■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 9話2
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かすみの向こうに、誰かいた。
誰かの声が、かすかに聞こえる。
ひそひそ、ひそひそ、話し声。困ったような、苦々しげな響き。
ゆらゆら人影がゆれている。
これは夢? それとも幻? 部屋の壁で腕を組み、ちらちら盗み見ながら話している。あれはケネルと誰かの声?
──姫さん、きっと訊いてきますよ。どうします?
まだ知らせるな。知れば、また取って返しかねない。
でも、いつまで隠し通せるか……
なんの話をしているの?
「──おい、大丈夫か?」
夢うつつの境目を、野太い声が踏みこんだ。
ぼやけた揺らぎや、あいまいな幻聴などではない、実体をもった確かな声。
それは気遣うような、戸惑ったような、心配そうな色を帯びていた。何かとても懐かしい。そう、ずっと、ずっと、「この人」の声が聞きたかった──
意識が急速に傾いて、はっきり感覚を取り戻す。まつ毛の先が細かく震えて、ふっ、とエレーンは目をあけた。
「どっか痛てえところはないか? み、水飲むか、な? 水」
そっけない天井を背景に、あのひげ面が目前にあった。おろおろして覗きこみ、せっぱ詰まったように瞠目している。
懐かしい顔だった。あの懐かしい蓬髪の顎ひげ。
かたわらの窓があいていた。生ぬるい風が、かすかに、ある。向かいの顔に腕をもちあげ、エレーンはのろのろ指を伸ばす。
「……アド」
はっ、とひげ面が息を呑んだ。
ひげの下の唇が震え、みるみる泣き笑いに顔がゆがむ。寝台の肩をすくい上げ、ひっし、と強く抱きすくめた。分厚い平手で頭をつかみ、頬を強く押しつけている。すりつける隙間から、良かった、良かった、と漏れ聞こえた。
大きな体にのしかかられて、エレーンは両手で背中をかかえる。そして
「──いいい痛いっ! 痛いって! まじで痛いってばアドっ!?」
飛びあがって押しのけた。
半ば本気で、じたばた暴れる。既に涙目。即座にはっきり目が覚めた。
だが、容赦のない抱擁の主は、のけぞった頭を放そうとしない。
開け放ったかたわらの窓から、夏日がまぶしく差しこんでいた。あたりは静かで、なんの物音も聞こえない。日ざしは強く、既に昼すぎであるようだ。
ようやく視線をめぐらせて、エレーンは怪訝に我が身を見た。膝の上に白い上掛け、座っているのはシーツの上、いつの間にやら寝台にいる。
昨夜の馬車は、夜の石畳をガラガラ走り、立派な屋敷の門をくぐった。馬車の扉を「お帰りなさい」と開けたのは、制帽をとったセレスタン。
いつも通りの彼の笑顔を見ていたら涙がうるうるこみあげて、とっさにしがみついて一しきり泣いた。その後のことは、あまりよく覚えていない。ラディックス商会の代表──ハジが「ほら、どいたどいた」とセレスタンを押しのけて馬車を降り、頭をかがめてザイが降り、馬車から下ろそうというのだろう、こちらに手をさし伸ばし──門にともったガラス灯、夜更けの広いロータリー、館の窓にともった灯り、気の抜けた一同の顔、夜空を眺め、伸びをして、ハジがやれやれと玄関に向かい──そこで記憶は途切れている。
気がついたら、ここにいた。この窓際の寝台に。
だが、何か様子がおかしい。ここは、昨夜馬車で到着した屋敷の中ではなさそうなのだ。立派な門構えの館内というには、壁も床も飾り気のない板張りで、棚も椅子も素っ気ないほど簡素なものだ。窓から見える風景も、緑豊かな昨夜の庭園とはほど遠い。
薄汚れた窓ガラスが、気だるく西日を浴びていた、窓の外の階下には、どことなく荒んだ細い路地──まるで見覚えのない部屋だった。エレーンは密かに困惑する。
もの問いたげな視線に気づいたらしく、「──ああ、そうか」とアドルファスが笑った。
「異民街の中だよ、ここは」
ぽかん、とエレーンは口をあける。「……いみん、がい?」
まるで予期せぬ名称だ。なだめるような顔で、アドルファスが笑った。
「驚いたか。まあ、無理もねえか。寝てる間に運んできたからな」
"外"は何かと物騒だからよ、とまぶしそうに窓を見た。ひげに覆われたその頬が、あれから少しこけたようだ。
「……あ、あどぉ」
エレーンはうるうる瞳をうるませ、口をへの字にひん曲げた。
「よ、よ、よかった──よかったっ! 元気そうでっ!」
えぐえぐ泣いて、蓬髪の首にしがみつく。窓からアドルファスが目を戻し、頭を手の平でぽんぽん叩いた。
「悪かったなあ、恐い思いをさせちまってよ。まさか、あんたが直訴に行くとは、俺も夢にも思わなくてなあ」
アドルファスは予期せず釈放されて、近郊で駐留していた自分の隊に戻ったのだという。そして、今朝方、ようやく事件の顛末を聞き、とるものもとりあえず駆けつけた。こたびの監禁騒ぎを知れば、領邸に怒鳴りこんでいきかねないので、周囲が伏せていたらしい。
「ありがとな、俺のために奔走してくれてよ」
「しっ、しっ、心配したんだからあ!」
エレーンはえぐえぐしゃくりあげる。
「アっ、アっ、アドはあたしのお父さんみたいなものなんだからあっ! なのに、なんで勝手に自首なんか! なんにもしてないのに自首なんかっ!」
責めなじる泣き顔を、アドルファスは無言で、穏やかに眺めた。
付き添いの椅子の上、膝の間で指を組む。
「……俺の娘のカーナはよ。ちょっと転んですりむいただけで、わんわん泣くような弱虫でなあ」
思わぬ名前に虚をつかれ、エレーンは面くらって顔をあげた。
「それが大勢の白衣に押さえつけられて、首の皮を剥がれてよ。どれだけ痛い思いをしたか、どれだけ恐い思いをしたか──年端もいかねえ小さなガキを大の大人が寄ってたかって──それを思うと、辛くてよ。いてもたっても、いられなくてよ」
自嘲の苦笑いで、アドルファスはうつむく。
「みんな俺のせいなんだよ。カーナがあんなことになったのも、サーラがガキを殺めたのも。俺が馬鹿な真似さえしなければ、誰も泣かずに済んだのに」
エレーンはしどもど顔を覗く。「で、でも、アドはお父さんとして当然のことを──」
「サーラは優しい女だったよ。ガキみたいに臆病で、虫を殺すのも恐がるくれえの」
瞳に柔和な色を宿して、アドルファスは微笑った。
「気が弱くて、怖がりで、なのに俺が、俺がもたもたやっていたから、あいつにヤッパを持たせちまった」
「……アド」
エレーンは戸惑い、うろたえた。彼になんと声をかけていいのか分からない。幸せな思い出を振り払うように、アドルファスは蓬髪を振った。
「俺が人殺しで捕まれば、世間が注目するだろう? 遊民の処刑は見ものだからな。そうしたら俺は、処刑台の上から見おろして、見物客に言ってやれる。連中がどれほど悪どいか、カーナをどんな目に遭わせたか、冷酷非情なあの女医がどれほどむごい仕打ちをしたか、白日の元にさらしてやれる!──そうして初めて、俺は連中を告発できる。カレリアの世論に訴えられる。その後のこたァ、なんだっていいんだ。断頭台に送られようが、縛り首で吊るされようが、俺は構やしねえんだ」
「そっ、そんなの駄目よっ!」
エレーンは息を呑んで瞠目し、たぎりを封じこめたアドルファスの拳に手を重ねた。
「そんなことしなくちゃ駄目なんて、そんなの絶対間違ってる! あたしがそっちはなんとかするから! あの女、絶対に許さないから! ちゃんと裁きを受けさせるから! 事情を知れば、みんな、きっと分かってくれる! そりゃあ商都の人たちはけっこう計算高いけど、そーゆーの知ってて見て見ぬ振りをするような、そんな卑劣な人たちじゃないもん! あ、だってね、友だちにこのこと話したら、みんな、すっごく怒ったもん! 頑張れって応援してくれたもん! だから街の人たちだって、きっと絶対──」
「ありがとな」
真顔で言い募る必死な顔に、アドルファスは笑いかけた。
「あんたのその友だちにも、いつか、礼を言わねえとな」
「ア、ア、アドォ……」
エレーンはぐんにゃり顔をゆがめた。への字の唇がふるふる震え、だくだく涙があふれ出る。アドルファスは苦笑いで、その頭をなでる。
がちゃり、と部屋の扉がひらいた。
ひょい、と茶髪が顔を出す。
「おや。ぐしゃぐしゃの顔して、どうしました?」
大きな紙袋を片手で抱えて、ザイがぶらぶら踏み入った。
顔が崩壊してますよ? とエレーンの顔をしげしげ見、パンが飛び出た紙袋を、どさり、と窓辺の卓に下ろす。
「やーっと起きましたか。もう、じきに夕方ですよ。ああ、だったらクロウを呼びますか」
うげっ、とエレーンは震えあがった。うるうる感動の再会から一転、そろりそろり、とごまかし気味に目をそらす。なんにもしていなくても、たいそう手ひどく辛辣なのに、領邸に突っこんだ後だとなると、一体何を言われることか──。はたと重要事項を思い出し、窓辺のザイを振り向いた。「ねー、ケネルはー?」
「隊長もくるでしょ、その時に」
まったくあんたは開口一番隊長ですか、とあてつけがましくチラ見して、ザイは大振りの紙袋から、パンだの瓶だの果物だのを卓の上に取り出している。その呆れ果てた横顔を、エレーンは愛想笑いで盗み見た。「……お、怒ってた? ケネル」
「当たり前でしょ。今度ばかりは覚悟した方がいいっスよ?」
にぃ、とザイは不敵に笑う。
ザイの作業を椅子で眺めて、アドルファスが「どれどれ」と腰をあげた。卓から棒状のパンをとり、「さ、腹減ったろう」と寝台に座ったエレーンに手渡す。エレーンは「──あっ、それもっ!」と瓶をさし、ふと、ザイを振り向いた。「あ、ねえねえ!」
だが、ザイは見もしない。「──今度はなんスか」
「ファレスは?」
髪の降りかかる横顔が、虚をつかれたように固まった。
たじろいだように顔をあげ、素早くアドルファスと目配せする。
「……なに? どっか行ってんの?」
きょとん、とエレーンはまたたいた。だが、こだわることなく、そわそわ扉に目をやった。二人の態度が何か妙だが、そんなことより、まずはファレスだ。そう、何か変だと思っていたのだ。物足りないと思っていたのだ。あんなことの後ならば、誰より先に怒鳴り込んできそうなものだ。なのに、まだ顔を見ていない。そもそも、いつもそばにいたのは、ザイではなくてファレスだったはずだ。
アドルファスが目をそらし、気まずそうに蓬髪を掻いた。ザイは無言で立ち尽くしている。がらんと殺風景な室内に、重苦しい空気が立ちこめている。
「な、なに? どうかした?」
座った膝を両手で叩いて、アドルファスがせかせかと立ちあがった。
「さ、さあて。バパの見舞いに行ってくるかな」
義理を欠いちゃいけねえからな、と言い訳のように付け足して、そそくさ扉に歩いていく。一体どうしたというのだろう。さっきから何か様子がおかしい。
すぐさま、ザイが後を追った。
「起きた、とクロウに知らせてきますよ。それ、ゆっくり食ってください」
行きすぎようとするその腕を、ぐい、とエレーンは引っぱった。
「ねーねー、ファレスはー?」
絶対断じて逃がすまじ!
ザイは束の間ためらって、苦虫噛みつぶした顔で目をそらした。「──そんなに気になりますか、あの人のことが」
「そりゃそーよ。あったりまえでしょー。だって、ずっと会ってないもん」
エレーンはふくれっ面で腕を組む。
「──副長、喜びますよ、きっと」
エレーンは唖然とザイを見た。どことなく妙な言い方だ。それに、歯に衣着せぬザイにして、今日はひどく歯切れが悪い。
開け放ったかたわらの窓から、生ぬるい風がじっとりと吹いた。
夕暮れは近いが、むし暑い。傾きかけた夏の日ざしが陰影ふかく壁を照らし、どこかでセミが鳴いている。
たそがれ近づく部屋の窓辺で、ザイは腕を組んでいる。未だためらう面持ちだ。意地悪しているわけではなさそうで、どことなく沈鬱な空気をまとっている。
普段と異なる雰囲気に、エレーンは初めてたじろいだ。
「も、もー、なによ一体……」
ザイが小さく嘆息し、決心したように目を向いた。
「──副長に、会いに行きますか」
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