■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 9話6
( 前頁 / TOP / 次頁 )
日のささない暗がりに、だいたい色の丸い灯りが、ぽっ、とひとつ浮かんでいる。
人魂のような乏しい灯りが、頼りなくゆらめいている。それは異質な領域への道しるべ。
街角の石壁から顔を出し、エレーンは日没の薄闇にまぎれてうかがった。荒んだ館の正面で、川にかかる石橋のような石造りの古びたアーチが、ぽっかり口をあけていた。それは世間の喧騒からとり残された、ただそこにあるだけの、誰も誘わない異界の門。
どうにも踏ん切りがつきかねて、エレーンはうなだれ、靴先にあった小石を蹴った。そろりと再び顔を出し、入口の様子をうろうろうかがう。
暑い日中歩きづめで、足が棒のようだった。お腹だって、ぺこぺこだ。だが、啖呵を切って飛び出した手前、のこのこ戻るのは気が引けた。だって、ケネルと会ってしまったら、どんな顔をすればいい。だが、そうかといって、街宿なんかに泊まった日には、大切な資金がそれだけであらかた吹っ飛んでしまうし……。いや、だが、しかし、そうかといって、ケネルを好き放題に罵倒しといて、飯と寝床だけ世話になるのも、何やらとことん格好悪い。いや、今は体裁なんか言っていられる場合じゃない。この資金はなんとしてでも死守せねば!
(……でもなあ)
ぽん、と肩が叩かれた。
(──けっ、ケネル!?)
エレーンは飛びあがって振り向いた。
(なによっ! 違うわよっ! あたしは別に帰ってきたんじゃないんだからねっ!)とあわてて、ふーふー威嚇する。
ぱちくりまなこをまたたいて、後ろの相手を見返した。大柄な人影、たくましい肩、それに、あの黒い蓬髪。そう、そこで唖然と立っていたのは──
「……うっ、アド」
顔を強ばらせて硬直し、エレーンはあたふた目をそらした。アドルファスは親指を立て、頓着なく門をさす。「どうした、こんな所で。さっさと中に入ろうぜ」
「……うっ……やー、そっ、それが、そのぉ〜」
エレーンは微妙な笑いで尻込みした。その実、「体裁」と「飯」とを秤にかけて、密かに目まぐるしく悶々とする。なにせ、どうしようもなく腹ぺこなのだ。ぶちぶち指をいじくって、上目使いで盗み見た。
「でも、あの、あたしぃ〜。今ちょっと入るわけには……」
ぐうぅっ! と轟音がとどろいた。
ぎょっ、とエレーンは飛びあがり、己の腹をわたわた押さえる。沽券に関わるこんな時に、なんてデリカシーのない腹の虫!
お? とアドルファスは目を丸くし、すぐに事情を悟って、わっはっはっ、と豪快に笑った。
「ほれ! さっさと飯にしようぜ」
「……う゛っ。で、で、でもぉ〜……」
エレーンはうつむき、もじもじためらう。そりゃ、ご飯にしたいのは山々なのだが、こっちにだって意地があるのだ。
「だって、ケネルに会ったりしたら……」
分厚い手の平が背中を叩いた。
「だあい丈夫だよ。気にすんな。ケネルの野郎ががたがた言ったら、俺がぶっ飛ばしやるからよ。な?」
ほれ、飯だ飯だ、と背中をぐいぐい押しやられ、石造りのアーチを潜ってしまった。
木板の階段をきしませて、ためらいながらも二階にあがり、灯りのともった廊下を歩き、アドルファスの部屋で、折り詰めの弁当で念願の食事をとった。途中、ケネルと顔を合わせるのではないかとびくついたが、廊下の曲がり角でばったり出くわしたりすることはなかった。アドルファスが弁当をとりに行った際、ケネルの部屋に立ち寄って、何か言っておいてくれたのかもしれない。
おやすみなさい、と部屋に引きあげ、気持ちよく乾いたふとんの上に身を投げた。枕に顔をこすりつけ、しばし一人で悶々とし、それでも満腹になったせいか、知らぬ間にぐっすり眠っていた。
薄い上掛けに頭からまみれて目覚めると、新しい朝がやってきていた。
旅支度をあらかた終えて、エレーンは軽く嘆息する。着古した普段着なんかは質草にはならないからと、服や下着はアドルファスに言って取り返してもらった。だが、旅行用の鞄は没収されてしまった。荷物を管理していた見知らぬ男から渡された、取っ手つきの袋しかないから、あまり多くは持っていけない。せいぜい三日分の下着と靴下、荷物にならない薄い綿シャツ、そして、替えの軽いスカート。リナに返す制服も、別の手付き袋に詰めてある。
壁の時計に目をやった。飾り気のない文字盤は、八時十五分をさしている。それをもう一度確認し、とりあえず手ぶらで部屋を出た。
窓から朝日がさしこんで、部屋があるほうの廊下の壁が、明るい日ざしに照らされていた。腰窓の下の影が濃い。くっきり冴えた夏の朝。
朝の廊下に、人けはなかった。ずらりと連なる部屋の扉が、がらんとそこにあるだけだ。それは穏やかに白茶けて、すがすがしく静まっている。廊下の突き当りにある窓が、青白い光を遠くはなって、四角くまばゆく切りとられている。あたかも、坑道の出口であるかのように。意識を向ければそこにある、降りしきるような蝉しぐれ。
髪をなでるそよ風の中、夏の音を心地よく聞きながら、部屋の扉を覗いてまわった。通風のためだろう、廊下に面したどの部屋も扉や窓が開け放たれて、まるで清掃中のような光景だ。無人の窓辺で、カーテンがゆらぐ。
この建物の外観は、どこも煤けて荒んでいる。建物入口の石床の隅には、枯葉や砂が幾重にも吹きこみ、壁面を埋める窓という窓は、砂とほこりで曇っている。どこもかしこもザラついた、いわば、取り壊しが決定したまま放置された廃墟のような趣だ。
荒涼としたこの界隈に、市民の姿は見当たらない。一介の市民が立ち入るには勇気を要する場所なのだ。もっとも、何かの目的で踏み入っても、街外れの廃墟などには誰も目もくれないだろう。あまつさえ、未だ実用に付しているとは──人が寝泊りしているとは、間違っても思わない。
だが、入口のアーチをくぐって、幽々たる佇まいの館内に入り、突き当たりの角を曲がれば、意外にもこざっぱりとした木板の廊下が、左右の端まで伸びている。窓から日ざしが降りそそぎ、廊下に面した灰色の壁には、無個性な扉が連なっている。
彼らが本部と呼ぶこの館は、外観と館内では大違いで、大人数を収容できる宿泊施設のようだった。とはいえ、街にあるような宿というより、合宿所のような有り様だ。寝泊りに必要な機能だけをとりそろえ、内装はどこもそっけなく、それぞれの室内にあるのは、簡素な寝台と小さな卓、たまにタンスがあるくらい。
あてがわれた部屋のある二階の部屋部屋を見てまわり、一階におりて同様に探し、ぎしぎし鳴く階段を、残る三階へとエレーンはのぼる。
館内はあらかた見てまわった。だが、人の姿はどこにもない。まだ朝に属する時刻というのに、これは計算外だった。そういえば、彼らは早起きだから、もうとっくに起きていて、街に出て行ってしまったのだろうか。
遅かったか、との後悔が、じわりと胸ににじみ出た。どうしても、彼と話したかった。この館を出ていく前に。
三階の踊り場に出、右の廊下への角を曲がった。そこは他の階とは異なって、扉はどれも閉じていた。廊下の窓も閉て切られ、がらんと長い閑散とした廊下は、ここだけ、いやにほこりっぽい。廊下の隅には木箱が積まれ、その雑然とした山の向こうで、細長く丸めた黄ばんだ紙が、おそらく図面か何かだろう、天井に何本か突き出ていた。荷から剥がれ落ちたのか、陽に焼けた古そうな紙片が積荷の足元に落ちている。
どうやら、この階は物置にしているようだった。この四角い建物の館内は広く、部屋数は豊富にあるのだから、行き来が不便な三階まで、あがる必要もないのだろう。つまり、この階に人はいない。
徒労に肩を落として嘆息し、エレーンは階段に引き返す。
そよ風を感じて、足を止めた。風が、あるのだ。窓は閉てきっているはずなのに。
怪訝に思い、見まわして、廊下の突き当たりで目をとめた。
板床の隅で、古そうな紙片が、ほんのわずか動いていた。そこだけ窓があいているのだ。積みあげられた木箱の向こうを、首を伸ばして覗き込む。ちらと一瞬、異質なものが写りこんだ。
鈍い朝日を浴びた、ひなびた廊下の先だった。長い廊下の突き当たり、窓側の壁につけて、診療所の待合室にあるような、古びた革張りの長椅子が置いてある。その座面で、寝転がった綿シャツの腹が、窓からの日ざしを浴びている。
つかの間ためらい、エレーンは足を踏み出した。
彼は靴を履いた足を向こうに、長椅子の上で仰向きに寝ていた。日よけのためか、頭に新聞紙を広げている。つまり、肝心の顔が見えないのだ。
ほこりっぽい積荷を避けて、そろそろそちらに近づいた。深緑のランニングに、あの黒い編み上げ靴。重たそうな革ジャンが、足元に無造作に丸めてある。この服装はケネルの仲間だ。なぜ、こんな所にいるのだろう。まるで人目を避けて隠れてでもいるように。そう、誰もいないこんな所で、何をしているのだろう。
男の綿シャツの腹の上、小指にはまったごついリングが、鈍く銀光をはなっていた。指の関節をすっぽりおおう鎧のようにいかついアーマーリング。年季が入って、少しだけ黒ずんだ──そのリングに見覚えがあった。アドルファスとバリーが対戦したあのヴォルガが開かれた晩、彼の指にはまっていた。置いてけぼりにしたファレスに代わり一緒にいてくれた、あの彼の──
間違いない、と確信し、エレーンはおずおず声をかけた。
「お、おはよう、セレスタン」
がさ、と顔の新聞が動いた。
それが胸へとずり落ちて、座面に手をつき、起きあがる。
「……ひ、姫さん? なんで、こんな所に」
相手の顔を認めるなり、セレスタンは面くらったように目をしばたいた。呆気にとられた顔つきで、きょろきょろ辺りを見まわしている。人けない三階の廊下は、虚ろにひなびた日ざしの中、白々と静まっている。
「なに? どしたんです? 一人すか?」
しげしげ目を向けられて、エレーンはあたふた、ごまかし笑った。
「きょ、今日は眼鏡かけてないんだね」
「──え? ああ」
襟に差しこんだ黒眼鏡を、セレスタンは苦笑いでもちあげる。「まあ、字を読むのにホネすから」
「そっ、そうよねっ!」
エレーンはあわてて手を振った。
「そんな真っ黒なのかけてたら、見えるもんも見えないもんね! そりゃそうよね、そりゃそーだっ!」
「で」
追従笑いをまじまじと見、セレスタンは首をかしげた。「俺に何か用っすか?」
「……あー。えっとぉー、そのー」
うつむいた上目使いで、エレーンはもじもじうかがった。「ごめんね、セレスタン。怒ってる?」
「……あー、えーっと。なんでしたっけ?」
禿頭を少しかがめて、セレスタンはすまなそうに頭を掻く。
「あ、だから! あたし、昨日、セレスタンにひどいこと言っちゃって、だから」
「ひどいこと?」
「……あの」
返事につまり、エレーンは気まずく言い直した。
「"ついてこないで" とか。せっかく声をかけてくれたのに、すごく嫌な言い方して。だから、あの……」
きょとん、とセレスタンはまたたいて、合点したように顔をあげた。
「あー、あれすか。隊長んとこの部屋の前で。──いいすよ。別に気にしてないし」
「ほ、本当?」
エレーンは顔を振りあげて、ようやく、ほっと表情をゆるめた。まあ、どうぞ、と勧められ、彼があけてくれた左隣にそそくさあわてて腰かける。
セレスタンは浅く腰をかけ、両膝に腕を置いている。エレーンは気まずく指をいじくり、のほほんと頓着のない隣を覗いた。
「本当にごめんね。あたし、ちょっと苛々してて」
前屈みの横顔で、セレスタンは苦笑いする。
「許してやってくれませんかね、隊長のこと」
エレーンは顔を強ばらせた。ぷい、とふくれっつらで、そっぽを向く。
「だって! あんな大事なことで嘘つくんだもん。ケネルなんて見損なったんだから! ケネルなんて最低なんだから!」
穏やかな横顔でそれを聞き、セレスタンは困ったように微笑った。
「いつもはあんな言い方をする人じゃないんすが、どうも、めげちまってるみたいでね。ここんとこ、色々あったから」
ぱっ、とエレーンは瞠目し、あたふたセレスタンを振り向いた。
「い、色々って?」
「気になります?」
ぬっ、とセレスタンも顎を出す。
間髪いれずに問い返されて、エレーンは、はたと我にかえった。しどもど視線を脇にそらす。「べっ、別にあたしは気にしてなんか」
セレスタンが前屈みの肩を起こした。座席に放り出してあった煙草の紙箱をとりあげる。箱をゆすって、一本くわえた。
「で、わざわざ俺に謝りに? ずいぶん細かいことを気にするんすね」
「──あ、だって」
とっさに言いかけ、エレーンはばつ悪く目をそらした。
「……言葉って、一度口に出すと、取り戻せないでしょう? だから」
「なんで急に、そんなことを思ったんです?」
「だって──あたし、子供の頃、お父さんに……」
かたわらの窓から、朝の日ざしが射していた。
既に強さを増した夏の日射は、古い板床を白々と照らし、天井の隅でゆらめいている。
「お父さんに?」
マッチを擦った手を止めて、セレスタンが煙草をくわえて振り向いていた。
口をつぐんでいたことに気がついて、エレーンはあわてて首を振る。
「あっ、ううん! いいの! なんでもないの! と、とにかく! 今は一緒にいられても、いつ会えなくなるか、わからないでしょ? だから、あたし──」
「どっか行くんすか? 姫さん」
「──あっ! ちっ、ちっ、違うけどっ! 別にそういうことじゃ、ないんだけど!」
あわてて全力で否定して、己の迂闊さを内心でなじる。
セレスタンは「そうすか」と言ったきり、ぽっかり紫煙を吐いている。特に何を言うでもない。
うつむいた視界に、隣の寛いだ気配を感じた。罪悪感が胸に込みあげ、ぽろぽろ涙がこぼれ落ちる。唇を噛んだが、こらえきれない。
「……でも、そのままになっちゃったら、って思ったら、あたし」
手が、後ろ頭を引き寄せた。
額が、ランニングの肩に押し付けられる。
やんわり視界をふさがれて、エレーンはうろたえて目をみはった。後ろ頭をすっぽり包んで、ゆっくり手がなでていた。なだめるように。労わるように。
陽のあたる椅子の上、座席についた長い指から、紫煙が薄く立ちのぼっていた。鈍くひなびた日ざしの中で、紫煙がかすかにゆらいでいる。小指にはまった銀のリングが、夏日を鈍く反射している。
硬い肩に額を預けて、エレーンはゆっくり目を閉じた。
頭をなでる手が惑うように止まり、つかの間ためらい、ぬくもりが離れた。するり、とうなじに手が触れる。思いがけない冷たい指先──。
とっさに、エレーンは振り払った。
視線をしどもど脇に伏せる。今の過剰な拒否反応の、理由が自分でも分からない。頭をなでてもらっている時は、安心して身を任せていた。ためらいも抵抗も全くなかった。彼の肩に額を預け、心は安らぎさえ覚えていた。それがうなじに触れられた途端、怖気が出し抜けによぎったのだ。ただ、思ったよりも手が冷たかった、それだけのことだった。エレーンはあたふたセレスタンを見る。
「ご、ごめんね、セレスタン。あたし、あの──」
陽の当たる背もたれに腕を置き、ほんのわずか目をすがめて、セレスタンはながめていた。照れ隠しも落胆も何もない、底のない空虚な瞳で。なんの感情もうかがえない。その頬が、不意にゆるんだ。
「──俺に、あんたはやれねえや」
さばさばと身を戻し、長椅子の背もたれに寄りかかる。
両腕を背もたれに預けて気が抜けたように天井を眺め、ふと、階段のある廊下の右手を振り向いた。動きを止め、じっと目を凝らしている。
「……参ったね」
脱力したように苦笑いし、浮かせた背中を舌打ちで戻した。何事もなかったように、天井に紫煙を吐いている。
彼が見ていた方向を、エレーンもそろりとうかがった。廊下はひっそり静まりかえり、先ほどと何ら変わらない。曲がり角の板壁が、窓越しの日ざしを浴びているだけだ。隣の気配が身じろいで、セレスタンが背もたれに腕をおいた。
「ねえ、姫さん」
禿頭の首を背もたれに倒して、天井でゆらぐ光の乱反射を眺めている。
「姫さんは、俺が死んでも平気でしょう?」
「──な、なに? いきなり」
ぎょっとエレーンはたじろいだ。ぶんぶん首を横に振る。「そっ、そんなことない! あるわけないでしょ!」
「でも、それが隊長だったら」
「ね、ねえ。あたしの話聞いてるー? あ、今のは別に違うから! セレスタンのこと嫌いとかそういう意味じゃ全然ないから! ただちょっと、びっくりしちゃって」
ふっと笑って、セレスタンが振り向いた。
うろたえた釈明を遮るようにエレーンの頭に手を置いて、元の背もたれに手を戻す。
「それが俺でも、泣いてくれるかもしれませんね。姫さんは優しいから。だが、死んじまったのが隊長なら、そんなもんじゃ済まないでしょう? 取り乱して、泣きわめいて、おかしくなっちまうでしょう? 夜も眠れなくて、当たり散らして。隊長だって同じすよ。この上、姫さんにまでなんかあったら、あの人きっと──」
何かを悼むように目を閉じた。
「もう、正気じゃいられない」
蝉の音が、遠く聞こえた。
背もたれに置いた長い指から、紫煙が薄く立ちのぼっていた。窓の外で、梢がゆれる。
くすりと笑って、セレスタンが口を開いた。
「待ってますよ?」
知らず奥歯をかみしめていたエレーンは、え? と面くらって振り向いた。
「朝飯食うんでしょ、副長と」
「……あ、うん」
ファレスは寝台から動けないので、食事の時には、そちらに足を運んでいる。
セレスタンは顎で、静かな廊下の先をさす。
「今頃、苛ついてんじゃないっすか?」
さ、早く行ってらっしゃい、といつもの笑顔で促した。
オリジナル小説サイト 《 極楽鳥の夢 》