CROSS ROAD ディール急襲 第3部 1章1話21
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 夏日を浴びた緑の葉先に、水がしぶきをあげて押し寄せた。
 地崩れを思わせる轟音が、一気にざわめきを覆い尽くす。
 山の源流から内海へ注ぐ国境河川の勢いのままに、堀の野草を呑みこんでいく。
 壁の狭間に両手をついて、ダドリーは息を呑んで乗り出した。
 足をすくわれ倒れたハシゴが、分厚い飛沫に呑まれ、揉まれる。奔流は底に溜まった土砂をまき込み、堀の先へと押しやっていく。
 壁に据えた三台のハシゴが、次々かたむき、倒され、流れた。
 ハシゴに取りついた軍服たちが、悲鳴をあげて、あわてて飛びのく。傾斜に手をつき、土手の野草を引っつかみ、わらわら前のめりで登っていく。
 眉をひそめ、凝視していたダドリーは、拳の力をわずかにゆるめた。
 無言でそちらを眺めている周囲の者には悟られぬよう、細く、長く息を吐く。野草の抵抗があるためか、掘底を舐める水流は、予想したほどには速くない。軍服を濡らした兵たちが飛びつくようにして対岸にあがり、次から次へと退却していく。これで兵はあらかた避難したろうか。これなら、被害を出さずに済みそうだ。──いや、
 はっと視線を走らせた。
「お、おい──!」
 それ・・を見つけて息を呑む。押し寄せた水流に呑まれた青。
 ──逃げ遅れた兵が・・・・・・・いる・・
 荒ぶる波間で、青がもてあそばれていた。
 兵はびしょ濡れの顔を腕でぬぐい、脛までの水を大股で掻きやり、土手の傾斜へと向かっている。振り払うようにして腕を伸ばし、傾斜に生えた野草をつかむ。だが、速い流れに足をとられる。瓦礫がぶつかり、体がかたむく。流れがにわかに速くなる。
「──何をしている! 早く立て」
 ダドリーはやきもき拳を握る。なぜ、さっさとあがらなかった。水が来るのは、あの轟音でわかったろうに。まだ大丈夫と油断したのか。何かに気でもとられていたのか。岸にあがる前が詰まって避難の順番が遅れたか。伸びた野草に足でも絡めとられたか。
 短い悲鳴に仲間が気づいて、驚いた顔で振り向いた。
 怒鳴り声で呼びかけながら、流される兵士に伴走していく。転げた兵は、もがき、這いずり、立ちあがろうとはするものの、その都度水に足をとられて中々体を起こせない。
 頬が強ばり、固唾を飲む。握り締めた手が汗ばむ。水位はすでに膝の位置。これ以上浸水すれば、体の自由が利かなくなる。そして、すぐにも増水する。
 堀の先──水流の終わりは国境の河川、合流地点は断崖だ。すべり落ちれば、命はない。
 土手から次々手が伸びて、もがく腕を引っつかんだ。
 三人がかりで、土手の上へと引きずりあげる。頭からずぶ濡れの軍服が、命からがらすがりつく。
 ダドリーは震える息を細く吐いた。
「……お、脅かすなよ」
 青い軍帽が波間でもまれ、外壁の裏手へと流されていく。
 背中で壁をすりながら、回廊の石床に座りこんだ。嘆息した視界の隅で、連れの足がそれぞれ身じろぐ。
 外堀を覆う奔流の音が、夏の青空にとどろいていた。気だるい腕をもちあげて、ダドリーはようやく顔をぬぐう。
「どうにか、なったか……」
 街壁からの侵入は食い止められた。気がかりだった国境も、すでに橋をあげてある。外部への通路は、どちらもふさいだ。あとは秘書官を拘束するまで、どうにかして時間を稼いで──
「あそこに、なんかいるな」
 ふと、ダドリーは顔をあげた。
 声はカーシュだ。回廊の逆方向を振り向いて、顔をしかめて目を凝らしている。国境のある方角だ。
「なに。どうかした?」
 焼けた石床に手をついて、ダドリーは気だるく立ちあがる。カーシュが眺めているのは川向こう──つまり隣国シャンバールの、街道先の森林の縁だ。
 カーシュは眉をひそめて顎をなでた。「帝国兵だな。山のふもとで駐留している」
「軍隊?」
 意味が分からず、ダドリーは面食らって見返した。「けど、今は情勢が不穏で、軍卒は中央に集まってるんじゃなかったか?」
「そのはずだ」
 ぶっきらぼうにギルが言う。アスランも肩をすくめて同意した。「現にいなかったよ、トラザールに傭兵は」
 ダドリーは首をかしげ、ふと気づく。
「ああ、でも、帝国の兵がいても不思議じゃないのか。国境付近は帝国側の領分だもんな」
 いや、とカーシュは苦い顔で首を振った。
「帝国があの位置に、部隊を配置する必要はない。同盟との境は山岳で、境を接していないからな。大体、帝国の根拠地は向こうの大陸の西端で、カレリアとの国境は、そっちの方とは真逆の東。部隊がいること自体、不自然だ」
「けど、現にああして──」
 ダドリーは戸惑い、対岸の山裾の森林をながめた。部隊の監視対象が、敵対している同盟というなら合点がいく。だが、そうでないなら、目的はこちら──このトラビアということになる。
 だが、それはありえない。隣国はカレリアの友好国だ。長らく平穏につき合ってきた。ならぱ、国境の封鎖が長びいたことで、様子を見にやってきたのか? いや、確認する程度なら、わざわざ部隊が出向かずとも国境警備隊で十分だ。そもそも、国境を封鎖するというのは、さして珍しいことではない。「頻繁に」というほどではないにせよ、それぞれの国内事情でままあることだ。
 ならば、部隊が駐留する理由はなんだ? 事件も抗争も起きていない。軍が出張るほどの理由など──
 頭上で、鋭く風が鳴った。
 昼のトラビアの街並みを、黒い影が素早く飛び去る。
 とっさにダドリーは息をつめた。鳥かと思ったが、そうじゃない。
 一拍遅れて、その正体を認識する。今のあれは、
 ──矢。
 一同、外壁に飛びついた。
 壁の狭間からうかがえば、先の兵が地上に広がり、一様に弓をつがえている。
「ふ、伏せろ!」
 回廊がどよめいた。
 壁下の地上から放たれた矢が、回廊にいる者を倒すことは可能だ。それはギルが、あの刺客で実証している。
 固い石壁に張り付いて、ダドリーは首をすくめる。不穏な唸りをあげながら、矢が頭上を飛び去っていく。石壁の狭間から飛び込んでくる。壁に弾かれる硬い音──。外堀をふさがれた仕返しか。 
 鋭い飛矢の隙を見て、守備隊たちが応戦した。
 だが、回廊にいた数人だけでは、対抗するにも射手が足りない。壁への侵入が発覚した際、応援を呼びにやっているが、回廊は長く、仲間が集う門までは遠い。
 頭上を飛び越す矢の雨を、ダドリーはやきもき見送った。矢が当たらないからといって、安心することなどできなかった。むしろ、回廊の狭間に隠れた者を、遠くから射抜くとなれば至難の業だ。そんなことより、本来の的を外したあの矢は、ことごとく街に・・降り注いでいる。まだ暑い盛りで人通りはないし、店舗のない外壁付近は、日頃から人けのない場所ではあるが、今、まさにこの時に、無人であるとは言い切れない。
 唇を噛みしめ、街の物音に耳を澄ます。誰かの悲鳴が聞こえやしないか。子供の泣き声が聞こえやしないか──
 はっとして顔をあげた。
 肩に、誰かの手の重み。振り向いた左の視界に、金茶の巻き毛が進み出る。
「任せろ」
 ダドリーは怪訝に横顔を見る。「いや、任せろって──あんた一人で何する気?」
「ま。見てなって」
 石壁に背をつけて隠れつつ、アスランは片目をつぶって身をよじった。
 左の腰の辺りから、茶色い革の袋を取り出す。紐を引き、こぶし大の袋をひらいて、片手を突っこみ、中のものを鷲掴む。
 位置を確認するように、地上の弓兵をながめやり、すっ、と横顔で目をすがめた。
 その唇が、何かをつぶやく。
 聞き取れないほどの小さな声。誰かに何かを命じるような。深く、音のない祈りのような。
 拳にした手をひらき、手の平のそれを、ふっと吹いた。
 アスランの手から舞いあがった何かが、たちまち夏空に拡散していく。細かく、黒っぽい、何かの粉だ。
 地上に散った軍服たちが、一斉にくしゃみをし始めた。
 誰も彼も体を震わせ、何度も身を折り、目をこすっている。あぜん、とダドリーはアスランを見、地上の兵を指さした。「何まいたの?」
 おかしそうにアスランは笑った。
「ちょっと、胡椒をね」
 ちら、と横顔で一瞥する。
「見ての通り、効き目は抜群。ね?」
 身じろぎ、狭間に腕を置き、楽しげに地上へ声をかけた。
「懲りたら、もう来ない方がいいと思うよ? ほら、今みたいに踏み荒らせば、胡椒がたちまち舞いあがるからね。で、君たちはこんなふうに、散々な目にあうことになってる」
 地上のあわただしいくしゃみの中から、兵の怒鳴り声がした。「そ、そんなこと、誰が決めた!」
「俺が決めた」
 アスランはそっけなく一蹴し、さばさば笑って振りかえる。
「これで、しばらくは寄りつかない」
「……あ、ああ。そうだな」
 ダドリーはあっけにとられてアスランを見、絶句の視線を壁下に戻した。「あ、いや、けど、なんで、あれ、あっちだけ?」
 回廊でくしゃみをしている者は、一人もいない。
 今のは何かの見間違いだろうか。空に舞ったあの胡椒が、地上にいる弓兵めざして、まっすぐ向かっていったように見えたのは。そして、体にまとわりついたように見えたのは。アスランが何かをつぶやいたあの時、彼の巻き毛が黄金にかがやき、風が立ったように見えたのは。
「胡椒か。なるほど。考えたな」
 騒がしく退却していく部隊を見やって、カーシュが身じろぎ、顎をなでた。「あれじゃ身動きとれねえな。それにしても──ずいぶん大ごとになっちまったな」
 顔をしかめて蓬髪を掻き、途方に暮れたように視線をめぐらす。
 深く広い水堀が、街の外壁をとりかこみ、真夏の日ざしに輝いていた。楼門も国境も封鎖して、すっかり外界から孤立した。
 アスランが笑って石壁にもたれ、思わせぶりに片目をつぶった。「そんなこと聞いたら、嫁さんが飛んでくるんじゃないの? 新婚なんだろ?」
「冗談じゃない!」
 とっさにダドリーは吐き捨てた。
「それじゃあ、俺はなんのために・・・・・・──!」
 はっとして口をつぐんだ。
 気づいて連れに顔をあげれば、皆あぜんと絶句していた。いつも無表情なギルでさえ、少し気圧されてでもいるような面持ち。
 ばつ悪い思いで目をそらす。「──あ、いや、ごめん。なんでもない」
「へえ」とアスランが片眉あげて身じろいだ。
「あんたでも、あるんだ。怒ること」
 うかがうような揶揄まじりの視線は、いつもはヘラヘラしてるのに、と言いたげだ。
 ダドリーは顔をしかめて踵を返した。「──悪い。先に降りてるわ。ここはしばらく大丈夫だろ?」
 階段のある円塔へ、真昼の回廊を足早に向かう。背を向けた肩越しに、アスランの耳打ちが漏れ聞こえた。
(なにあれ。どしたの。突然キレる人?)
 カーシュがそれに何事か応え、ぼやきながら駆けてきた。「たく。なに急にテンパってんだか」
 
 手当てを済ませ、ひげを剃り、ダドリーは街に視察にでた。
 夕陽が照らすトラビアの街を歩きつつ、街路に視線をめぐらせる。領民の様子が気にかかる。
 街に出てきた市民たちが、戸惑ったようにそぞろ歩いていた。閉じた古い楼門を見やって、どの顔も困惑しきりだ。
 ディールが軍を動かして他領の首都に侵攻した際、彼らはまるで無関心だった。領家に意見はできないにせよ、抗議も非難もしなかった。ただ淡々と彼らの日常を営んでいた。まるで何もなかったように。いわば対岸の火事だったのだ。むしろ、ほくそえんでいたかもしれない。ディールがラトキエを膝下に置けば、あわよくばトラビアの住人が、他の領民の優位に立てる。つまり、黙認するだけで、労せずして豊かな暮らしが手に入る。
 彼らはこたびの領家の所業を、決して非難してはいなかった。むしろ消極的に肯定さえしていた。少なくとも、ディールの他領侵攻を知っても、大挙して引っ越した事実はない。
 だが、誰もが勝利を確信していた商都に対するディールの奇襲は、終盤でとんだ狂いが生じた。商都の包囲に向かった部隊が、なぜかラトキエに寝返ったのだ。
 そうなると、領民の立場は、いささか微妙なものになる。高みの見物を決め込んでいたこのトラビアの領民は、急転直下、紛争の当事者になってしまった。その上、深刻な問題がもう一つある。
 トラビアの住民の構成は、国境業務に携わる者と貿易商の家族が大半だ。他には商人、代々土地で暮らしてきた者などが占めている。国軍の本部が付近にあるが、街から少し距離があるため、兵士の家族の大抵は、国軍本部により近い小さな町に居住している。つまり、軍兵にとってトラビアは、我が家のある街ではない・・・・・・・・・・・。トラビアの街を攻撃するのに、彼らに躊躇する理由はない。
「それにしても意外だったな」
 まばらに行き交う雑踏の中、不審者に目を光らせながら、カーシュが呆れ気味に言葉をほうった。
「お前がそんなにガキ好きだったとはよ」
 又も刺客に狙われたため、以来ぴたりと張り付いている。横を歩く赤髪に、ダドリーは肩をすくめる。「だって、まさか、コリンを突き出すわけにはいかないだろ」
「それだけじゃねえだろ、ガキ絡みは」
 カーシュは白けた顔で一瞥した。
「たく。らしくねえだろ。ラトキエ見捨てたご領主さまがよ。そもそもなんで、こんな面倒に巻き込まれたと思ってる」
 しかめっ面で、赤い蓬髪をがりがりと掻く。「まったく、思いもしなかったぜ。ガキなんぞかばって投降するとは」
「いや、あれは、あの子の髪型あたまが──」
「アタマ?」
 歩きつつ、カーシュが聞き咎めた。
「……あ、いや、悪かったよ、迷惑かけて。けど」
 怪訝そうな顔に気がついて、ダドリーはもそもそ目をそらす。「俺はただ、あいつのことを──」
 隠しに突っ込んだ手の中で "それ"の存在を意識する。手に馴染んだ硬い感触。彼女にもらったあのペンの。
「──俺は、ただ」
 息を吐いて言い直し、ダドリーはそっと微笑んだ。
「あの子を、巻きこみたくなかったんだよ」
 
 
 

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