CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 11話6
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 着替えを済ませて廊下に出ると、ボリスは薄青い綿シャツの上に、いつもの革ジャンを羽織っていた。顔を出した相手を認めて、肩をゆすって向き直り、廊下の先へと顎をしゃくる。
「行くぞ」
「……う、うん」
 エレーンはバッグの紐を横掛けしながら、歩き出した背をあわてて追った。たった今出てきた扉を、腑に落ちない思いで一瞥する。
 廊下の先は、斡旋所の店内に続いていて、窓際に寄せた応接で、長い赤毛の女が一人、気怠そうに煙草をふかしていた。廊下から事務所に踏み出すと、女は煙草を揉み消しながら、品定めの視線を送ってきたが、大して興味もなさそうに、あくびまじりで目をそらした。赤い爪の指先で、細い煙草に火をつける。
 水商売風の見知らぬ女に、エレーンはそそくさ会釈をし、ボリスについて店扉を出る。
 夏特有の強い日ざしが、一気に全身に照りつけた。
 午後というのに、通りを歩く人影はまばらだ。昨日の祭で遅くまで騒いで、まだ寝床にいるのかもしれない。
 通りの先まで連綿と立てこむ商店の軒先の日陰を歩き、エレーンは連れを盗み見る。部屋での先の反応が、何か奇妙に感じたからだ。
 ヴォルガの真相を汲みとった途端、エレーンはあわてて頬をぬぐった。昨日の森でバリーが見せた意外にもくだけた横顔が、不意に胸に迫ったからだ。その反応は自分でも驚くほど過剰なもので、なぜ涙がこぼれたのか、理由はよく分からない。恐らくボリスも驚いたのだろう、面食らったように口をつぐむと、眉をしかめて唇を舐めた。
 それは奇妙な表情だった。不可解なものに行きあって反応できないとでもいうような。更には、きつい口調で怒鳴りつけてしまいそうなところを無理して押さえこんでいるような。
 ボリスはしばらく口をつぐんで、じっと様子を見つめていたが、やがて、ぶっきらぼうに肩を返した。
『 買い物に行くぞ。支度しろ 』
 斡旋所の看板を後に、ボリスは道なりに歩いていく。すすっと、エレーンはその横に並んだ。
 ちらっと連れを盗み見る。
「あたしと背、変わんないね」
「──うっせえっ!」
 ぎろり、とボリスがねめつけた。
「俺のがちょっと高いだろうがよ!」
「うん。小指一本分」
「てんめえ、ふざけてっと張っ倒すぞ。中指くらいは違うだろっ!」
 辻から見える大通りを、首からタオルを無造作に下げた、たくましい体つきの人足たちが、丸太を担いで行き交っていた。祭で使った工作物を、解体、撤去しているのだろう。歩道には、昨日の祭でまかれたのだろう色とりどりの紙吹雪が、人々の靴裏で踏みしだかれて、石畳に貼り付いている。一夜明けゴミと化した祭の名残りが、歩道全体に散っていた。紙皿やチラシなどの雑多な紙ごみ、花火の残片、軽食の串──。
 あれ? とエレーンは足を止めた。
 左手に三本、先の通りだ。そこに見知った革ジャンがいた。筋肉質な痩せた背中、きびきびとした無駄のない所作、肩にかかる薄茶の髪先、前髪の下の鋭い双眸──
「ザイ?」
 ザイは通りをぶらつきながら、しきりに後ろを気にしている。はっと弾かれたように足を止め、そそくさ逆方向に引き返し──。なにやら様子が妙だった。そう、不敵なザイにして珍しく、逃げるような足どりではないか。
 眉根を寄せて立ち尽くし、エレーンは解せずに首をかしげる。
「……鬼ごっこ、してるとか?」
 辛辣にしてシビアなあの、、ザイが?
 ふと、連れの不在に気がついた。
 きょろきょろ視線をめぐらせて、はあ、と嘆息、肩を落とす。
「……あんた、なに隠れてんのよ」
 そろり、とボリスが街角の壁から顔を出した。
 首だけ伸ばして、向こうの通りをすがめ見ている。
 ザイの姿が消えたのを、くれぐれも確認しいしい、そろそろ姿を現した。長く息を吐きながら、呆れた顔で振りかえる。「……お前、よくつるめるな。あんなおっかねえ野郎とよ」
「べっつに、あたしはつるんでなんかー。あ、でも、結構わりと平気っていうか? もう、あんまり抵抗ないし。そりゃ、前はちょっと恐かったけど」
 実は「ちょっと」どころの騒ぎではないが。
 だが、顔見た途端に、泡くって隠れるほどじゃない。「それに」とエレーンは小首をかしげる。
「慣れると、ちょっと面白いしぃ?」
 あァ? とボリスが途端にすごんだ。
 信じられないものでも見るような、実に嫌そうな顔をする。「──なに寝言いってやがる。信じらんねえ女だな」
 ズボンの隠しに手を突っ込み、仏頂面で歩き出した。その実、脇道にさしかかる都度、通りの先に目を凝らす。それを横目で眺めつつ、ひょい、とエレーンは指さした。
「あ、ザイ」
 うぎゃっ!? とボリスが飛びあがった。ばっと身構え、わたわた見まわす。
「やー、ごっめ〜ん。見間違いだったあ」
 えへら、と笑って、エレーンは謝る。
「……ふっ、ふざけてんじゃねえぞコラ」
 ふるふる拳固を震わせて、青筋立てて、ボリスがすごむ。
 エレーンはやれやれと嘆息した。「なあによ、そのへっぴり腰はー。森で、あたしのこと取り合った時には、散々ザイにすごんでたくせにぃ?」
「う、うっせえなっ!」
 まなじり吊りあげ、ボリスはすごむ。が、きょろきょろ警戒は怠らない。
(あ。そうか)とまたたいて、エレーンは連れを盗み見た。そういえば、ヴォルガの晩には、バリーもいた。三バカの残りも揃っていた。つまり、
 ──仲間がいないと、張り合えないのか。
 エレーンは額をつかんで、うなだれた。実は一人だと弱っちいから、仲間とべったり、片時も離れずくっ付いているのか。つまり、
 ──弱い犬ほど、よく吠える。
 つくづく嘆息、ボリスを見る。小柄なだけかと思ったら──
「あんたって、ほんと、見たまんまよね〜」
「──どういう意味だよっ!?」
 引きつり顔で応酬しつつ、ボリスはぎくしゃく歩いている。やはり警戒は怠らない。
「もう、どこにもいないってば! どんだけザイが恐いわけえ?」
 自分のことは棚にあげ、エレーンは大言壮語でふんぞりかえる。
 どん、と何かに吹っ飛ばされた。
 顔をしたたかにぶつけてしまい、チカチカ星が飛びまわる。横の路地から、人が飛び出してきたらしい。
「──ちょ、ちょっとお。どこに目ぇつけて歩いてんのよ」
 涙目で顔をあげると、赤銅色に日焼けした、がっしりとした肩が目に入った。
 たくましい胸板に、汗で張り付いたランニング。どことなく粗暴な風体は、大通りで廃材を運んでいた、人足の一人に違いない。
 暑きと疲れで苛ついているのか、男はこわもてを威圧的にゆがめ、首のタオルで汗をぬぐった。「あ? なんだよ、姉ちゃん。そっちこそ前見て歩けよなァ」
「はああ?」
 飛び出してきといて、なんたる言い草。
 むぅ、とエレーンは前のめりで抗議。「でもー! あたしはちゃああんと、ゆっくり道の端っこをー──」
「うっわ! すんませんすんませんすんませんっ!」
 ぎょっと顔を引きつらせ、ボリスがあたふた割りこんだ。
 顔面蒼白、ぺこぺこ男に平謝り。すぐさまエレーンを引っかかえ、二町先までつっ走る。
 街角の陰に滑りこんだ。ぜーはー胸を押さえている。
「ちょっとお。なんで逃げんのよー。あっちが飛び出してきたんでしょー」
 あたしはなんにも悪くないぃー、とエレーンは口をとがらせる。呆れ果てて腕を組んだ。
「それでも、あんた傭兵なわけえ? あんなのちょちょいと、やっつけたらどうなのよー」
 ここにいたのがファレスなら、即行 開戦 間違いなしだ。止める間もなく。
 ボリスは舌打ちして目をそらす。「あんな素人やったところで、自慢になんかなんねえよ」
「なによー、本当は恐いんでしょ。なあにが兄貴よ、頼りがいのない。ほーんと気がちっちゃいんだからー」
「う、うっせえな」
 口をとがらせてぼそぼそ言い、ボリスは眉をしかめて前を向いた。
「──嫌いなんだよ、暴力は」
 
 通りをぶらつく二人の肩に、夏の熱気が照りつけた。
 遠くの方から聞こえてくるのは、掛け声のような怒鳴り声。大通りで作業をしていた、あの人足たちだろう。
 夏日が舗道を焼くだけで、通りは静かで、ひっそりしている。
 ぎらつく夏の日ざしを仰いで、エレーンは腕で汗を拭いた。一体どれだけ歩いたろうか。むしろ、どこへ 向かっているのか……。
 そう、五番街の店を出てから、ずいぶん長いこと歩きづめだ。裏通りを北門通りに当たるまで歩きとおし、次の街角で引きかえし、別の街角を二度曲がり、北門通りに向けてまた歩き──四方八方、縦横無尽に街の中をぐるぐるぐるぐる──今や、四番街、三番街は歩行済み、街の東はあらかた制覇した勢いだ。というのに、ボリスときたら相変わらずで、店の敷居をまたぐことはおろか、足を止める気配さえない。
(もーっ! どんだけ散歩が好きなわけぇ?)
 連れの何事もない横顔を、エレーンはぶちぶち盗み見る。
「ねえー! 一体どこまで歩く気よー。なんか買いに来たんじゃなかったのー?」
 あん? とボリスが面倒そうに一瞥した。
「買い物すんのは、お前だろうがよ」
「はあ? なに言ってくれちゃってんの。あんたが買い物に行くって言うから、わざわざ外に出て来たんじゃない」
「──だから」
 わかんねえ奴だな、と舌打ちし、ボリスは頭を掻いて向き直る。「俺は付き合ってやってんじゃねえかよ。お前は買い物するために、、、、、、、、、はるばる商都まで来たんだろ」
「はああ? なにそれ。誰がそんなこと言ったのよー」
 エレーンはふくれっつらで腕を組む。
「そんなわけ、ないでしょが。こちとらここがバリバリ地元よ? 商都在住うん十年よ? 今さら何を買えっての」
 商都で売っている物品を、ありがたがって押し頂くような、微笑ましい素人ではないのだ。
「そうはいっても庶民じゃねえかよ。領家の奥方に収まって大金持ちになったんだから、手が出なかった高けえもんとか、買えるようになったじゃねえかよ」
「あっまーい!」
 ちっ、ちっ、ちっ、と指を振り、エレーンは、むう、と顔をしかめる。
「現金なんか全然持たせてくんないんだからー。ほら、ああいう人たちの買い物ってさ、お付きの人が払うじゃない? むしろ全部ツケってやつ? そういう上流階級の習慣って、あんたは知らないだろうけど、てか、あたしもあれは予定外だったけどー」
 だから、今の財布の中身は一万カレントと小銭が少し。そこらの道往くおばさんよりも、ぶっちゃけ、よっぽど貧乏なのだ。
 ふんっと開き直って胸を張り、「あたしは貧乏!」の絶対的ピンチを、グチグチひとくさり述べ立てる。
 ボリスは拍子抜けしたように口をつぐみ、いかにも不思議そうに腕を組んだ。「なら、なんで来たんだよ、北からはるばる商都まで」
「だからー、ダドに会うためだってば!」
「──ダドって、あの領主のことかよ。天パー頭の、お前の亭主の」
「へ? 知ってんの? ダドのこと」
 領主のトラビア行に同行した旨、ボリスはかいつまんで説明した。
 商都に行くから人を貸せ、と領主が天幕群にねじ込みにきたこと。当初は商都までという契約だったが、トラビアまで延長したこと。道中、国軍とやりあいつつも、なんとか無事に到着し、だが、トラビアの街門を目前にして、潜んでいた国軍に捕まったこと。
「──なあ、あいつさ」 
 ボリスは横をぶらつきながら、突如、真顔で言い聞かせる。
「あいつ、すっげえいい奴だぞ?」
「──知ってるって」
 エレーンは思わず苦笑いした。彼の友だちは大抵そう言う。
「でも、なんで、お前がわざわざよ。いくら亭主が捕まったからって、トラビアは開戦してんだぞ。堅気が行こうとするような場所かよ」
「だあって色々あるんだもん。こっちにだって事情がさぁー」
 あたしだって好きで行きたいわけじゃないぃー、とエレーンは口をとがらせて言い返す。
(物好きだな)といわんばかりに、ボリスはまじまじ眺めている。
「……そりゃ、あたしだってさ」と目をそらし、エレーンは足元の空き瓶を軽く蹴った。
 思わぬ耳障りな音をたて、瓶は壁にぶつかった。
 からから転がり、戻ってくる。見るともなしにそれを見つめて、エレーンは小さく嘆息した。
「こんなはずじゃ、なかったんだけどなあ……」
 石畳に張り付いた自分の影から顔をあげ、夏の日ざしを浴びている商都の街並みをながめやる。
「本当はあたし今頃は、こっちで雑貨屋やってたの。あのダドと一緒にね。約束したんだ、ダドリーと。あたしの実家を買い戻して、うちの稼業、立て直そうって」
 領主として采配を振るのが、ダドリーの積年の夢だった。だが、彼には兄が二人もおり、三男坊のダドリーに悲願が実現する見込みはなかった。それで身の置き所がなかったか、学業を収めた商都に居残り、帰郷しようとはしなかった。あるいは、不遇な三男坊は、日々自主独立の道を、密かに探っていたのかもしれない。
 そんな頃だった。二人が一緒になろうと約束したのは。かつて彼女が潰してしまった雑貨商を再興し、住み慣れた商都で家庭を持とうと。彼と彼女と、やがて生まれるであろう子供らとともに。
 慎ましくもあたたかな、そんな未来の展望を思い描いた矢先のことだった。クレスト領主と嫡男の「急死の報」が届いたのは。そして、亡き領主の後継者として、三男坊のダドリーに白羽の矢が立ったのは。
「……嫌だ、なんて言えなかったなあ。あたしはうちに帰りたかったけど、故郷に戻って領主になるのは、絶対無理って諦めてた、ダドの長年の夢だもん」
 後ろ手にして歩きつつ、エレーンは遠い夏空を仰いだ。
「そんな遠くじゃ、友だちなんかもいないしさ。あっちには商都みたいな遊び場もないし、森と畑と牧場しかないし、でも、ダドが行くって言うんなら、ついて行こうと思ったの。それに、やっぱり憧れもあったしね。だって信じられる? 貴族の生活ができるのよ?」
 だが、北方に嫁いだエレーンは、厳しい現実を目の当たりにする。彼には既に妻子がおり、しかも、頼みの綱のダドリーは、これ以上、子供は要らないと言ったのだ。
 当時のやりとりを思い出し、エレーンは密かに唇を噛む。
「でもさー、そうしたらあたしは、何をすればいいわけ? 毎日起きて、ドレス着て、誰もいない広い部屋で、日がな一日突っ立ってろっていうの? 壁に飾ったお人形みたいに?」
 話が違う、と詰め寄った。
 だが、貴族の子弟として育った彼とは、あまりにも感覚が違いすぎた。別宅に妻子がいることは、彼には不実でもなんでもなく、どんなに怒って抗議をしても、ぴんとこないようなのだ。
 ボリスは居心地悪げに聞いていたが、苛ついたように口をはさんだ。
「甘めえよ、お前は。そういう連中に妾がいるのは、少し考えりゃ、わかることじゃねえかよ」
 不意に胸を射抜かれて、エレーンは頬を強ばらせた。だが、どうにか苦笑を浮かべ、涙をこらえて空を仰ぐ。
「うん、わかってる。──わかってた。でも、ダドは違うと思ってた」
 だが、故郷に戻ったダドリーは、商都で接したあの彼とは、別の一面を覗かせた。
 何事にも合理的なダドリーは元より冷淡に見られがちだが、それはエレーンが知っていた率直さというよりも、ややもすれば事務的で、非情の範疇に収まりさえするような冷え冷えとした面貌かおだった。
 権勢を笠に着た、恐らくは無意識なのだろう手前勝手は、恋人から身内へと立場を変えるに伴って、密かに傲慢さを増していき、ついにはどんな声も届かなくなりそうな、うすら寒い恐怖さえ覚えた。だって、止まるわけがない。それは彼には当然のことで、悪意のかけらさえ、そこにはない、、のだ。
 認識の相違は決定的だった。上辺では価値観を共有しても、よって立つ根は、、、、、、、それぞれに異なる、、、、、、、、。それをひしひしと思い知った。独自の常識を共有する彼らのきらびやかな社会では、自分一人が認識の異なる余所者なのだ。
 疑念と不審が渦まく中、商都を切り捨てた旨を聞く段に至って、ついに感情が爆発した。エレーンは思うさま非難を投げつけ、だが、直後、彼は姿を消した。
 うららかな陽の当たる午後の領邸執務室。
 立ち尽くしたまま見つめている、ダドリーの姿が脳裏をよぎった。彼を突き飛ばして飛び出した、彼の顔を見た最後の日の。
 ディールとの交渉の矢面に立ち、悩み、苦しんだ今なら、わかった。他家の攻防を捨て置いた、領主としてのダドリーの苦境が。
 広い執務室の椅子でひとり、どれほど神経をすり減らしていたことだろう。自領に火の粉が降りかからぬよう。戦渦が領民に及ばぬよう。他家の強大な力に屈せず、いつまで民を守れるか──。危うい綱渡りの連続で、どれほど疲れていただろう。
 重圧にさらされ、胃の腑が痛むような苦悶と消耗。それでも懸命に連れ合いをなだめ、締め出されたドアを叩いた。元より育ちが違う彼には、相手の思いが了解できずに、恐らく戸惑っていたろうに。それでも彼にとっては、
 そうするだけの価値が、、、あった──?
「──連れてって。トラビアに」
 不意に湧きあがった激情に呑まれて、エレーンは唇を震わせた。
 ボリスはわずかに眉をしかめた。その困惑顔に構うことなく、エレーンは必死ですがりつく。
「お願い! ダドの所に連れてって! 早く会いに行かないと!」
「できるわけねえだろ、そんなこと」
 苛立った拒絶に弾かれて、びくりと頬が強ばった。ボリスは舌打ちして目を背ける。
「勝手に外に出したりしたら、俺らは隊にいられなくなる。──知ってんだろ。半端者なんだよ、俺たちは。ここ追い出されたら、行き場がねえんだ」
 苦々しげな横顔に、彼の特殊な立場がうかがえた。ボリスはただの、、、遊民ではない。遊民部隊にかくまわれた、、、、、、、表向きには存在しない、、、、、者なのだ。だからこそアドルファスは、親を殺した子供らを引き取ったのではなかったか。
 仲間の遊民を嫌いつつ、彼らが部隊を出て行かないのは、行き場も職もないからだ。自分の素性を、彼らは他人に明示できない。身元の保証がない者を雇う者は稀だろう。そもそも、死んだはずの彼らには、生まれた国にさえ居場所がない。己が悪行の証人を、為政者は決して見逃しはしない。
「そ、そっか。ごめん! そうだよね」
 はっと気づいて、エレーンはあわてて手を振った。
「ごめん、忘れて。今のなし!──あ、いや、あとちょっとのとこだったから──だって、やっとここまで、来たんだし──」
 強ばった頬を無理にゆるめて、努めて平気な顔を作った。ボリスも戦慣れした傭兵だが、誰にでも頼めることではないのだ。
 それを思って落胆し、靴先の影に目を落とす。ボリスが小さく舌打ちし、編みあげの靴を踏みかえた。
「──なんで、そんなに行きたいんだよ」
 エレーンはうつろに微笑んで、西の空を眺めやる。
「だって、あたしのせいだもん、ダドがトラビアに行ったのは。商都のことで、ダドにきつく当たったから、だから、きっとダドリーは──」
 あわてて、エレーンは口元をつかんだ。
 だが、頬の涙に気づいた時には、ボリスがそわついた顔で肩を揺すった。
 頭をがりがり掻いている。困らせてしまったようだった。眉をしかめた、戸惑ったようなあの、、横顔──
(……あ、まただ)
 はっと、既視感に息を詰めた。
 これと同じ違和感を、少し前にも感じたはずだ。そう、ヴォルガの話を部屋で聞き、不覚にも涙したあの時だ。
 時おり見せる、彼の戸惑ったような表情の中に、かすかな苛立ちが見え隠れする。ボリスはわりと考えなしに感情をぶつける単細胞だ。なのに、ためらうようなその素振りが、どうにも、どこかそぐわない。バリーの指示で嫌々来たから不服なのかと思っていたが、そう単純な話でもないような──。
 それは、もっと、重く、いびつだ。何かがわだかまっているような、喉元でつかえているような、何かを隠し持っているような──。それがどういう意味を持つのか、心当たりは、やはり、ない。
「来い」
 え、と顔をあげた途端、強く手首をつかまれた。
 そのままボリスは手を引っぱり、振り向きもせずに歩いていく。
 足早に路地をやり過ごし、大通りに出、向かいに渡り、ぽっかりひらいた建造物の入口を入り、螺旋階段をぐるぐる登って──
「……ここって」
 一歩外に踏み出した途端、向かい風にあおられた。
 唖然と見まわしたエレーンの眼下に、商都の屋根が野放図に広がる。
 時計塔の屋上だった。
 目抜き通りの中央にある、商都の象徴ともいえる建造物だ。昨日催されたミモザ祭では、この塔鐘が打ち鳴らされた。ここも大勢の人で賑わったろう。だが、一夜あけ、熱狂が去った今となっては、塔の内外はひっそりとして、もう、人の気配も感じ取れない。
 ボリスはようやく手を放すと、塔の縁までぶらぶら進んだ。
「西に連れて行ってはやれねえけどよ、このくらい高ければ、拝むぐらいはできるだろ」
 手すりの前で足を止め、「──と思ったんだがな」とあてが外れたように舌打ちした。
 なんだよ、見えねえじゃねえかよ、と忌々しげに一人ごち、ばつ悪そうに頭を掻く。
 時計塔の上からは、商都の街並みが一望できた。だが、広く連なる屋根の向こうは、豊かな山なみにさえぎられている。
 せめてボリスは、面目なさげに指さした。
「トラビアは、あっちの方角だ」
 鉄の手すりを両手で握って、エレーンも食い入るように乗り出した。「あっちの方向……」
「ああ。あの山の向こう側に、トラビアの街がある」
 そして、あのダドリーが、今も、どこかで捕らわれている──。
 西からの風が、髪をさらった。
 湿気を含んだ生ぬるい風。トラビアの方角から吹いてくる。
 長らく旅をして、ここまで辿りついたのに、それでもまだ、こんなにも遠い。どうしても縮まらない、あの彼との隔たりのように。
「……なんで、あんなこと言っちゃったんだろ」
 ダドリーの屈託のない笑顔が思い浮かんで、エレーンは手すりにうつ伏せる。
「大嫌いって、言っちゃったの。あたし、ダドに、大嫌いって」
 風に吹かれる隣のボリスが、ちらと横顔で一瞥した。
「あんなこと、言うんじゃなかった」
 黙ったままだが、ボリスの横顔は聞いている。
「あたしね、子供の頃お父さんに、おんなじこと言っちゃったの。あの日はあたしの誕生日で、でも、両親は店をやっていたから、急に仕入れに出ることになって。それで、その朝、お父さんが様子を見にきたの。すまなそうに笑って、ご機嫌とって。あたしにも、それはわかってた。でも、笑いかえすことができなくて、お父さんに言っちゃったの。大っ嫌い、って。お父さんなんか──」
 押し出す喉がひりいて、つかの間、エレーンは言い淀む。
 次の言葉を口にするのを躊躇した。だが、意を決して手すりをつかむ。
「死んじゃえばいい、って!」
 視界の隅で、ボリスがたじろいだように一瞥した。
 それに振り向くことはせず、エレーンは微笑って首を振った。
「それきり、お父さん、戻ってこなくって──事故にあったの、旅先で」
 ボリスは辛うじて「──そうか」とだけ言った。
 髪を巻きあげる風に吹かれて、エレーンは唇を震わせた。言い切った胸が、込みあげた苦さで熱かった。大きく息を吐き出して、西の穏やかな山なみを見据える。
「ダドに、あんなこと言うべきじゃなかった。自分が大事に思う人に、絶対言っちゃいけない言葉だった。だから、あたしはトラビアに行くの。自分の言葉の責任をとりに。口にした言葉は戻らないけど、ううん、二度と取り戻せはしないから、ダドに会って取り消したい。だって、そうしないと、又、あたし──」
 言葉にならず呑みこんだ言葉が、胸の中で渦をまく。
 その熱をさらうように、西からの風が吹きぬけた。
 祭の翌日はのどやかで、眼下の通りに人影はまばらだ。見慣れた街並みが涙でにじんで、エレーンは手すりの両腕に力なく顔をすりつける。
 風が髪を舞いあげた。
 それに任せて、しばらく二人、風に吹かれた。
 そうして大分経った頃、ボリスはようやく「そうか」と言った。
 
 
 

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