CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 11話15
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 申し出を拒絶できたのが、今から思えば不思議なくらいだった。
『 それを返してくれないか。おそらく俺の持ち物だ 』
 無理強いはしない、と医師は言った。
 役割が済めば、在るべき場所に戻るだろうと。
 急ぎはしない。
 時は、いくらでも、、、、、あるのだから──。
 
 トラビア行きを算段するにも、ケネルと一緒に行くにしても、明日の朝には発たねばならない。そう思い、いつでも出られるよう荷物の整理をしていると、ボリスが部屋にやってきた。
 いがぐりに刈った丸い頭に、くりっと丸い三白眼。相変わらずの小柄な猫顔。壁掛けランプのほの暗い灯りに照らされて、あけた戸口に立ちはだかっている。
 口をへの字にひん曲げて、ボリスはおもむろに宣言した。
「これからは、お前の世話は俺がする」
「……なにそれ」
 しゃがみこんだ肩越しに、エレーンは唖然と振り仰いだ。「てか、なんで、あんたがあたしの世話をー?」
 護衛っぽい人たちなら、今までも誰かしらいたけれど、この人選は頭になかった。むしろ、ボリスが戻ってくるとは思わなかった。時計塔の屋上にケネルが呼びにきた途端、急にそっけない態度になって、つれなく階段を降りてったくせに。
「隊長から聞いたろうが、明日には部隊が撤収する。で、こっちには俺らが残ることになった。となれば当然、お前の世話は俺らの役目だ」
「……は?」
 俺ら、、
 というと、もしや、あの三バカか?──呆気にとられて、エレーンはまたたく。「てか、なんでそこ"当然"なわけ?」
「言ったろ。お前は俺の妹だ。他の野郎には触らせねえ」
 ギン、とボリスはドングリまなこで睨みをきかせ、ずかずか部屋に踏みこんだ。室内は一目瞭然で無人だが、壁を無駄に睥睨しいしい、鞄の中身を床に広げたこちらの方へとやってくる。
 たどり着くなり、「おい、これ」と片手を突きだした。見れば、高級菓子店のそれのような白い手さげ袋をさげている。
「あたしに?」
 エレーンはまたたいて手を伸ばし、突きだされた袋を受けとった。中は折り詰めの弁当のようだ。世話をするとか言っていたから、さっそく晩ご飯を持ってきたのか。でも、それにしてもこの包装紙、どこかで見たことがあるような──
 んん? まてよ、と首をひねった。これってまさか、あの店の? しかも、この堂々たる風格は……
「いろどりみやびぜん?」
 あんぐり瞠目、ボリスを見た。「どしたの、これ」
 ボリスは戸口を親指でさす。
「今、そこでジャックさんに会ってよ、お前に渡せって預かった」
 ……ジャックさんって誰? と一瞬思考が停止したが、これに関連した人物となると、つまるところチョビひげか。無人の戸口をぱちくり見やり、ごそごそ中身を覗いてみる。
「……うっわ。まじ本物だ」
 折り詰めに添えられた薄紙に、どどん、と一筆「彩りみやび膳」の銘。
 よく見りゃ手さげの隅っこにも「涼風庵」の風雅な朱印。このみやびな色使い。きっちりと角の折られた厚みのある包み紙。
 ……ニセモノなどではなさそうだ。
 何度目をこすって見直しても、「彩りみやび膳」の折り詰めが、やはり、袋の中に鎮座している。
「どーやって手に入れたのかしら」
 エレーンはまじまじとそれを見て、解せない顔で首をひねった。確かこれは先着十名様の限定品。炎天下をものともせずに、店頭で地道に並んでも買えるかどうかの逸品だ。つまり、超がつくほどの人気商品であるからして、調達屋に頼んだ時点で、とうに売り切れていたはずなのだ。
 それをよもや買い求めてこようとは。しかも、店舗の所在地ベルリアは、商都ではなく、
 隣町、、だ。
(……な、何者? あいつ)
 ぶるり、と背中に怖気がきた。
 まなこを三日月にしてそっくり返った、チョビひげの不気味な哄笑が、どこからともなくこだまする。チョビひげ──もとい調達屋、
 ──恐るべし。
 かたわらに突っ立って、うさんくさげに見ていたボリスが、ぶっきらぼうに背をかがめた。紙袋を覗くようにして、人さし指で端を引っぱる。「なんだってんだよ、この薄っぺらい弁当が」
「はああ? 見てわかんないのぉ?」
 エレーンは呆れて顔をしかめ「んもー。これだから素人はー」と手荷物の前から立ちあがった。
 寝台の円卓に折り詰めを置き、ガタガタ椅子を引き寄せる。「あのねえ、これは、たっかい、たっかい、お弁当なのよ? いっこ五千カレントもするんだからー」
 腰に手を当て、ボリスに指を振りたてる。そうだ。畏れ多くも「彩りみやび膳」になんとバチあたりなことを抜かすのだ。このチビのイガグリ坊主は。
「五千カレントぉ!? このうっすい弁当一つがか!?」
 ぎょっとボリスが瞠目した。慎ましやかに鎮座している「彩りみやび膳」の折り詰めに、丸いまなこをまん丸く見ひらき、あんぐり絶句で目を返す。「……お前、なに貢がせてんだよ。つか、なんだってあの人が、お前にそんなもん持ってくんだよ」
「そっりゃあー、決まってんでしょー。あたしのファンだからよ」
「……」
 む。なぜにそこで返事をしない。
 ボリスはすたすた寝台へ歩き、どさりと枕元に腰を下ろした。ちなみにその間、決して目を合わせようとしない。
(なにさ。いーじゃないのよ。ちょっと言ってみたかっただけよっ!)
 むう、とエレーンはふてくさり、廊下にあいた薄暗い戸口に首を伸ばす。「で? どこにいんの? チョビひげは?」
「さあな。帰ったんじゃね」
「……へ?」
 意外。得意満面ひけらかすだろうと思ったのに。
「つか、お前よー」
 ボリスはやれやれと嘆息し、腰かけた膝に両肘をおく。いがぐり頭を振りあげて、咎め立てるようなジト目で見た。「何したんだよ、あの人に」
「しっつれいねー。あたしはなんにもしてないわよ」
「なんか、あの人、お前には会いたくねえって顔で逃げるようにして出てったぞ? 憔悴しきった感じでよ、よろよろした足どりで」
「……。ていうかさー」
 そそくさエレーンは話を変えて、溜息まじりに腕を組む。
「あんた、なんで、チョビひげにだけは丁寧なわけ?」
 ボリスが咎めるように顔をしかめた。「ばか。チョビひげとか言うんじゃねえよ。あの人はいい人だぞ」
「えー? どこが、どんなふうにぃ?」
 是非とも聞きたい。
 ボリスはじれったそうに舌打ちした。「まったく、お前は見る目がねえな。いいか、じゃじゃ馬。よく聞けよ」
 左右の無人を素早く確認、ずい、と内緒話するように身を乗り出す。「あの人、俺らんとこ来てよ、必要な物はないかって聞くんだよ」
 日暮れの部屋に、涼しい夜風が舞いこんだ。
 壁掛けの灯りが、ちらちらまたたく。風は暗がりをゆらめかせ、密談の床を不安定にゆらす。
「で?」
 じぃっと待っていたエレーンは、ぱちくりまなこを瞬いた。「まさか、それだけ?」
「──なんだよ」
 ボリスは舌打ちですがめ見て、放り投げるような口調で続けた。
「避けねえんだよ、あの人は。他の連中んとこに行くように、俺らんとこにも来るんだよ。俺らの陰口たたいたり、白い目で見たりしねえんだよ」
「あ。や。でも、それは〜……」
「少なくとも、誰に対しても公平だっ!」
 ぎろり、とボリスがさえぎった。
 真面目に怒っているらしい見幕に、エレーンはたじろいで口をつぐむ。そういや、確かに、調達屋の態度はそんな感じだったかもしれない。でも、あれは、自分のこと以外には興味がないってだけではないのか?
 ボリスは辟易した顔で舌打ちし、大きく息を吐き出した。「人の値打ちってえのはよ、そういうところでみるもんだろうが」
 じろりと顔をねめつける。
「以後、あの人に対しては、失礼な態度は厳禁だからな。チョビひげなんて呼ぶのは、もっての外だ。くれぐれも丁重に接するように!」
「えー……」
 承服できない。
 やるなら勝手にやってよね〜と白けたまなざしで見ていると、涼風の入る寝台に、ボリスはたるそうに身を投げた。両手両足投げ出して、大の字になって目をつぶる。
「ちょっとぉー。そこで寝ないでよー」
「……いーじゃねえかよ。疲れてんだよ」
 頭痛をこらえるように瞼をもんで、ボリスは目を閉じている。
「あんたね、女性のふとんで寝るとか普通するー?」
 ボリスは無視。大の字になったきり、動こうという気配さえない。眉をしかめて瞼を閉じたその顔は、どうも本当に疲れているようだ。
 エレーンは溜息まじりで諦めて、なんの気なしにボリスをながめた。
 寝台のシーツに、無造作に手を投げている。手首に結ばれた鮮やかなお守りが目についた。あの紐が切れると、持ち主の願いが叶うという。あの鮮やかな細い紐に、ボリスはどんな願をかけているのか──。
 その手は、意外にも小さかった。指の長さも、自分とそうは変わらない。ぼさぼさ頭の無礼なジョエルに昨日クリームソーダをたかられたが、向かいの席に置かれたその手は、もっと大きく無骨だった。ボリスと同い年というのに、ずい分違う。
 昼にボリスの横を歩いたが、リナといるのと変わらない。ケネルたちといる時のような、あの壁のような圧迫感はなかった。シャツとズボンだけの街着ということもあるのだろうが、ああして無造作に寝転んでいると、ただの街の若者にしか見えない。だが、ボリスは紛れもなく傭兵だ。
 らしくない、とエレーンは思う。
 そこはかとない違和感があった。肩をいからせ、どんなに怒鳴ってみせたところで、ボリスはケネルやジョエルとは違う。あの優しいセレスタンでさえ当たり前のように具えた何か、気を抜いて談笑している自然体の時でさえ、ケネルたちには具わった何か、それがボリスには欠けている。
 なんというのか軽い、、のだ。傭兵たちが持つような一種独特の凄みがない。ケネルらは戦闘が本職だ。だが、同じ部隊に属していても、ボリスは悪ぶった不良にしか見えない。たとえ、どれほど頑張ってすごんでも。だからだろうか、いつも過剰につっぱっているように見えるのは。常にどこかに無理がある、そんな気がする。
 昼に聞いたつぶやきが、あの苦々しげな横顔とともに、ふっと不意に脳裏をよぎった。
 ──嫌いなんだよ、暴力は。
 寝転がったボリスが身じろぎ、右の膝を無造作に立てた。
 はっとエレーンは我に返り、しどもどボリスから目をそらす。「──も、もう! 後で、ちゃんとどいてよね」
 ボリスは目を閉じたまま、うるさそうに顔をそむけた。
 溜息まじりに目を戻せば、卓の上には風雅な折り詰め。まあ、何はさておき晩ご飯だ。
 袋の中からがさがさ取り出し、折り詰めをつつむ高価そうな厚紙を剥いで──
 ぅおおっ、とエレーンは目をみはった。
 煮物、揚げ物、お肉に魚、ピンクのお花は薄い生姜か? なんという麗しさ。なんという神々しさ。さすが「彩りみやび膳」、ちなみに一個五千カレント……っ!
 めったにお目にかかれない感無量の感動に(生きててよかった〜っ!)と打ち震え、さあて、どれから食べようかなっ、とうきうきしながら考える。まずはお花からいくべきか。いやいや、これを崩すのはもったいない。こういう見栄えのするやつは、やっぱ最後までとっとくべきか──よっ、とボリスが、おもむろに寝台から起きあがった。
 寝台の端に腰をかけ、ひょい、と折り詰めを覗きこむ。「おい、俺にも食わせろよ」
「えーっ!?」
 一個五千カレントの「彩りみやび膳」をか?
 とっさに卓からとりあげる。「やーよっ! これはあたしんでしょっ!」
「いーだろ。俺はお前の兄貴だぞ?」
「そこで抜くうぅ?」
 その伝家の宝刀を。
 エレーンはぶちぶち口の先を尖らせる。「もー。そんなことしたら、なくなっちゃうでしょー、あたしのご飯がぁ。こーゆーお上品な折り詰めはねえ、ちょっぴりずつしか盛ってないのよ? もー。あんたもお兄ちゃんなら、ここは我慢しなさいよぉー」
 お母さん口調で断固として拒否当然だ。そうだ。ファレスがこの場にいたなら、飯の強奪なんぞ断じて許さん。そんなことしたら決闘ものだ。
 ボリスはじろじろ値踏みの視線で前のめり、イガグリ頭を、すす、と乗り出す。
「いーじゃねえかよ、高いんだろ? そんな珍しい代物なら、味見くらいさせるのが筋ってもんだろ」
「どーゆー筋よ」
「弁当持ってきたの俺じゃねえかよ」
「預かって廊下歩いただけでしょー」
「ケチケチすんなよ。お前には俺が徒然堂で、甘栗まんじゅう買ってきたからよ」
「……え」
 ぽかん、と口をあけたことに、ふと、ボリスが気づいたようだ。
「──なんだよ」
 顔をしかめて目をそらす。
「わざわざ青果市場まで行って、買ってきてくれたの?」
 甘栗まんじゅうで有名な徒然堂という菓子店は、目抜き通りをずい分下った青果市場の中にある。
 ボリスは舌打ちして頭を掻いた。「そんな顔して見るんじゃねえよ。──さっき、元気なかったからよ、ちょっと行って、買ってきただけだ……」
 怒った顔で、ぼそぼそ言う。
 エレーンは絶句でまたたいた。
(……うっわあ。"お兄ちゃんしたい"んだ〜)
 ボリス本人も気まずいだろうが、一生懸命なその感じが、なんともいえず、おもはゆい。そういや、さっきも、時計塔に連れてってくれたし──。実は(いがぐりボリス、ちびボリス〜)などと内心あなどってもいたのだが、これでは少々見直さざるをえない。とはいえ、もちろん、
 さん然と光かがやく「彩りみやび膳」には負けるけど。
 きまりの悪そうなボリスをながめて、ふうん、とエレーンは腕を組んだ。
「へー。優しいじゃないのよ、お兄ちゃん、、、、、。森では強姦しようとしたくせにぃ?」
 ちろ、とジト目を向けてやる。むろん、あれ、、を忘れてやしない。そうとも、甘い。これくらいでほだされると思ってくれちゃ困るのだ。
 はん、とボリスはそれを鼻であしらった。
「馬鹿いえ。あれはお前が悪いんだろ」
「どーして、あたしがぁー」
 責任転嫁とは言語道断。むっとして反論すると、ボリスは苦々しげに顔をしかめた。
「あのなあ。無断で家に入られたら、誰だって嫌だろうが」
 ……家?
 思わぬ喩えに、返事につまった。
 あの晩の事件についてはファレスや首長たちにも訴えたが、そんな喩え方をした者は、誰一人としていなかった。そもそも、彼らの野営地は、隊の者各々が勝手気ままに陣取っただけで、境界を示す線さえない。いや──
 そうか、とそこに気がついた。ボリスはいわば"町の子"なのだ。故郷の村が焼き打ちにあうまで、村落の中の普通の家で、きわめて平凡に暮らしていた。
 返事がないのを不服ととったか、ボリスは顔をしかめて、じれったそうに言い直した。
「だから陣地なんだよ、あの場所は。あそこには、俺らの寝床がある。だが、昼だろうが夜だろうが、敵はお構いなしに襲ってくる。ぐっすり寝入った無防備なところに来られたら、俺らだって一溜まりもねえ。だから、いつも昼夜交代で見回ってる。侵入者は撃退するし、向こうの連中だって中には入れない。そんな所に、お前は断りもなく入ってきたんだ。あれが男のしたことなら、袋叩きでも文句は言えねえところだぜ」
 あっ、とエレーンは思い出す。今の話と似たようなことを、あの晩ファレスにも言われたはずだ。
「──そうか。だから、あの時、バパさんは」
 はたと気づいてボリスを見、わたわた自説を披露した。だから、あの短髪の首長は、決して事を荒立てず、ああも穏便な収め方をしたのか。あそこは自分の陣地じゃないから──
「当然それも、あるだろうけどよ」
 ボリスは白けた顔で天井を眺めた。
「単に恐かっただけじゃねえの? おっさんだから」
「むっ? ちょっとおー。バパさんはそんな弱虫じゃないわよ!」
 無礼で不届きなイガグリ坊主を、断固たる腕組みで睨めつける。実は、あの晩、ウインク決められて以来のファンである。そうとも彼は、ただの中年のおじさんではない。艶っぽくもだんでぃーな、頼り甲斐のある殿方なのだ。さぞや若い頃から魅惑的な落下流水系の──
「隙あり!」
 ぱっと伏せたイガグリの動きに「──んあっ?」と気づいた時には遅かった。
 はたと妄想から目覚めれば、ボリスが頬をもぐもぐしている。
「ああああっ! ちょっとお!」
 あわあわ泡くい、エレーンは動揺。なんということ。今の今まで美しく整っていた「彩りみやび膳」の表層がぽっかり陥没しているではないか! 
 あまりの衝撃に口をパクパク、ぶんぶん指を振りたてる。
「なあにすんのよっ! 卑怯もんっ!」
 やったなイガグリ。ファレスに言いつけて成敗してやるぅ!
 ふん、とボリスは半眼になって顎を出した。 
「いーじゃねえかよ、兄貴だぞ? 兄貴には味見する権利があ〜る!」
 つか、これうまいなもうちょっと食わせろ……と無茶な要求を突きつけて、がっし、と折り詰めを片手でつかむ。
 負けじとエレーンも向かいの端を引っつかんだ。冗談! これ以上やってたまるか!
 一つの折り詰めを奪い合い、ぐぬぬ、と双方にらみ合い。
 第一次弁当戦争、勃発。
 イガグリ頭をのけぞって、ボリスは歯を食いしばる。
「手ぇ放せよ。お前なまいきだぞ、妹のくせにっ!」
「横暴っ! なにゆってんの! 年下のくせにっ!」
 エレーンも、ぐぬぬ、と真っ赤になって後ろにのけぞる。
 ぐぐぐ、と双方、力が入り、真ん中あたりで戦線硬直。
「あっ、そうだ! お茶いれてきてよっ、おにいちゃんっ!」
「そんな手食うか。てめえ、その間に平らげる気だろっ!」
「これ、あたしのなんだからねっ!──放しなさいよ! 放しなさいってばっ。あんた、ちょっと、しつこいわよっ!」
 キッ、とエレーンは両のまなじり吊りあげた。
お姉ちゃんの言うこと聞きなさあいっ!
 バン──とドアを蹴り飛ばすような音がした。
 ふと、争いの手を止めて、二人は怪訝に振りかえる。
 扉の向こうの暗がりに、長身の人影が立っていた。戸口にもたれ、陰に沈む輪郭は、体格からして男のようだが。
「……ブルーノ」
 はっとボリスが相手を察し、困惑したようにつぶやいた。
「ぶるーの?」
 ボリスを見やって、エレーンは復唱、人影の立つ戸口を見る。
 壁掛けランプの乏しい灯りで、ぼんやり容姿が見てとれた。上背のある大柄な男だ。長めの髪をオールバックにしている。いかつい顔に、額の傷痕。いかにも、あの男に見覚えがある。ボリスの仲間、三バカの一人だ。──まてよ。ボリスが兄貴だということは、つまりは、あれも兄貴ってことか?
(えー……)
 なんともいえない空虚な気分で、眉根を寄せてしばし固まる。そうか。三人セットだ。三バカだから……。
 そうする間にもブルーノは、ぶらりと部屋に踏みこんだ。ランプの灯りだけの薄暗い部屋を、肩をゆらして歩いてくる。右に左によろめいて、いささか足元が覚束ない。
(……もしかして、酔っぱらってる?)
 すぐに、ばたばた騒がしい靴音がして、別の人影が飛びこんだ。
 戸口の両端を引っつかみ、振りあげた顔には黒眼帯。今度は痩せぎすのあの男だ。そう、確かあれも三バカの一人。
 痩せぎすの黒眼帯は、肩で軽く息を整え、卓を一瞥、ちっと忌々しげに舌打ちした。ボリスが黒眼帯に目配せし、顎の先で戸口をさす。「──おい、ジェスキー」
 酔っ払いを連れ出せ、と仄めかしたらしい。ジェスキーと呼ばれた黒眼帯が、つかつか部屋に踏み込んだ。
 ブルーノの肩を引っつかむ。「さ、ヤサに戻ろうぜ」
 肩にかかった連れの手を、ブルーノはうるさげに振り払った。ふらつきながらも踏み出した先は、他でもない、この卓だ。
「……の野郎」
 唇をゆがめたその口から、押し殺したうめきが漏れた。
 何か物騒な感じだった。ボリスと喧嘩でもしたのだろうか。エレーンは戸惑い、おろおろしながらボリスを見る。だが、当のボリスは眉をひそめて、ブルーノを凝視したままだ。ブルーノは顔をしかめてうつむいて、何事かぶつぶつ言っている。酒癖が悪いのか、ボリスもジェスキーも手を出そうとせず、どことなく扱いかねている様子。
 ブルーノはふらつく足どりで、部屋の中ほどを通過した。もう、円卓までは数歩の距離だ。
 手を振り払われたジェスキーが、たまりかねた顔で後を追い、ブルーノの肩をなだめるように叩いた。
「な、戻ろう、ブルーノ。もう戻った方がいい」
 壁掛けランプの灯りに入り、うつむき気味のブルーノの顔が、薄暗く照らし出される。
「……平気な顔で、しゃあしゃあとよぉ」
 その口は呪詛をとなえていた。
 どうにもならない憤りが、口調の端々にほとばしる。
「……この野郎……この野郎……」
 じっと様子を見ていたボリスが、弾かれたように寝台を立った。
 と同時に、ブルーノが顔を振りあげる。「──この野郎っ!」
 はっ、とエレーンは身構えた。憎々しげな視線が射抜いたのは、ボリスではない、
 自分だ。
 あわてて椅子から腰を浮かせ、壁に沿って肩を返す。だが、逃げようとした時には遅かった。
「よせっ! ブルーノ!」
 制止の叫びを聞いたと思った。
 刹那とっさに振り向いた視界に、ブルーノの振りあげた拳が迫った。
 

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