■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 10話10
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どれくらい、時が経ったのか。遠くかすかに、聞き覚えのある音がした。
大地を蹴る音、聞き慣れたいななき──馬が荒れ野を走っている。こちらに向かっているようだ。つまり、誰かが、
やってくる。
混沌に沈んだぼやけた意識を、ケネルは無理に引きあげた。
頭のしびれに顔をしかめて首を振り、朦朧としながら考える。今時分やってくるとは付近の町の者だろうか。いや、今日は年に一度のミモザ祭。こんな荒れ野の洞窟になんの用があるというのか。
草を踏む音。
外気のざわめき。
やはり、こちらに向かっている。
野草に分け入る足音は、一人のものではないようだ。複数、恐らくは二人連れ。もしや本隊からの連絡か。そうでなければ、
──賊の襲来。
素早く刀柄に手をかけた。
懐の彼女の様子を見、ケネルは薄蒼い坑道の先に、溜息まじりに目をすがめる。なんという間の悪さ。こんな時に襲撃を受ければ、一溜まりもなく組み伏せられる。彼女をかかえて身動きとれないという以前に、今の体力では太刀打ちできない。
草を踏む足音が近づく。寝袋の彼女を引き寄せて、息を殺して刀柄を握る。ぽっかり開いた薄蒼い出口に、人影が覗きこむようにして立ちはだかった。
外光を背にした影法師は、外套でもはおっているのか直線的なシルエット、だが、旅装にしては、つばの広い大きな帽子をかぶっている。誰だと問い質す暇もなく、声が洞窟に木霊した。
「……なんだ? どこにいるんだよ」
出口の人影が身じろいで、男の横顔が外光に浮かぶ。口ひげと、細い三つ編み、帽子にさした羽飾り──はっとケネルは息を呑んだ。あの独創的な風貌は──
天上天下唯我独尊、奇矯で頓狂な調達屋。
彼が来たということは、
──例の闇医師が到着したのか?
「たす、かった……」
わずか息を震わせて、浅く安堵の息を吐く。
体中から力が抜け落ち、ケネルは岩壁にもたれかかった。わななく平手で顔をぬぐい、彼女の頬をそっとなでる。「……助かった」
見おろした頬が、ふと翳った。
眉をひそめて逡巡し、暗たんたる思いで嘆息する。蒼闇に立ちはだかる人影を、苦々しく振り向いた。
「遅かったようだな」
人影が面食らったように息を呑んだ。
「──死んだのか」
思わぬ純朴な反応に、ケネルは「──いや」と苦笑いした。お宝にしか興味のない風狂で偏屈なこの奇人が、よもや他人を気にかけるとは。とはいえ、なぜ、馬鹿正直にやってくるのか。臆面もなく、のこのこと。
愚直な律儀さに辟易としながら、掠れた声で指摘した。
「陽は、とうに暮れている」
そう、約束の刻限は過ぎている。そうなれば役目上、彼を斬らねばならなくなる。
所在の知れぬ闇医師を、捜して坑道に連れてくる。期限は本日、日没まで。その要件が果たせぬ時には、首を以て調達屋があがなう。そうした話になっていた。いや──
薄闇に沈む靴先を睨んで、ケネルは思案をめぐらせる。なんとかうまく誤魔化せないものか。あの宣言を間に受けて四角四面に履行せずとも、ここには他の誰の目もない──。
あん? と調達屋は小首をかしげ、面倒そうに嘆息した。
「なァに寝ぼけたことを抜かしていやがる。お前、ちっと、こっちに出てこい」
ケネルはいぶかしげに出口を見た。赤子のように抱いた彼女を、ためらいがちに一瞥する。
彼女の体を慎重に下ろし、膝に手を置き、立ちあがった。調達屋は薄蒼い出口で待ちながら、何かに気をとられた様子で身じろいでいる。眺めているのは左の方角。
よろける足をケネルは踏みしめ、足場の悪い洞窟の岩場を、一歩一歩出口へ向かう。
脇に寄り、場所を空けた調達屋のかたわら、ひらけた坑道出口に立ち、西の稜線に目を向けた。
黒い山端に、鳥が数羽飛んでいく。まだ存外に明るい辺りは、蒼い薄闇に包まれて、原野を埋める枯れ草が、ぬるい夕風になびいている。
「どこ見てんだ、そっちじゃねえよ」
頭を掻いて嘆息し、ぷらりと調達屋が肩を返した。
ついてくるよう顎でうながし、ぶらぶら荒れ野を歩き出す。足を向けた方角には、この坑道に着くまでに通過してきた町がある。
ケネルは無言で従った。
夕風に吹かれて、しばらく歩く。延々立ち枯れた荒野の先で、何かが薄闇できらめいた。夕刻の荒れ野の風景に、無理なく溶けこむ自然のきらめき──
水だった。
荒野と町とを隔てる河川、先ほど渡ったその川面が、赤くきらめき、ゆらいでいる。
「納入期限は"日没まで"だ」
蒼闇に沈んだ川面を見、調達屋は思わせぶりに一瞥をくれた。
赤は見る間に小さくなって、蒼闇に溶けて消えていく。顎でさされて西を見れば、山の峰が燃え立つような、赤と黒とのコントラスト。
「一点から見ただけじゃ、真実ってのはわからねえもんだぜ。ちょいと角度を変えりゃ、この通り。日没ってのは、尾根じゃなく、西の地平で計るもんだ」
「……なるほど。遅れてはいない、というわけか」
残照が消え入った稜線をながめ、ケネルは頬をゆがめて苦笑いした。人が見る風景は、立ち位置次第で様変わる。中には、夕陽も含まれる。
「契約条項は一言一句、きっちり履行しねえとな」
そんな穴倉に引きこもっているから、大事な一線を見誤るんだ、調達屋は舌打ちでごち、馬が野草を食んでいるカノ山のふもとを顎でさす。
「待たせたな。注文の品を届けにきた」
夕闇に人影がたたずんでいた。
こちらの様子に気づいたのだろう、蒼闇の中を歩いてくる。
額で分けた長い髪が目を引いた。流れるようなしなやかな黒髪。白皙の額、鋭い双眸、堀の深い、りゅうとした風貌。年の頃は三十半ばというところだが、職業柄か、えも言われぬ威圧感がある。
「──あれが」
「おうよ、約束の闇医師だ」
豪語に違わぬ調達屋の手腕に、ケネルは内心、舌をまいた。国土の各地に拠点をもつ鳥師が総出で一月かけて捜索し、それでも捜し出せなかった商都の闇医師。それをわずか数時間のうちに、本当に目の前に連れてくるとは。
どんな手を使ったものか傍には見当もつかないが、現に、闇医師はそこにいた。長い黒髪を夕風になびかせ、臆したふうもなく歩み寄り、ケネルの顔をいぶかしげに見る。
「すごい汗だな。ずいぶん顔色が悪いようだが」
開口一番、相手の不調を見咎めた。
あん? と調達屋が眉をひそめて身じろいだ。ぶらりと隣を振りかえり、しげしげケネルの顔を見る。「そういや、ずい分ばててんな。タフなお前が珍しい。一人であれを運ぶのは、さすがにホネか、お前でも」
「俺のことはいい」
ケネルは話をさえぎって、黒髪の男に目を据えた。
「あんたが噂の先生か」
「表向きは"手配屋"だがな」
二人と坑道に向かいつつ、闇医師は面白くもなさそうに肩をすくめる。
「あいにく俺には身寄りがなくてな。保証人を立てられなければ、商都の免許は取得できない」
闇医師、すなわち無免許医ということだ。だが、看板を掲げられないというのでは、真っ当な市民には相手にされない。そうなれば勢い、仕事の口がかかるのは、医師の手腕を聞きつけた与太者ばかりということになる。
うさんくさい印象を払拭しようというのだろう、闇医師が語る言い分に、ケネルは軽くうなずいた。
「あんたの事情は了解した。俺たちは、免許の有無など気にしない。あんたには言いたいことは色々あるが、まずは治療を頼みたい」
「その言いたい事というのは?」
「予約は入れたはずだがな」
なぜ、無断で不在にした、と暗に相手の不実を責めれば、闇医師は心外そうに見返した。
「こっちこそ、反故にされたと思っていたがな。期日はとうに過ぎている。俺もこれで忙しい身でな。来ない患者につきあって、いつまでも待ってはいられない」
ケネルは苦々しげに嘆息した。「色々と事情があってな」
「結構。事情ならば、俺にもある。期日はきちんと守らんと、双方が困ることになる。そんなことより、悠長だな」
やれやれと身じろいで足を止め、闇医師は鋭く一瞥をくれた。
「急ぐと聞いたが?」
「患者は中だ」
目線で示した坑道の奥に、闇医師は目を凝らした。怪訝そうにケネルを見、どこにいるんだ? と一歩踏みだす。
「渡さねえ!」
カツン──と響いた医師の靴音を掻き消して、野太い声が飛びこんだ。声の出所は、背後の荒野──。
荒野に人など、いるはずがない、そうした過信が、一同の反応を遅らせた。
怪訝に声を振り向いた刹那、飛びこんできた人影が、闇医師をはねのけ、押しのけた。とっさによろけたそのかたわら、坑道の暗がりへと駆けこんでいく。黒い蓬髪、防護服の背、転げんばかりに息せき切った、過剰に取り乱したあの足取り──。
鋭く、ケネルは息を呑んだ。
同じく調達屋も思い当たったらしい。二人は目配せ、あわてて地を蹴り、後を追う。
先行する蓬髪が、坑道の暗がりにちらついた。
暗い天井に跳ね返り、複数の靴音が乱雑に響く。一同の靴底で跳ね散らかされる水の音。
風穴からの外光が、うずくまる蓬髪を照らしていた。
平手で彼女の後頭部をつかみ、寝袋に顔を埋めて掻き抱いている。
「渡さねえ! もう、誰にも渡さねえ!」
太い五指で彼女の頭をなでながら、男は激しく首を振る。
ケネルは絶句し、うずくまった蓬髪を見おろした。
「……なぜ、あんたが、ここにいる」
自隊を率い、すでに南西に退いたはずの、あの蓬髪の首長アドルファスが、そこにいた。
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