■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 9話26
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ふっ、と地面がかき消えた。
根元から伸びた若枝を、とっさにつかむが、間に合わない。
ぬかるんだ斜面に足をとられて、またたく間に滑り落ちた。尻もちをつき、打ちつけた痛みに顔をしかめて、エレーンはあわてて起きあがる。
急傾斜の上り坂の上で、梢がさわさわ揺れていた。
顎で両手をやきもき握り、息を殺して、じっと耳をそばだてる。
追っ手の粗暴な声がした。無慈悲で暴力的で残忍な怒声。舌打ちし、鵜の目鷹の目で捜している。数人がかりで獲物の居場所を。
バリーと別れ、しばらく一人でとぼとぼ行くと、追っ手の気配を背後に感じた。
言われた道をすぐに外れて、左手の藪に飛びこんだ。密生している藪を選んで、大木の裏を伝い進んだ。身を隠し、ひたすらに逃げてきた。足音を殺し、声を殺して、なるべく音を立てないように。
追っ手を気にして、振りむき振りむき逃げていたら、突如、足元をすくわれた。
気がつけば、急傾斜の下に落ちていた。
荒く野太い咆哮は、大きくなり、小さくなり、まだ頭上から遠のいていない。獲物の姿がかき消えたので、あわてて付近を捜している。これでは逃げるどころか、坂をあがることさえままならない。今のこのこ出て行けば、たちどころに捕まってしまう。
親指の爪を噛みながら、エレーンはじりじり頭上を仰ぐ。まずは道を見つけなくては。あの傾斜の上まであがれる道を。追っ手の気配が消えたらすぐに、なるべく遠くへ逃げるのだ。元の道にとりあえず戻って、森から自力で出なければ。助かる道は、それしかない。いつまでも同じ場所でうずくまっていては、やがて、ここも探り当てられてしまう。
せっぱ詰まって振りかえり、エレーンは面くらって息を呑んだ。
「……な、なに? ここ、どこ」
高く澄んだ青空と、向こう岸の夏木立が、くっきりと水面に映っていた。
ひっそりとした沼が目の前にあった。辺りには野草が生い茂り、水面を挟んだ対岸には、青くゆるやかな稜線がどこまでもどこまでも連なっている。
意図せず別天地にさまよい出、エレーンはなすすべもなく立ち尽くした。
「……どうしよう。あたし、この先、どっちに行ったら」
おろおろ視線をめぐらせて、傾斜の上まで続いていそうな道を捜す。だが、水辺には樹木が生い茂り、その様はどこも似たようで、木立の切れ目さえ見つからない。
沼はひっそりと静まりかえっている。西も東も分からない。あのバリーに言われた通り、曲がりくねった獣道をただただ道なりに歩いてきたから、森のどの辺りにいるのかさえ、今ではもう見当もつかない。
静かな風が吹きわたる、沼の前に立っていた。
遠くかすかに声がする。殺伐とした苛立った声。それは遠くなり、近くなり──。
エレーンは我が身を抱いて身震いした。
恐かった。ああした手合いにはこれまで何度も襲われたが、これほど恐いと思ったのは、これが初めてのことだった。それは、ケネルが常に近くにいたから。必ず助けてくれると知っていたから。だが、もう、助けは来ない。
どこからも。
動揺に意識が焼き切れる。うろえた視線が、右の手についたそれを捉えた。
「……あ……手……手、洗わないと」
エレーンはのろのろ、沼のほとりに足を向けた。
急傾斜を滑り落ちた際、とっさに手をついたのだろう、手が泥だらけになっている。本当は手などどうでもよかったが、何かして気を紛らわせていないと、怖気で気持ちが押し潰されてしまう。
水辺に歩いて、しゃがみこみ、背を丸めて膝をかかえた。
透明な水に手を浸し、ちゃぷちゃぷ手を振り、静かにすすぐ。ハンカチを出そうとポケットを探って、ふと、怪訝に振り向いた。指先が硬い何かに触れたのだ。
なんだろう、と取り出して、エレーンは頬を強ばらせる。ケインが欲しがっていた、あのバッジだった。まん中に青い竜が描いてある──。
北門通りで猛威をふるったあの異様な突風をケインの仕業と気づいた者は、ただの一人もいなかった。飛んできた瓦礫が体に当たり、子供が不幸にも命を落とした──そう思われたようだった。
そう、ケインは死んでしまった──。
バッジを虚ろにもてあそび、エレーンは沼を眺めやる。
うすら寒い肩をつつんで、雄大な景色が広がっていた。閑寂の中、動くものは何もない。つかみどころのない気持ちのままに、目の前の景色をぼんやりと眺めた。
感覚が、遠くなる。
意識が皮膚の殻をすりぬけ、この大気に霧散して、自然の中に溶け入りそうだ。それが一番、破綻がない。この景観に含まれる鳥や虫らと同じように。地上の神のごとくにふるまうヒトとて、つまりは生命の亜種なのだから。
踏み込んではいけない神域に入り込んでしまったような、空虚で敬虔な畏れを感じた。広大な風土にただ独り、放り出されてしまったような、この清浄な仙境の前には、何をしても敵わないような、必死であがいても無意味のような、今にも呑まれてしまいそうな──。
ちっぽけだった。
ひどくちっぽけな存在だった。自分がひどくちっぽけで、痛切に感じた小ささが、今はたまらなく辛かった。
「……ケイン」
バッジの竜を凝視して、エレーンはわななく唇をかみしめる。あんなになついてくれたのに、何も返してやれなかった。何をしてやる事もできなかった。
そう、ほんの数分のことだった。あの惨い事件が起きたのは。それまでゆるやかに流れていた時間が、あっという間に暗転した。自分のこの傍らに軽い体重で寄りかかり、お昼ご飯を食べていたのに。小さな手で焼き串をつかんで、ファレスをあわてて盗み見て。すねて。笑って。怒って。威張って。本当に、普通に──。
あっけなく、人は死ぬ。
とうに知っていたことだった。まだ幼かったあの日から。仕入れに出向いた旅先で、両親が死んだあの日から。
「……返してよ」
知らぬ間に噛んでいた唇が震えた。顔をしかめたその頬を、ぽたぽた涙が伝い落ちる。
「お願いだから! お願いだから! あたしにケインを返してよ!」
エレーンは膝を抱きしめた。お守りにしている翠石を、強く手の中に握りしめる。
これが夢の石だというのなら、人の世の望み、ことごとく叶えるというのなら、どんな望みも叶えてくれるというのなら、どうしても叶えたい願いがある!
分厚い夏の雲を割り、神々しいほどの天からの陽射が、光の帯を下ろしていた。
静謐で満たされた森の中には、鳥のさえずりしか聞こえない。手の平に置いた翠石は、水面で跳ねた光を反射し、硬い光を放っている。
ぴちょん、とどこかで水音がした。
「……もう、やだ」
エレーンはうつむいた目元をぬぐった。
「なんで、いつも!──いつも! いつも! いつも!」
居場所を求めて生きてきた。
なのに、気づいてみれば、誰もいない。物心ついた頃から、そうだった。昨日まで甘えていた両親の手が、ある日突然かき消えた。自分ひとりを置き去りにして、彼らは二人していってしまった。
そう、みんな、いなくなってしまう。結婚相手には失踪され、なついてくれたあのケインも、母親と共に逝ってしまった。ずっと力を貸してくれたケネルにも、あっさり背中を向けられた。ちょっと気を許した途端、バリーにもそっけなく見捨てられ、一人で賊に追いかけられて、たったひとりで逃げまわって──気がついてみれば、いつだって一人で。
──いつまでも、独りで。
こつん、と心がつまずいた。
自分が歩むこの道は、破滅にしか向かわない。
自分が大切に思う相手は、皆どこかへ去ってしまう。どんなにがんばって笑いかけても、どんなに急いで走っていっても、もう、そこには誰もいない。この手は誰にも届かない。この手は、誰も捕まえられない。
「……迎えに、きてよ」
心の底に押しこめてきた、ずっとずっと我慢してきた渇望だった。
「む、迎えに、きてよ……あたしのこと、迎えにきてよっ!」
──ケネル。
エレーンは目をぬぐって、むせび泣いた。涙があふれて止まらない。息をするのも苦しいのに、ひりつく喉がしゃくりあげる。いつか聞いたあの声が、熱くたぎった重苦しい胸で反響した。
『 あんたの傍にいるから。ずっと、いるから 』
うつむいた顔を両手でぬぐって、エレーンは子供のように泣きじゃくる。
「……う、嘘つき……ケネルの嘘つき……そ、そばにいるって、言ったじゃないよっ。あたしのそばに、ずっといるって……」
立ち止まったまま、動けなかった。心が、もう、どこへも行けない──。
ざわり、と木立がざわめいた。
うつむいた肩が、びくりと震える。エレーンは強ばった顔をあげた。なぜ、木立が鳴ったのだろう、風など吹いていないのに。
草を踏む音がした。幹を無造作に押しのける音。草藪の中に分け入る足音──気配が着実に近づいてくる。もしや、追っ手に、
見つかった?
「……ど、どうしたら」
怖気が背筋を駆け抜けて、エレーンはおろおろ立ちあがった。緊張に強ばった両手を握り、せわしなく視線をめぐらせる。逃げないと!
──今すぐに。
膝が細かく震えていた。
深い水底にいるような重たい浮遊感に包まれて、呼吸が浅く息苦しい。水の中を行くような覚束ない足取りで、わななく足をぎこちなく踏みだす。
鐘の音が、どこかで、した。
厳かに打ち鳴らされたその鐘は、空の高みで尾を引いている。
脳裏をよぎった瑣末な疑問が、逃げようとする足を押しとどめた。
正午の時鐘はとうに過ぎた。むろん夕刻というには早すぎる。こんな半端な昼の時刻に、なぜ鐘などつくのだろう。何か特別なことでもあったのか。
ならば、鐘が鳴るのはどんな時? すぐに思い浮かぶのは、紙吹雪まい散る結婚式。そうでなければ、お葬式──
「弔、鐘?」
声に出すと、しっくりきた。そう、むごたらしい事件があったではないか。
ならば、あれは弔いの鐘? 北門通りの事件を悼み、幼くして世を去ったケインの死を哀れんで?
──いや、違う。
そうではない。
あれは、ミモザ祭の鐘の音だ。初代国王が建国を宣言した時刻、カレリア国内の各都市で、一斉に鐘を打ち鳴らし、今日ある発展を祝う。幸福の象徴ミモザの黄色で、街の中をいっぱいにして。悲しみや苦しみや不幸など入り込む余地もないほどに。今日は幸せを尊ぶ日。誰もが幸せを分け合う日。今日は、そうした晴れやかな日だ。
樹海の静かな空の高みで、鐘が厳かに鳴っていた。まさに今、時計塔の鐘の音が、荘厳に響きわたっていた。一回、二回、三回──
鋭く、エレーンは息を詰めた。
突き飛ばされでもしたような、重量感のある衝撃が走ったのだ。
立ちつくした体が強ばり、自分の体重を支えきれずに、がくがく膝が震え出す。その自覚が、確かにあった。
目をいっぱいに見開いて、エレーンは唇をわななかせる。
……斬られた?
誰も、いないのに?
追っ手はまだ降りてはいない。その姿は見ていない。降りてくるには速すぎる。誰も、どこにもいなかった。そのはずだ。なのに、どうして──
がくり、と膝がくずおれた。
息がうまくできなかった。衝撃と激痛に思考を奪われ、身じろぎさえもままならない。闇から頭をもたげたそれが、ふっと姿を現わして、ひたひた、なめらかに忍び寄る。
明確な自覚が、確実な未来が襲いかかった。
(あたし、死ぬ、の?)
かすみ始めた周囲の様に、エレーンは懸命に目を凝らす。木立の緑の輪郭がぶれて、不安定にぐらつき、ゆらぐ。
「……こんな、ところで」
浅い息を肩で荒げて、エレーンは歯を食いしばった。
こんな所で死ぬわけにはいかない。やり残したことがあるのだ。まだ、何も伝えていない。彼に何も伝えていない。早くトラビアに行かないと、
──ダドリーに会いに行かないと!
波一つない静かな沼を見るともなく睨みすえ、浅い呼吸をくり返す。言うことをきかない足を叱咤し、震える膝を無理に立て、
その膝がくず折れて、前のめりに倒れこんだ。
意識を手放した白服の背が、ほとばしる鮮血に染まっていく。
そう、今まさに振り抜かれたのだ。サビーネが襲われた領邸で、背中に食いこんだ凶刃が。
なぎ払う寸前で止まっていたアドルファスの刀剣が。
そして、誰も気づかなかった。
彼女がアドルファスに斬られたあの時、 術を発動した者が、既に去ってしまったことに。
「……あんたさー」
男は小首をかしげて突っ立って、野草に埋もれた自分の爪先を見下ろした。
「こんな所で寝てると踏まれるよー?」
仕方がないなー、と脇にかがんで、ふと、彼女の脇を見る。
「……青い竜?……アルビンの」
面くらったようにつぶやいて、手を伸ばして拾いあげた。
しばし、それをしげしげ眺め、「……もらってもいいかなー」と自問して、ズボンの隠しに片手で突っこむ。
改めて彼女に向き直り、倒れたわきをすくいあげた。
力ない体を引き起こし、雑穀袋でも扱うように自分の肩へとしょい上げて──何かに気づいたように手を止めた。
野草に覆われた急斜面を、いぶかしげに仰ぎやる。もしかしてー、とつぶやいて、ためらいがちに目を戻した。
「あいつらにやられたー?」
野草から現れた彼女の背に、その視線は注がれている。
服に破れた箇所はない。それはしとどに血を吸って、薄い背中に張り付いている。
肩にもたれた白い顔を、男は静かに注視した。
血の気の失せた彼女を横たえ、途方に暮れたように、あぐらをかく。彼女の様子をながめやり、前髪の下の目をすがめた。
「──ちょっと、頼みたいことがあるんだけどー」
おもむろに男は語りかけた。
なめらかな黒髪を草に広げて、蒼白な顔は目を閉じたままだ。男の無造作な問いかけに、何を応えるというでもない。ただ、二人をかこむ豊かな木立が、ほんのわずか、ざわめいたろうか。
沼は粛として声もなく、日射に水面をきらめかせ、時おり小さく波紋を作った。木々はのびやかに生い茂り、夏空は青く澄んでいる。
彼女は目を閉じ、横たわっていた。首からこぼれた翠石が、落ちた草地できらめいている。
風が往き、雲が流れた。男はおもむろに目をあげる。
「久しぶりー、月読」
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