■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部 1章1話20
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「……。でっかい猫だな」
それの前にしゃがみこみ、ダドリーは呆けた顔でつくづく見た。
黒い前脚ぴたりと揃え、行儀よくお座りしているものの、なにやら妙に座高が高い。
「猫」は金の眼(まなこ)でじっと見つめ、黒くしなやかな長い尻尾を、優雅に、ゆるやかに振っている。
ダドリーはツンツン前脚をつつく。「俺、こんなでかい猫、はじめて見──」
がァ、と真っ赤な口をあけ「猫」が顎を突き出した。
わたわたダドリーはカーシュに隠れ、黒髪の飼い主をあぜんと仰ぐ。
「猫、だよな?」
「猫だ」
きっぱり、ギルはうなずいた。らんらん輝く金の眼(まなこ)で、じっと「猫」は見つめている。
「今、俺のこと食おうとしなかった?」
「気のせいだ」
「いや、したろ絶対」
ぶっきらぼうにアスランが言う。
「何をいう」
ギルが心外そうに目を向けた。「ちょっと、あくびをしただけだろ。──な? そうだろそうだな? な? ノアール?」
「なに。お前ノアールっていうの?」
ふーん、とダドリーは「猫」を覗く。
ばっくん──と鋭い「猫」の顎が、咆哮とともに空振りした。
「猫」の黒くつややかな首を、ギルが片手で引っかかえていた。片頬引きつらせて息を荒げ、だが、くるりと真顔で振りかえる。
「どうかしたか?」
「あ、──あ、ううん、いや」
ダドリーはたじろぎ笑いで頭を掻いた。「なんか、あんた唐突だな……」
反応しずらい。
「いや、ここまででかいと、猫も迫力あるなあって」
金茶の巻き毛のアスランが、白けた顔で空をながめた。「気をつけろよ〜? あんたに興味があるらしいぜ?」
ダドリーはまじまじ「猫」を見た。
「あ、そうなの? 嬉しいな。──いや、俺も好きだな〜、お前みたいなでっかい猫っ! 手ざわりいいし、よく見りゃ結構かわいい顔だし」
なはは、と笑い、黒毛皮の背中をばんばん叩く。
「なー? ノアール? 仲良くしようぜ」
ふん、と「猫」が鼻を鳴らして、くい、と黒い首を伸ばした。
しきりに顔を見あげつつ、ふんふん鼻を近づける。
長い四肢を交互に出して、うろうろ周囲を嗅ぎまわっている。
しなやかな前脚を突き伸ばし、ぐわっと「猫」が伸びあがった。
わたわたダドリーは後ずさる。その胸にどっかと脚をかけ、れろり、と「猫」が顔をなめた。
ちら、とアスランが横目で見た。
カーシュは天を仰いで嘆息する。「秒読みだな」
「や、やだなーカーシュ」
のしかかる「猫」に押し潰されそうになりながら、ダドリーは引きつり笑顔で振りかえる。「なに言ってんの、俺たちダチだ(ぜ?)」
かぷ……と頭上で、容赦のない音がした。
ちろ、とカーシュが横目で見やる。
「おい。頭食われてんぞ?」
のしかかる巨体の黒い毛皮を、引きつり笑顔でダドリーはなだめる。「や、やだなー、カーシュ。甘噛みだってー。なついてんだよこれー。そっ、そっ、そうだよな?」
伸びあがった両脚で「猫」はガッシと肩をかかえ、はむはむ食らいついている。
「おおお俺と遊びたいだけだよな? な? な? ノアール? そうだよな?……あ、けど、その……ちょっとお前、重いんだけどな……」
「お前、頭なくなるぜ?」
呆れ顔でアスランは言い、たしなめるように振り向いた。「おい、飼い主」
「無礼な。ノアールは俺の大事な友だ。──さっ、もういいだろう? ノアール」
「猫」がギルを振り向いて、ぐい、と前脚で押しやった。
突き飛ばされて、ダドリーは思わずよろめく。結構な力だ。「猫」はいそいそ、尻尾を振って戻っていく。
「おかえり、ノアール」
舌舐めずりのその頭を、ギルはよしよしとなでさすり、更には、むぎゅうぅ〜と両手で抱きしめ、一しきり体中なでくり回す。「存分に舐めたか? よかったな」
それにしても、とつぶやいて、軽く目をみはって振り向いた。
「お前の味は気に入ったようだ」
「……ど、どういう意味?」
ダドリーは笑顔をひくつかせ、よだれでべたつく頬をふく。「は、迫力あるな〜、お前」
思わず黒獣に確認する。
「……猫、だよな?」
お座りした金の眼(まなこ)が、じっ、と顔を見つめ返す。
まじまじ近づけたその顔を、ぺろりと赤い舌が舐めあげた。
わたわたダドリーは飛びのいて、とっさに飼い主に再確認。「ほほほほんとに猫?」
「猫だ」
「けど、なんか骨格からして愛玩系とは違わな(い?)──」
「猫だ」
せかせか語尾におっ被せ、あくまでうなずく黒髪は「猫」だと言い張り、譲らない。
「ところで、このノアールのことで、折り入って頼みがあるのだが」
きりっとギルは振りかえり、真面目な顔でじっと見た。
「嫁にもらってくれ」
「なんでそうなる?」
とっさにダドリーは言い返す。
ギルは忌々しげに舌打ちした。「決まっているだろう。ノアールがお前を気に入ったからだ」
「俺の意思は全面無視? つか、メスなのコイツ? つか、なんで嫁なんだっ!」
「仕方がなかろう」
ギルは苦渋の面持ちで額をつかみ、眉をひそめて首を振った。「俺だって嫁に出すのは身を切られる思いだが、ノアールの幸せを願えばこそ──」
「けど猫だろ」
「……。猫だ」
とっさにギルは言いよどむ。
(不覚……)の表情が一瞬よぎる。
後脚で耳を掻くノアールを、ダドリーはしゃがみこんで、つくづく見た。「お前、なんで俺にばっか、くっ付いてくるんだ?」
すかさずギルが復活した。
「ノアールにとって珍しい顔だ」
「それならカーシュも同じだろ」
だが、あくびをしているノアールは、カーシュには決して近づこうとしない。たまに威嚇はしているが。
話の引き合いに出されたカーシュが、面倒そうに肩をすくめた。「決まってんだろ。この中で、お前が一番弱ええからだよ」
石造りの回廊に、昼の夏日が降りそそいでいた。
灰色の制服の守備兵たちが、所々を見まわっている。手に手に弓矢を携えて。
壁の狭間の向こうに広がる、遠くひらけた緑野には、ラトキエ領家の旗を掲げた青服の部隊が陣取っている。しばらく動きはないだろう。
「ああ、そういや見つかった?」
ダドリーは膝に手を置いて、しゃがんだ姿勢から立ちあがった。「人を捜してるって言ってたろ? ほら、誰だかが死んだから、それを伝えにきたとかって」
「シルビナ」
「猫」に目尻を下げていたギルが、真顔に戻って目を向ける。「死んだのはシルビナだ」
「あ、そうそう、その人」
「母親だ」
「……。ごめん」
思わぬ応えに、ダドリーはまごつく。「悪い。知らなくて。お悔やみを言うよ。──えっと、それで、あんたらが捜してるのは──」
「クロイツ」
今度はアスランが短く応えた。
怪訝にダドリーは目を向ける。声音に違和感を覚えたのだ。
いやに冷淡な口振りだった。日頃そつのない、このアスランらしくない。いっそ憎んででもいるような。
カーシュもやはり引っかかったようで、怪訝そうな顔つきだ。ノアールの首から手を放し、ギルがその横に並び立った。
「クロイツを捜している。知らないか?」
「──いや、なるべく力になりたいけどさ」
真面目な顔で見据えられ、ダドリーは苦笑いした。「そうまともに名前を言われても。ほら、何かないの? 人相とかさ」
「名しか知らない」
「それだけで捜すの? 厳しいな……」
「いや、手がかりはあるよ」
アスランが立てた親指で連れをさした。「クロイツはギルと同じ銀灰色の長髪だ」
「──銀?」
ふと、カーシュが聞き咎めた。
「あんたらの国じゃ、これを"銀"と呼ぶのかよ」
二人が、ふっと口をつぐんだ。
すっと表情が掻き消える。こちらに視線を据えたまま、二人はそれきり動かない。
不思議な雰囲気が漂っていた。端整な二人が動きを止めたその様は、そうした細工の精巧な人形を思わせる。カーシュが不審そうに二人を見ていた。居心地悪げにアスランが身じろぐ──はたと、ダドリーは我に返った。
「い、いいじゃん、カーシュ。どんなふうに呼んだって」
皆に視線をめぐらせて、石床に寝そべったノアールを見る。「"猫"がこんなにでっかい国だぜ? 勝手だって色々違うさ」
場の気まずさをとりなして、あえて笑顔で話題を変える。「あ、じゃあ、クロイツって人は、どんな間柄の──」
「父親だよ、俺たちの」
アスランの返事に束の間つまり、重大な事実に思いあたる。
「兄弟!?」
あんぐり二人を見比べた。
カーシュがいぶかしげに眺めやり、思案げに顎をなでた。「つまり、母ちゃんが死んだから、親父を捜しに出てきたわけだ。で、どっちの方が兄ちゃんだ?」
「どっちでもない」
アスランが投げやりに肩をすくめる。「上も下もないよ」
「双子ってやつか」
「──双子って、でも」
あぜんとダドリーは二人を見た。彼らはまるで似ていない。背丈や肌色は同じだが、頭髪の色は黒と金茶。顔立ちにも似たところは、さほどない。西の民族の特徴なのか、彼らはどちらも上背があるが。
金茶の巻き毛をなびかせて、アスランは視線をめぐらせた。「いや、他にもどこかにいるはずだ」
あっけにとられて、ダドリーはまたたく。「なら、三つ子ってこと?」
「シルビナが産んだのは五つの卵」
壁の狭間に腕をおき、アスランが晴れた空を仰いだ。
「俺たちは、手元に残ったその内の二つ」
その肩越しに振りかえる。
「信じる?」
余裕さえ感じられる魅惑的な笑み。
ダドリーは返事に窮した。突拍子もない話だが、笑い飛ばすことはできなかった。この二人の言葉には、なぜか奇妙な説得力がある。
二人の風変わりな異邦人が、不思議な光を瞳にたたえ、目の前に並び立っていた。シルビナとクロイツの息子たち。
やはり、ぬぐいきれない違和感があった。誰も知らない「真理」を語り、"名前"で親を呼ぶ子供──。
灰色の制服を身につけた国境守備隊の兵たちが、昼の回廊を見まわっていた。眼下の平原に展開する部隊の動向を見張っている。国境にかかる跳ね橋は、あれからすぐに引きあげた。
あれからラトキエに動きはない。街の明け渡しが不首尾に終わり、商都にいる領家の主人に伺いを立てに行ったのだろう。トラビア・商都間の往路は三日、復路を含めて六日はかかる。つまり、それまでは動けない。
「それにしても、まだかよ、準備は」
カーシュが額の汗をぬぐい、顔をしかめて振り向いた。「いつまで遊んでなけりゃならねえんだ。このくそ暑い回廊で」
「すぐにくるって。ヒースから知らせが」
国境のある方向に、ダドリーは視線をめぐらせる。回廊の先へと戻した視線を、大陸側の外壁で止めた。
国境守備隊の兵たちが、壁の狭間に取りついて、下界を覗きこんでいた。何やら話し込んでいる。すぐに一人が、あわてた様子で駆けてきた。
「ハシゴです! この壁にハシゴをかけています!」
「──な!」
強行突破──。一同は顔を見合わせた。
ダドリーは奥歯を強く噛む。「……遅かったか」
ラトキエ側の勇み足だ。
いや、商都の指示ではないはずだ。どれほど馬を飛ばしても、こんなに速く往復できるはずがない。ならば、部隊の指揮官の一存か。そう、どこの組織にもいるものだ。上役のご機嫌をとろうと突出する点数稼ぎは。そして、準備はまだ整っていない。
にわかに守備隊があわただしくなった。
手にした弓をあわてて構え、壁の下に狙いを定める。緑の平原をじりじり睨み、ダドリーは歯ぎしりする。「──くそっ! あと少しだってのに!」
壁下からの、兵の喚声が大きくなる。
やむなく守備隊が矢を放った。だが、不慣れな射手の放つ矢は、見当外れな方向に飛んでいく。力のこもらぬ軽い矢は、盾でことごとく弾かれてしまう。
まるで牽制になっていない。軍兵の怒鳴り声が大きくなる。壁にハシゴを取りつけて、軍靴が下段に足をかける。次々ハシゴがかけられていく。
昂ぶる下界をながめやり、アスランがギルに目配せした。「いいの? 手、貸してやらなくて」
ギルは無表情に見返して、外套の裾を無言で払った。
弓を取り出し、狭間から下界に狙いを定める。
ハシゴの下段の一団が、短い悲鳴で飛びのいた。突き立った矢羽に息を呑み、目をみはって振り仰ぐ。
「そこを見ていろ」
じろりとギルは睥睨し、草むらの"それ"を顎でさす。
何かが地面で光っていた。兵の誰かが、飛びのいた拍子に落としたのだろう。携行用の小型のナイフだ。
キン──と鋭い音がして、たちまちそれが消え失せた。
弾け飛んだ光を次の矢が追いかけ、右へ左へ飛び跳ねる。
愕然と、兵がギルを見あげた。
「さて。次は誰の番だ?」
ナイフからゆっくり的を修正、回廊で矢尻が夏日に輝く。
軍服の一団がたじろいだ。
ちら、と隣と目配せし、後ずさって散っていく。
回廊の向こうで、どよめきが上がった。
ぱらぱら拍手が沸き起こる。予期せぬ侵攻に四苦八苦していた守備隊たちだ。ギルに賞賛のまなざしを向けている。
「何をしている! 早く上まで登らんか!」
下界の緑野で、叱責が飛んだ。
髭を生やした初老の男──日頃の不精で突き出た腹と、兵卒とは異なる服装から、部隊の指揮官であるらしいと知れる。小奇麗な取り巻きで周囲をかため、後方で檄を飛ばしている。そう、ハシゴは一つきりではない。狭間の続く外壁には、他にも二台が据えられている。
ぽかん、と見ていた別のハシゴの一団が、おのおの攻略を再開した。
遠隔地から牽制できる弓矢は優れた武器ではあるが、機動面ではいささか劣る。複数地点には対処できない。どれほど優秀な射手であっても、三つのハシゴを同時に牽制するのは不可能だ。
おい、とギルが苛立った顔でアスランを見た。声には非難の色が混じっている。
「──ああ、いや、俺はさ」
そろり、とアスランは目をそらす。守備隊の一人がすかさず駆け寄り、己の弓をさしだした。
「……。やるの? 俺も?」
顔をしかめてアスランは一瞥、だが、期待のまなざしに押される形で、渋々それを受け取った。「はいはい。わかりましたよ。やればいいんでしょ、やれば」
溜息まじりに狭間に乗り出し、隣のハシゴに狙いを定める。
「よく見てろよ? 的はアレだ」
青空に、弓が弧を描いた。
一同の視線が軌道を追う。
ぽかん、と口をあけて、アスランを見た。すい〜……と飛んでいったのは、まるで的外れなあさっての方向。
「下手っぴ」
ギルが的確に罵った。「まさかとは思ったが、これほど成長していないとは」
「俺にはこんなの必要ないの」
あっけにとられた注視のただ中、アスランは肩をすくめて言い返した。「柄じゃないって、そういうの俺には。疲れるし、野蛮だし、そもそもそんなのやるだけ無駄だし」
「それ以前にセンスがない」
ギルがにこりともせずにとどめを刺す。手加減、容赦は一切ない。
「なんだよ、見かけ倒しかよ」
カーシュが溜息まじりに腕を組んだ。「弓は性に合わないが、あれなら俺の方がまだましだ」
「なんとでも言えば? けど、俺は、その代わり」
複雑な表情の守備隊員に、はい、と弓を返しつつ、アスランは意味ありげに一瞥をくれた。
「風を呼べる」
天を仰いだその髪がそよいだ。照りつける強い夏日の下で、金茶の巻き毛がゆれている。
「準備ができたぞ!」
男の怒鳴り声がした。
聞き知った声だ。長く続く回廊の先から、白シャツの男が駆けてくる。銀縁めがねとオールバック。
国軍の青い軍服を、今日のヒースは脱いでいる。肘までまくった腕が振られた。
「いつでも、いいぞ!」
やれやれとカーシュが身じろいだ。「待ちかねたぜ」
壁の下方に取りついた軍服の一団を見おろして、ダドリーは密かに唇を噛む。そう、確かにそれは待ちかねた合図だ。だが──
実行すれば何が起こるか、むろん十分わかっていた。だが、小競り合いを続けていては、いずれは街壁を乗り越えられて、街の中に侵入される。
壁にかけられたハシゴの先を、守備隊が必死で押し戻していた。ギルに近くを狙われる都度、軍服はあわてて逃げ出すが、散っても散っても、やがては戻り、外壁をよじ登るべくハシゴに取りつく。あの足場を奪う必要が、今はある。この対処はあくまで「防衛」
開戦前に弓を引いたのはラトキエだ。
腿横に下ろした腕の先、利き手がしびれたようになっていた。ハシゴに取りついた軍兵たちの、荒々しい罵倒が聞こえる。己の職務を全うしようと、攻守ともに誰もが必死だ。軍の青い制帽の下、まなじりつりあげた顔、顔、顔──。
「──なんとか泳ぎきってくれよ」
かすかに震える手を握り、ダドリーはきつく瞼をつぶる。
目をあけ、振り向いた回廊に、銀縁めがねの姿があった。実行すれば何が起こるか、むろん十分にわかっている──。
ためらいを振りきり、顔をあげた。
「堰をあけろ!」
ただちにヒースが、回廊の先へと指示を伝える。
高い夏空に指示がこだまし、ふっつり凪いだように静まりかえった。
壁下からの喚声は未だ遠く続いている。
何かがうごめく気配がした。
巨大な獣が身じろいだような、大地を揺るがす不気味な振動。どこからともなく忍びこんできた轟音が、またたく間に大きくなる。
ハシゴを据えた軍服たちが、作業の手を一とき止めた。
あたりを不審そうに見まわしている。音の正体をすぐに見極め、皆一様に目をみはる。
水しぶきをあげた濁流が、干乾びた水路に押し寄せた。
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