CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 10話4
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 ぽっかりと孤絶した、昼下がりの空間に、彼女の浅い呼吸だけが、途切れそうに続いていた。
 消毒薬と血の匂い。テントの隅には、使い終わった治療箱が置かれ、血にまみれた彼女の服や、水を張った桶、毛布やランタン、迷彩色の雑嚢などが雑多に寄せられ、積まれている。
 小石転がるむき出しの地肌を、昼の白い陽が照らしていた。天井付近にうがたれた換気のための通風孔から、それは白々と射しこんでいる。
 急ごしらえの寝袋の上で、彼女はうつ伏せで寝かされていた。
 男はゆっくり膝を折り、その枕元にしゃがみこんだ。左右の腕を膝におき、彼女の顔を眺めやる。
 体から流れ出たおびただしい血液が、背中の包帯を染めていた。外の気忙しげな気配の中で、苦しげに顔をしかめた、浅い呼吸だけが続いている。その目尻にたまった涙のしずくを、男は短刀を持った指先でぬぐった。
「……かわいそうに。痛いでしょう。俺なら楽に、あんたがなんにも気づかねえ内に、向こうへ送ってやれたのに」
 しゃがんだ膝をおもむろに崩して、付き添いが座っていた防水シートにあぐらを据えた。蓬髪のかつらと同色のひげをバンダナごと取り去って、ばさり、とセレスタンは脇に置く。
 天幕の生地を透過した夏日で、中は存外に明るかった。
 鳥がのどかに、穏やかに鳴きかわしている。セレスタンは短刀を置き、懐から煙草を取り出した。一本取り出し、火を点けて、しばらく無言で喫煙する。もう、逃げも隠れもしないというように。
 彼女の首から寝袋にこぼれた翠石に、青鳥の雛が鉤爪をかけ、華奢な羽毛をのせていた。薄いまぶたを開閉し、今にも眠りに落ちそうだ。
 うつ伏せの彼女を静かに見つめて、あぐらの膝に手を置いた。
「姫さん、俺はね。あんたに恨みなんか、これっぽっちもないんですよ。あんたに落ち度なんか、無論ない。あんたは何も悪くない。でも、強いて言うなら」
 禿頭の首を背中に倒して、あぐらのままで天井を仰ぐ。
 膝に置いた指の先から、紫煙が薄くたゆたった。神経質な雛がまどろむほどに、テントの中はひっそりとした静寂に満ちている。
 しばらくセレスタンは言葉を探し、首を背中に倒したまま途方に暮れたように嘆息した。
「──巡り合わせが、悪かった」
 困ったように頬をゆるめる。
「俺みたいな奴は不自由なもんで、何でもかんでも自分の好きにはならないんですよ」
 通風孔から射しこむ光を、目を細めて眺めやった。
「うちのおやっさんは"ザルスの黒獅子"っていいましてね。その筋じゃ、ちったァ知られた頭目でしたよ。でも、最期は無残なもんでした。あの隊長にヴォルガを仕掛けて、逆に叩き潰された」
 黎明期、総隊の長の座に就いたケネルは、隊内にくすぶる不満分子を、ヴォルガの試合で粛清した。対峙したのは豪傑で知られた三大派閥の頭目たち、だが、そのいずれもが、配下の見守るただ中で、むごたらしくも撲殺された。あたかも見せしめであるかのように。
「恩義がありましてねえ、おやっさんには。そりゃ野蛮なところもありましたが、俺をかかえて路頭に迷っていた母ちゃんを、あの人は拾って、食わせてくれた。あの人がいなけりゃ俺ら親子は、干乾びた路傍で飢え死にしていた。──俺にだってね、わかってるんすよ。馬鹿げた仕返しだってのは。今さら蒸しかえすことじゃない。もう、全部終わったことだ。それは、ちゃあんとわかってる。けど、それでも果たさにゃならねえ義理ってのが、この世の中にはあるんすよ。だから──」
 ふっつり、声が、静謐に呑まれた。
 通風孔から漏れ入る光で、塵がゆっくり浮遊していた。白い昼は時を止め、ひっそりと放り出されている。
「──だから」
 節くれ立った膝の指から、紫煙が薄くたちのぼる。
「あんたの命、俺に下さい」
 案外あっさりと辿りついたのは、ひっそりと穏やかな終焉の地だった。
 外との交渉の断ち切れた、奇妙に穏やかな、ささやかな居場所。世界との接点を断ち切って、ようやく手に入れた安寧の境地。
 この隔絶された室内は、一時だけ存在する奇跡の空間のようだった。外界の侵食を阻むのは、布きれ一枚のもろい境界。そう、天幕一枚隔てた外では、今や敵と化したかつての仲間が、大挙して、剣呑にうろついている。今この時にも、獲物を狙う肉食獣の双眸で。
 煙草の先で灰が崩れて、ぽろりと足元の地面に落ちた。
「……そろそろ、いきましょうか」
 短くなった煙草の先を靴先の地面ですり消して、あぐらを崩して乗り出した。
 浅く息をついている発熱した肩に手をかけて、力ない体を引き起こす。
「今、楽にしてあげますから」
 顔に振りかかった彼女の髪を、そっと指先でどけてやり、片腕で体をかかえ直す。
 肩にもたれた彼女の顔を、慈しむようにながめやり、そのかたわら、おもむろに抜き身をとりあげた。手慣れた動作で彼女の首筋に刀をあて、一気に引き払うべく切っ先をあげる。
 ぴくり、と利き手の刃を止めた。
 視界の端で、何かが動いた。
 反射的に確認し、セレスタンは"それ"を注視する。
 彼女の枕元でまどろんでいた、あの青鳥の雛だった。薄い瞼をぱっちり開けて、せわしなく小首をかしげている。枕元に居座る小さな雛の、黒く濡れたつぶらな瞳は、責めるでもなく、怯えるでもない。
 刀柄を握った手の甲が震えた。雛を無視しようと試みるが、強ばった拳が動かない。
 胸の内で鼓動が打ち鳴り、血流が激しく脈打った。すさまじい葛藤にめまいを覚えて、セレスタンは奥歯を食いしばる。抗い、刀を振りあげて、
 拳ごと、地面に叩きつけた。
「──ここまで、だってのに!」
 力の抜けた腕の中から彼女が膝にくず折れるに任せ、唇を噛んで、うなだれた。
「俺はもう、ここまでなのに! 姫さんも楽になれるのに! なのに、俺は!」
 天幕の外を駆けまわる、男たちの声がした。
 状況に何か変化があったか、何事か盛んに言い交わしている。それは慣れ親しんだ日常の声。照りつける夏陽を反射して、天幕の壁はうららかに明るい。
 拳を硬く膝で握って、セレスタンはゆるゆる首を振った。
「……すいません、姫さん。俺は不甲斐ない男です。意気地のない男です。この最期の最後の土壇場で、とどめを刺してやることもできねえ。それでも俺は、願っちまう。元の通りになってくれたら、前みたいに笑ってくれたら、そんな馬鹿みたいな、夢みたいなことを延々考えちまうんですよ。早く楽にしてやった方が、よほど親切だとわかっている。けど、それでも生きていて欲しい。一秒でも二秒でもいい、少しでも長く生きていて欲しい」
 膝の彼女をそっと横たえ、セレスタンは肩を落として座りこんだ。
 誰かの指示が、遠く聞こえた。天幕の外が騒がしい。あれはザイの声だろうか、大勢がやにわに動く気配。
 途方に暮れて彼女をながめ、セレスタンは疲れ果てた顔で頬をゆるめた。
「姫さん、俺はね。あんな花もらったのは初めてでしたよ。でもね、姫さん。こういうもんは、渡す相手を選ばなきゃ」
 笑って話すその頬を、ぼろぼろ涙が伝って落ちた。
「駄目すよ、姫さん。俺みたいな男を信用しちゃ。まったく参りましたよ、あんたには。こんなろくでもない俺なんかに、こんなもんをくれるってんだから。俺の肚を知りもしないで、何ひとつ疑いもしないで、のこのこ俺について来て。なんにも知らずに無邪気に笑って。──あんたをこの手で守りたかった。いつでも笑っていられるように。なのに、なんで、よりにもよって!」
 うなだれた肩が小刻みに震えた。ぎりぎり奥歯を食いしばり、流れる涙をぬぐいもせずに、拳を膝に叩きつける。「……畜生。なんで、こんなことになっちまうんだ!」
 天井付近の通気孔から、一条の光がさしていた。テントは穏やかな静寂に満ちている。世界の日常は滞りない。上着の懐からそれを取り出し、彼女の枕元にそっと置いた。
「ほんの短い間でしたが、こいつは俺の宝物でしたよ」
 昼の白い光の中で、ミモザの黄色がふんわり輝く。
「返しますよ、姫さんに。これが幸運を呼ぶんなら、今のあんたにこそ必要だ。俺にはもう必要ない、、、、、、、、、し、こんなものをもらう資格が、俺にはない」
「もらっておけよ」
 聞き知った声が割りこんだ。
 セレスタンは弾かれて振りかえる。人の気配など、なかったはずだ。
 戸口に見知った顔を認め、面食らってつぶやいた。「……いつから、そこに」
「女からの贈り物を突っ返すなんざ、まともな男のすることじゃないぜ?」
 戸口に、男がもたれていた。
 よっ、邪魔するよ、と声をかけ、男は無造作に足を踏み出す。額に包帯が巻かれている。そして、それは手足にも。動作が少しぎこちない。片足を引いているようだった。だが、その短髪の相貌は冴え、口端は笑みの形にゆがんでいる。
 歩み寄る男を何気なく目で追い、ふと、セレスタンはつぶやいた。「──ああ、頭(かしら)だったんすか。今朝方、三階の廊下にいたのは」
「階段あがってくのを見かけたからよ、愚痴でも、、、、聞いてやろうと思ってな」
 バパは枕元で足を止め、笑って彼女を顎でさした。
「ゆうべ、この子が見舞いにきてよ。だが、あいにく俺は、薬が効いてて眠くてな。で、寝た振りしながら聞いてたら、散々一人でくっ喋っていってよ。なんでもケネルに苛められたとかなんとか」
「──ああ、そういうことっすか。姫さんらしいや」
 セレスタンは思わず微笑った。トラビア行きを突っぱねられて、腹いせに言いつけに行ったらしい。
 バパから彼女に視線を戻し、ふと、その顔を見返した。
 うつ伏せた彼女の顔から、苦しげな表情が消えていた。いつの間にか気絶していたらしい。だが、薄くあいた唇は消え入りそうな呼吸を紡ぎ、前髪が張りついた額には、玉の汗が浮いている。
 バパは、かわいそうにな、と嘆息し「なあ、セレスタン」と目を向けた。
「さっき、お前、"それでも果たさにゃならねえ義理ってのが、この世の中にはある"って言ってたろ。だが、そんなものがこの世にあるとは、俺には到底思えねえがな」
 セレスタンはつかの間絶句して、呆気にとられて首長を見た。「──見てたんすか」
「見ていたさ」
「一体いつから!」
「事の始めから終わりまで、だな。そいつを見定めるのが務めなもんでね」
 バパは、してやったりと片目をつむる。
 唖然とあけた口を閉じ、セレスタンは眉をひそめた。忌々しげに顔をしかめて、気楽そうな首長をねめつける。
「そんな呑気に構えてて、俺が殺っちまったら、どうするつもりだったんすか!」
 バパは小首をかしげて眺めやった。
「……うーん、そうだな。その時は」と大儀そうにうなじを叩いて、積まれた寝袋に腰をおろす。顔をあげざま、視線を向けた。
「お前を始末して、俺も死ぬ」
 セレスタンは弾かれたように身構えた。
「なあんてな」
 バパは軽く肩をすくめて、面食らった顔に手を振った。「そんなこた誰も、端から心配してねえよ。──さてと。一応確認しておくか。これも俺の役目でな」
 防護服の腕を組み、真顔でセレスタンに向き直る。
「羊飼いの娘、殺ったのはお前か?」
 南下中のあの樹海で、賊から逃げた賓客が崖から海に転落した午後、踊り子あがりの件の少女が、遺体で発見されていた。彼女はしばらく同行し、この賓客とも親しかった。年の頃は十代半ば。彼女が名乗った名前はクリス。
 当時の惨状を思い出したか、セレスタンは頬をゆがめて目をそらした。「……ええ」
「サランディーの妊婦殺しも?」
「──いえ、そっちのは」
 矢継ぎ早の質問に、少し考え、首を振った。
「頭(かしら)、本当は知ってんでしょ? 俺があの時、用心棒しに出てたこと」
 ああ、そうだったっけな、とバパは笑って、俺としたことが、とうなじを叩く。
 セレスタンは苦笑いで首を振った。「その手にはのりませんよ。鎌かけようったって、そうはいかない。妊婦の方は知りませんが、"羊飼い"殺ったのは、確かに俺すよ」
「ずらかった奴が、いるんだよなあ、そいつ、、、を探り始めた途端によ」
 言い捨てた頬がこわばった。
 とっさに、セレスタンは首長をあおぐ。バパはおもむろに腕を組み、愕然とした顔をしげしげと見た。
「カルロだよ、衛生班の。奴の身柄を引っぱるために、今、コルザが動いている」
 事こうした事案に関して、この首長は鼻が利く。いつも飄々としながらも、広く情報を手にしている。どんな手段で集めたものか、そうした情報の確度は高い。その首長が断言したというのなら、黒と決まったも同然だった。
 誤算に、セレスタンはうろたえた。思わず強がった一言が、あっという間に裏目に出た。
 この食えない短髪の首長は、羊飼いの殺害犯に目星をつけて、既に腹心に探らせていた。その容疑があらかた固まった今時分、のこのこ名乗りをあげたのだから、とんだ間抜けというものだった。つまり、敵は、一枚も二枚も役者が上だということだ。
 言葉もないセレスタンを前に、バパは事もなげに首を回した。
「それは、つまり、こういうことか? サランディーの妊婦殺しはお前じゃない。羊飼いもお前じゃない。なら、こいつは一体どういうことだ? お前は何もしていない、、、、、、、
「──よして下さい、妙な茶番は」
 セレスタンは苛々と首を振った。「頭(かしら)だって見てたはずでしょ、俺はこの手で姫さんを」
「どうせ、そんな気ねえくせに」
 バパはそっけなく言い捨てて、顎の先で枕をさした。
「見てみな、そこの雛のツラをよ。くつろいじまって動きやしねえ。殺気に当てられて逃げ出すどころか、今にも寝ちまいそうじゃねえかよ」
 翠石に羽毛の胸を寄せ、雛が丸い瞳を向けていた。殺気と血臭を、、、、、、青鳥は嫌う。だからこそ鳥師は、ロムの部隊に同行することができないのだ。
 バパは気楽な調子で手を振った。「どうせ、お前にはできっこねえよ。だから最後まで見てたんだ」
「だったら、なんで来たんすか! そんな体で、森の中まで!」
「こっちに出向いてきたのはな。お前が何者なのか、、、、、を知らしめるためだ」
 セレスタンは面食らって顔をあげた。やれやれと、バパは続ける。
「お前は律儀な小心者だよ。ここで何時間そうしたところで、お前には傷一つ、つけられやしない。精々てめえを持て余して泣べそかくのが関の山だ。だが、ここでもたもたやってたら、事情を汲まねえ別の奴が、お前を引っぱってきちまうだろう? そのまったりした有り様じゃ、もう逃げるつもりもねえようだしな。そうなりゃ、お前は裏切り者だ。だが、それじゃあ、こっちは旨くない。だって、事実と違うからな」
 飄々とつむぐ声に、気負いはない。
「実際それがどうだったのか、本当のところがどの辺りにあるのか、俺はそいつを見極めにゃならん。黒なら黒で、それでいい。だが、お前の事実はそうじゃない」
 セレスタンは戸惑って目をそらした。「なんで、そんなことが言い切れるんすか。俺のことなんか、頭(かしら)は何も知らないでしょうに」
「──いや、なんでも何もよ」
 バパは顎で地面をさした。
「現にお前は、自分で、、、ヤッパを置いたじゃねえかよ」
 しん、と、"それ"は、そこにあった。
 捨て置いた短刀が、静かに光を弾いていた。もう、すっかり、終わってしまったというように。
 言われて無造作に向けた視線が "放棄した得物"に不意に出くわし、セレスタンはとっさに目をそらす。
「お前は自分をまるきり信用してねえようだが、何も心配するこたねえよ。お前に見えねえ後ろ頭は、俺にはちゃあんと見えている。日頃つるんでる仲間にも、、、、な」
 ふと、セレスタンは顔をあげた。おもわぬ名称が飛び出して、怪訝に首長の顔を見る。バパは煙草をくわえて肩をすくめた。
「お前の話を聞いてやれって、ねじ込んできた奴がいたんだよな。必ずお前を引っ張ってくるから、まずはじっくり、話を聞いてやれってよ。何か理由があるはずだって、まだ間に合うはずだからって、奴にしては珍しく神妙な面で頭さげてよ。──あの野郎、ひとが寝ている足元で、湿っぽくめそめそしやがって。俺だってそれじゃ、おちおち寝てるわけにもいかねえだろ」
 天井に向けて一服し、煙草のその手を膝に置いた。気さくな様子から一転し、真顔で視線を振り向ける。
「お前のおやっさんは負けたんだ。真っ向勝負で戦神に挑み、そうして結果、潔く散った。だったら、それでいいじゃねえかよ。ぐだぐだ言うのは野暮ってもんだぜ。月日はめぐり、世界は変わる。今さら死人に義理立てしたところで、誰の得にもならねえよ」
「──でも」
 セレスタンは顔をゆがめて、苦々しげに首を振った。「さらおうとしたのは事実すよ。あいつらだって、だからこそ──」
「そこで、だ」
 バパは軽く顎をしゃくり、笑って素早く片目をつぶった。
「俺に、考えがあるんだがな」
 
 
 

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