■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 11話12
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引き千切れたカーテンの裾が、ひらひら窓辺で揺れていた。
叩き割られ、枠だけになった向かいの窓から、風がぬるく吹きこんでいる。
隅に、空き瓶が転がっていた。
床には物が散乱し、嵐が過ぎ去った後のような、ごみ箱をひっくり返したような有様だ。転がる酒瓶、破れた雑誌、各自が持ちこんだ見舞いの数々──。ダナンは無言で視線をめぐらせ、部屋に踏み入った足を止めた。
真夏の強い透明な日ざしが、くっきり窓辺を照らしていた。
強い光で切りとられ、窓の陰はいっそう暗い。その陰の中、ファレスはぐったりともたれていた。
窓枠できらめく鋭い破片に目をとめて、ダナンは壁に目を戻す。
「怪我はありませんか、副長」
ファレスは気怠そうに身じろいで、床に手をつき、腰をあげ、だが、肩をぶつけてくず折れた。
床にじか置きした緑の瓶を忌々しげに引ったくり、ラッパ飲みして顔をしかめる。
額でわけた長い髪は、今やぺたりと背に張り付き、普段のしなやかさを失っていた。雨に打たれてさまよい歩いた、路地でたたずむ捨て猫のように。
「正気ですか。正体をなくすほど飲むなんて」
注意深く用心深いファレスの荒ぶる惑乱は、多少のことでは動じない寡黙な毒薬使いをたじろがせた。用心深い普段の彼なら、酩酊するほど飲みはしない。いや、彼に限らず名の知れた猛者なら、誰しもそんなことはしないだろう。恨みを買う商売ゆえに、一瞬の油断が命取りになる。
静かにダナンは見おろした。
「今のあんたなら、俺でも殺れる」
不穏にファレスは顔をあげ、悪態をつこうと口をひらく。途端、背を折り、激しく噎せた。
顔をしかめて脇腹を押さえ、だが、それでも酒瓶に手をかける。その手をダナンはおもむろに押さえた。
「それくらいにしたら、どうです。そんなに咳き込んで、傷に障りますよ」
ファレスは瓶を引ったくって奪い返した。
「……なんの用だ」
頭痛をこらえるように眉をひそめ、煙草をくわえて点火する。だが、腹立たしげな声音には、少しの困惑が混じっている。
侵入者に腹を立てているというより、戸惑っているようだった。ろくに言葉も交わさぬ毒薬使いが、こうして目の前に現れたことに。
「ロジェとダナンが廊下で心配していますよ。西日にガンガン照らされて」
それでも二人とも立ち去りはしない。日照りの床に散らばった靴先の無数の吸い殻が、過ごした時の長さを物語っている。
ファレスは荒く息を吐き、面倒そうに顔をしかめた。「──うっせえな。余計なお世話だ。どこへなりとも、とっとと失せろ!」
「わかりました」
ダナンは床に手を伸ばし、ひっくり返った灰皿を拾った。
とん、とそれを床に置き、ファレスと並んで腰をおろす。
「付き合います」
ファレスが面食らったように眉をひそめた。
(よっ、よっ、よせっ! ダナンんん〜っ!)
はらはら扉で見ていた二人が、声なき悲鳴で青ざめている。確かに無謀な試みだった。不機嫌を承知で居座るなど、向こうみずもいいところだ。この荒れた様子では、突然斬り捨てられてもおかしくない。
招かざる客を追い払おうというのだろう、ファレスは唇を舐め、言葉を探すように視線を揺らしている。
だが、それさえ、すぐに投げ出してしまった。大儀そうに目を閉じて、わずらわしげに嘆息している。扉を閉じてしまおうにも、素早く足をねじこまれ、うまく閉じてしまえない、というように。
ダナンは上着の懐をさぐって、煙草を取り出し、点火した。並んで座った肩先ごしに、ひりつくような拒絶と警戒、そして、彼の気配が伝わってくる。
不機嫌そうに柳眉をひそめて、ファレスは口をつぐんだままだ。隣などには目も向けない。
壁に、靴跡がついていた。
板壁は割られて陥没し、窓はすべて叩き割られ、窓に吊られたカーテンも、中ほどで引き千切られている。
窓辺に据えた寝台の位置が、無造作な角度でずれていた。外れかけた窓枠はひしゃげ、椅子の脚は折れている。
ファレスは片手で紫煙をくゆらせ、ひっきりなしに酒をあおった。
何かが切れてしまったようだった。何かが損なわれて均衡を欠き、不安定になっている。どこか別の世界で焦点を結んだその瞳はひどく乾いて、だが、辛うじて均衡を保った内側では激しい憤怒が渦まいて、ふとした拍子に噴き出しそうな、きわどい危うさが見え隠れする。
だが、近寄ったとたんに弾き飛ばされる、すさまじい気迫は、今はなかった。触れれば切れそうな鋭利な凄みは成りをひそめ、ファレスは今、深く疲れているようだった。そう、廊下で扉をひらいた刹那、視界に飛びこんできた彼の姿は──ひっそりと壁にもたれたその姿は、休んでいるというよりも途方に暮れているように見えた。周囲をことごとく牽制し、誰の手をも拒むくせに、探しあぐねて見つからず、すっかり途方に暮れている、そんなふうに。そこには何かが欠落していた。彼に当たり前のようにして具わっていた何か──自信、あるいは余裕のようなものだろうか。
ダナンはゆっくり一服しながら、ひらいた扉を顎でさす。
「もったいない。酒を無駄にするなんて。ばちが当たりますよ」
ファレスはうなだれたまま一瞥もくれず、床に据えた双眸を細めた。
頭が朦朧としているのか、それについて少しの間じっと考え、苦笑いして目を閉じる。
「──いやしねえよ、神サマなんざ」
かすれた笑い声をくつくつと立て、投げやりな調子で続けた。「ぜんぶ、くれてやるって、言ってんのによォ……」
床に転がした手元から、薄く紫煙が立ちのぼる。
窓からの光の筋が室内の陰をくっきり切り取り、床を白く照らしていた。暴力的に荒れ果てた、荒廃した一室は、野ざらしの陽に焼かれ、乾いた風が吹き抜ける、無人の廃墟を思わせる。
「無理ですよ、副長」
紫煙を指でくゆらせながら、ダナンは静かに口をひらいた。
「取引もちかけようったって、通じる相手じゃないでしょうに」
「──何が」
不承不承という態で、ファレスは顔をしかめて紫煙を吐く。
「"神サマ" ですよ。全部くれてやるって言ったんでしょう?」
絶対いやだ、と激しく拒絶し、「なぜ俺なんだ!」と怒りをぶちまけ、「とりやめてくれたら、なんでも差し出す」と神を担ぎ出して取引を迫る──ファレスのこのところの言動は、人が「死を受け入れる過程」によく似ていた。
ダナンは壁に頭をもたせ、天井に反射した光のゆらぎを仰ぎやる。
「だが、そんなものは、どこにも居ない」
瓶の口を唇に押し当て、じっとファレスは聞いている。
そして、気だるげにうつぶせた。身を起こしているのは、もはや限界というように。肩をおおう長髪の下から、駄々をこねるような舌打ちが聞こえる。「だったらなんで、信じてる奴がいるんだよ」
「そいつは多分──」
流れに任せて応えかけ、ダナンは思案をめぐらせた。
「乳鉢を調合棒でこねていると、もくもく白い煙が出てきましてね。そいつは入道雲みたいな怪物になって、俺はただもう驚いて、必死になって逃げるんですが、そいつの方もどこまでもどこまでも追ってきて──ああ、さっきみた夢の話ですが。そんな怪物、現実にはいないんですが、その時には、ただもう恐くて、必死になって逃げまわる。そういう類いのものじゃないですかね」
「──だから何が」
「神サマの話ですよ」
ふう、とダナンは紫煙を吐いた。
「在ると思えば在るし、ないと思えば、ない。こっちが認識した途端、そいつは実体を持っちまう。なら、こっちが認識しなければ、そいつはどこにも存在しない。神サマってのも、要はそういう類いでしょう?」
ほの暗い天井に投げた目を、ほんのわずかダナンは細める。
「大事な誰かが死にかけても、神サマは手なんぞ貸しちゃくれない。いつだって、そうだったでしょう。これまでも。これからも。そんなものに願ったところで、何を叶えるわけでもない。結局は自分すよ、最後のところは」
膝の上にうつぶせたまま、ファレスはじっと顔をあげない。
「そういうあいまいな抽象論は、俺は信じない質ですが、そういう特定の概念が根強く存在するってことは、つまるところ、神サマってのは──」
叩き割られた窓の外、夏の強い陽光に、ダナンは視線をめぐらせた。
「鏡に写った自分のことを、そんなふうに言うんじゃないですかね」
ファレスはうつぶせたまま、身じろぎもしない。もう、指一本もちあげることさえ億劫だというように。
天井に写った光の反射が、水面のようにゆれている。
室内にあるもの全てが精彩を欠き、夏の気だるい沈黙が、ほの暗い部屋に流れていた。ただ一つの光彩は、窓から差しこむ強い真夏の日ざしだけだ。
うつぶせたままの隣の頭に、ダナンは無造作に手を伸ばす。
「勇気がありますね、副長は。こんな布きれくっつけて、街を歩いてきたんですか」
前髪をくくった赤いリボンをとってやり、床に軽く放り投げる。
「……副長?」
髪が張りつく肩からは、なんの応答も返ってこない。
小さくダナンは息を吐いた。「……寝ちまいましたか」
素手で壁を叩いたのだろう。床に投げたファレスの手は、血がにじみ、傷だらけだ。
ファレスの変化を間近で見てきた彼ら特務の面々には、この荒れようの原因の、およその見当はついていた。そして、彼らが警護する事情通の首長から、ファレスの生い立ちを聞き及んでいた。それによれば、ファレスの孤独は根が深い。
発端は、ファレスがまだ幼い頃、彼の美しい母親が街の男と無理心中を図ったことだった。そのためファレスは一人きり、過酷なこの世に置き去りにされた。
年端もゆかぬ子供にとって、親は絶対的な存在だ。自分を守り、無償の愛情で育んでくれる。全幅の信頼をおくに値する唯一無二の相手、それが親だ。だが、その手放しの信頼を、幼いファレスは裏切られた。
以来ファレスは他人の言葉をあてにせず、己の力のみを頼りにして、一人で世の中を渡ってきた。騙し、騙され、居場所を腕づくで獲得し、彼にはもう他人を信用することができなくなってしまっていた。最も信頼に値する親でさえ、自分を見捨て、裏切ったのだ。まして赤の他人をどうして信用できるだろう。どれほど心を寄せたところで、いずれは去られ、見捨てられる。何をしても、しょせんは無駄。
生き抜くために周囲の全てを敵と見なし、誰もそばに寄せ付けなかった。心にぽっかり、乾いた空洞をかかえていたが、その自覚さえなくなった。周囲の気遣いがわずらわしく、そして、常に苛立っていた。他人は不利益をもたらす敵である、そう常に認識し、敵であるから警戒し、それゆえ常に一人でいた。
というのに隊長ケネルは、賓客の世話を押しつけた。
周囲が彼女に野卑な関心を示す中、彼女と不仲で腕の立つファレスは、護衛に最適と踏んだのだ。
だが、安全な場所で安穏と育ったこの彼女は、世慣れたファレスからしてみれば、何もできない非力な赤子も同然だった。普段見慣れた他国の女と比べても、実年齢よりよほど幼く、呆れるほどに無警戒だ。あんな馬群に囚われてしまえば、まんまと誘拐されてもおかしくないというのに。
ファレスが密かに苛立っても、彼女は無邪気に懐にいた。疑いもせず、のほほんと。
絶え間なく賊に襲われる彼女を、やむなく懐でかばう内、密着していた境目が、やがて、あいまいになり、溶解した。そして、懐ふかく抱いた彼女を、いつしか分かち難く取り込んでしまった。
ケネルが意図せずほうったカケラは、ファレスの心にぴたりとはまった。かつて割っ欠けた心の窪みに。でこぼこの石に置かれた薄紙が、ほんのわずかなきっかけで、わずかな水を垂らしただけで、ぴたりと隙間なく吸いつくように。そして、今のこの状況だ。
首長の話を聞くまでもなく、ダナンにもそれが、おそらくは正確に分かっていた。ファレスが置かれた状況が。今、彼が味わっている、深く手ひどい喪失感が。
ファレスは二重の喪失を味わっていた。一つは、現実に懐を出ていく彼女。もう一つは、かろうじて欠落を埋めていた何か。
他人に対する信頼を、ファレスはようやく取り戻そうとしていた。その矢先のことだった。すっかり同化した接着面を、ようやく傷が癒えた癒着面を、無理に引きはがされたのは。
ふさがりかけた傷をえぐられ、ファレスは今、生傷をかかえて、そこにいる。
「俺は、置き去りにしたりしませんよ」
天井のゆらぎに、ダナンは、ふう、と紫煙を吐いた。
「あんたを一人で取り残したりしない。薄情な女の亡霊なんぞ、もう追い払う時ですよ。かすれた記憶のスカートの裾から握りしめた手を放しても、あんたのそばには俺がいる」
扉の陰で気を揉んでいた二人も、いつの間にか戸口に並び、壁の二人を見つめていた。
「俺があんたのそばにいる。あんたが安心して眠れるように。気がゆるんで眠りこんでも、震えあがって飛び起きなくて済むように。他の誰がいなくなっても──」
後ろ頭を壁にもたせて、ダナンは淡々と言葉を継いだ。
「俺らがいますよ、あんたには」
ほの暗い夏の一室に、蝉の音が戻ってきていた。
割れた窓の向こうから、さわりと風が吹きこんで、それを遠慮がちに示している。時計のないこの部屋にも、時を止めた陰鬱の中にも、時は着実に刻まれていると。
そう、時の流れは過ぎ去って、二度と後に戻りはしない。
うつ伏せた膝に顔をすりつけ、ファレスは小さな声で「……おう」と言った。
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