CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 9話4
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 キィー、とドアが小さくきしんだ。
 開いた扉の隙間から、ひょい、とエレーンは顔を出す。
「……ケネル、いる〜?」
 朝というのに、部屋の中は暗かった。
 窓のカーテンが引かれていて、朝陽が遮られているからだ。
 灯りのない部屋の隅、壁につけた寝台で、誰かが薄い闇にまぎれて大の字になっていた。よくある髪形の黒髪で、深緑色の丸首シャツ、黒っぽい色の綿ズボンをはいている。
 丸首シャツの平坦な胸、腹に置かれた手首の形、壁を向いた頬の輪郭、前髪がかかる、あのまつげのそり具合──
「……ケネル」
 部屋の隅の寝台を見つめ、エレーンはおずおず近づいた。
 寝静まった薄暗い部屋は、いやに厳かに静止している。時の歩みが、ここだけよどんだようだった。風だけが、かすかに流れている。カーテンの裾がゆれていた。朝方とはいえ今は真夏だ、窓は開けてあるらしい。
 変哲もない革靴が、床に無造作に脱ぎ捨ててあった。昼に羽織っていたのだろう、綿素材の街着のシャツが、椅子の背にかけてある。ケネルは少し眉をひそめて、ぐっすり眠っているようだ。顎に短い無精ひげ。
「……なんか、すっごい久しぶり」
 ゆっくりと膝を折り、エレーンは寝台に肘をついた。
 最後に彼と会ったのは、一体いつのことだろう。しばらく彼と会っていない。ずっと別棟で捕まっていて、その前は「待機」とファレスに言われて街の宿にこもりっきり、その前はあの三バカと、馬で夜道を駆けまわって、そして、それから、その前は──そう、ケネルの顔を最後に見たのは、あの宵の野営地だ。ザイの追跡をかわしつつ、アドの救出をねじ込みに行ったら、ケネルは暗いテントの中で、短髪の首長と話していた。
 短いひげの生えかけたケネルの寝顔をまじまじと見た。ケネルはいつも、起きると既に起きていて、こざっぱりとした顔をしているから、こんな不精ひげは珍しい。その唯一の例外は、レーヌの小屋で目覚めた時に、枕元にいた時だけだ。
 寝床の端に腕を置き、その腕に頬をぺたりとのせて、エレーンはつくづく寝顔を眺めた。
「……ケネルって、こんな顔して寝るのよねえ」
 ゲルでは大抵、背中を向けて寝ていたし、朝、目が覚めた時には普段通りの成りなので、寝顔はあまり見たことがないが、旅の初日に昼寝の邪魔して、すぐさま追い払われたことがあった。あれからどれほども経ってないのに、ずいぶん昔のことのように思える。
 あの頃はいつも、ケネルにまとわりついていた。ダドリーに置き去りにされ、一人きりで悩んでもがいて、恐くて不安で心細くて、ケネルの服の裾をつかんで、どこへでもくっ付いて歩いていた。
 でも、今はみんながいる。ケネルが、ファレスが、ザイが、セレスタンが、そばにいて見守ってくれる。泣いても、なぐさめてはくれないけれど、何かあれば助けてくれる。
 だから、手を放しても歩いていける。自分の足で。進むべき道へ。
 そう、別棟で捕まった時も、ザイが現れて助けてくれた。脱出した翌日も、目が覚めたらアドがいて、死ぬほど心配そうに見つめていた。いつも平然としたケネルでさえも、こんなにも疲れている。朝遅くまで寝ているほどに。
 木板の床にひざまずき、エレーンは枕元に手をついた。向こうをむいて寝入った頬に、身を乗り出して唇で触れる。
「……心配かけて、ごめんなさい」
 ケネルは少し口をあけ、わずかに眉をひそめている。
 そっとそばから立ちあがり、静かな戸口を振り向いた。もう、あまり時間がない。ラトキエ領主アルベールは、既に出立したはずだ。だから、一刻も早くトラビアに行きたい、それを頼みにきたのだが、後で昼にでも出直そう。こんなにぐっすり眠っているのに、今、起こすのは忍びない──
 むんず、と手首がつかまれた。
 事態を把握する暇もなく、ぐい、と強く引っぱられ、ぐるり、と視界が反転する。暗い天井が一瞬よぎり、頬の下に布の感触──。
 左右の足が、寝台の上にのっていた。
 つまり、横たわっているようだ。横臥した上側の腕には、重たくのしかかる皮膚の感触──?
 そろり、とエレーンは背中を見た。肩越しの視界をふさいで、不精ひげの顎の下……
 ようやく事情が飲み込めて、遅まきながら引きつった。この状況は覚えがある。そう、ケネルの横には、誰も決して寝たがらない理由。
 全力で押しのけ、じたばたあがく。
 ぐい、とケネルが両足を絡めた。逃げようとしたのが気に障ったらしい。
 あっという間に、がんじがらめ。
「ね、ねぼけてんなっ!?」
 ぎゅうぎゅう羽交い絞めにしてくるところをみると、なにか夢でも見ているらしい。てか、
(一体、何と戦っているんだーっ!)
 引きつり顔で、わたわたあがく。
 両手両足を存分に使い、ケネルは、しかとしがみつく。
(わ、わ、技かけてくんなっ!)
 そうだ、こんなことして遊んでいる場合じゃないのだ。早くトラビアに行かないとっ!
 逆毛を立てて、エレーンはフーフー押しのける。だが、ケネルは背中に張り付いているから、手足の防御が通じない。ぶとうが蹴ろうが、多少のことではビクともしない。それどころか──
 かぷっ、とケネルが首の付け根に食いついた。
 ぎょっ、とエレーンは首元を埋めるつむじを見る。
(どんな猛獣と闘っているんだーっ!?)
 わたわた全力、じたばた抗う。
 だが、しゃにむな努力の甲斐もなく、ケネルはあむあむ更に食いつき、猛獣退治に余念がない。夢の世界から取り残された実在の体は無意識につき、大した力でもないのが救い。
 エレーンはふんばり、頭を押しのけ、くたり、とのぼせて突っ伏した。
「……あっつい」
 なんといっても今は夏。草原のゲルなら、朝晩、肌寒いほど気温が落ちるが、街中にある建物内は、石畳が日ざしを照りかえし、朝から、たいそう蒸し暑い。加えて男どもの体温は、暑苦しいほど異様に高い。更に加えて、すったもんだの今日この頃、いつにもまして体力がない。
 暑さと汗の匂いで目がまわり、エレーンはぐったり、伸びる寸前。
 ケネルがうめいて身じろいだ。
 腕がゆるんだことに気づいて、エレーンはあたふた押しのけた。千載一遇のこの機を逃せば、次はいつになることやら──。
 重たい腕をそろりとはずし、硬い板床に転げ落ちる。
「……や、やったっ!」
 むくり、とエレーンは顔をあげ、はーはー息荒く拳を握った。
 脱出成功。なんという幸運だろうか。寝ぼけたケネルに捕まって、首尾よく脱出できたのは、実に初めての快挙ではなかろうか。
 ケネルが顔をしかめて、小さくうめいた。
 薄く目を開け、ぼうっ、としつつも起きあがる。気だるそうに首を振り、左右の素足を床に下ろして、寝台の端に腰かけた。
「──なんだ」
 ぼさぼさの頭を掻いて、壁の椅子に手を伸ばす。綿シャツの胸ポケットを探っている。
「あ──お、起こしちゃって、ごめんね、ケネル!」
 あたふたエレーンは謝った。
 ケネルはシャツから煙草をとりだし、眉をひそめて一本くわえ、ふと気づいたように手を止めた。くわえた口から煙草をとり、元の紙箱にそれを戻して、箱を枕元に放り投げる。
「で、なんの用だ」
 憮然とした溜息で促され、エレーンはしどもど指をいじった。
「あ……あ、うんっ! あの晩のことザイとかセレスタンに色々聞いて、なんかすごい大ごとになってて、あたし、もうびっくりで、ファレスも怪我しちゃったし、あの丸眼鏡の人にも──あ、ハジさんとかにも迷惑かけて! ケネルにはまだ会ってなかったから、ちゃんとお礼言わないと、と思って、あの、助けにきてくれて、ありがとねっ!」
「──ああ」
 ケネルの返事はぶっきらぼう。正しくお礼を言ったはずだが、むしろなんか苛立った様子。寝起きは機嫌が悪いのか? 上目使いで、えへらと笑い、エレーンはぎくしゃくうかがった。
「そ、それであのー、トラビアに行くって話なんだけど──」
 領邸から持ち帰った情報を伝えた。ラトキエの当主は代替わりし、現在、領邸の実質的な主は、邸主の子息アルベールであること。その彼がトラビアに向けて発ったこと。つまり、終戦はたぶん近い。だから、こっちも、早く商都を発たないと! ダドリーが捕虜になっているが、ケネルが前に言ったように、ラトキエはきっと躊躇なく攻め入る。
 だが、アルベールの抱く真の動機は、ケネルにはとっさに伏せた。そう、アルベールはむしろ積極的に、ダドリーを抹殺するはずだ。あの夏の過ちで、彼はダドリーを憎んでいる。これを機にアディーの弔い合戦をするつもりなのだ。だが、アディーはケネルらにすれば敵だろう。アドルファスの病気の娘は、アディーの犠牲になったようなもの。ならば、この弔い合戦を阻止することは、彼らが嫌う「金持ち女」を又も利する行為に他ならない。それを知れば、彼らの協力は得られなくなる。
 そこを伏せて話を運び、エレーンは真摯にケネルを見た。「──だからね、ケネル。一刻も早くトラビアに!」
 ケネルは無言で話を聞き、目をあげ、おもむろに口を開いた。
「ここから西へは、俺たちは行かない。あんたの旅は、ここまでだ」
 エレーンは呆気にとられて息を飲む。
「……な、なんで、いきなり、そんなこと言うの? だって約束したでしょー! トラビアに連れてってくれるって!」
「あんたの領主がくたばるところを、あんたにわざわざ見せる為にか?」
 皮肉っぽく言い捨てて、ケネルは口端で苦笑いした。「俺は、そんなに悪趣味じゃないよ」
「──だったらなんで」
 わけが分からず絶句して、エレーンは憤然と拳を握った。
「なんで、こんな所まで連れてきたのよ!」
「あんたが負った背中の傷を、治せる医者が商都にいる。だから、あんたを連れてきた。そいつは身内の不始末だからな。だが、この騒ぎで避難して、医者の行方があいにく知れない。だから、診療所があくまでは、しばらく商都で待機して──」
「傷のことなんか、どうだっていいわよ!」
 エレーンは苛立ってさえぎった。
「いいわよ、だったら一人で行くもん! ケネルになんか頼まないんだから!」
「あんた、いくら持っている?」
「──な、なによ、だしぬけに」
 憤然と踵を返しかけ、エレーンは面くらって振り向いた。ぶっきらぼうに、ケネルは続ける。「あんたの今の所持金だ。あんたの財布、中身はいくらだ」
 ポケットの上から財布を押さえ、エレーンは口をとがらせる。
「──いっ、一万一千、三百カレント、くらいだけど──それがなによ、悪いぃ?」
「そうか。それでは到底無理だな」
「な、なんのことよー?」
「それっぽっちじゃ、馬車の一台も貸しきれない」
 ケネルは軽く嘆息し、おもむろに目を向けた。
「あんたは忘れているようだが、足代ってのは無料ただじゃない。むしろ、旅費の大半を占める」
 痛いとこ突かれてエレーンは詰まり、ぶちぶち上目使いでケネルを見た。「……いっ、いーわよ、そんな贅沢しなくたって。辻馬車使って普通に行くもん」
 ケネルはやれやれと肩をすくめた。
「トラビア行きの辻馬車は、戦のあおりで運行停止だ」
「ぬぅ……そ、そしたら誰かに、お金借りるもん」
「担保はどうする」
 間髪いれずに言い返し、ケネルは腕組みで、ちらと見る。「他人に無担保で金を貸す間抜けが、商都にいるとは知らなかったな」
「そ、そしたらリナに借りるもんっ!」
「まったく、あんたも懲りないな」
 ケネルは深々と嘆息し、げんなりした顔で頭を掻いた。「また領邸に舞い戻る気か? またわざわざ捕まりに? いい加減にしてくれ」
 むう、とエレーンは口を尖らせて顎を出す。
「だ、だったらなんか、持ちもの売るもん。それでお金を作れば文句ないで(しょ──)」
「あんたの荷物は差し押さえる。以後、生活に必要なものは、その都度支給するから言うように」
「ず、ずるいわよケネルっ!」
 ついに、まなじりつりあげて、エレーンは癇癪まじりに指さした。
「あたしが言わなきゃ気がつかなかったくせにぃ!」
 ぷい、とケネルはそっぽを向いた。
「切り札は、最後までとっておくものだ」
「……ケ〜ネ〜ル〜!」
 すました顔に、エレーンはわなわな拳を握る。ちら、とケネルが蔑むように一瞥した。
「着替えもなしに旅に出るのか? 真夏のさなかに汗だくで? 着替えのパンツの一枚もなしに?」
 まあ不潔、とケネルは口に手を当てる。
 エレーンはぎりぎり地団太を踏み、拳を握って前のめり。
「なっ、なっ、なによっ! 着替えなんかなくても、どうにかなるもん! そんなの途中のお店で買えば──!」
「あんたの今の所持金は?」
 ぬう、とエレーンは言葉に詰まった。
「……いっ、一万、一千三百カレント……」
「ああ、飯や宿にも金がかかるな。まあ、切り詰めれば二泊くらいはもつかもな。到達地点は、せいぜい隣のノアニールってとこか」
「言ったじゃない! トラビアに連れてってくれるって!」
「希望とあらば、いくらでも連れて行ってやる。但し、それは、向こうが終戦した後だ」
 おれは「今」とは言ってない、とケネルはぬけぬけと肩をすくめる。
 夏日が裾でこぼれる窓に、エレーンは指を突きつけた。
「だったら荷馬車に乗っけてもらうもんっ! 別に荷台の上だって構わないもんっ! どっかの優しいおじさんに乗っけてもらうもんっ!」
「街道に、黒薔薇ローズが出没している」
 エレーンはたじろいで口をつぐんだ。黒薔薇ローズ──どこかで聞いたような名前だが?
「──そっ、それがどーしたのよ」
「どんな奴だか、知っているか?」
 ケネルが片頬で挑むように笑った。
「詐欺、窃盗、淫売、暗殺──二十代半ばの若い女だ」
 エレーンは眉根をよせて、首をかしげる。「……二十代、半ばの?」
「あんたの特徴とぴったりだな」
 話の結論を放り投げ、ケネルは思わせぶりに一瞥した。
「街道に荷馬車を走らせるような奴は、賊の噂には敏感だろうな」
 意味するところをにわかに悟り、エレーンは、むう……とねめつける。
「いじわる! なんで、そんないじわる言うのよ! 約束したじゃない! トラビアに連れてってくれるって! なのに、なんで邪魔するの! 荷物までとりあげるなんて横暴よ!」
「ここまでだ」
 ケネルがきっぱり言い渡した。
「あんたの旅はここまでだ。わかったろう。ここから先へは進めない。いい加減にあきらめて、医者が戻るまで大人しくしていろ」
「でも! あたしは行かないと! あたしはトラビアに行く為に──!」
「トラビアに行けば、あんた死ぬぞ」
 ぶっきらぼうに言い放ち、ケネルはやれやれと話を打ち切る。
「──あたしのこと、だましてたの?」
 エレーンは唇を震わせて、ケネルの顔に目をすえた。
「答えてケネル! あたしのことをだましたの?」
「俺は、あんたを死なせたくない」
 強い口調で言い返し、ケネルが真っ向から目を向けた。
 エレーンはたじろいで立ちすくんだ。
 わずかにも目をそらすことなく、ケネルがまっすぐに見返していた。決定は覆らないというように。事実、覆すことはできないだろう。彼らと過ごしたこれまでの旅で、実例を何度も見てきたはずだ。
 水面のように静かな瞳。
 相手から決してそらさぬ視線。そこにあるのは揺るぎない意思。ケネルは、ぶれない。あの勇猛な大群を統率する軸なのだから。
 ケネルの顔を凝視したまま、エレーンは唇をかみしめた。揺らがぬケネルを見ていたら、何も言い返すことができなかった。
「……嘘つき」
 足の横におろした拳を、強く強く握りしめる。
「ケネルのばかっ!」
 エレーンは顔をゆがめて踵を返した。
 駆け抜けた戸口で何かにぶつかり、はっと弾かれ、顔をあげる。
「……セレスタン」
 黒眼鏡の禿頭が、廊下の壁にもたれていた。小さく口を開け、驚いたような顔。
 エレーンはばつ悪く顔をそむけた。肩を返して、彼の横をすり抜ける。
「──姫さん!」
 セレスタンが素早く腕をつかんだ。
「どこ行く気すか」
 むぅ、とエレーンは振りかえり、足踏みしながら、手当たり次第に押しのける。
「とっ、とっ、友達ん家に行くだけよっ! いーでしょ、別にっ!」
 へら、と笑って、セレスタンが己に指をさす。「あ、なら、お供しますよ。俺も一緒に──」
「ついてこないでっ!」
 癇癪をセレスタンに叩きつけた。
 相手がひるんだその隙に、エレーンは腕をすり抜けて、廊下の先に駆け出した。
 
「──あ、姫さん!」
 我に返って、セレスタンは振り向いた。
 踏み出した足を、とっさに止める。激しい拒絶を思い出し、後を追うのをためらう間にも、小柄な背中は黒髪をゆらして、ばたばた廊下を駆けていく。
「──ああ。いいよ、任せろ」
 野太い声が横からかかった。廊下の先の、扉の陰から、黒い蓬髪がぬっと出る。
「俺が行く」
 一瞥をくれたのはアドルファスだった。二人の言い合いを聞きつけて、廊下の様子を見にきたらしい。アドルファスが笑って目配せした。
「心配するな、大丈夫だ。ちょっとそこらを歩かせたら、適当になだめて連れ戻すからよ」
「……あー、すいません首長。それじゃ、よろしく頼んます」
 セレスタンは頭を掻いて、禿頭の頭を軽くさげた。蓬髪はにやりと笑い、すぐさま後を追っていく。
 それを廊下で見送って、セレスタンは引き返した。先の部屋までぶらぶら戻り、溜息まじりで戸口にもたれる。「──姫さん、泣いていましたよ?」
「それがどうした」
 部屋の隅の寝台で、ケネルは背もたれに寄りかかり、苦々しげに横を向く。セレスタンは呆れた顔をした。
「あんな脅し方しなくても、言い方ってもんがあるでしょうに。あれじゃあ姫さんが可哀相ですよ。相手は堅気の女の子なんすよ? それを、あんな頭ごなしにやり込めるこたないでしょう」
 ケネルが驚いたように見返した。「……聞いていたのか」
「すいません。今、副長がアレなんで定時報告にきたんすが、ちょっと入れる雰囲気じゃなかったもんで」
 戸口をくぐり、ぶらぶら踏みこみ、セレスタンは肩越しに廊下を見る。
「友達ん家なんて嘘ですよ。行く先はどうせ街道でしょう。無茶しなけりゃいいんですが」
「どうせ、何もできやしないさ」
 ケネルは不機嫌そうに言い捨てた。
「どうせ、どこへも行けやしない。所持金が一万ぽっちじゃ、ノースカレリアにも帰れない。精々街中をうろついて、歩き疲れて戻るのがおちだ」
「何をそんなに苛ついてんです。隊長、なんか様子が変すよ、昨夜報告に行ってから。なんか言われたんすか、統領代理に」
「──別に」
「ウォードのことすか」
 間髪いれずに訊き返されて、ケネルは口端で苦笑いした。「──どうしても奴を殺したいらしいな」
「探してますよ、全力で」
 苦々しげに吐き捨てて、セレスタンは肩をすくめた。「仕方ないでしょ? だって相手は、あのウォードすよ?」
 敵う相手じゃないっすよ、と口調に愚痴をにじませる。
「わかっている。俺もそう報告した。奴を追っている全員から、そう聞いているからな。で、領邸や街に異状はないか」
 ああ、とセレスタンは思い出したように身じろいで、腕を組んで壁にもたれた。
「領邸や警邏が姫さんを探している様子はありません。街中もおおむね別状なしですが、妙なことが一つだけ。例のレーヌのごろつきですが、しょっ引かれたようですよ」
「嫌疑は」
「領邸襲撃の廉(かど)とかで」
「……領邸を襲ったのは、俺たちじゃなかったか?」
 ケネルが呆気にとられて見返した。そうなんすよねえ、とセレスタンはうなり、思案顔で顎をなでる。
「しいて言うなら、タイミングすかね。これまで一度も襲われたことのない領邸が、連中が商都に入った途端、あの騒ぎだってんだから」
「そんなあやふやな理由でしょっ引くか?」
 ケネルは腑に落ちなさそうな顔。セレスタンも、変すよねえ、と首をかしげる。
 首をひねる二人は知らない。なんの気なしのザイのホラを、リナがまことしやかに上司に伝え、回りまわって尾ひれがついて累が及んでいたことを。
「──ところで、セレスタン」
「はい?」
 ケネルは枕の横から、放り出してあった紙箱をとる。「暑いところ悪いが、街道に出てくれ」
「了解、隊長。で、俺は何してくりゃいいんです?」
「黒薔薇ローズの噂をばらまけ」
 セレスタンは呆れた顔をした。
「──何も、そうまでして潰さなくても」
 嘆息して、首を振る。
「会いたいんすよ、あの領主に。そりゃ生還は望み薄でしょうが、それなら尚さら一目会いたい、せめて少しでも近くにいたい、そういうどうしようもない切実な思いは、隊長だってわかるでしょうに。姫さんは領主の嫁さんなんすよ?」
 箱をゆすって一本とりだし、ケネルは眉をひそめて煙草をくわえる。
「トラビアは今、交戦中だ。素人が丸腰で乗りこんで、無事に戻れると本気で思うか?」
 セレスタンは目をそらし、気まずげな顔で頬を掻いた。「……そりゃ、まあ、ね」
「今、トラビアには、カレリアの全軍が集まっている。そんな所に好き勝手に突っこまれ、尻拭いに走るとなれば、隊の犠牲も計り知れない。敵は数万の軍勢で、俺たちは高々数十だ。仲間を何人か失って、それでも無傷で連れ戻せるかどうか──考えるまでもない。非現実的な選択だ」
 セレスタンが大きく嘆息した。
 やりきれない顔で首を振り、踏ん切りをつけるようにして踵を返す。「──わかりました。行ってきまさ」
 禿頭の後ろ姿が戸口の向こうに消えたのを見届け、ケネルは寝台の背もたれによりかかった。苦々しい顔で一服する。
「……そんなことは分かっている」
 ケネルにはよく分かっていた。彼女がどうしても、あの領主に会いたいことは。夜ごと一人で泣いている様を、誰よりも近くで見てきたのだから。
 光のない天井に、紫煙が薄く立ちのぼる。その行く末をながめやり、ケネルは目を閉じ、つぶやいた。
「心配かけてごめんなさい、か」
 
 
 
 
 

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