CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 11話14
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「──逃げ足の速い野良猫だ」
 誰かのつぶやきで、意識が戻った。
 誰だろう。どこかで聞いた男の声……
 エレーンは怪訝に目をあける。
 部屋は、薄闇につつまれていた。
 ぼんやり視線を窓に向ければ、裏庭の豊かな草木にも、薄く闇がおりている。開けはなった窓の向こうで、大きな雲が夕焼けに染まり、街の建物の輪郭が、陰影の中に沈んでいる。
 部屋は暗く、人けがなかった。
 ──いや、誰か人がいる。
 外光のつくる陰にまぎれて、窓辺に人がたたずんでいた。
 落ちついた雰囲気の壮年の男だ。特徴的なうしろ姿に見覚えがあった。白皙の横顔。堀の深いりゅうとした風貌。すらりとしたしなやかな背。なにより、背に流れる長い黒髪。
 見舞いに訪れた調達屋が窓を乗りこえて出ていくやいなや、戸口に現れたあの医師だった。医師は窓の外に目を向けて、柳眉をわずかにひそめている。何か、あるのだろうか。
 ふと、肩が振りかえり、だしぬけに視線がかち合った。
「──あっ、あの〜」
 とっさにエレーンは肘をつき、横たわった肩を引き起こす。
「あの、診察は……」
 そうだ。なんで寝ているのだ? 
 医師はあの後、診察用の白衣を羽織ったが、今は黒い長袖シャツに、同じく暗色のスラックス姿。首元のボタンも二つあけ、いかにも寛いだ成りをしている。
 医師はゆるりと振りかえり、壁にもたれて腕を組んだ。
「診察なら、もう済んだ」
「す、すみません、あたしっ! なんか、途中で寝ちゃったみたいで」
 エレーンはわたわた平謝り。外のこの暗さからしても、とうに終わっているだろう。
 どうでも良さげに、医師は応じた。「構わんさ。俺の患者は、たいがい そう、、、、 、、だ」
「……はあ」
 なんと応えていいものやら、エレーンはあいまいにたじろぎ笑った。なら、ここの患者は、みんな、ぐーすか寝るってか?
 いや、そんなことは、どうだっていい。
(……うっわあ。しくじった〜っ!)
 エレーンは密かに頭をかかえる。よりにもよって、こんないい男を前にして。
 そうだ。髭面のおっさんというならともかく、花の乙女がなんたる失態! よもや寝ている最中に、いびきとかかいてやしなかったろうな。ならば、両手両足ほっぽり出した、あられもない寝姿を人前に曝してしまったというのか。よだれつきで
 寝相はまあ悪くない方だが、さすがによだれは障りがあるだろう。色々と。
 会ったそうそう、なんというこっ恥ずかしさ。身の置き場がないとは、このことだ。己が不覚にふるふるわななき、とりあえずは神妙に正座しようと、小さくなってもそもそ身じろぐ。「す、すみません。あの〜、なんていうか、先生の手って気持ちよくて、すごく安心するっていうか、その──」
 ……んん? と気づいて動きを止めた。
 いや、止めざるを得なかった。肩を起こそうとした途端、くっ、とうなじが引っかかったのだ。
 一体なによ、と視線を下げれば、寝台についた腕の下から、ピン、と張った細い鎖。
 首からさげたペンダントのチェーンのようだった。見れば、お守りにしている翠石が、腕の下敷きになっている。だが、お守りは肌身離さず身につけている。それがどうして、シーツの上に転がっているのだ?
(へ、変だな……)
 戸惑いながらも、エレーンは翠石を拾いあげ、ふと、それに気がついた。
 翠石にヒビが入っている。賊に追われて転げ落ちた、あの湖畔で見た時には、こんなものはどこにもなかった。それに──
 手の翠石を軽く握って、その異変に意識を凝らす。
 石がじんわりと温かい。
 窓から射しこむ日ざしにさらされ、こんなにも熱を帯びたのだろうか。いや、この窓は東向き、眠っていたのは日が傾きはじめた五時すぎだ。夏日の直射など浴びてはいない。ならば、どうして──
 エレーンは怪訝に首をひねる。「……なんで、ヒビが」
「なるほど。これが狙いか、あの野良猫」
 思いもかけない医師の声に、とっさに愛想を振りまいた。「──あっ、だったら、このヒビ、猫がいたずらしたんですかねえ」
「いや、猫の仕業ではない」
 医師はそっけない口調で、まさかの否定。
 エレーンはしどもど言いよどむ。「あの、でも、きのう見た時には、確かにきれいにつるんとしてて──」
 医師は涼風の入る窓辺を離れ、すっかり薄暗くなった部屋の中ほどに足を向けた。
 手を伸ばし、壁の灯りをともしている。
「具合はどうだ」
 作業のかたわら声をかけられ、エレーンはもじもじ石をいじくる。「──あ、はあ、お陰さまで、痛いのとかは特にないし」
「痛みはないはずだ。傷口はとうに癒合してついている」
 ぱちくり、エレーンはまたたいた。「え……でも、今、具合はどうだ? って」
「奇妙なことは起きていないか」
 面食らい、医師の姿をまじまじと見た。そんな出し抜けになんなのだ?
「……奇妙なこと、ですか」
 戸惑いつつも記憶をさらい、エレーンは唇に指を当てる。
 ぽっ、と壁に灯りがともった。
 しばらくして、奥の灯りも。闇に呑まれた夕刻の部屋が、ランプの炎でほの明るくなる。
 医師はこちらに戻りつつ、応えを促すように目を向けている。思わぬ真顔に気圧されて、エレーンはあたふた口をひらいた。
「そ、そういえば、傷の治りが、いつもよりも早いような。それに、他の人とおんなじ夢を見たりとか」
「同じ夢を?」
「え? あ、いえ、あの、違うんです。似たような夢とか、そういうんじゃなくって」
 相手の顕著な反応に、エレーンはあせって片手を振る。「夢の細かいところまで、本当―に、ぴったり、おんなじなんで」
 そう、あの時ファレスは、夢に出てきた言葉まで、一言もたがわず言いあてた。
 医師は壁に肩をもたせて、難しい顔で腕を組んだ。
「共鳴したか」
「きょーめい?」
 エレーンの手にある翠石を、医師は軽く顎でさす。
「あんたが持っているその石だ。それが他人の思念を傍受して、あんたの夢の中で再生した、大方そんなところだろう」
「ぼ、ぼーじゅ? サイセイ?」
 エレーンはまじまじ翠石を見た。だが、言葉の意味が分からない。この人は一体、何がどうなった、と言っているのだ?
 聞き手の不明には委細構わず、医師は話の先を続けた。
「だが、思念など風のひと吹きであえなく消し飛ぶ代物だ。そんな断片を拾われるとは、どうやら、その相手というのは、そうとう強い思念の持ち主らしいな」
 はあ……とエレーンはあやふやに返事をした。又も、そうとしか言いようがない。
 医師には内緒で溜息をつく。
(なんか、すんごい変わった人だ〜)
 顔はいいのに。
 どことなくむなしい気分で手持ち無沙汰に視線をめぐらせ、ふと、それを思い出した。
 そういえば、奇妙な事柄が、もう一つある。
「あの、それだけじゃなくて、なんでか実現するんですよねえ、その夢の内容が」
 そんなものは偶然だろうと一蹴するかと思いきや、意外にも医師は、ほう? と感心したように振り向いた。
「しかも、そいつは預言者か」
「……い、いや、あの、預言者って……そんな大それた代物じゃ」
 エレーンは引きつり笑いでたじろいだ。そんなおごそかな聖人とは、奴はあまりにもかけ離れている。むしろ、本能全開の野蛮人だ。
 そうする間にも、腰に手を当てふんぞり返ったあの顔が、むくむく脳裏に浮かびあがった。おもに「飯を残すんじゃねえ!」と息巻いた時の。
『いいか、あんぽんたん。心して食えよ。いつなんどき食えなくなるかも知れねえんだからな。食える内に食っておけ』
 残すなんてのは、もっての外だ!
 がつがつ意地汚く掻っこむ顔と、ガミガミ叱るあの声が、脳裏いっぱいガンガン響いて、エレーンはげんなりうなだれる。残飯の存在なんぞ、奴は絶対に許さない。いつも、奴と食べていたから、お陰でものすごい大食らいになった……。
 すっ、と医師の手が、手から翠石を取りあげた。
 はた、とエレーンは振り仰ぐ。「──あ、あのっ! それ、あたしのお守りで」
「回復力が高まったなら、これは、いわば増幅器だ」
 医師は翠石を二指でつまんで、中を覗きこんでいる。
「つまり、周囲にただよう何がしかの性質を、この石が強化して、持ち主に伝える役割をしている」
「この、ちっちゃい石が?」
 思わず、エレーンは訊き返した。せいぜい薬指の爪くらいしかないこの石が? そんな大そうな力があるようには、とても見えない。
 だが、相手の顔は真面目そのもの。無下にあしらうわけにもいかず、エレーンは恐る恐るうかがった。「あの〜。なんで、そんなことがわかるんですか?」
 ぴん、と医師が翠石をはじいた。
「わからない」
「……え゛?」
 飛んできたそれをあわてて受けとり、エレーンは頬をひきつらせる。よもや、からかっているのではあるまいな。にしても、医者のくせして存外に手が早い。
(んもー。あたしのなんだから、とんないでよー)と密かに医師を牽制しいしい、翠石を首元から滑りこませ、そそくさ服にしまいこむ。
 医師は壁沿いに寝台をまわり、夕風の入る腰窓にもたれた。
「だが、俺は"これ"を知っている。そして、俺にはわかっている。なぜ、あんたにだけは、、、、そんなことができるのか」
 ゆるく嘆息、一瞥した。
「厄介なものを抱えこんだものだな」
 ぽかん、とエレーンは首をかしげた。「……あのぉ、それって、どういう意味です?」
「輸血を受けたろう、あの男から」
「へ?」
 つまり、誰かから血をもらった、と?
 話がさっぱり分からない。いや、はたして本当にそうだろうか。
 ふと、エレーンはいぶかった。
 そう、ほんのかすかに自覚がある。話はまるでわからない。だが、その実、心の底の深みでは、水が布に染み入るように、声が速やかに浸透し、医師の諭す一言一句、すっかり腑に落ちている。
 それは不思議な感覚だった。
 頭は理解していないのに、内では、ことごとく了解している。
「──ああ、なるほど、そういうことか」
 何やら急に思い至ったらしく、くすり、と医師がだしぬけに微笑った。「それであの男、俺を見て怯えたわけだ」
「あ、あの〜」
 エレーンは眉根を寄せて首をかしげた。「でも、輸血なんて、あたしは何も聞いてないし」
「まあ、あんたには言いにくいだろうな。なにせ奴らは遊民だから」
「あ、平気です。そーゆーの偏見ないんで」
「そういう意味じゃない」
 そっけなく医師は一蹴した。
「あんたが輸血を受けたのは、その背中の事故、、の時。その相手は、あんたの治療を依頼した男だ」
「ケネルが、あたしにぃ?」
 エレーンは目を見ひらいた。
 すぐに、事情を合点する。「あ、そっか。あの時、あたしのそばにいたから。怪我で血が必要になって、だから、ケネルは──」
 ざわり、と夕風がざわめいた。
 壁掛けの灯りがゆらめいて、部屋の四隅に沈む濃淡の闇をざわめかせる。
 風が吹き、医師の長い黒髪が、窓の外へとさらわれた。
 とばりの降りた夕空をおおい、髪が風にのって舞い広がる。天に吸いあげられていくように。
 世界を満たした光がうつろい、夕刻の日ざしが急速にかげった。
 夕焼け雲が目まぐるしく流れ、世界の色が移り変わる。強い光の底流に息をひそめた濃い闇が、うごめき、見るまに勢いを増して、光を駆逐し、凌駕する。
 しごく唐突に日が暮れた。
 天に舞いあがった黒髪が、あたかも日ざしを吸いとったかのように。
 日没を迎えた部屋は、奇妙な静けさに包まれている。
 自分自身でも知らない内に、エレーンは口をつぐんでいた。いや、静けさが支配するこの場には、いかなる言葉も必要ない。
 音が周囲から消え失せた途端、あたりに漂う姿なきものが、またたく間に押し寄せた。
 五感が澄み、それを感じる。
 脈がゆるく打っていた。大いなる懐に抱かれたように、どこか懐かしい、安らいだ気分。至福の境地といってもいい。
 その静かな横顔に、エレーンは言葉もなく見入っていた。
 風が髪を舞いあげるにまかせ、医師は裏庭をながめている。
 夜の王だ、と不意に悟った。
 この人は、夜を統べる王なのだと。
 世界の開始に伴って三つの地平に分かたれたその一、今では遠い遥かなるあの、、国の、せめぎ合い、拮抗する二相の一、、、、
 それは、どんな言葉で喩えることができるだろう。事象の表裏。物事の裏面。真実の一面。はらりと散った木の葉にも裏と表があるように、殻に覆われた木の実にも内と外とがあるように、光射すところ、必ずや闇が落ちるように、およそいかなる事象にも、ことごとく並存する相反する対の相、その内の一。
 医師が軽く息をついた。
 窓の外から向きなおる。
「それを返してくれないか。おそらく俺の持ち物だ」
 視線の先は、お守りの翠石──ふと、エレーンは我に返り、とっさに両手で掻き抱いた。
「──あっ、でも、これは」
 当惑して首を振る。
「こ、困ります。これ、お守りにしててご利益もあるし。あ、でも、もしかすると、返さなくちゃなんなくなるかもしれなくて、だから──え?」
 しどもど言いかけ、口をつぐんだ。
 何やら妙に落ち着かない、腑に落ちない気分で眉根を寄せる。
「あの、そういえば、前にも、先生と同じこと、、、、を言った子が」
 奇妙な一致。不可思議な既視感。
 医師はいぶかしげに目をすがめた。「それは、どこの誰が?」
「風変わりな白い服の、五歳くらいの男の子で、髪を肩で切りそろえていて、名前がなんか変った感じの──そう、たしか、テンポーとかいう」
「テンポー?」
 その名を医師が聞き咎めた。
 すがめた目を虚空に投げて、ゆっくり顎をなでている。
 あの子供と知り合いだろうか。だが、彼の怜悧な面持ちからは、親しみのかけらも感じとれない。
 思案にくれたその顔を、恐る恐る覗きこむ。「あの、もしかして知ってる子ですか?」
「そのテンポーというのは、おそらく」
 医師は軽く嘆息し、観念したように視線を戻した。
「それは、おそらく俺の名だ」
 
 

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