〜 第1章「影法師」 〜
ひらり、と音もなく、人影が道に降り立った。
星あかりの照らす人けない道を、男はぶらぶら歩いていく。足を向けたその先は、月下にそびえる石造りの建造物、カレリアの国境検問所だ。ぽっかり壁に穿たれたアーチ状の入り口では、国境警備隊が門衛を兼ねて、通路の左右に並び立っている。
そこに四人の人影が留め置かれていた。若くて背の高い白い上着をまとった男と、まだ少年だろう年頃の三人──赤、青、黄の服を着た小柄で粒ぞろいの三人は、判で押したように同じ顔だ。
二人の制服の警備隊員が、渡された書類を検めて、男と三つ子に質問している。
やがて、手を振り、通行を許可した。
四人は館内の審査窓口に出向くでもなく、道の先へと歩いていく。行く手に伸びるは、月あかりを浴びた頑丈な石橋。国境の川に架けられた橋だ。向こう岸まで渡りきると、隣国シャンバールの検問所がある。
四つの後ろ姿が遠ざかっていくのを、警備員たちは見送った。ぼそぼそ何事か言葉をかわし、右の警備員が笑いかける。「戻ると思うか? この国に」
「拠点の商都が陥落寸前ってんじゃあな」
身じろぎ、左が首を振る。「ラトキエの官吏に、もう居場所はないだろうさ」
「戻る方に五千カレント」
二人は怪訝に振り向いた。
日暮れの道に、黒づくめの男が立っていた。
すらりと痩せた若い男だ。黒の上下に黒い靴、そして、黒い中折れ帽。つばの下の髪だけが赤い。シャツのはだけた首元に、銀のチェーンが光っている。
((……。どこのイカれたバカ息子だ))
二人は絶句で顔を見合わせ、右の警備員が苦々しげに口をひらいた。「国境は封鎖中だ。よほどの用件でなければ、出国できない」
「へえ? 今、通った奴がいたけどな」
「ああ、あれは別だ。公務だからな」
「俺も大事な用がある」
左側の警備員が、いささかうんざりと見返した。「急ぎの商用か。で、あんた、書類は持ってんの?」
「ああ、通行許可証ね」
薄い唇で軽く笑って、赤髪は懐に手を入れた。
どことなくおどけた仕草で、畳んだ書類をつまんでさし出す。今は許可など出ないだろうに、どこでどうして手に入れたのか、男は書類を備えていた。
うさんくさげに警備員は見やり、受けとった書類を無造作にひらく。
紙面を一読、絶句で頬を強張らせた。
「お勤め、ご苦労」
それに軽く手を振って、赤髪の男は通りすぎた。
警備員はどちらも動かなかった。男のリングに思わぬものを見たからだ。
にわかには信じがたい面持ちで、立ち尽くしたまま、赤髪を見送る。黒づくめの後ろ姿は、月下の石橋に向かっている。
黒く広い天蓋で、星がまばらに瞬いていた。国境いの暗い川面が、月あかりにキラキラ光る。
「──ああ、そうそう。覚えておけよ?」
ぶらぶら歩く足を止め、赤髪が微笑って一瞥をくれた。
「掛け金、回収にくるからな」
ほの暗い天井の石壁に、キラキラ光が反射していた。
水底から仰ぎ見た、水面にも似た不規則な動きで。
その光を発しているのは、向かいの石壁にひっそりもたれた、若い男の手元だった。くるっ──くるるるっ──と指先が無造作に回している高価なペンの金色の装飾。
天井近くの通風孔から、鈍く夏日が射していた。
換気と採光の用途を兼ねた、このささやかな窓のお陰で、今が昼なのか夜なのか、辛うじて判別がついた。
今、地下牢はほの暗い。
人々の営みから隔絶された、夏日さしこむ昼さがり。ひんやり湿気のこもった監房。白々照らされた石壁が、そっけなく沈黙している。
四角く切りとられた外光が、あの小さな窓だけが、今、持てる世界のすべて。
しん、と棟は静まりかえり、誰の声も聞こえない。
耳を澄ましても、なんの気配も感じとれない。他に囚人はいないらしい。
ふと、男は目をすがめた。
もたせた頭を壁から起こし、聞き耳を立て、意識を凝らす。
どこか遠くで物音がした。
それが徐々に大きくなる。石の通路を歩く音。誰かがここへ向かっている。
ほどなく、鉄格子の仕切りの向こうに、見覚えのある顔が現れた。
四十絡みの軍服の男だ。口元に細いヒゲを蓄えている。後ろ手を組んで向き直り、にやけた顔で腹を突き出す。
「調子はどうかね、ダドリー=クレスト」
「上々だよ、なまずヒゲ」
不敵に口端をもちあげて、ダドリーは鉄格子に歩み寄った。
軍服は鼻白んで口をつぐみ、憮然と苦虫かみつぶす。
ディールに仕掛けたあの日の森で、人質にした指揮官だった。だが、見知らぬ女児を人質にとられ、交換の要求にやむなく応じた。そして、陣地に逃げ戻った指揮官は、姑息にも条件を上乗せした。ダドリーの身柄をよこせというのだ。従わなければ、子供を殺すと。
そして、手堅く進んでいた計画は、あの土壇場で覆された。
この口ヒゲの指揮官は、国境警備隊の隊長だった。名前はバウマン。
鉄格子の向こうから、バウマンは嘲りまじりにすがめみた。「ずいぶんと強気なようだが、本当は後悔しているんじゃないのかね?」
「まあな。パンは固くてカビてるし、スープのジャガイモは芽が出てるからな。ここの奴らは、どんな味覚をしてるんだ」
「──美食家のご領主さまには、どうやら、お口に合わんらしいな」
バウマンは苦い顔で鼻を鳴らした。投降した直後から、バウマンはずっとこの調子だ。いちいち口調にとげがある。捕らえた際のあの奇襲を未だ根に持っているらしい。もっとも、確かにあれは、褒められたやり方ではなかったが。
そして、優位に立ったバウマンは、監獄の中でも最低の部類にぶちこんでくれたようだった。
地下の石壁は苔むして、監房は井戸の中のように湿っている。設備はいずれも見るからに古く、取り壊し寸前のような寂れようだ。その上、ぶちこまれたこの房は、寝台さえも備えていない。ある物といえば、石床の隅に戸板が一枚、申しわけ程度に毛布が一枚、それと便器があるきりだ。
そして、ぶちこんだ張本人は、鉄格子の向こうで、ふんぞり返っている。
「ここはどの辺りなんだ? なまずヒゲ」
世間話を装って、さりげなく探りを入れてみる。ふん、とバウマンは鼻を鳴らした。
「教えてくれる義理などないわ。そんなことより、口のきき方に気をつけたらどうだね。俺はお前より年が上だぞ。少しは敬意を払ったらどうだ」
「なら、俺はあんたよりも身分が上だ。少しは敬意を払ったらどうだ?」
指を突き立てていたバウマンが、顔をゆがめて口をつぐんだ。
「──口の減らん奴だ」
忌々しげに吐き捨てて、憮然と肩をひるがえす。
軍靴のかかとをカツカツ鳴らして、石の通路を去っていく。洞窟の先を思わせる通路に、次第に足音が遠のいた。
突っ立ったままダドリーは、すばやく隠した"それ"を探る。ズボンの隠しに、手になじんだ固い感触。
ここに収監された時、護身刀の類いは元より、所持品は全て没収された。この万年筆も同様だ。大事な物だ、と食い下がったが、バウマンはやはり取り合わなかった。
だが、ふて寝をして目覚めると、鉄格子の下の石床に、なぜか、ひっそりと置いてあった。一体誰が返しにきたのか。バウマンでないことだけは確かだが──。
ふと、ダドリーは顔をあげた。房の片隅で、かさこそ物音。
射光の陰の石壁で、小さな羽根がうごめいていた。
丸くて茶色いこぶし大の──石床に散ったパン屑を、忙しなくついばむスズメだった。そういえば、千切って捨てたパン屑が、いつの間にか消えていた。スズメが入りこんで、さらっていたのか。
今、バウマンを皮肉った通り、食事はひどい代物だった。
配膳は昼と晩の一日二度で、献立はきまって、パンが一つと、薄いスープが一杯のみ。成人男性の腹を満たすには、十分とはいえない分量だ。
結果、ダドリーは常に空腹だった。というのに、頼みの綱のそのパンもうっすらカビがはえていて、やむなくその部分をむしりとる羽目になった。乏しい食事が目減りするのは痛かったが、万一ここで腹でも壊せば、ますます状況が悪化する。これもバウマンの嫌がらせか、とようやくそこに思い当たる。普通なら、廃棄するような代物だ。
怪訝に、ダドリーは振り向いた。
ふっと陽光が遮られたのだ。
通風孔の向こうの地面に、野草を踏みしめる足が見えた。靴下のずり落ちた子供の靴──ひょい、と顔が、逆さまに覗いた。
にっ、と口端を引きあげて、ダドリーは彼に笑いかける。「よお、坊主」
「おじちゃん、そこ、おもしろいー?」
「まさか。ぜんぜん面白くないさ」
もぞもぞ身じろぎ、地面に顎をつけたのは、興味津々の二つのまなこ。地面に腹ばいになったらしい。
「なら、なんで、そこにいるの?」
「色々あってな、出られない」
「ぼくが出してあげようか?」
思わず、ダドリーは苦笑した。「──お前さんには、ちょっと無理だな。なあ、ここはどの辺りだ?」
「トラビアだよ」
「ああ、そうじゃなくってさ──街のどの辺?」
「えっとねえ。橋の方じゃなくって、門の方だよ。あと、お城も見える」
「なに街区?」
つまって、男児がまなこを瞬く。
「だったら、通りの名前でもいい」
「……わかんないよ、ぼく」
しばらく聞き出そうと努力したが、子供の話は要領を得ない。マリーベルの家のそばだと言われても、個人宅の場所など見当もつかない。
自分がどこで捕らわれているのか、ダドリーには分からなかった。
商都で暮らしていた頃は、比較的近いトラビアには、たまに足を運んでいたので、土地鑑がないでもないのだが、行き先の多くは領邸で、道すがら散策するのが関の山だった。その際関心を抱くのも、領民の暮らし向きや街の景気、交易の状態、そして、内戦中の隣国の様子などがもっぱらで、監獄の数や配置など頭をよぎりもしなかった。
男児が口を尖らせ始めたので、ダドリーはやむなく話題を代えた。
「なんで、お前、ここにきたんだ?」
ここは地下牢、この建物の一階は、獄吏が詰める事務所だろう。この建物を外から見れば、地面近くにぽっかり空いた、通風孔しか見えないはずだ。
当たり前のように、男児は応えた。
「鳥が入っていったから」
ダドリーは拍子抜けしつつ、その答えに合点した。通風孔を出入りするスズメの姿を見つけたのだろう。興味を引かれて覗いてみたら、人がいた、というわけだ。
何がそんなに面白いのか、男児は翌日もやってきた。
聞けば、年は七歳とのことで、街壁内の町中で、母親と二人で暮らしているらしい。
コリンと名乗ったこの男児は、見聞きしてきた出来事を、逐一真面目に報告した。今朝、飼い猫のミーが行方不明になったこと。近所の友達と捜しに行ったこと。川まで行ったけどいなくって、あ、でも、今までは忙しくて、ミーのこと捜しに行けなかったんだけどね──
ダドリーは相づちを打ちながら聞いていた。日がな外に出られないので、これもいい暇つぶしになる。そう、外の風は、今や貴重だ。
大真面目に話していたコリンが「うわっ!」と悲鳴をあげて飛びのいた。
手をつき、あわてて立ちあがる。ぱっ、と姿が視界から消えた。
あまりに急な退散に、ダドリーはいささか面食らった。何かに驚き、一目散に逃げたらしいが。
逃げる直前、ちらと見やった向かい壁──ダドリーは怪訝に目を向けて、やれやれ、と癖っ毛を掻いた。
「……なんだよ、トカゲの一つや二つ」
ちょろり、と尻尾がよぎって消えた。
この苔むした石牢は、いつも暗く、湿っている。夏の盛りにはひんやりしていて都合がいいが、それを好む生物も、通風孔から入ってくる。イモリやら、ネズミやら、害虫やら──気の弱い囚人ならば、絶叫しそうな代物だ。
ここは通風孔が地面にあるため、その手の類いは入り放題だ。人によっては、それだけで拷問に値するかもしれない。或いはこれも、あのバウマンの嫌がらせか。
もっとも、当のダドリーには、これは大した打撃ではなかった。なにせ、わんぱく坊主の幼少のみぎり、親の目を盗んでは、樹海に入り浸っていたような野生児だ。
客が帰って、倦んだ静寂が戻ってきた。
黒く湿った石床で、夏の光がゆれている。窓の外のどこか遠くで、小鳥のさえずる声がする。
忘れられた獄の片隅、ダドリーはかかえた膝に額をつけた。
「──畜生」
腹が減った。どうしようもなく。
これは、ちょっとした誤算だった。領主という身分から、領邸での軟禁を想定したが、現実は常に、更に厳しい。
不慣れな空腹は、何よりこたえた。そして、空腹は体力を奪う。
投降してから、すでに三日が過ぎていた。
無音の牢に押し込められて、ひがな一日することもなく、誰と話すこともできない。気の遠くなりそうな時の歩み。世界から取り残されていくような──
一目で分かるような外傷を、バウマンは残しはなかった。後日ラトキエと交渉する際、人質への虐待が発覚し、責任を問われることを恐れたのだろう。なにせ相手は、町のゴロツキ風情ではない。他領の領主を務める貴族だ。無邪気にいたぶったその後で、どんな災難が降りかかるかわからない。だから、理由がつけられる範囲内で、あからさまな証拠が残らぬように、食えないような食事を出したり、老朽化した監獄に一人きりで隔離したりと、ネチネチしつこくいたぶってくる。まったく地味な手口であるが、だが、根源的な欲求を突く、こうした嫌がらせはよく効いた。
気だるい頭を壁にもたせて、ダドリーは天井の暗がりを仰ぐ。
指先でまわるペンの金具が、くるっ──くるる──と光をはじく。
商都はまだ持ちこたえているのか。カーシュたちはどうなったか。隣国に向かったラルッカたちの、傭兵集めは順調だろうか。そういえば、何か、おかしい気がする。あの時、なぜ、ああも早く、国境軍が現れたのか。そして、なぜ、領主は未だに──
「──まあ、なんにせよ」
天井のゆらぎが、ぴたりと止まった。
「潜りこむことはできたわけだ」
空を睨んで ダドリー=クレストは不敵に笑った。
☆ おまけSS 『ラルッカ隊が往く』 ☆
話は少しさかのぼる……
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