CROSS ROAD ディール急襲 第3部 1章1話9
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 乾いた山肌を思わせる、薄茶の古城がそびえていた。
 その主塔の屋上に、深緑の旗がひるがえっている。あしらわれているのは「鳳凰紋」 この地方一帯を領有する、ディール領家の紋章だ。
 胸壁上部に狭間を頂くあの荒涼とした居館のどこかに、トラビアと国境を治める主、ニコラス=ディールがいるはずだった。西に国境、東に大陸の大地が広がるトラビアの街の北北西、河口の断崖に建つこの居城は、横にひろく広がっている。
 ひそんだ街角から邸門をうかがい、カーシュが舌打ちまじりに目配せした。
「どうする。突破するか」
 目指すディール領邸は、やはり国軍が封鎖していた。武装した軍兵は、見える範囲で十人以上、むろん、門の中にも、巡回の兵もいるだろう。
「こっちだ」
 あっさり、ダドリーは踵を返した。
 怪訝に見返し、カーシュも続く。「どこへ行く癖っ毛。そっちじゃねえぞ、領邸は」
「仮に門は突破できても、中にも大勢控えている。まともに相手をしていたら、いつ、領主に辿りつく」
「だが、そっちに行っても囲壁かべしかねえぞ」
「いいんだ。頂きの回廊にいく」
「頂上だ?──なに言ってんだ。いざ、領邸に押し入ろうって時に。今さら観光でもする気かよ」
 速めた足をゆるめることなく、ダドリーは肩越しに一瞥をくれた。
「回廊を使って、城の裏手に回りこむ。侵入経路がそこにある」
 へえ、とカーシュは感心したように顎をなでた。「なるほど、秘密の通路ってわけか。だが、なんで知ってんだ? そんなもん」
「ガキの頃──」
 言いかけ、ダドリーは口ごもる。しばしためらい、苦々しく眉をひそめた。
「……ガキの頃、ニックが教えてくれた」
 部下の手引きで脱獄を果たしたカーシュは、だが、ダドリーが囚われている居場所の手がかりさえ得られずにいた。幽閉場所と睨んだ領邸も、武装した軍隊が詰めている。元より脱獄囚の不自由な身の上、日中、街をうろつくことさえ、ままならない。
 悶々と日々は過ぎ、焦燥と苛立ちが昂じた頃、潜伏していた森のテントに 「竹の葉の手紙」が届けられた。託されてきたのは、ヒースの娘マリーベルだ。
 即日カーシュは行動を起こした。日没を待ち、件の地下牢に赴いて、翌昼、配膳の番兵を襲い、監獄の鍵を奪った。そして、久しぶりの夏日に目がくらみ、足元がふらつくダドリーと連れ立ち、街外れの領邸まで急行した。
 道すがら、未だ包囲の解けやらぬ商都に、ラルッカ一行が戻った旨を伝えたが、ダドリーは特に驚きもせず「そうか」と頷いただけだった。そして、呟くように言葉を添えた。
「だろうな、ラルなら、、、、
 積年の友が、沈みかけた船にも似た商都と命運を共にしようというのだ。というのに、顔色ひとつ変えることはなかった。その無謀な選択にカーシュは首を傾げたが、ダドリーにはわかっていた。帰還強行の理由はひとつ、彼らは「ラトキエの官吏」だからだ。
 そして、カーシュは、一行が危地に赴くにあたり、こたびの脱獄を手引きしたバサラ以下腹心の部下三名をつけた。
 短い影が、街路に濃く落ちていた。
 うだるような昼下がり、トラビアの街には、凪いだ静寂が落ちている。人の姿は街路にない。軒を並べる商店も、ひっそり静まり返っている。人々が通りに出てくるのは、夕風が吹きはじめる頃だろう。
 ぬるい風を肩で切り、二人は真昼の街路を急ぐ。
「お前、少し痩せたんじゃねえか?」
 本当は少しどころではなかったろうが、カーシュはためらいがちにそう尋ねた。
「顔色悪りィぞ。ろくに食ってねえんだろ。監獄の飯ここのはひでえ代物だからな」
「いい勉強になる」
「──あ?」
 怪訝そうに振り向く横で、ダドリーは往く手の街路を見据える。「飢えを知るのも俺の仕事、、、、だ」
「強がんなよ。出たばっかじゃ、体がまだキツイだろう。どっかで飯でも食ってからにするか」
「飯なんか食ってる暇はない。期限はせいぜい日没前だ」
 それまでに領邸に侵入し、領主を説得せねばならない。そして、軍勢を商都から引かせる。一刻も早く。
「脱獄発覚まで猶予がない。ヒースなら、まっ先に領邸にくる」
「ヒース? アーノルド=ヒースか」
 あぜん、とカーシュが足を止めた。
 急ぎ足を歩行にゆるめて、ダドリーは肩越しに振りかえる。「なに。カーシュ、知ってんの?」
 急かす視線に気づいたようで、突っ立ったカーシュが「──ああ」と身じろぎ、踏み出した。「知ってるも何も。アーノルド=ヒースといや、西カレリアでは唯一の要注意人物だぜ」
要注意人物、、、、、?」
「──あっ? いや」
 そそくさ、カーシュは目をそらす。「とにかく、技巧で知られた剣の名手だ。腕を買われて、ドレフで教官を務めたくらいだからな」
「ドレフ!?──ドレフの錬兵所か」
 ダドリーは呆気にとられて絶句した。「……なにそれ。バリバリの第一線じゃん」
 ドレフといえば、数ある錬兵所の中でも最上位の錬兵所、その教官を任されるほどの腕というなら、武術に長けた猛者の中でも第一級の逸材だ。
「──そうか。あの時か」
 はっとダドリーは顔をあげた。「どうりで見覚えがあるわけだ」
 かつて、成人前の顔見せで国王サディアスに謁見した折、御前試合の観戦に同席を許されたことがあった。そこで神がかった剣さばきを披露した、あの時の剣士が彼だった。
 だが、そうなるとヒースは、華々しい組織中枢の錬兵所から、準武力組織の副官に異動になったことになる。警備兵もどきの閑職だ。武を重んじる軍人には、これは急転直下の降格人事。屈辱的な、と言ってもいい。
 どうにも事情が飲み込めず、ダドリーは不可解に首をひねる。「そんな手練が、なんで国境の警備員なんかに」
 あからさまな降格人事。重大な違反でも犯したか?
「なんでも、上官ぶん殴って左遷とばされたらしいぜ」
 酒場で絡まれた女を見かね、質の悪い酔漢から助けたのだという。だが、ぶっ飛ばした相手が悪かった。よくある話で、実力者のドラ息子だったとか。
「あいつ、そんなこと、一言もいってなかったぞ?」
 呆気にとられてダドリーはまたたく。「にしたって、そんなしょうもねえことで左遷とばすってどーよ。たく。何やってんだラトキエは」
 軍はラトキエの管轄だ。
「ヒースの奴も水臭いよなー。俺たちダチだろ。そういうことなら俺に言えよ俺に!」
 手ぇ回してやったのに──と口を尖らせて、もどかしげにぶつくさ愚痴る。
「けど」
 口端を持ちあげ、にやりと笑った。「だよなー。いい奴だと思ったんだ、あいつ」
「なんだ。エサでももらったか?」
「──違わいっ!?」
 横目のカーシュを、ぐるり、と振り向く。
「い、いや、違わないけど、そうじゃないっ!」
 疑わしげな連れの顔を、口を尖らせて牽制し、街路を駆けつつ、つかのま思案。
「決めた!」
 くい、と顎を振りあげた。
「やっぱ、あいつは俺がもらう、、、、、
 あっ、と気づいて、白けた顔の連れを見る。「ち、違うからっ! 乗り換えたとか、そういうんじゃないから! カーシュも俺がもらうからっ!」
「勝手に決めんな」
 けっと横を向き、カーシュはつれない。
「そのアーノルド=ヒースだが、ほとんどクビで決まりかけていたところを、ここの領主がトラビアに引っ張ったって話だぜ」
「──ニックが?」
 へえ、とダドリーは目をまたたき、頬をゆるめて頷いた。「だよな。手放すには惜しい駒だ」
 にしても、と蓬髪の連れを見る。
「なんか、いやに詳しくない?」
 そう、ことこうした話には、いつも彼は異様に詳しい。情勢、地形、軍の人事──。じとり、と横目でカーシュを見やる。
「うちの国、攻めようとかって企んでねえよな」
「……企んでねえよ」
 カーシュは引きつり顔でたじろいだ。
 顔をしかめて目をそらし、赤い蓬髪をガリガリと掻く。
「商売柄、その手の情報はなしは入ってくる。そんなことより、軍っていや、妙な情報ネタがある」
 仕切り直して一瞥をくれた。
「幹部連中、総入れ替えらしいぜ」
「総入れ替え? ってことは、三十九名一度にか?」
 あぜんとダドリーは訊きかえし、なるほど、それで、と合点した。ヒースがああも多忙だった理由──。
「それで、幹部の降格事由は?」
「死亡だ」
 目をみはって振り向いた。「全員?」
「なんでも火災にあったとか。会議で一室に集まっていたらしいな」
「それにしたって全員って──火事で一人も助からなかったっての?」
「したたかに飲んでいたようなんだよな。ノアニールの焼け跡から、酒瓶がごろごろ出てきたって話だ。だが──」
 どうも、話が妙なんだよな〜、とカーシュはどこか腑に落ちなげだ。
 カッ──と夏日が照りつけた。
 街路の日陰が不意に途切れ、強烈な陽が照りつける石畳に走り出ていた。
 トラビアの東端だ。
 薄茶色した宿舎の脇を通りすぎ、更に街の外郭を目指す。
 いかめしく巨大な石壁が、往く手を阻んでそびえていた。
 壁の威容が視界を圧して、次第次第に大きくなる。胸壁狭間を設えた頂きへと伸びた石段が、壁の側面に張り付いている。
 駆け続けた足も止めずに、ダドリーは石段を駆けあがる。
「これを上まで登るのかよ」
 やや遅れて着いたカーシュが、腕で額をぬぐいつつ、陽光まぶしい頂きを仰いだ。建物の三階の高さはゆうにあろうかという外壁だ。
「この日照りじゃ、上は暑いぜ。野ざらしで日陰もねえし。こんな分厚い外壁なら、中に通路のひとつもあるんじゃねえのか?」
「そんなものはない。壁の中身は、砕いた石と漆喰だ」
「この真夏の炎天下だぜ。壁沿いに歩きゃいいじゃねえか。なにも天辺まで行かなくてもよ」
「確かめたいことがある」
 そっけなく不服を斥け、ダドリーは足も止めずに登っていく。
 見向きもしないその背を仰いで、カーシュもやれやれと踏み出した。「たく。言い出したら、きかねえからな」
 夏の風が、頬をなでた。
 石段をのぼる肩に、髪に、強い夏日が降りそそぐ。石段の硬さを靴裏で踏みしめ、古びた石段を長らく登る。
 やがて、囲壁の上に出た。
 日ざしに焼けた石床に立ち、ダドリーは苦々しく回廊を見まわす。
「やっぱり、か」
 回廊はのどかに陽を浴びて、見渡すかぎり、誰の姿もそこにはない。軍服はいなかった。見回りの一人も立ってはいない。他領と事を構えている最中だというのに。
 カーシュは腕で額をぬぐい、ぶらぶら胸壁の狭間へ歩いていく。
「さすがに上は見晴らしがいいな。苦労して登った甲斐があったってもんだぜ」
 壁の狭間に手を付いて、ぐるりと下界を見渡した。左手は北の方角、渦まく内海が一望できた。右手に見える街道沿い──国境沿いの山裾には、炭鉱の町がぽつりぽつりと連なっている。そして、前方にひらけた緑の大地。
「ああ、いるな軍隊が」
 向かい風に赤髪をなびかせ、カーシュはいぶかしげに顎をなでる。
「妙だな。ありゃザルトの辺りじゃねえか?」
 緑に満ちた大陸の中、トラビアに至る街道が見えた。蛇行する道の中ほどに、なるほど軍が集結している。だが、街道の商都寄りではなく、むしろ、こちらトラビアに近い。もっとも商都近辺は、山の稜線が視界を阻んで、どれだけの軍勢が詰めているのか、見定めることはできないが。
 ダドリーは回廊の北へと踏み出した。「こっちだ、カーシュ」
 おうよ、とカーシュも足を向ける。
 左手の手すりの向こう側に、トラビアの街を一望できた。
 外郭を守る石壁が、街のぐるりを取り巻いている。回廊を道なりに進むにつれ、景色が移ろい、古城の威容が近づいてくる。
「にしても、よくも領主が教えたもんだな、城に出入りできる道なんぞを。ガキの時分の話とはいえ、クレストは曲がりなりにも他領だろうに」
 隠しに両手を突っ込んで、ダドリーは晴れた夏空を仰いだ。
「トラビアの領邸に、嫌味な秘書官が一人いてさ。俺がまだガキの頃、そいつに陰口叩かれたんだ。この"ごくつぶし"が、ってさ。──ほら俺、三男坊だろ。家に必要な跡取りは一人いれば十分で、要らないガキだったんだよ、ようするに」
 左手に広がるトラビアの街並みに視線を投げる。
「埒もない苛めだったが、あの頃はガキだったからさ。それなりに傷ついた。攻撃されたのが悲しくて、事実なだけに悔しくて、けど、自分じゃどうにもならなくて。一応我慢はしたんだが、いじけてたのが分かったんだろうな、ニックが街に連れ出してくれた。この通路を使ってさ。──ああ、ニックってのは、ここの領主だ。あのおっさん、ちょくちょく城を抜け出しては、出歩いていたらしいんだよな」
「息抜きってわけか」
「本人は、視察だって言い張っていたけどな。まあ、気持ちは分かる。あの嫌味な秘書官と四六時中一緒にいたら、誰だって逃げたくもなる」
 街におりるとニックの奴、パン屋のオヤジになりすましていたらしいぜ? 白い帽子で前かけ締めて。店もちゃっかり、どこかに借りて。馴染みの女までいたらしい。
 そして、ぶっとい指を口に押しあて、ちゃめっ気たっぷりに領主は笑った。
『 君に、秘密は守れるかな? 』
 この回廊の通路のことは、ダド、誰にも内緒だよ?
「城を出て、この回廊を歩きながら、ニックの奴、得意そうに言うんだよ。トラビアの防備は大陸一だって。泣きじゃくるガキの手を引きながら」
『 ほら、ごらん、この城を。素晴らしいとは思わんかね? 』
 片目をつぶって、指を振り、まん丸顔の領主は笑った。
 そして、穏やかに語りだした。
 トラビアの囲壁は分厚くて、外からの攻撃にも、びくともしなかったものなんだ。もし、ここを攻めるとすれば、壁をよじ登って入り込むしか手はないな。だが、兵は壁に近づくこともできない。ほら、外に広い堀があるだろう? 深くて広いあの堀には、水が張ってあったんだ。今だって堰をあければ、国境の河川の水が怒涛のごとく流れこむ。
 なら、街壁を壊せばいいって? いやいや、それは無理だよダド。だって、堀があって近づけないから、敵の玉が届かない。もし、壁まで飛んだとしても、この分厚い壁の中には、砕いた石やら漆喰やらが、どっさり、ぎゅうぎゅうに詰めてあるのさ。だから、ちょっとやそっとじゃ壊れない。
 いいかね、ダド。トラビアは、優れた防備を備えた街だ。この要塞が機能すれば、何人たりとも容易くこれを攻め落とすことはできない。昔のように戦になっても、トラビアは必ず生き残る。あの立派な楼門を見ただろう?
 だが、戦さなどというものは、所詮、獣のすることだ。縄張り争いで殺し合うなど、獣と何ら変わりはしない。見たまえ、隣の国民を。年中、戦に巻き込まれ、田畑を焼かれ、踏みつけられて、怯えてびくびく暮らしている。ああした暮らしが人々の、まともな暮らしだと思うかね?
 領主の一番大事な務めが、一体何だかわかるかね?
 領主の務めは、民の暮らしを守ることだ。間違っても見捨てたり、敵に差し出すことがあってはならない。彼らを駒のように扱ってはならない。領主は彼らを保護するためだけに存在するのだ。
 そうすれば、民も君を愛してくれる。国家というのは、ひとつの大きな家族なんだ。
 警戒すべきは野心家だ。彼らは私利私欲で民を巻きこみ、あわよくば支配しようとする。こうした輩は害虫と同じ。見つけたら、速やかに取り除かねばならない。悪さをしようとする前に。
 こうして領家に生まれた以上、君は覚えておかねばならない。
 肝に命じておかねばならない。人々の上に立つ者は、歴史に責任を負うことを。
 我々が暮らすこの日々などは、歴史の壮大な絵巻物の中では、ほんのささやかなシミのようなものだよ。それがどんな時代になるものか、どんな足跡を残すのか、それは我々の才覚次第だ。どこに目を据え、何をなすのか、大事なのは構想だ。
 目の前に広がるこの世界に、君はどんな色を塗る? 混沌とした灰色の? それとも、虹色に輝く薔薇色の? 
 君は、ごくつぶしなんかじゃない。この世に要らない人間なんか、一人もいはしないんだ。だって、現に私にとっては、君は大事な友人だろう?
 君だって、夢を見ていい。ならば、今、すべきことは何だ?
 欲しいものがあるのなら、常にたゆまず努力をしなさい。君の出番がきた時に、絶望せずに済むように。まったく運命という奴は、人を無差別に食らうのだから。
 雲は流れ、水は往く。人は去り、時は移ろう。明日、何が起きるのか、
 それは、、、誰にも、、、わからない、、、、、
 
「国境だぜ」
 ふと、ダドリーは顔をあげた。
 胸いっぱいに満たされた温かな想いを追いやって、カーシュが指さす方角に目をやる。
 いつから会話が途切れていたのか、屋根のひしめく街並みの向こうに、国境の川が光っていた。そして、河川にかかる橋──。
 足が、回廊の左端に吸い寄せられた。
 その厳然たる光景は、感傷を打ち砕くに十分だった。それはまざまざと普遍の事実をつきつける。橋は、やはり、
 あがっていない、、、、、、、
「……愚行の極みだ」
 つぶやき、ダドリーは手すりをつかんだ。
 食い入るように目を据えて、細く、苦く息を吐く。夏日に焼けた手すりの熱さが、左右の手の平にじんわり染み入る。
 カーシュが肩で振りかえり、回廊の先を親指でさした。
「どうする。行き止まりだぜ」
 往く手を円塔が阻んでいた。すっかり領邸の裏手に回っていた。この回廊の終着点。
「まさか、向こうに飛び移ろうってんじゃねえよな?」
 回廊をめぐらす頂きは、三階以上の高さはゆうにある。向かいの古城の壁までは、とても飛べるような距離ではなく、落下すれば、命はない。ダドリーは目だけを連れに向ける。
「降りる」
 往く手を阻む円塔が、ぽっかり口をあけていた。陰に沈むその先に、螺旋階段が見えている。
「こっから降りゃいいんだな?」
 せかせかカーシュが足を向けた。だが、すぐに怪訝そうに振りかえる。足音がついてこなかったからだ。
 回廊の手すりに両手をついて、ダドリーはトラビアの夏空をながめていた。
 気だるい背中に頭を倒し、ぬるい風に身を任せる。
 雲が白く輝いて、ゆっくり空を渡っていた。
 厚みのある巨大な夏雲。堰き止めようと手を伸ばしても、決して届かぬ遠い高み。
 崖下で渦まく内海の、滝の音のような轟きの中、耳を澄ませば、国境の川のせせらぎが届く。それは、後戻りせぬ確かな歩み。時の流れる音がする。
 カーシュは何も言わなかったが、その皮肉を感じてはいるようだった。目をそむけた苦々しげな顔は、いつにもまして仏頂面だ。
 そう、まさしくその領主に、この足で勧めに行くのだ。自ら断頭台へ登るよう。
 外に通じる秘密の通路。
 うるさい秘書官の目を盗み、街へ行くんだと笑った領主。そう、たまに──ほんのたまに、、、な。
『 いや、あくまで城下の視察だぞ? 』
 企むように片目をつぶり、後ろ手を組んで、そそくさ歩いた。ふくれた腹を出っ張らして。
 口ひげが笑みをたたえ、ほがらかな笑顔が手を伸べる。
『 さあ、行こう 』
 ──我が友よ。
 ゆるり、とひとつ首を振り、きっぱりダドリーは振り向いた。
「行こう」
 
 
 

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