CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 9話18
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 もう、いい、と手を払いのけ、ファレスがもどかしげに顔をしかめた。苦々しげに眉をひそめて、肉巻きを口に放りこむ。
(ちょっとお! その態度はなんなのよー)
 いくら子供の前だからって。むう、とエレーンは口を尖らせ、牛乳瓶を振りあげる。
「ねー、さっきのあれ、どういう意味?」
「──なんだよ、あれってのは」
「だからー。さっきザイが呼んでたでしょ? あんたのこと "ウェルギリウス"って」
「さあ、知らねえ」 
「はあ? 知らないって、どういうことよ。あれ、あんたのあだ名でしょー?」
「知らねえ奴が、そう呼んだ。いつだったかの戦場で」
「……知らねえ奴ぅ?」
 大儀そうに眉をひそめて、ファレスは小さく息をつく。
「敵でも味方でもねえ、何かおかしな奴だった。見たこともねえ風体で、ルガーの戦場の真ん中に、ぽっと、、、丸腰で現れた。あちこちきょろきょろ見まわして、なぜ自分がここにいるのか、まるでわかってねえって面で」
 ぐびり、と瓶の牛乳を飲んで、きょとん、とエレーンはファレスを見た。「なら、その人に訊けばいいじゃないのよ。それ、どういう意味ですかって」
「死んだ」
 ぶっきらぼうに短く答え、ファレスは頬をゆがめて嘆息した。
「向こうの騎兵に、すぐに斬られた。乱戦のさなかを丸腰でうろつきゃ当たり前だ。大抵の野郎は気が立って、殺気立ってるってのに。で、られたそいつを連れ出そうとしたら、そいつが俺の胸倉つかんで、今際の際で、そう呼んだ。歯の根も合わねえくらい、ひどく怯えて、悪魔に出くわしたような面してよ」
 ──お前が "ウェルギリウス" か?
「で、その後すぐにくたばった。だから、そいつとは、それきりだ」
 なんで、あんな堅気もんが紛れこんでいたんだか──と、苦々しげにファレスはごちる。「それまで、どこにも、、、、いなかった、、、、、のによ」
「……へえ」
 ぱちくりエレーンは瞬いた。食いちぎった串焼きをもぐもぐする。どことなく釈然としない話だ。だが、それを聞いていた周囲の者が、面白がって呼ぶようになったのか──。
 くい、と腕が引っぱられた。見れば、不貞腐って寄りかかっていた左側のケインだ。
 ケインはファレスと同じく肉巻きを口いっぱいに頬ばりながら、横並びに座った更に左に指をさす。
「おばちゃん、このひと、しってるひと?」
 エレーンは怪訝にそちらを覗いた。
 船縁に陣取った横並びの左端に、いつの間にか男が座っていた。むっくりと体格の良い、黄色い綿シャツの太鼓腹の男だ。座った膝で頬杖をつき、こちらの紙袋から串焼きをとって、当然のごとくに頬張っている。口の周りに丸く生えている短いひげ、太い首に金鎖、笑顔が横に間伸びした、はちきれそうなクマ柄の綿シャツ。
「……あれ? また」
 エレーンはその顔を認めて、たじろぎ笑った。「セレスタンは?」
「はぐれちまってね」
 かじった串肉を引き抜いて、ひょい、とロジェは肩をすくめた。列の逆端に座るファレスが、訝しげに顔をしかめる。
「はぐれただ? あんな目立つハゲとかよ」
 街の往来を歩いても、頭ひとつ飛びでた奴だぞ、と昼の雑踏を顎でさす。「つか、なにちゃっかり混じってんだ。クマ吉てめえは自分で買え!」
 ロジェはなおざりに誤魔化しながら、中央に置かれた長パンの袋に手を伸ばす。ふと、ちんまり混じったケインを見た。腑に落ちない顔で顎をさする。
「ねえ副長? このガキ、例の手配中の奴じゃ?」
 ファレスは顔をしかめて手を振った。「──ああ、そいつはいい。統領代理が撤回した」
「あ、そうなんすか」
 ロジェは存外あっさり引いて、ケインの頭をにっこりなでる。「よかったなー、坊主」
「うん」
 地に付かない足をぶらぶらしながら、ケインは屈託なくうなずいた。間近に迫った太鼓腹のクマを凝視し、恐る恐るロジェをうかがう。
「……そういうの、すき?」
 これか? とロジェはまたたいて、むっくりした肩に張りついた黄色い綿シャツを引っぱった。
「似合う?」
 大口あけて、にっかと笑う。彼らの支給品に柄物の衣服はないだろうから、ロジェの自前であるようだ。
「あ、そういえば」
 ふと、エレーンは首をかしげて、左隣を振りかえる。
「ねえ、セレスタンとはぐれたって言ったけど、さっきも、おんなじようなこと言ってなかった?」
 ファレスが訝しげにエレーンを見た。「──さっきも?」
「副長〜っ! もー聞いてくれます〜?」
 ひときわ大きく嘆息し、ロジェがもどかしげに首を振った。
「俺、ちょおっと小便行ってたんすよね。で、戻ったらあいつ、もう、どっか行っちまってて。ひょっとして俺、あいつに、うとまれてたりするんすかねえ……」
 口をへの字にひん曲げて、どう思いますー? とめそめそ涙目。
 ひくり、と頬を震わせて、ファレスは拳をわななかせる。
「クマ吉の悩みなんぞ知らねえよ!?」
 まなじりつりあげ、いらいら咆哮。
「勝手に人生相談おっ始めるな! 俺はなんでも相談屋じゃねえ! そういう悩みはバパに言えバパに! あのおっさん、その手の話が大好きだぞ」
 太い首をのっそりかしげ、ロジェは上目使いで思案した。「でも〜、頭(かしら)は今、怪我人ですし。ほら、やっぱ、まずいでしょ? そういう時に、じめっとした話を持ちこむのは」
「だったら、俺なら、いいってのかよ!? バパよりむしろ重傷だぞ!」
 みろ、とファレスは腹の包帯を半眼で見せる。ロジェはぱちくり瞬いて「あれ? そういや副長」と、ファレスの顔をしげしげ見た。
「なんで外にいるんすか?」
「……今更かよ」
 ファレスはがっくり脱力し、うなだれた額をげんなりつかんだ。
「てめえはどこまで能天気なんだ。ハゲも大方、それで嫌気がさしたんだろうぜ。まして、酔っ払うごとに、てめえの尻拭いをさせられりゃ、いくらハゲがお人好しでも──」
「つか、副長が珍しいっすねえ〜。なにそんなに汗かいてんすか」
 これまでのやりとりを丸ごと無視し、「副長って汗っかきでしたっけー?」とロジェはしげしげ顎をさする。
 え? とエレーンはファレスを見た。言われてみれば、ひどい汗だ。眉をひそめた横顔の頬に、髪が汗で張りついている。なにぶん真夏のことであり、気にもとめてなかったが。
 忌々しげに嘆息し、ファレスは舌打ちでロジェを睨んだ。「余計なお世話だクマ野郎。夏に汗かいて悪りぃかよ」
「いえ、別に、そういうわけじゃあ」
 ロジェは太鼓腹のシャツをつまんで、渋々ファレスをうかがった。「もー。そんなに暑いなら、とりかえっこしますー? 副長の上着と、俺のシャツ──」
「そんな伸びきった服、着れっかよ!」
 むー? とエレーンは、うっかり上目使いで想像した。首が伸び切って肩の落ちた、ぶかぶかのシャツを着たファレスの図……?
 ファレスは苛々柳眉をひそめる。
「たく! くだらねえことほざいてねえで、てめえの持ち場に戻りやがれ!」
「──了解、副長」
 意外にもごねることなく、ひょい、とロジェは肩をすくめた。
 早々に追い払われたロジェを盗み見、エレーンは「……ご愁傷様〜」と引きつり笑う。よっこらせ、と腰をあげざま、ロジェがさりげなく身をかがめた。
(クロウを寄越します。しばらくここ、頼んます)
 え? とエレーンは面食らった。
 だが、耳打ちに気づいて見返した時には、ロジェはぶらぶら歩き出していた。雑踏に向かう肩越しで、なおざりに手を振っている。
(……。クロウってなに)
 呆気にとられてその背を見送り、エレーンはつくづく首をかしげた。耳打ちされたが、意味不明。むしろ、なんでいきなり"クロウ"なのだ?
 意地悪そうな天敵の顔が、ぽっと頭に思い浮かんで、嫌な寒気に襲われる。我が身を抱いて、うーむ、とうなった。つまり、クロウがここに混じるのか? いや、その前に、こっちの顔を見た途端、説教たれるに決まってる。まったく、どういう人選だ? 考えられることといったらば、
 ……嫌がらせとか? 
「──もーっ!」とエレーンは額をつかんで地団駄を踏む。
 ロジェのばか。
「たく。又ふけやがって、あのハゲは!」
 ファレスが舌打ちで立ちあがった。
「今頃どっかで寝てんじゃねえのか」
 顎を突き出してぶらぶら歩き、雑踏の向こうをながめやる。北門方面の路地を覗いて、又、手前に引き返し、別の路地を眺めやる。そうして、ファレスはうろうろ、うろうろ。何がそんなに気になるのか、歩道の端で徘徊し、中々こちらに戻ろうとしない。何をそんなに苛ついているのか、三白眼で歩行者を睥睨、誰彼構わずガンくれている。
「あげてもいい?」
 え? とエレーンは虚をつかれて振り向いた。
「──おはな」
 横でちんまり座ったケインが、自分の膝にうつむいていた。所在なさげな小さな手には、陽がこぼれるような黄色いミモザ。エレーンはあわてて笑顔を作る。
「もちろん、いいわよ好きにして。これはもう、ケインのだもん。あ、でも、誰にあげるのかな〜?──ははーん。わかった。プリシラでしょー?」
 言いつつ、うりうりケインをこづく。同じ年頃の盲目の少女が、あのキャンプにいたはずだ。
 むっ、とケインがふくれっつらで振り向いた。
「ちがう! でも、ひみつ!」
 むきになって言い放ち、ぷい、とつれなく横を向く。
(ふっふ。照れちゃって。かわいいなあ〜)
 かたくなに身構えた小さな肩に、エレーンはそっと微笑んだ。大きな頭と薄い肩。ちょっと誰かに小突かれれば、たやすく壊れてしまいそうだ。まつ毛の長いふっくらした頬、小さなその手は、今、黄花を持て余したようにいじくっている。
 そうっとケインは両手でとりあげ、ズボンについたポケットのひとつに、大切そうに花をしまう。
「あ、お誕生日祝いしなくちゃねー。ケイン、何か欲しいものある?」
 ケインが驚いたように振り仰いだ。
「……おばちゃんが、くれるの? ぼくに?」
「なんでもいいわよ。言ってみて?」
 どんとこい、とエレーンは笑った。本当は貧乏この上ないが、そこは大人だ、顔で笑って心で泣いて。
 ケインは「ぼく、ね……」と真面目に考え、瞳を輝かせて振り仰いだ。
「だったら、ぼく、アルビンのバッチがいい! あおいりゅうのやつ! まだ、だれも、もってないんだ!」
「ふうん。──そっか、りょーかい。あとで買いにいこうね」
 で、それって、どこで売ってんのー? と機嫌を直したケインを見る。ケインはもどかしそうに顔をしかめた。「だから、アルビンだってば」
「そのアルビンっていうのは──」
「だから! おみせのなまえだってば!」
「……あー。そーゆー」
 ほりほりエレーンは頬を掻く。聞いたことのない名前だが、どこかの屋号であるらしい。
「アルビンじゃないと、あおいりゅうは、うってないんだ!」
 じれったげな呆れ顔で、ケインがどこか得意げに続ける。口振りはもう、いっぱしだ。ふんふん相づちを打ちながら、エレーンは内心たじろぎ笑う。
(……男の子、なんだなあ)
 ファレスの後について歩いて、やることなすこと懸命に真似て、生意気な顔で粋がって。ほんのちょっと前までは、めそめそ泣きついてきたくせに。
 どんどん、どんどん、大きくなる。
 幼い殻を内から破り、更に大きくなるために。ほんのついこの前まで、母親を恋しがって泣いていたくせに。殻を破ろうとする男の子。
 ──生き急ぐ子供たち。
 振り払ったはずの切迫感が、稲妻のように脳裏を掠めた。
三歳みっつ六歳むっつ九歳ここのつ──』
 か細く息づく頼りない肩を、エレーンはたまらず抱き寄せた。
 顎の下の小さな骨格、細い髪が汗で地肌に張りついた温かくて柔らかい頭、子供の邪気ない身じろぎを感じて、ぎゅっとケインを抱きしめる。
「……大きくなんか、なんなくていいよ、ケイン」
 はっと我に返って、口をつぐんだ。
 柔らかな頭を動かして、きょとんとケインが振りかえる。不思議そうな顔のケインを「──あ、ごめんごめん」と手放しながら、エレーンはしどもど笑みを作った。
「ね、ねえ、ケイン。具合はどう? 気持ち悪いって言ってたでしょう?」
 足をぶらぶらさせながら、事もなげにケインは見あげた。「もう、へいき。さっきは、ぼく、とんだ、、、から」
「飛ぶと、いつも、そうなるの?」
「うん。くるしくなる」
 頓着なく、薄い胸を手で押さえる。当たり前だという顔で。
「そんなになるのに、どうしてケインは商都にきたの? 前にもいたでしょ、正門の方に」
 薄い眉を、ケインがしかめた。「……うん、ちょっと」
「んねー、ケイン〜?」
 猫なで声で媚びながら、ぷっくり柔らかな頬を覗く。
「することが、あるから」
 うつむいた口を尖らせて、きっぱりケインは言い切った。
「ここに、くるって、ヨハンがいった。だから、ぼくは、ぜったい、いう!」
 決然とした断言だ。だが、たどたどしい子供の話は、省略が多くて分かりにくい。辛抱強く、エレーンは尋ねる。
「ヨハンっていうのは? あ、あそこのキャンプの子?」
 口をかたく引き結んだままで、ケインはこっくり問いにうなずく。
「来るって誰が? 言うって何を──」
「ひみつ」
 ぷい、とケインはそっぽを向いた。
「……あーそう」
 乗り出した身をやれやれと戻し、エレーンはやむなく引き下がった。ケインの横顔はかたくなで、もうこれ以上は、何も教えてくれそうにない。手持ち無沙汰になってしまい、向かいの歩道に目を戻す。
(……なにやってんのよ)
 行ったきり戻らないファレスは、所在なさげに歩きまわり、相も変わらず、せわしなく肩を揺すっている。
(なにあれ。貧乏ゆすり?)
 げんなりエレーンは嘆息した。でも、そんな癖、ファレスにあったっけ?
 ファレスはしきりに顔をぬぐい、舌打ちしては顔をしかめて、どことなくそわそわしている。なぜ、今日はあんなに苛ついているんだか。ああして意味なく歩きまわって、何かを紛らわそうとでもしているような。おしっこでも我慢してるのか?──はっ、とエレーンは顔をあげた。「……やだ。ファレスってば、もしかして」
 ……まだ、お腹が痛いんじゃ?
 額をつかんで嘆息した。それならそうと言えばいいのに。ケインの手前、弱音を吐いたら沽券にかかわるとか、どうせ下らないことを考えているに違いない。でも、さっきは、けろっと復活したのに。
 そうか、あの時か、と気がついた。
 樹から落ちたケインを受け止め、歩道に尻もちをついた時。そういえば、あれ以来、ファレスは顔をしかめっぱなしだ。それでは、あれで傷が開いてしまった──?
(もー。意地っぱりなんだからー)
 それも筋金入りの意地っぱりだ。閉口して腰をあげかけ、先の耳打ちの意図に気がついた。どれほど傷が痛くても、ファレスは他人に弱みを見せない。誰の言うことも聞きはしない。それをロジェは知っていたから、本人には素知らぬ顔でクロウを呼びに行ったに違いない。だが、意地など張っている場合じゃない。一刻も早く部屋に戻って、傷の治療をするべきだ。体面なんか、どうでもいい。
 ファレスを無理にでも連れ戻すべく、もどかしい思いで腰を浮かせる。ケインが弾かれたように顔をあげた。
 身を乗り出して通りを凝視し、愕然とした顔で固まっている。呆気にとられてケインを見、エレーンは怪訝に振り向いた。視線の先は、北門付近の道の先──
(──げ。あれは……)
 ぎょっと硬直、あたふた視線を膝に伏せる。
 雑踏の中、すらりと背の高い若い女が、いぶかしげに立ち止まっていた。額の横でさらりと分けた茶薄の長髪。鋭い双眸、薄い唇に真紅の紅。首元を開けた薄紫のブラウスに、白いスラックスをはいている。買い物をした後らしく、手には白い紙袋。
 あの顔を忘れられるはずもなかった。服や雰囲気こそ前の時とは異なるが、一度は誘拐されそうになったのだ、見間違えるわけがない。
 そう、何度も彼女と会っている。ゲル近くの深夜の林で、ケネルが下草に押し倒していた女。ファレスを捜していたレーヌの町で、ザイが突然捕まえた女。アドルファス夫人を追いかけて、踏み入ったロマリアの裏山で、仲間の賊を出し抜いて言葉巧みに連れ去ろうとした──そう、あれは、
 ──「黒薔薇ローズ」と呼ばれる女。
 船縁の座面に手をついて、ケインがうつぶせに向きを変えた。もたもた地面に降りようとしている。いきなり、どこへ、と戸惑って、ぎくり、とエレーンは引きつった。
 あの女賊の所に行こうとしている?
「だ、だめよ、ケインっ!」
 あわててケインを引っかかえた。何がそんなに興味を引いたか知らないが、あれは仲間でさえも平気で刺す、冷酷極まりない悪党だ。
 腕をつっぱり、顔をしかめて、ケインはもがいた。女を凝視し、薄い唇をわななかせている。食いしばった唇が、怒鳴りつけるようにして、その名を叫んだ。
「おかあさんっ!」
 エレーンは面食らってケインを見た。「……お、お母さん?」
 乗り出すケインの横顔と、歩道で立ち止まった件の女を、呆気にとられて交互に見る。
(……あれ? でも、あの人って)
 女の何かが引っかかり、エレーンは怪訝に意識を凝らす。
 ふっと記憶が蘇った。それはファレスと息抜きしに行ったルクイーゼの街道だった。ファレスが帰りの馬を取りに行き、一人残されたあの夕刻、街道にいた若い女に、ケインらしき子供がまとわりついていた。あの時の女と、彼女は同じ服を着ている。だが、あの時、ケインは、女に無下に追い払われていた。ならば、やっぱりケインの
(……勘違い?)
 おかあさんと呼ばれた女は、笑みのひとつも浮かべていない。子供の呼びかけに応えてやるでも、相好を崩して駆け寄るでもない。いぶかしげに目を凝らし、ゆるい雑踏に立っている。相手の出方を見極めようとするように。
 その整った顔立ちが、ほんのわずか目をすがめ、カツン、と踵を鳴らして踏み出した。
 はっ、とエレーンは我に返る。
(……見つかった!)
 女は迷いのない足取りで、どんどん、こちらに近づいてくる。用があるのはケインではない。この自分だ。あの賊には、何度もさらわれかけている。
 厳しい視線はそらさぬままで、女はつかつか近づいてくる。ケインは腕から抜け出そうと、のけぞり、遮二無二ふんばっている。もどかしさを浮かべる幼い横顔──
 ブーツの足で闊歩する度、女の髪がしなやかになびいた。手にさげた紙袋がゆれる。きちんとした身形のわりには、それだけ、いやに安っぽい。ほっそりしたその腕が、体の後ろから、ぞんざいに取られた。
「レイラ=ハッカーだな」
 硬い男声の確認と共に、女の肩の向こう側に、赤の色彩が現れた。黒い制帽に、赤いジャケット、そして、黒のスラックス──。
 いかめしい顔をした、二人組の衛兵だった。祭で浮かれた穏やかな街に、直ちに警笛が響きわたる。隣の連れの衛兵が、胸の呼び子を吹いたのだ。
 鋭い呼び子は、祭の雑踏を駆け抜けて、煉瓦の壁々に反響し、夏空の果てに放たれた。帯刀した衛兵が、バラバラ街角から集まってくる。
 女の腕をつかんだままで、左の衛兵がおごそかに告げた。
「レイラ=ハッカー。ゲールハルト=アルトナー殺害容疑で逮捕する」
 
 
 

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