CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 9話3
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 赤味を帯びた欠けた月が、濃紺の空に浮かんでいた。
 階下の路地で夏虫が鳴き、館内は少しざわめいている。
 陰鬱な夜だった。空気は湿り、蒸し暑い。今夜は、そよとも風がない。
 押し殺したようなその嗚咽は、真夜中の廊下にまで聞こえていた。いや、すすり泣きというのは適当ではない。暗然と沈んだ館内に、彼女の悲鳴が響きわたってから既に数時間が経っている。取り乱し、慟哭し、泣き疲れたというのが実際だろう。彼女がファレスに対面してから、もう日付が変わろうとしている。
 開け放った窓の向こう、夜空に向けて紫煙を吐く。灯りのない薄暗い廊下の、窓の手すりに腰をかけ、ケネルは紫煙をくゆらせながら、それを見届けるべく見守っていた。廊下の窓の向かい側、ひらいた扉の向こうでは、床にひざまずいた彼女の背が、寝台の肩に取りすがり、薄闇にまぎれて泣いている。
 横たわったファレスと対面し、衝撃を受けて立ちすくんだ彼女を、ザイは部屋から出そうとしたが、彼女はファレスにしがみつき、頑として離れようとしなかった。それでやむなくザイは退室を断念し、彼女に付き添っていたのだが、一時間が経ち、二時間が経っても、彼女は泣き崩れたまま動こうとしない。見かねてケネルがザイに代わり、以来こうして付き添っていた。昨夜の奪還劇の立役者ザイは、少なからず疲弊している。
 囮の役割を果たしたケネルは「対象確保」の指笛とジョエルが仕掛けた爆破の合図で、領邸から速やかに脱出した。街角で待機していた下回りに、使用した覆面と上着を預け、身軽な街着で野次馬に紛れて、ラディックス商会所有の館へ向かった。ハジの馬車が到着した後も、館内につめていたクロウと待機し、騒ぎが収まった頃合を見計らい、真夜中の人けない街に出た。
 そして、気絶した彼女を酔客のように負ぶって異民街に運びこみ、一夜があけた翌日の午後、アドルファスが報せを聞いて飛びこんでくるまで、彼女の寝台に付き添っていた。その後ようやく仮眠をとったが、それも長椅子に横たわった矢先、悲痛な悲鳴で破られた。
 一方、腹を刺されたファレスの方は、待機していた下回りに保護された。現場を通りかかった市民に背負われ、北門通りに出てきたのだ。
 ファレスを助けたその市民は、眉に古い傷を持つ四十絡みの中年男で、街角で身を潜める下回りの姿を認めるや、ためらうことなく歩み寄った。そして、ファレスを下回りに引き渡す際、「通り魔に刺されたらしい」と所感を添えた。「そうでなければ、襲撃騒ぎに巻き込まれたのかもしれないな」
 古傷をもつ風貌の通りに、男には手当の心得があるのか、負傷したファレスの腹は覆面で止血処置が施してあった。だが、怪我人を背負って歩いてきた男の服は血まみれで、下回りが取り急ぎ服の替えを用意した。男はそれに着替えると、街の何処かへと立ち去った。
 星影さしこむ寝台に、ファレスはひっそり横たわり、わずか眉をひそめて目を閉じている。患部の腹は包帯で覆われ、唇は乾いて紫色に変色し、血の気が失せた顔色は、今や土気色に変わりつつある。
 予断を許さぬ状態だった。むしろ、呼吸があるのが不思議なくらいだ。ファレスはしばしば驚異的な回復力で周囲の者を驚かせたが、そうした彼であればこそ、一昼夜もちこたえることができた、ともいえた。担ぎこまれた時には既に、出血多量で意識がなかった。
 クロウは難しい顔でファレスを診、無言で身を起こして、所見を告げた。
「切創や挫傷の処置は済みましたが、腹部の刺創で重篤な状態です。この失血では、目が覚めることはないでしょう」
 そして、こう締めくくった。
 ──"あとは、時間の問題です"
 指先で煙草をくゆらせながら、ケネルは"それ"を待っていた。
 実際に眼前にしたというのに、未だ釈然としなかった。だが、今度こそは見定めねばならない。
「──どんな具合すか、副長は」 
 紫煙たゆたう夜空から、ふと、ケネルは目を戻した。
 薄暗い廊下の先から、見慣れた一団が歩いてきていた。件の特務の面々だ。左前からセレスタン、ジョエル、その後ろにロジェ、レオン、ダナン──各々部屋で寝ていたらしく、いずれも気楽なランニング姿。
 いつになく神妙な面々に、ケネルは視線をめぐらせた。紫煙を吐き出し、首を振る。
「──そうすか」
 乾いた声で、ジョエルが応じた。夜にひらいた窓の外へと、冷めた視線を淡々とそらす。存外そっけない態度だが、他の者の反応も、ジョエルとさほど変わらない。多くの仲間を戦場で看取った傭兵たちは、クロウの所見を待つまでもなく、死線をさまよう容態を一見して見てとった。ファレスはもう長くはないと。
 セレスタンがぶらぶら歩みより、開け放った戸口から、無頓着に室内を覗いた。
 息を呑んで、足を止める。
「……姫さん、まだ、いたんすか」
 驚いたようにつぶやいて、苦々しげに目をそらした。
 蒼然とした星あかりの部屋で、黒い髪の細い背が寝台にすがって泣いていた。かすかになった彼女の嗚咽がまだ切れ切れに漏れ聞こえる。
 やりきれない表情で壁にもたれたセレスタンに代わり、ロジェが部屋の戸口を覗き、天井を眺めて嘆息した。「あの子が看取ってくれるなら、副長もさぞ本望でしょう」
「さぞや安心しているでしょうよ、あの人が無事に戻ってきて」
 別の声が割りこんだ。
 薄暗い廊下の暗がりから、もう一人の男が歩いてきていた。振り向いた一同の手前で足を止め、ザイは戸口に目を向ける。
「飯も喉を通らないくらい、気にかけてましたから」
「──とても見ちゃいられねえ」
 セレスタンがたまりかねたように背を起こした。
「あれじゃあ、姫さんが参っちまう」
 隣にいたロジェを押しのけ、部屋の戸口をつかつか潜る。
 無灯の部屋を足早に突っ切り、気遣うように長身をかがめた。未だファレスに取りついた彼女の肩をなだめている。
「ほら、姫さん、休みましょう。何かあれば呼びますから」
 そう、休養が必要なのは彼女も同じ。クロウが見立てたところによれば、彼女は大分衰弱しているとのことだった。腹部や腰には多数の挫傷も認められたという。もっとも、いずれのあざも黄変し、治りかけていたらしいが。
 疲れ果て、泣き寝入りしかけていたようなのに、彼女は座りこんだまま立とうとしない。セレスタンはその腕をとりあげて、彼女の両脇をかかえあげた。「──さ、姫さん」
「いやっ! 行かない! ここにいる!」
 彼女が弾かれたように振り払った。
 首を振って泣き叫び、離されまいとするように、横たわった肩にとりすがる。
「ファレス!──ファレス、目を開けてよっ! そんなの嫌よ! そんなの嫌よ! もう会えないなんて絶対嫌よ! お願いだから目を開けてよっ! いつものあんたに戻ってよっ!」
 眉をひそめて目を閉じたファレスは、されるがままに揺さぶられている。彼女は慟哭しながら、応えぬ相手に呼びかける。
 取り乱した様を無言で見おろし、セレスタンは沈痛な面持ちで立ちつくした。廊下で見ていた一同も、いたたまれない顔で目をそらす。悲嘆にくれた呼びかけが、金切り声の訴えが、深夜の天井に響き渡った。
「ずっとあんたのそばにいる! レノ様よりもファレスが大事──あんたの方がずうぅっと大事っ!」
「……たりめえだ、あほんだら」
 うめくような声がした。
 立ちつくしたセレスタンが、廊下にいた一同が、息を呑んで振りかえる。
「……副長が、応えた?」
 寝台に横たわったファレスが、顔をしかめて身じろいだ。
 身を起こそうというのだろう、せっかちにも肘を立て、だが、途端にうめいて頭を落とした。息を荒くあえがせて、ままならぬ体に舌打ちする。
「誰が、あんな女たらしに、負けるかよ」
 膝立ちの彼女は息を止め、驚いた顔で凝視している。
 反応さえもままならぬその黒髪のてっぺんに、ファレスは大儀そうに手を置いた。「……やっと、戻ってきやがった」
 硬直していた面々が、弾かれたように互いを見た。
「副長が、息を吹き返した!?」
 土気色だった血色が、いつの間にか回復していた。
 目を開け、悪態をつき、あの彼女と会話をしている。混濁した呟きなどではない、明瞭な受け答えで。柄の悪い、いつもの調子で。
「──ふ、副長! 副長っ!」
 特務の面々が正気に返り、我先に部屋へと駆けこんだ。星あかりの部屋をバタバタ突っ切り、すぐさま寝台を取り囲む。
 場は、にわかに騒然とした。
 彼らはかける言葉に窮し、ただただ呼びかけを連呼して、寝台のファレスを凝視している。なだれ込んだ一同を見やって、ファレスは鬱陶しそうに顔をしかめた。
「……うるせえぞ、てめえら。寝てる耳元でわめくんじゃねえよ」
 彼女は目を見開いて、言葉もなく呆然としている。泣き濡れたその頬を、新たな涙が滑り落ちる。未だ反応できないその顔に、ファレスは仰臥したまま目をやった。
「おう、アレ、やってくれ」
 ようやく彼女は気がついて、またたいてファレスを見返した。その拍子にこぼれた涙を、指の先であわててぬぐう。「……あ、あれって?」
「ほら。前にもやったろ、てめえが作った飯食って、腹こわしたあん時に──ああ、そうそう、"手当て"って奴だ。腹が痛くて、たまんねえんだよ」
「う、うん! わかった!」
 彼女があわただしくうなずいて、包帯の腹に手をあてた。ファレスに顔を振りあげる。
「ど、どう? 痛くなくなったっ?」
「……そんなにすぐに効くわけねえだろ」
 廊下に一人残ったケネルは、窓の外に手を伸ばし、外壁で煙草をすり消した。そのまま下に吸い殻を落として、部屋に入るべく足を踏み出す。
「どうしました!」
 廊下の先から声がした。
 ほの暗い曲がり角から、白っぽい人影が駆けてくる。
「容態が急変しましたか」
 せかせかと到着したのは、ファレスを診たクロウだった。この騒ぎを聞きつけて、急ぎやって来たらしい。だが、いざ部屋に到着すれば、何やら妙に賑やかだ。臨終にしては様子がおかしい。怪訝そうな顔つきで、患者の寝ている部屋を覗く。
 踏み込もうとした足が、敷居をまたいで凍りついた。
 愕然と目をみはっている。クロウは唇をわななかせた。「……まさか、ありえない。あの状態から持ちなおすなんて」
「クロウ。お前には、あれが見えるか?」
 おもむろに腕を組み、ケネルは静かに問いかけた。呆気にとられた横顔のまま、クロウは呆然と訊き返す。「何がです?」
「──いや、何でもない」
 ケネルは苦笑いで首を振った。
 あわてて駆けこむクロウの小柄な背を眺め、腰窓にもたれて、ズボンの隠しを片手で探る。煙草の紙箱を取り出して、一本くわえて火を点けた。
 開け放った窓の外、夜空に向けて一服する。
「──そうやって、あんたが治してやっていたのか」
 ケネルには"それ"が見えていた。彼女から立ちのぼる萌黄のゆらぎが寝台のファレスを包んでいたのが。
 初めの内は、目の錯覚を疑うほどの、ほのかでささやかな揺らぎだった。だが、勢いは次第に増していき、あたかもほむらが燃えたつように、うねり、爆ぜ、ほとばしり、横たわったファレスの身を焼いた。
 大陸東端の断崖から二人が外海に滑落した際、誰もが二人の死を覚悟した。時化で海流が渦を巻き、切り立った崖下は険しい岩場、二人の生存は絶望的だった。そもそも、落ちて助かる高さではない。
 レーヌの漁師アルノーも、釈然としない様子で首をかしげていた。常なら死んで当たり前の状態だったと。無人島の浜で保護した時には、ファレスは瀕死の状態だった。ところが、帰途につく頃には、容態は目に見えて持ち直し、医者にも見せずに危機を脱して、ついには、すっかり回復した。あたかも何事もなかったように。
 そして今回、この奇跡を──それが行なわれた一部始終を目の前でまざまざと見せつけられた。自然の摂理を超越し、尋常でない力が働いたことは、もう疑いの余地がなかった。
 ──夢の石が発効している、、、、、、
 彼女の怪我の治りが早いことから、初めは「所有者を守る力」を石が有しているものと考えた。だが、ファレスは石の所有者ではない。つまり、彼女が、、、夢の石を使っているのだ。
 だが、それでも疑問は残る。
 ラトキエ邸から救出した際、彼女はひどく衰弱し、胴の随所にはあざもあった。そんな力を持っているなら、彼女はどうして自分の怪我を治癒しない? それでは何か理屈にあわない。いや、むしろ、これまでならば、あざなど一晩寝れば完治していた。それがどうして、今回だけは別なのか。
 どこかに齟齬をきたしている。何よりどうして、些細な日常の怪我より先に、
 ──背中の傷を、、、、、ふさがない、、、、、
 考えあぐね、ケネルはゆるく首を振った。
 全貌を知るには、必要な要素がまだ足りない。煙草を外壁ですり消して、賑やかな部屋を苦笑いで見た。
「──二度も生き返るとは、しぶとい奴だ」
 窓の手すりから腰をあげ、こった体を軽くほぐす。
「さて、俺は、上に報告してくるか」
 主力のファレスの在・不在は、隊の命運を左右する。それに、今さら中に入ったところで「診察の邪魔だ」と追い出されること請け合いだ。
 室内はにわかに活気を帯びて、わいわいがやがや賑わっている。明るい喧騒に入り混じり、ファレスの聞き慣れた声がした。
「──おう、ジョエル。俺にもくれ、その煙草」
 だが、ジョエルの応えはそっけない。
「副長はだめっしょ。怪我人がなに言ってんすか。体にさわりますよ」
「だったら、てめえも喫ってんじゃねえよ! つかロジェ! 笑ってねえで外で喫え!」
「副長副長副長ぉ〜っ!」
 涙にむせぶセレスタンの声。
「……お、おれっ、おれっ、もうどうしようかと思いましたよっ! 今度こそ本当に駄目かと思いましたよっ!」
「おいハゲ放せ、暑苦しい。人の頭を勝手に撫でくりまわすんじゃねえ──つかザイ! ひとの足に座んじゃねえ!」
「おや。そういうことを言いますか。立場がわかってない様子」
「腹をつつくなっ! 痛てえだろっ!」
「たまたまっスよ。今のは事故っス。他意はないっス」
「わざとだなっ! 絶対てめえ、わざとだなっ!」
「おや、ダナンにレオン。財布なんか出して一体何を──」
「あああっ、副長! 違いますよ? 違いますよ違いますよ俺らは別に賭けなんか──」
「──あァ!?」
 堪忍袋の緒が切れかけた、クロウの冷ややかな声がした。
「……とっとと出てってもらえます?」
「おう、あんま下の方は触んなよ?」
 寛ぎすぎた喧騒にまぎれて、ファレスのそわついた声がした。
 その姿が、廊下端の階段に向かうケネルの視界の端に入った。ファレスは自分の腹を眺めて、何やらもぞもぞ身じろいでいる。
 間髪いれず、甲高い怒声が聞こえてきた。
「なあに考えてんのよっ! このすけべっ!」
 む、とケネルは足を止めた。
「──あの野郎。人が心配してやれば」
 額にわなわな青筋を立て、拳を握って振りかえる。
「あとで、絶対ぶっとばす」
 赤味を帯びた欠けた月が、空にぽっかり浮かんでいた。
 風のよどんだ蒸し暑い夜、だが、さわり、と柔らかな風が吹いた。濃紺の空には、満天の星々。
 真夜中をすぎた一室からは、いつまでも、笑い声が聞こえていた。
 
 
 

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