CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 9話20
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 何をどう感じていいのか分からなかった。
 あまりに唐突で、この現実を受け入れられない。だが、はっきり分かっていたことが一つだけあった。ケインは騒ぎを起こす前から、既に精根尽きていた。異能の力で移動したため、ひどく体力を消耗していた。なのに、使ってしまったのだ。わずかに残った生命の息吹を。彼のなけなしの命数を。
 路肩に弾き飛ばされた衛兵が、方々で立ちあがり始めていた。いずれも大儀そうに身を起こし、制服の砂塵を払っている。平常を取り戻すように首を振り、所々裂けた制服に、そして手足の傷を見て、それぞれ顔をしかめている。
 衛兵のひとりが女賊に近づき、そろりと様子をうかがった。
「すぐだ」
 ぶっきらぼうにファレスは言い捨て、空に向けて紫煙を吐く。「すぐに死ぬ。あわてんな」
「──ファレス!」
 エレーンはあわててたしなめた。すぐそばに本人がいるのだ。
 口ひげをたくわえた上官が、取り出したハンカチで頬を押さえて、疑わしげに目をすがめた。「まだ死ぬと決まったわけでは──」
「──ふざけたことを抜かしてんじゃねえよ」
 ファレスは眉をひそめて一蹴し、やれやれと紫煙を吐いた。
「そんなもんで串刺しにされて、てめえらなら死なねえってのかよ」
 遠巻きにしていた衛兵たちが、気色ばんで振り向いた。同僚の勇み足を皮肉られたように感じたのだろう、だが、反論が見つからなかったか、不承不承口をつぐんだ。路上であぐらを掻いたまま、ファレスは空に向けて紫煙を吐く。
 晴れ晴れしい楽隊の調べが、薄青い空で鳴っていた。
 健全で、悠長で、少しだけ能天気さが入り混じった調べ。白々しいほどに、のどやかだった。どんな凄惨な修羅場にも頓着しないというように。
 ファレスの荒くれた風体を見、上官はいぶかしげに腕を組んだ。「この女は遊民なのか?」
「見りゃわかるだろ、身内だよ」
 緊張した面持ちで聞き耳を立てていた衛兵の一人が、ほっとしたように汗をぬぐった。
「……遊民、か」
 気が抜けたような呟きが落ちた。助かった、、、、とでも言いたげな。その手には、まだ鞘に戻すことができないのだろう血まみれのサーベルが握られている。
 女を刺した衛兵だ。
 すっと血の気が引くのがわかった。エレーンは密かに拳を握る。
「……なら、なんとも思わないわけ?」
 自分でも驚くほど低い声が出た。
 ふと、衛兵が身じろいだ。憤怒に唇をわななかせ、エレーンは顔を振りあげる。
「だったら、なんとも思わないわけ? あんたにそう訊いたのよ! ねえ、見なさいよ、あの人を。あんたは今、何をしたの? あんたが持ってるその剣で、生身の人間を刺したのよ?」
 衛兵たちは束の間ひるんだ。だが、すぐに血相変えて向き直る。
 つかみかからんばかりのその肩を、口ひげの上官が片手で制した。落ち着いた物腰で、悠然とエレーンを振りかえる。
「いいかね。あの女は逃亡を企てた。罪人の逮捕が我々の職務だ。あれは、やむをえない措置だった」
「そんなのって、おかしいでしょう!」
 怒りに任せて即座に返し、エレーンは倒れた女に指をさす。「なにも斬らなくたって!」
「──姫さん」
 肩をつかまれ、踏み出しかけた爪先が浮いた。
 抱え込むようにして引き戻され、エレーンは苛立って振りかえる。黒眼鏡の顔が、そこにあった。セレスタンはたまりかねたように言い聞かせる。「よしましょう、姫さん。相手は元締めの官憲すよ」
「だからって!──だったら何をしてもいいって言うの? 彼女が何をしたっていうの? 別に何もしてないじゃない! そりゃあ、今まで散々悪いことをしてきた人かもしれないけど、でも、今はしなかった! みんなだって見たでしょう?」
 セレスタンの手を振り払い、勢い込んで振りかえる。
 沿道にたむろす人々は、虚をつかれて身構えた。
「ねえ! 見てたでしょう? あの人たちが彼女にしたこと!」
 じりじり視線をめぐらせる。
 人々は眉をひそめて、ざわついた。ばつ悪そうに目をそらし、ぎこちなく囁き交わしている。
 だが、同調者は現れない。予期せぬ捕り物に釘付けになり、顛末を見ていたはずなのに。見ていなかったはずがないのに。丸腰の女が衛兵に刺された一部始終を。
「……どうして」
 エレーンは愕然と立ち尽くした。爪が手の平に食い込むほどに、拳を強く握りしめる。自分が商都の民であることを、これまで密かに誇ってきた。自由で、公正で、明朗で、堂々と胸を張って生きている、誰にも開かれた精神風土、風通しの良い気質であることを、これまで誇って生きてきた。だが、この現実はどうだろう。関わり合いになることを恐れ、事実を封じこめ、口をかたく閉ざしてしまう。それも又、彼ら商都民の姿だというのか。
 ──いや、
 エレーンは嘆息して、首を振った。相手が悪い。そもそも無理だ。セレスタンが諌めた通りに。事件を通報しようにも、衛兵こそが警防の元締め、治安を預かる当局なのだ。被告に被告を裁けというのか。
 薄青い夏空で、楽の音が快活に鳴っていた。
 目抜き通りの楽隊の調べ。その音で騒動は掻き消され、大通りをぶらつく人々は、未だに誰も気づいていない。街の出口の片隅で起きた、北門通りの凶変に。
 ファレスは市民の裏切りを目の当たりにしても、何も言いはしなかった。路上であぐらを掻いたまま、空をながめて、ただ紫煙を吐いている。何を感じているのかわからない、淡々とした横顔で。
 明るい日ざしが降りそそぐ、祭当日の真昼の通りは、重苦しい空気に包まれていた。
 現場を囲む人々は気まずげな顔で目をそらし、だが、立ち去ることもできずにいる。
 この場に居合わせた彼らは既に、この事件の関係者だった。衝撃的な場面に立ち会った「証人」という名の目撃者。彼らは今や、祭の開催を待ちわびて浮かれ騒ぐ大通りの、何も知らない人々とは、一線を画す視座にいる。
 誰もが既に渦中にいた。誰もが"事実"を知っていた。だが、誰も表立って言葉にはしない。
 そうした日和見的な処世術も万事心得ていたのだろう、口ひげをたくわえた上官は、傍観者の苦い面持ちを睥睨し、言い聞かせる口調でくり返した。
「この事故の原因は、逃亡を図った罪人にある。その逃亡を放置すれば、多くの市民に危害が及ぶ。ここを分かってもらいたい」
 エレーンはきつく瞼を閉じる。セレスタンがなだめるように肩を抱いた。あたかも判決を言い渡すかのように、上官の声は朗々と続く。「よって、我々はやむをえず──」
「ちっ、違います!」
 若い女のか細い声が、暗い静寂を突き破った。
 はっとエレーンは顔をあげ、沿道に視線をめぐらせる。
 彼女の居場所はすぐに分かった。街路灯がある煉瓦の壁の街角だ。彼女の周囲の人々が、驚いたように振りかえっている。
 人々の注目を一身に集め、小柄な娘が怯みつつ、下ろした両手を硬く握りしめていた。肩までのウエーブの髪、たじろぎながらも一歩も引かないかたくなな瞳。白襟紺服のあの制服。その横で、彼女の双子の妹が、ぎょっとした顔で瞠目している。
 口ひげの上官が、いぶかしげに向き直った。その顔をまっすぐ見つめ、ラナはおずおず訴えた。
「それは、違うと思います。あの女の人は、逃げようとしていたわけではありません。あの人は、すぐに戻ると言いました。確かにわたしは聞きました。あの人は、子供の様子を見に行ったんです。逃げようとしていたわけではありません」
 哀れみの入り混じった好奇のまなざしにさらされつつも、ラナは一気に、声を震わせて言い募る。重苦しい空気に気圧されつつも、やはり一歩も譲らない。
 あんぐり口をあけて絶句していたリナが、わたわた周囲を見まわした。だが、キッと上官を振りかえり、引きつり顔の及び腰ながらも、人さし指を突きつけた。
「そ、そーよっ! なに都合のいいことばっか言っちゃってんのっ? あんた達が勝手にびびって、あの人の背中に斬りつけたんじゃないのよ。あたし達、ちゃあんと見てたんだからねっ!」
「はい。明らかに失点ですね」
 別の声が後押しした。やはり若い娘の声、双子の居場所から一区画離れた店先だ。ずい、と彼女は人垣の前面に進み出て、とんぼメガネを押しあげる。
「無抵抗の相手に対し抜刀したのみならず、ましてそれに斬りつけるなど、いかな強権を保持する官憲であろうと許される行為ではありません。先の行為は相当性の要件を欠き、なお且つ緊急避難の補充性の要件についても満たしていません。法益の観点から論じるにしても、相当の範囲を逸脱しています。よって、行き過ぎた防衛行為、いわゆる過剰防衛と言わざるを得ません」
 朗々と述べる明晰な主張に、沿道の人垣がざわめいた。そのざわめきに入り混じった当惑を、一人の声が代弁する。
「──なあ、おい。あの制服はラトキエの?」
 そう、彼女らのまとう白襟紺服の制服は、領邸使用人であることの証。その採用にあたり、官吏の登用試験並みの難関を突破せねばならないことで知られている。
「そうだ! 俺も見ていたぞ!」
 確かな論拠をそこに見出し、新たな援護者が現れた。年の頃は四十半ば、でっぷりとした腹に白い前掛け、飲食店の主のようだ。彼は毛深い腕を組み、苦々しげに頬をゆがめる。
「その人の言う通りだよ。あの女は一度も逃げようとなんかしなかった。そこんところは間違いねえ」
「子供の所に行ったのよ!」
「そうだそうだ! 俺も見たぞ!」
 更なる同調者に勢いを得、一人、また一人と目撃証言が相次いだ。
 臆し、ひるんだ空気が変わった。
 人々は口々に言い交わしていた。だが、それは今や、無謀な娘に対する哀れみではない。
 勇気を振り絞ったラナの言葉を、いくつもの声が補強する。人を代え、言い回しを代え。衛兵に向かう彼らの視線に、はっきり非難が入り混じる。
 口ひげをたくわえた上官が、不愉快そうに鼻を鳴らした。わずらわしげに頬をゆがめて、反感に湧く人垣を見まわす。
「我々は警告した! それを無視したのは女の方だ!」
「だから! やりすぎだって言ってんだよォ。あんた、今のねえちゃんの話、聞いてなかったのかよ」
 即座に、じれったげな罵倒が返る。それとは又別の場所から、新たな罵声が浴びせられる。
「そうだ! 何も斬りかかることはなかったろうがよ! そうやって無理にこじつけて、俺らの時にも同じことを言う気かよ!」
 無造作に投げつけられたその仮定に、はっと人々が身構えた。事例が我が身に引き下ろされ、沿道は一気に沸きかえる。
 北門通りは騒然とした。沿道でひしめく観衆が、今や口々に言い立てていた。男も女も老いも若きも、こうなれば黙っていなかった。圧殺の可能性が不意に我が身にさし迫り、誰もが食いつかんぱかりの形相だ。宿敵に出くわしたごとくに誰もがまなじりつりあげて、乗り出し、拳を振りあげて──
「いい加減にしろ!」
 声を荒げた恫喝が、北門通りにとどろいた。
 沿道の人々を睥睨し、口ひげの上官は、まくし立てる。
「いつまで、そうして騒ぐ気だ。お前ら全員、逮捕するぞ!」
 人々はとっさに口をつぐんだ。だが、エレーンが先に呼びかけた彼らのそっけなさとは事情が違った。不快もあらわに腕を組む者。不服げに睨みつける者。嘲るように鼻を鳴らす者。衛兵に対する反感と不審が昼の歩道に渦まいている。彼らはもはや、大人しく従順な傍観者ではない。
「……やってみろよ」
 腕を組んだ若者が、憎々しげに唾を吐き、口ひげの上官をねめつけた。
「そんなことをしてみやがれ。人権蹂躙で訴えてやるからなあ!」
 そうだそうだ、と沿道も高らかに同調する。
 衛兵たちはたじろいだ。今のは明らかに暴言だった。理は今や、彼ら市民の側にある。
 だが、閥の威厳を守るべく、上官は負けじと言い返す。非難にさらされた衛兵たちも、一人、また一人と騒動の輪に加わった。
 一度は収まった騒動が、規模を拡大してぶり返した。誰もがその向かいに向けて、口汚く罵り合う。異様に高揚し、収まりのつかない密やかな憎悪が、昼の歩道に膨張する。
「──ご苦労さん」
 いささか場違いな静かな声に、ふとエレーンは振り向いた。
 その動きを見咎めて、人々も怪訝に振りかえる。"それ"にようやく気づいた者から、一人、また一人と顔を強ばらせて口をつぐむ。それはみるみる広まって、泥仕合の応酬が波が引くように収まっていく。
 しん、と厳粛な静けさが降りた。
 水を打ったような静寂が、昼の歩道に広がっていく。
 道に横たわった件の女賊が、激しく痙攣をくり返し、大量の血を吐いていた。その頭に手を置いて、ファレスは懐を探って煙草をくわえる。
「もう、なんの心配も要らねえよ。嫌な仕事ヤマは受けなくていい。他人が捨てた食い残しを、奪い合う真似なんざしなくていい。誰も邪魔はしねえから、ガキとゆっくり眠ればいい」
 乾いた声で淡々と言い、顔にふりかかった女の髪を無造作な手つきで払ってやり、夏空に向けて紫煙を吐く。
「あんたはよく頑張った」
 蝉声が、昼の歩道に舞い降りた。
 じりじり太陽は変わらず照りつけ、石畳の歩道を焼いている。
 喧騒が払拭された昼の歩道に、しめやかな空気が立ちこめた。ついに女が事切れたのだ。重々しい憂いに浸るでもなく、ファレスは上官に目をやった。
「おう。世話をかけたな。後はこっちで仕切るからよ」
 かたわらのセレスタンを振りかえる。「おい、担架だ。運んでやれ」
 ふと、上官が我にかえり、ファレスを苦々しげに見下ろした。
「──何を馬鹿な。勝手な真似は許さんぞ」
「遊民の死体なんぞを持ち帰ったところで、持て余すのがおちだろうが」
 つっけんどんに、ファレスは返す。
 見透かしたように顎をしゃくられ、立ち尽くしていた衛兵たちは、たじろぎ、互いに見交わした。上官は憤然と腕を組む。「この女は手配していた凶悪犯だ。連行するのが我々の職務だ」
「わかんねえジジイだな」
 ファレスが舌打ちして、上官を仰いだ。「連行もくそもあるもんかよ。もう、とうに死んでるじゃねえかよ」
「私どもが引き取りましょう」
 声が話に割りこんだ。まるで別の、男の声だ。
 見れば、向かいの商館街の歩道から、身形の整った数人が石畳の馬車道を横断してくる。
 上官はいぶかしげにすがめ見た。「──なんです、あなた方は」
「いや、お勤め、ご苦労さまです。私どもはラディックス商会の者です。どうも、騒ぎを見かねましてね」
 先頭にいたのは、小奇麗な成りの壮年の男だった。年の頃は三十半ば、見るからに上質な立て襟のシャツに、肩で切り揃えたウエーブの髪。ひげのない細面に銀の縁の丸眼鏡。
 ラディックス商会の代表、ハジだ。ハジは上官のかたわらで足を止め、にこやかに手を広げた。
「聞けば、彼らは遊民とのこと、こうして来合わせたのも何かの縁だ。いえなに、私どもは商売上、彼らとは浅からぬ誼(よしみ)がありましてね。ついては、この方々は、私どもの方で弔いますよ。──君、担架を」
 背後の連れを振りかえる。上官は渋い顔で顎を撫でた。「急に、そう言われましてもな」
「なにか問題でも?」
「我々の方にも、手続きというものがあります。いかなラディックス商会さんといえど、出すぎた真似は困りますな」
「私は便宜を図っているつもりなのですがねえ」
 聞き分けのない子供を見るように、ハジは、やれやれと腕を組む。
「幸い、と言っていいものか、彼女は身寄りのない遊民とのことですし。なにせ、このむごい有り様です。日中の往来で官憲が被疑者を手にかけるなど聞いたこともありません。その上、市民に対し暴言を吐くなど。商都は市民の税で成り立つ街です。ゆめ履き違えのないよう願いたい。今回の経緯が明るみに出れば、お困りになるのは、あなた方の、、、、、ほうなのでは?」
 ちらり、と一瞥で仄めかす。
 やりとりに見入っていた衛兵たちが、落ち着きを失い、うろたえ出した。沿道では、証人と化した市民らが、厳しい顔つきで見据えている。逃がさない、というように。
 顔をゆがめて、上官はうめいた。「──しかし」
「まだ、ご納得いただけませんか」
 ハジは呆れたように嘆息した。困ったもんだ、というように、やれやれと首を振る。匙を投げるように振り向いた。
「ならば、当局にお問い合わせ下さって結構。もっとも、当方の申し出が却下されることはないだろう、、、、、と思いますがね」
 組んだ腕をおもむろに解き、強い視線で向き直った。
 
 
 

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