■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 11話3
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ゆらりゆらり、と黒いしっぽが左右にゆれた。
手を休めてながめていると、「にゃ」と振り向き、催促する。その顔いわく、
" もっと、なでれ "
「……。はいはい、わかったよ」
ぴん、と突き立てたしっぽの付け根を、せっせ、せっせとケネルは撫でくる。
「……こんな感じか?」
小首をかしげたその様たるや、つぼを探る按摩師のごとし。つまるところ猫の言いなり。
猫は腰をもちあげて、とろけそうな至福顔。ヒトの顔つきで喩えるならば、妥当なのは「いい湯だな」か。
野良の黒猫に捕まっていた。
ばったり街角で出くわした途端、猫は友の顔を認めて、ととと、と軽やかに駆け寄ってきた。ピーンと尻尾をまっすぐ突き立て、足にすりすり顔をすりつけ、しっぽを絡めてまとわりつく。父からぐるぐる逃げまわった際、退屈しのぎに構ってやって、ランチまで同席したのがまずかったらしい。
もっとも、猫を構うのは、今に始まった話でもなかったが。いたいけな幼少のみぎりより、痩せこけた野良猫を連れ戻っては、何度母に叱られたことか。いや、今でもその癖は抜けきらない。ついつい拾った最たるものは、言わずと知れた副長だ。
「じゃ、またな」
ようやく手を引きあげて、ケネルはゆっくり腰をあげる。猫は不服そうに見あげたが、しつこくごねることもなく、くるりと軽やかに四肢を返した。
するりと街角を曲がっていく。しなやかに歩く後ろ姿は、ありがとうでもなければ、駄々をこねるというでもない。いっそそっけない猫の背を、聞き分けがいいな、と苦笑いで見送り、ケネルも背を向け、歩き出す。
白い菓子折りを肩に引っかけ、件の診療所へぶらぶら戻る。猫は聞き分けの良い愛人のようだ。執着もしなければ、束縛もしない。これがかの奥方さまなら、ちょっと所用で出かけただけで「どこへ行ってた!」だの「勝手に飯を食った!」だの、まなじりつりあげて詰問される。むしろ、潔いどころか、
がっぷり四つ。
「……。はあ〜……」
ケネルは脱力してうなだれた。猫を押しのけ、ぼんっと脳裏に浮かんできたのは、潔さとは無縁のふくれっつら。アレがこれから目を覚ますかと思うと、まったく先が思いやられる。いや、それだけでは既にない。それを思い出したケネルの頬が、ひくり、と途端に強ばった。
「……なんで、俺はあんなことを」
額をつかんで、首を振る。
返す返すも悔やまれた。そう「あんなこと」とは、いわずと知れたあの件だ。昨日の坑道での、あの宣誓。
──我、いかなる時も共に在り。かの者に忠誠を尽くすことを誓約する。大地と聖霊と運命神の御名において。
取り返しのつかない失態だ。一生を棒に振りかねない……。痛恨のポカに己をなじり、止めていた足を、どんより進める。
ひとたび宣誓を行なうと、不可思議な力が働くという。日々の暮らしの断片が、その内容に沿うように、ことごとく歪んでいく、というような。だが、今さら言うのもなんではあるが、宣誓の実現は不可能だ。
いつ、いかなる時も共に在る、ということすなわち、彼女と共に生きること。だが、彼女は領家の公爵夫人で、既に他人の連れ合いだ。この現実を無理やりゆがめ、無理を押し通して実現しようというのなら、可能な手段は二つしかない。
一つは、現在の連れを締め出し、あいた椅子に己が居座る。まともな神経の夫なら、己が養う女房に別の男が張り付いているなど言語道断だろうから。
そして、もう一つは強行策。彼女と心中を決行し、それこそ永久にそばにいる──
「──できるか、そんなこと」
思わず、ケネルは吐き捨てた。確かに昨日の坑道では、無理心中寸前だったが、あれは追いつめられて絶望し、捨て鉢になった末のことだ。だが、こうして白々と夜があけて、日常に戻った今となっては、あの盛りあがりも何それだ。
ちなみに、いわゆる駆け落ちなどは論外だ。なにせ追っ手は特権階級。財力、機動力ともに計り知れない。どこへ逃げても、いずれは捕まる。もしくは二度と日の目を見られない。暇にも金にも限度がある個人を相手にするのとは違うのだ。悪くすれば、対「国」だ。いや、端から話にもなりはしない。あまりに無謀な夢物語だ。
となれば、残るは、やはり、この二つ。とどのつまり 「強奪」 か 「死」 か。
「……なんだ、それ」
ケネルはうなだれ、額をつかむ。あまりに極端な二択だった。だが、他に方法があるとは思えない。
打ち水された道ばたに、片付けられた祭の余韻が、ひっそりと積みあげられていた。
一夜あけた祭の翌日、石畳の昼の街路は、強い夏日にじりじり焼かれ、客足もまばらで、のんびりしている。
商都の看板・目抜き通りから脇道をいくつか入った裏通り、比較的小規模な店が軒を連ねる昼の街路を歩いていた。ぶらぶら足を運ぶ右手では、店を開けたばかりの雑貨屋の店主が、ほうきで店先を掃いている。道の端に寄せられているのは、踏みしだかれたミモザの花。
ふと、ケネルは顔をあげた。
夏日に照らされた石畳の先、道の左手に見えてきた件の診療所の店先に──いや、表向きの稼業は斡旋所だが、その煉瓦の壁の店先に、あの顔があったからだ。男にしては珍しい長髪。白皙の横顔、鋭い双眸。髪は鴉の濡れ羽色。
昨日会った闇医師は、店の引き戸にうつむいて、鍵をあけているようだ。だが、彼は一人きりではない。茶色い巻き毛の若い女が、笑顔で腕を絡めている。
がらり、と引き戸を無造作にあけ、ふと、気づいたように振り向いた。
「──ああ、起きたのか」
金の鎖時計を懐から取り出し、おもむろに時刻を確認し、連れの女を振りかえる。
「悪いな、客だ」
だしぬけに退去を促され、女は不満そうに抗議した。だが、女に敷居をまたがせることなく、医師はさっさと追いかえしてしまう。
べっとり塗った分厚いまつ毛で、じろりと女はケネルを見、あたかも恋敵を見るかのごとくに憎々しげに睨めつけた。そして、ぷい、と顎を振って踵を返した。
ケネルは居心地悪く視線を外し、やれやれと闇医師をながめやる。「いいのか? 怒らせたようだが」
まったく、とんだとばっちりだ。
「構わん。商売が優先だ」
さばさば闇医師は言い捨てて、敷居をまたいで店に入った。
ケネルも続いて店に踏みこみ、ひんやり淀んだ店内を見まわす。「人手の斡旋ってのは儲かるんだな」
カーテンが開けられ、事務所の中は存外に明るい。闇医師は振り向きもせず、事務机の置かれた隅の帳場へ向かっている。「そうでもないが。なぜ、そんなことを?」
窓際に据えてある革張りの応接セットを、ケネルは目線で軽くさす。「良い調度だ」
「ああ、もらい物だ」
どうせ、女からの貢ぎ物だろう、ちら、とよぎったのを察したようで、闇医師は肩をすくめて付け足した。「幸い、後援者には恵まれている」
「……なるほど」
裏通りに面したガラスの引き戸。明るい陽のさす窓際に、黒の革張りの応接セット。壁にしつらえられた書棚には、多種多様な分野の書物が、天井までうず高く詰まっている。隅には、帳場を兼ねた事務机。
入口から入って向かいの壁に、あけたままの扉があった。その向こうは薄暗い廊下に続いているから、あの先の右側に、アドルファスが寝ていた待ち合いの長椅子があり、例の診療室があるのだろう。その手前の左には、炊事場と浴室等の水周り、そして、患者が逗留できるあの個室。店内の左の壁には、手すりつきの階段が、ひっそり天井まで伸びている。
「早速で悪いが、報酬の話をしたいんだが」
窓から通りを眺めていたケネルは、苦笑いで振りかえる。「顔を見るなり、いきなりか。本当に早速だな」
──患者の命は、必ず助けろ。
あの時、調達屋がつきつけたのは、いかにも無茶な注文だった。だが、当の闇医師は、ふんぞり返った調達屋に一瞥をくれただけだった。そして、
『当然だ』
そうそっけなく言い放ち、うるさそうに手を振って、坑道の外へと追い立てた。
『患者が死ねば、金はとれない。納得したら、外へ出ろ。御託を聞くような暇はない』
ここにいるのは、そうした医者だ。実利的で、揺るぎがない。
長い髪を額から掻きあげ、先の嫌味に闇医師は応えた。「あいにく、これが商売でね」
「心得ているよ」
「ならば結構。では、あの患者の治療の件だが」
雑多に散らかった机の隅から、闇医師は紙片を取りあげる。「診療費の他に、薬代、個室料金を払ってもらう。その他諸費用を含めて、ざっと三千トラストというところか」
ちら、と無表情に目をあげる。
「払えるか?」
国の中枢・商都カレリアで、店を一軒構えられる金額だ。
「いいだろう。前金を誰かに届けさせよう。残りは、ここを出た時に」
「半金だけか。抜かりがないな」
「当然だろう。患者の完治が全額支払う条件だ」
「なんなら、用心棒も手配できるが?」
抜け目なく商いを滑りこませ、思わせぶりに一瞥した。「あの傷は、単なる事故ではない。刀剣で斬りつけられた切創だ」
「通報するか?」
「いや。あいにく、そうしたことには疎くてな」
ケネルの鋭い反問に、医師は軽く手をあげた。「余計な揉め事には関わりたくない。ここの役人に義理もないしな。だが、まずいことに巻きこまれているなら、人手が必要だろうと思ってな。丁度、斡旋が本業だ」
ケネルは苦笑いで首を振った。「せっかくだが、結構だ。あいにく俺たちも本職なんでな」
もっとも、それは隣国での話だが。だが、腕前については、ここの者より、よほど良い。拠点とする隣国は、この国より、はるかに荒れている。
「ちょっと、シュウ! 戻ってるの?」
がらり、と引き戸が乱暴にひらき、茶髪の女が顔を出した。
「もう! 店閉めてどこに行ってたのよ。せっかくのミモザ祭なのに。お陰であたしは、ずっと一人で──」
開口一番、責め立てたのは、先の連れとは別の女だ。
手元の書類を見やったままで、闇医師は見向きもせずに手を振った。「後にしてくれ、来客中だ」
「──お客なの?」
じろり、と女はケネルを睨んだ。
又も敵視を向けられて、ケネルは気まずく目をそらす。手持ち無沙汰に突っ立ったケネルを、女は品定めするように不躾に見、あっさり顔を引っ込めた。
「あ、そう。又くるわ」
ぴしゃん、と引き戸が叩きつけられる。
又もいいとばっちりを食い、ケネルは苦笑いして闇医師を見た。「地元なのか、商都は」
「たぶんな」
「──たぶん?」
あいまいな答えを聞き咎め、いぶかしげに相手を見返す。「あんた自身のことだろう」
書類に目を落としつつ、闇医師は面倒そうな顔つきだ。
「なにぶん昔の記憶がない。今名乗っているシュウという名も、あの爺さんがつけた名だ」
記憶もなく、行くあてもなく、ひとり街をさまよっていた時、天涯孤独の酒飲みのじいさんに拾われたのだという。それがこの店の持ち主だった。
酒飲みのじいさんは、この仲介屋を営んでいた。そして、この手の店に集まってくるのは気の荒い腕自慢と、当時から相場は決まっていた。同じ業界に属するどうし、何かと因縁があるようで、顔つき合わせば喧嘩が始まり、乱闘騒ぎも珍しくなかった。そうなると、往々にして、店主は手当てをせねばならない。だが、怪我に塗る薬は高価で、毎度くれてやるには惜しい。それでいつしか、この店の主は薬草を調合するようになっていた。やがて、それは趣味になり、それが昂じて奥の私室の一室を「診療室」にあてるまでになった。
だが、薬草の有効な組み合わせを自力で編み出しはしたものの、伝える身寄りが主にはない。自身が死ねば、それらは全て埋もれてしまう。そこで、主は考えた。店裏に設けた「診療室」を、仲介屋の生業と共に、居候に継がせようと。幸い、面倒をみてきた居候は、飲みこみが早く、腕が良かった。
記憶喪失の闇医師は「つまり」と笑い、先を続けた。
「俺は怪我が専門だ。まあ、腹痛程度のことでいいなら、治してやれる心得はあるがな」
数奇な身の上話を黙って聞き終え、ふと、ケネルは目を向ける。
「……それは?」
物が無造作に積まれた机の片端、薄紅や青の封筒やら、リボンのかけられた箱やらに混じって、場違いな木の実が小皿に無造作に盛られている。
「往診で出た時に拾ってきた。竹の実だ」
医師は手元の書類から、小皿の実に目を向けた。「知っているか。竹というのは、ヒトに似ている」
言わんとする意味をつかみかね、ケネルが怪訝に見ていると、医師は卓にペンを置く。
「六十年の周期で老い枯れる。もっとも竹は、ヒトとは違い、花が咲くのは散り際だがな。そして、実を成す」
「つまり、その実は、六十年に一度しか手に入らない、貴重なものだということか」
買い求めた菓子折りを、まだぶら下げていたことに気がついて、ケネルは応接の卓に放り出す。「それで持ち帰ってきたというわけか。なるほど薬草の専門家らしいな」
「いや、好物でな」
「……食うのか」
ケネルは面食らって見返した。「まさか、食う奴がいるとはな。そんなものを食べるのは鳥くらいのものだと思っていたが──」
言いかけ、ふと、口をつぐんだ。これと全く同じ台詞を、以前にも、どこかで聞かなかったか?
いや、それは人伝ての話で、話していたのはあのファレス、そう、確か、こんな話だ。登ろうとしていた木の上に、ぽっと子供が現れた。白装束の妙な子供は、竹林の場所をファレスに尋ね、竹の実が好物だ、とのたまった──。いや、聞いた話ばかりではなかったはずだ。現にケネルも会っている。そう、その子供には、なぜか、
──逆らえない。
『 控えよ 』
記憶を探って伸ばした触手に、凛と声がとどろいた。
乱れのない、落ち着いた戒め。だが、まだ甲高い少年の声音で──その横顔がよぎった途端、出し抜けに足に震えがきた。
おもむろに振り向いたのは、あの粛然とした顔だった。北方からの南下中、客のゲルに現れた、肩で切りそろえた黒髪の少年。
嫌な戦慄につつまれて、ケネルは密かに動揺した。なぜ、同じことを言うのだろう。静かな威圧感を身にまとう、あの奇妙な少年と。
するり、と何かが結びついた。同じ質を持つというなら、目の前のこの医師も、あるいは──汗ばんだ拳を握りしめ、やっとのことで口を開く。
「……あんた、昨日、あの後に」
密かに醸されたあの問いが、喉元まで出かかった。そう、あの後、夕闇の坑道で、
──夢の石を発動しなかったか?
岩にかこまれた薄蒼い坑道。彼女にかがんだ闇医師の背、その輪郭がゆらりと揺らいで、緑炎が鮮やかに燃え立った。ケネルが全力で作動させた仄かな揺らぎの比ではない。それはずっと圧倒的で、桁外れの光景だった──
子供らの笑い声が、路地から飛びこむ。
はっとケネルは我に返り、ゆるりと首を横に振った。「──いや、すまない。なんでもない。どうも、奇妙な夢をみていたようでな」
どのくらい口をつぐんでいたのだろう、闇医師はいつの間にか帳場を立ち、壁際で茶をいれていた。「よければ、どうぞ」とケネルの方にも声をかけ、湯飲みを片手に帳場に戻る。
「奇妙な夢なら、俺もみる。それも毎晩、同じ夢を」
机の端に軽く腰かけ、窓際のケネルに目を向けた。
「音もなく、雪が降っている。そこは雪深い山里の、頂きにある古い社だ。俺は、とある女を探している。朝から祭殿を探しまわって、内陣の回廊で姿を見つける」
「……ナイジン?」
とっさにケネルは訊き返した。いや、知らずとも分かっていた。それがどういうものなのか──
どくん、と鼓動が大きく響いた。
全身の血が沸き立って、血流が速い脈をきざむ。パシリ、とどこかで何かが軋んだ。大きな亀裂が入ったように。
周囲にある色彩が、ことごとく粉々に砕け落ちる。
はっ、とケネルは身構えた。
足元の床が掻き消えて、漆黒の宙に浮いていた。いや、あわてて足を踏みしめると、靴裏は確かな手応えを踏みしめる。
あたり一面、白銀の穂波がゆれていた。
物音ひとつない漆黒の夜、ススキの原のただ中だ。しん、と凍りついた常夜の闇で、待宵草の黄色い花が、風に吹かれて揺れている。さらさらと、風だけが吹いている。
小さく心許なげな満月が、漆黒の空に浮いていた。
見渡すかぎり、誰もいない。いや、巨大な何かが闇に紛れて、じっと宙でうずくまっている。だが、闇に溶け入っていて、その鼓動は聞こえない。そう、あれを知っていた。あれの名前は
──ポイニクス
ざわり、と一面の穂波がなびき、もの寂しげな情景が一変した。
とてつもない高速で暗い坑道を突き抜けたような、目もくらむような白銀の世界。
白一色の、静かな景色の中にいた。
ふわり、ふわり、と舞いおりる軽い冷たさを肌に感じる。
ひらけた視界に広がったのは、一面、雪山の情景だった。すべての音が吸収された無音の「音」を耳が聞きとる。白い空は薄灰に雲り、朝なのか昼なのか、判然としない。
ひっそりとして、人けがなかった。
古めかしい社の奥宮。回廊にめぐらした朱の欄干。雪深い山寺の光景──
「──なにを、した!」
ようやく唾を飲みこんで、凝視の目をケネルは閉じる。「──あんた、俺に何をした」
異様な脈動の中にいた。
意識の端で、緑の光がまたたいていた。何かが作動しているかのように。そう、どこかへ接続しているかのように。
手近な何かにとっさにすがり、ふらつく額を片手でつかむ。「──なんだ、これは──催眠術か?」
「どうかしたか?」
あの医師の声がした。何事もなく平然としている。ケネルは歯を食いしばり、幻影を払うべく首を振る。「──どういうことだ。あんたの言う光景が、俺の頭に鮮明に浮かんだ。まるで、そこに居合わせたように」
「案外、感受性が強いんだな」
「──ふざけるな! 女子供でもあるまいし」
「まあ、落ち着け」
含み笑いで、声が制した。
「何をそう怒っている。気分が悪ければ、座ればどうだ」
わんわん、声が響いていた。それは大きくなり、小さくなり、でたらめな軌道でぐんにゃり歪む。近くなったり、遠くなったり、大きな円周の軌道上を、音源がまわっているかのように。
「景色がわかるなら、結構なことだ。それで、なんの不都合がある?」
声は呆れたようにそう言って、「さて、まだ先がある」と取り合うことなく話を続けた。
彼女は長い髪を背で束ね、回廊で空を見あげている。
曇った空、朱の欄干、白い装束、赤い袴。俺はその背に呼びかける。ここにいたのか、
月読、と。
そう、俺は探していたのだ。
かの者の命を断つために。そして、命を与えるために。
潮流の旋回に振り落とされぬよう、気流に足をとられぬよう、ケネルは必死で踏み止まる。話の矛盾がよぎったその時、見透かしたように、声は続けた。
新たな殻を与えるためには、古い殻は取り除かねばならない。
命を奪うということ即ち、命を授けることと同義。だから俺は "死を奪う者" と皆に呼ばれる。もしくは " 時告ぐる鳥
" と。
時の到来をかの者に知らせ、正しく命を断ってやる。そうでなければ月読は、異状に危機を見出して、命を担保するために、獣のように分割してしまう。
旋回の奔流に流されまいと、ケネルは歯を食いしばる。いや、双子や三つ子は獣ではない。そう、ヒトは獣ではない──
ヒトは獣、その一種だ。
自分もそこに含まれることを、ヒトは忘れてしまっている。
天に創造主がいるとして、地上を見るなら、どう見える? ヒトも猿も大差はない。高々言葉を話す猿、それがヒト、というだけの違いだ。
(ずいぶん尊大な言い草だ) 声には出せずに思っていると、果たして声は、見透かしたように続けた。
たまに、俺は思うことがある。俺は創造主なのかも知れない、と。
思わず、ケネルは苦笑いした。
「──あんたの冗談は、笑えないな」
声が、出ていた。
見知らぬ響きを伴ったそれを我が声と認識するのに、わずかばかりの時間を要する。だが、耳朶を打った音声は、凍りついた五感を呼び覚ました。
と同時に、重油のような圧迫感が、手から肩から溶け落ちる。霧が散るように漆黒が薄まり、異境の宙が急速に遠のく。ふっと夢から覚めるように。
「めまいは収まったか?」
出し抜けに声が、実体を伴って耳に響いた。
あの闇医師の声だった。
そう、これは確かにヒトの声。気配も温度も抑揚もある立体的なヒトの声──肩に感じる日射に気づいて、額をつかんだ手をケネルは放した。
窓に寄せられた革張りの椅子に、明るい夏日がさしていた。
壁にしつらえられた天井までの書棚。片隅にある手すりつきの階段。廊下への扉はひらいたままだ。視界の端に映りこむ窓ガラスの向こうには、通りを行き交うまばらな人々──
「……どうなっている」
あの事務所の中だった。気だるい夏の、ほの暗い事務所。
応接の革張りの椅子の背を、強く片手がつかんでいた。どうやら、ずっと、これにすがっていたらしい。何が起きたか訳がわからず、ケネルは視線をめぐらせる。
机に腰かけた闇医師が、哀れむようにながめていた。「疲れが残っているんだろう。ひどい有り様だったからな」
「──なんの話だ」
「昨日、坑道で倒れたろう、何があったか詮索はしないが」
思わぬ言葉に、虚をつかれる。
「……ああ、そうか……そうだったな」
ケネルは落ち着きなく目をそらした。
彼女を抱えた絶望の中、言い知れぬ奇妙な体験をしていた。その昂ぶりが収まらず、過敏になっていた神経が、奇妙な幻を見せたのかもしれない。
そうだ。異様で奇異なのは医師ではない、己の方だ。自分の方こそが禁忌の末裔。通常とは言いがたい身の上なのだ。現にこの手は、あの時、奇石を発動した。
そうした者が存在することさえ知らない者に──怜悧な目を持つこの医師に、浮世離れしたこちらの系譜を、ゆめ悟られることがあってはならない。裏稼業でも医師は医師。気が触れたととられかねない言動は、厳に控えて然るべきだ。
ケネルは眉をひそめて目をそらす。「──ああ、すまない。何でもない。あんたが言う通り、少し疲れているようだ」
「落ち着いたか? なんなら薬を処方するが」
「いや、必要ない。大丈夫だ」
幸い、頭はすっきりしている。金縛りのようなしびれは消え失せ、自らの存在がねじ曲げられ、漆黒に取り込まれそうな恐怖も消えた。そんなことより、未だ腑に落ちない疑念がある。
「ところで、訊きたいことがある」
改めて、ケネルは医師を見た。「あんた、昨日、何をしたんだ」
「何とは?」
「あんたに預けた患者の傷は、処置が済んでいたはすだ」
衛生班の隊員により、傷は縫合されていた。ゆらぎは既に失せていたから、元に戻ることはなかったはずだ。ならば、その後に到着した者に、それ以上何ができるというのか。
くっ、と喉を鳴らして闇医師は笑った。
「つまり、それはこういうことか? 俺が料金を掠めとろうとしている、とでも?」
いぶかしげな客を眺めやる。「現に患者は回復したろう。それだけでは不足なのか」
「ばか高い料金を支払う以上は、治療内容を把握しておきたい」
闇医師は嘆息し、じっと冷ややかにケネルを見つめた。
「──手の内は明かしたくないんだがな」
だが、ケネルに引き下がるつもりはない。
湯飲みを唇に当てたまま、闇医師は鋭くうかがった。
「"時を進めた"と言ったら?」
愕然と、ケネルは言葉を呑んだ。
心を鷲掴まれたようだった。突拍子もない答だが、どこかで予期していなかったか?
「……なんて顔をしているんだ」
髪を額から掻きあげて、医師はやれやれと嘆息した。「冗談だ。からかい甲斐のある奴だな」
面食らった相手に構うことなく、表情を引き締め、さばさば続ける。
「あの患者には、回復を早める塗布薬をな。成分については秘匿する。俺にできるのは、いや、誰が手当てにあたったところで、対症療法が精々だろう。いかにも縫合は済んでいて、傷はふさがっていたからな」
「ふさがっていた?」
ケネルは絶句して医師を見た。「……あんた、何を言っている」
「何をそんなに驚いているんだ。この依頼を受けてから一月近く経っている」
「──だが、そんなはずは」
「現に、あの切創は一月経過後のものだった。もっとも、厄介な患者というのは確かだがな。ああ、自覚があるなら、その分を上乗せしてもらおうか」
更なる要求を突きつけられ、ケネルは面食らって顔をしかめた。「今さら値を吊り上げるつもりか。話はついたはずだろう」
「手を引いても構わんが?」
「……噂には聞いていたが、商都の医者は計算高いな。それで、あといくら欲しいんだ」
「いや、金はいい」
「だったら何を?」
「お前の"死"をもらおうか」
ケネルは絶句して見返した。一瞬、何を言われたのか、わからない。
「"命を"ではなく、俺の"死を"か?」
ふと、そこに気づいて苦笑いする。
「──ああ、さっきの夢の話か。まんまと、してやられたな」
じっと闇医師は様子を見やって、指の先を顎に当てる。「お前、もしや──」と目をすがめた。
「俺が恐いか?」
ケネルはうろたえ、目をそらした。「──一体なんの冗談だ」
医師は足元を顎でさす。
「ずっと、足が震えている」
「……それはあんたの見立て違いだ」
憮然と作った顔裏に嫌な当惑を隠しつつ、ケネルは菓子折りを取りあげた。廊下へ続く扉に向かう。
「そんなものでいいんなら、あんたに全部くれてやる。何をしても死なないというなら、いっそ、こっちは有り難いくらいだ」
部屋を横切り、廊下に出る。まったく、この男の冗談は笑えない。
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