■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 11話17
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天井近くの通風孔から、濃紺の夜空と遠くまたたく星が見えた。そして、くっきり浮かんだ丸い月。
ああ、今夜は満月だ、とそんなことをぼんやりと思う。
通風孔に鉄格子はないが、顔幅くらいしか高さがなかった。あれでは頭はなんとか抜けても、肩が穴を通らない。よしんば肩が抜けたとしても、そもそも位置が高すぎる。外壁に足場など普通はないから、体が外に抜け出たとたん、ほぼ天井の高さから、硬い地面に落下してしまう。
ランプのともる壁にもたれて、エレーンは呆然とへたり込んでいた。
急に閉じ込められて動転し、しばらくは外へ出ようともがいたが、何をしても無駄だった。扉も窓も、押しても引いてもびくともしない。もう、精根ともに尽き果てた。失意に気力を奪われて、もう何も考えられない。
白衣の医師がいるというのに、ここは診療所らしくなかった。戸や窓に鉄格子をつけるのは、軒を連ねる商店でも、普通に見かける光景だ。強盗よけの用心だろう、それはわかる。だが、外からかかる鍵は別だ。
どうしたわけかこの部屋は、人を中に閉じ込めておくのにひどく適した作りになっている。病室というより牢屋のようだ。こんな部屋をこしらえて一体何をしているのか、医師の思惑が不気味だった。人目のある街中に、奇異で特殊なこうした部屋を、何故こしらえる必要があったのか──。
鉄格子で閉ざされた冷たい窓を仰ぎみて、どれほど放心していたろう。へたりこんだ膝を引き寄せ、エレーンはのろのろ身じろいだ。
「……ごはん、食べないと」
ファレスに、叱られる。
調達屋が持ってきた、折り詰め弁当がそこにあった。食欲などなかったが、食べ物を無駄にすれば、ファレスが怒る、だから、日頃の言いつけに従って食事をとろうと思ったまでのことだった。
卓から折り詰めをとりあげて、壁にもたれて、膝に置く。それに、どんなにがむしゃらに足掻いたところで、どうせ、外には出られない。
なんの気なしに蓋をあければ、きれいに整った一角がくずれて、ぽっかり穴があいている。ボリスがつまみ食いをした跡だ。なんの感慨もなくそれをながめて、無造作にすくって、口へと運ぶ。
「……あ、おいしい」
つぶやき、思わず見返した。
改めて、まじまじと弁当を見る。初めはただの義務感だった。こんな時に何を食べても、どうせ味などわからない、正直そんなふうに高をくくっていた。というのに、頭で計算した決めつけを、生身の体はあっさり排した。
老舗を誇る料理人が丹精こめて仕上げた味は、絶望でがんじがらめになっていた悲愴な硬直を解きほぐし、すくみ、縮こまっていた感覚を、たちどころに呼び覚ました。
エレーンはひたすら口に入れた。もぐもぐ咀嚼し、煮物を味わい、焼いた肉を口に運ぶ。
無我夢中でくり返すにつれ、のぼせた頭が冷えてきた。まとわりついて離れなかった得体の知れぬ恐怖心が、徐々に薄らぎ、霧散していく。予期せず閉じ込められて動転し、闇雲に恐れていたけれど、活気ある店舗が軒を並べる一角で、まさか手ひどく拷問したり、殺傷したりできないだろう。ならば、たぶん、なんとかなる。いや、きっと大丈夫のはずだ──
半ば自分に言い聞かせ、からになった折り詰めに「ごちそうさま」とフォークを置く。
「……さてと。これから、どうしようか」
あえて、声に出して言ってみた。胃袋が満たされたせいなのか、恐慌はだいぶ落ち着いている。
廊下の方に耳を澄ませば、人の気配はないようだった。この堅固な牢獄に絶対の信用をおいているのか、男たちは見張りもおかず、事務所に引きあげたものらしい。もっとも、にべもないあの調子だ。今も廊下にいたとしても、鍵をあけてはくれないだろう。どんなに泣いて頼んでも。
エレーンは溜息まじりに月を仰いだ。気分は少し軽くなったが、この現状に変わりはない。灯火ゆらめく暗がりの中、襟元の鎖をたぐり、翠石のお守りを取りだして、通風孔に向けて、さらしてみる。
蒼く透明な月あかりに、翠石はきらきら硬い輝きを放っている。エレーンは小さくつぶやいた。
「……ニセモノなのに、なあ」
なぜ、みんなして、この翠石を欲しがるのだろう。あの白装束の子供といい、端整な顔だちの医師といい。森で以前、ケネルにも、次に賊の襲撃を受けたら、放棄するよう言われていた。賊の狙いはこの石だと。
だが、この翠石は渡せない。これはクレスト領邸の執務室から無断で持ち出したものなのだ。領邸に戻ったら真っ先に、元あった保管棚に戻しに行かなければならない。そうでなければ、ほんの出来心のいたずらが本物の窃盗になってしまう。本音を言えば、愛着があるから、このままずっと持ってはいたいが、それはまた別の話。一度、棚に戻した後に、改めて交渉すべき事柄だろう。
心構えと己の立ち位置、そして手順を確認し、エレーンは決意を新たにする。ペンダントの翠石を、元通り服の中に滑りこませた。
天井近くにうがたれた横に細長い通風孔から、静かに月光が射していた。裏庭にひそむ虫たちが、絶え間なくひっそり鳴いている。
閉ざされた部屋の窓。じじ……と灯心の燃える音。壁の灯りが時おりゆらぎ、灯りの届かぬ部屋の底には、濃い闇がひっそりと沈んでいる。瀟洒なつくりの鉄格子だけが、冷たく月光を浴びている。
エレーンは膝をかかえてうずくまる。今日は本当に色々なことがあった。目が覚めたら、ボリスがいて、ろくに話したこともなかったのに、部屋の生菓子でお茶をした。炎天下の通りを延々歩いて、ボリスが時計塔に連れて行ってくれた。その時計塔の屋上に、どうしてかケネルが現れて、「そろそろ時間だろう。行ってやれ」とボリスをどこかへ促して──
そうか、と目を見ひらいた。あの時言った、ケネルの言葉。
「だから、ケネル、屋上に……」
下っ端であろうボリスのことを、ケネル自ら呼びにきたことが、どうにも釈然としなかったのだ。
そのわだかまりがすっと解け、今更ながら合点した。手持ち無沙汰そうに鉄柵にもたれてボリスが夏空を眺めていた頃、バリーはおそらく火葬場で荼毘に付されていたのだろう。ケネルがボリスを探していたのは、墓地へ行くよう促すためだ。
バリーはラディックス商会の面々の手で、商都の墓地に葬られた。彼らが通常とりおこなう身内だけの葬儀であれば、バリーの上役であるアドルファスやケネルらが参列するのが筋だろうが、ラトキエの役人が顔を出す商都の墓地での葬儀では、彼らは埋葬に参列できない。シャンバール人のバリーとは、彼らは顔立ちが異なるからだ。だからバリーの仲間のボリスらだけが、部隊を代表して見送ることになったのだろう。バリーの永久への旅立ちを。
その光景が頭に浮かんだ。
夏日をはじく真新しい墓石。地面に落ちた色濃い影。
蝉の音しみ入る街はずれの墓地。神妙に頭を垂れる人々。黒い喪服に入り混じり、眉をひそめたボリスらの顔──。
"バリーが死んだ"とブルーノは言った。
木床に伸びた窓枠の影を、エレーンは途方にくれて眺めやる。
「……でも、そんなこと言われたって」
彼が言うには、賊から自分を逃がすため、あのバリーが囮になり、それで賊に捕まって、拷問されて死んだのだと。だから、みんな、お前のせいだ。
それを、どう捉えていいのか、わからなかった。だから返事が上滑りし、混乱だけが駆けめぐった。悼む気持ちはもちろんあれど、本音をいえば、手放しで嘆く気にはなれなかった。
あのバリーという男には、ずっと、ひどい目にあわされてきたのだ。樹海で散々嫌がらせをされ、妙な薬まで嗅がされた。そのあげく、森の中で襲われた。簡単には許せない。あれは悪ふざけでは済まされない範疇のものだ。あの時ウォードがこなければ、どこへ売り飛ばされていたか分からないのだ。
とはいえ、訃報を聞いて、衝撃を受けなかったと言えば、嘘になる。
昨日、賊から逃げた時、大木の倒壊でできたと思しき地面の窪みに二人で隠れ、彼の境遇を聞いた時、彼の何かに触れた気がした。それは核のようなもの。彼の魂のようなもの。声のない叫びのような。
傭兵たちに焼き討ちされて、踏みにじられた跡地にたたずむ、少年の痩せた背を見た気がした。大人になった今になっても、途方に暮れて立ちすくんだまま、未だにどこへも行くことができない。だからこそ──彼がああして弱みをさらしてくれたから、誰にも言えずに秘めてきた、幼い日の父への仕打ちを、告白しようとも思ったのだ。けれど、所詮、あの男は、追跡の手が迫るやいなや、さっさと見捨てて行ってしまった。
そう、悲憤に駆られたブルーノたちには言えなかったが、それが動かざる事実だった。森で賊に追い詰められて、いよいよ後がなくなった時、バリーは「二手に別れる」と言い出して、それぞれの逃げ道を硬貨の裏表で決めたのだ。つまりは、脱出に支障のある足手まといを切り捨てたかったということだろう。
裏なら東、表なら西。
助かる確率は五分と五分。結果がどうでも恨みっこなし。そういう話になっていたはずだ。ならば、結果いかんでは、あの後、賊と遭遇したのは、こちらの方だったかも知れないのだ。
硬貨が示したのは「西」だった。だから、バリーは身軽に一人で、東への道を歩いていった──
腑に落ちなさをふと覚え、エレーンは視線を泳がせた。窓枠の影が落ちかかる、ひっそり明るい月光の床に、眉をひそめて目をすえる。
彼はどうして、あんな大事な局面で、運を天に任せるような不確実な方法をとったのだろう。足手まといを切り捨てるなら、勝手に逃げれば、それで済む。
『裏なら東、表なら西だ』
ピン──と夏日に投げあげた硬貨。
緑の濃淡にあふれた森が、木漏れ日をはじく銀の硬いきらめきが、なぜか執拗に脳裏をちらつく。
『表だな。お前は西の道を行け』
バリーの声が脳裏に響いて、ふと、エレーンは眉をひそめた。そういえば、彼は、いつ、硬貨の裏表を選んだだろうか。そして自分は一度でも、硬貨の裏表を選んだだろうか。
あっ、と小さく声をあげた。
そうだ。誰も選んでいない。誰も、何も選んでいない。西にも東にも賭けてはいない。硬貨を取り出した彼の仕草に、大きな振りと巧みな言葉にうまく誤魔化されてしまったが、バリーは一度も尋ねなかった。こちらの選択が裏か表か。初めから決まっていたからだ。その先、それぞれが往く道は。
慄然と血が凍った。
「……じゃあ……やっぱり、あの人、あたしのことを」
わななき、見ひらいた視界の先で、焼け跡で立ちすくむ痩せた少年がちらついた。森で嘲笑った野卑な顔。蔑むような冷たい目。彼の輪郭が幾重にもゆらぐ。一体どれが彼の本当の顔なのか、わからなくなってくる。
けれど、どこか不器用な言葉で、彼がなだめてくれたから、受け入れがたいケインの死にも、ささやかな充足を見出せた。あんな道ばたで息絶えても、それでもケインは幸せだったと。
不審で塗り固めた砦がゆらいだ。
握った指先が震え出す。
「……ど、どうしよう、あたし」
もう、じっとしてはいられずに、エレーンはおろおろ立ちあがった。激しい動揺に急き立てられて、壁灯ゆれる暗い部屋を当て所なく歩きまわる。
「あ、あたし、あの人に、なんてことをさせて──どうしたら──あたし、どうしたら」
すでに取り返しのつかないことだった。
今更それに気がついたところで、彼は既に埋葬され、全てはすっかり終わっている。
『この国は好きか。奥方さま』
白く立ちこめた濃霧の果てで、彼が肩越しに振りかえる。
『この国は好きかよ。奥方さま』
あの問いに、自分はなんと答えたろう。バリーが笑って、軽く手を上げ、東の道へと踵を返した。
緑の森を、蓬髪の背が遠ざかる。彼は二度と振りかえらない、そんなふうに思ったことを、今になって思い出す──
がくん、とだしぬけにつんのめった。
顔をしかめて目をあければ、尻もちをついた足元に、なにやら物が散乱している。
一体何につまずいたのかと、暗がりの輪郭に目を凝らす。ランプの乏しい灯りの中、横倒しになった旅行鞄がおぼろげに見分けられた。そして、着替えに靴下、タオルにペン──どれも鞄に入れていたものだ。
どうやら鞄を蹴飛ばしたらしい。そういえば、荷物を整理していた途中だったと思い出す。
利き手の甲に、痛みを感じた。転んだ瞬間、顔をかばって、どこかにぶつけてしまったらしい。
顔をしかめて目をやれば、手に何か握っている。転んだ拍子につかんでいたのか、薄茶に褪色した紙の束だ。──手紙?
「……これ……おじいちゃんからの」
戸惑い、思わずつぶやいて、色あせた封筒をエレーンは見つめた。
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