み出した。いや、踏み出そうとした膝が、突然ガクリとくずおれた。蒼髪がぶつかってきた時の、嫌な懸念に思いあたり、左の脇腹をそろりとぬぐう。
ぬめり、と指に生暖かい液体が絡みついた。
それを認識した途端、激痛の波が襲いかかった。
顔をしかめて、ファレスはうめく。食いしばった口元から、生ぬるい血がこぼれ落ちた。
立っていられず前屈みになり、街路樹の幹に腕をついた。せわしない呼吸を肩でなだめて、道の先の暗がりを睨む。
「とっととヤサに、戻んねえとな……っ!」
足を引きずり、歩き出す。
腕で街路樹を伝いつつ、ファレスは歯を食いしばった。ここで座り込むわけにはいかない。領邸は未だ騒がしく、こんな所で気絶したなら、いつ何時見つかりかねない。この道の終点は東西に横切る北門通り、それを渡れば南街区の歓楽街、盛り場の南は異民街だ。その端にでも逃げこめば、官憲といえども手は出せない。
一歩足を踏み出すごとに、止めどなく鮮血が流れた。脇腹の負傷は、殊の外深い。霞み始めた視界の先で、地面を引きずる黒翼が、闇の中に逃げ込んでいく。だが、それを追いかける余裕はない。
街路樹の陰から、すっと人影が歩み出た。
旅装の男。真夏というのに、フードを目深にかぶっている。世にも奇矯な異形の者が、目の前を通過したはずだが、特別驚いた様子もない。
旅装の風体に見覚えがあった。リナに連れ回された街角で、遠くから姿を見かけている。男は無表情に向き直り、頭のフードをおもむろに取り去る。
蒼く冴えた月影に、白銀の髪が輝いていた。額で分けたなめらかな直毛、一房こぼれた長さから、かなりの長髪であるらしい。長身痩躯、静謐をまとった端然たる相貌、深みのある鳶色の瞳。
刺された腹を自然とかばい、前屈みになりながら、ファレスは、戦場で知れ渡るその風貌に息を呑む。ふらりと気紛れに現れては、ただただ人を斬っていく──まさか、これが件の
──死神。
闇に浮かぶ男の銀糸が、月影に静かにたゆたっていた。旅装の裾をひるがえし、死神はやおら足を踏み出す。
外灯もわびしい暗がりで、男の周囲だけが輝いていた。夜目にも白いその手が動き、外套の上前をおもむろに払い、わずかに覗いた黒い刀柄に手をかける。
すらり、とそれを抜き払った。月光にきらめく長い刀身。
一挙手一投足に息を凝らし、ファレスはよろめいて後ずさる。この相手の力量は、今の蒼髪の比ではない。それより遥かに強靭で、圧倒的に凄絶だ。対峙しても、決して勝てない。手負いでなくても、確実に
(──負ける)
月の冴えた夜だった。
辺りは静かで、遠い北門の喧騒が他人事のように聞こえてくる。感情のうかがえぬ鳶色の眼で、死神はゆっくり近づいてくる。その手に下げた長刀だけが、月光に妖しくきらめいている。
ファレスは朦朧としながらも、白銀の死神に魅せられていた。死神の白い手が、長刀の柄をにぎり直す。
細く長い刀身を、蒼い月影に振りあげた。
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