interval〜布石〜
書類を広げた執務机で、ラルッカは首を振って嘆息した。
視線の先は、開封済みの茶封筒。三つ折りにした便箋が、その横に放り出されている。
徹夜あけで戻った机に、いつの間にかあったのだ。封書の中身は、無地の便箋。文面は短く、ぶしつけで、差出人の署名さえない。
不審な書状は、こんな一文で始まっている。
『 誰か忘れちゃいませんか 』
揶揄まじりの書き出しを見据えて、ラルッカは苦虫かみつぶした。そんなことは、わかっている。得体の知れないこんな輩に、指図されるまでもない。だが、わかってはいても、身動きがとれない。
かの地トラビアで囚われたクレスト公の苦境について、門閥会議で訴えた。
だが、危急の進言は容れられるどころか、トラビアへの派兵が決定した。
一笑に付した筆頭はゲーラー侯で、列座した古老もそれにならった。
そして、座長アルベールは、重大な進言を斥けた。病に倒れた当主に代わり、長の席に就いた次代の主は、多数の意向に配慮したのだ。
巨大な壁を前にして、敗れ去った恰好だった。ことごとく対立したゲーラー侯は、日頃からしのぎを削る門閥の一、つまり、覇権争いの弊害が出ていた。だが、巻き返しを図ることはおろか、身動きもとれない状況だ。
職務に忙殺されていた以前にも増して、ラルッカは多忙を極めていた。
少しでも時間を作るべく、執務室に併設された仮眠室で泊りこみ、連日職務に邁進するも、やれどもやれども終わりが見えない。
理由をつけて脱出することも考えた。だが、それを強行したとして、その先に進むには又別の、特別な手続きが必要になる。自身が身を置くロワイエ家は、重臣とはいえ臣下の一、この関門を突破するには、特別な書類が必要だ。正当な用件を明記した、宗家発行の許可証が。
申請書は用意してある。だが、却下は目に見えている。
「──どうしたら、通る」
組んだ両手に額を押しつけ、ラルッカは苛々と眉をしかめる。何か手立てはないものか。アルベールが決裁せねばならない理由が。こうして手をこまねく間にも、残り時間は過ぎていく。トラビアで囚われたダドリーの立場は、そうなれば、ますます苦しいものに──。早くしなければ、打つ手がなくなる。当主代行アルベールが、この商都を発ってしまう──。
トラビアへの進軍は、図らずも延期となっていた。
御旗を掲げる宗家の当主は、開国祝賀の祭典で挨拶をする習わしだが、それに前後し、予期せぬ事件が立て続いたのだ。
それは、衆人環視の北門通りで、衛兵が手配犯を刺殺する、という前代未聞の不祥事だった。
次いで、わずか数時間後に、トラビア街道沿いの南の森で、多数の遺体が発見される、という衝撃的な事件が発生。どうやら与太者の抗争らしいが、その膨大な遺体の中には、それに巻き込まれてしまったらしい隣国の商人の遺体があった。しかも、まずいことに商人らは、商都の市場の一角を占める一大勢力ラディックス商会の関係者と判明。代表直々に抗議に現れ、大変な騒ぎとなっていた。北門通りの刺殺事件についても、事件を目撃した市民が殺到、役所は対応に追われている。
華やかな建国の催事の陰で、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。だが、市民に人気の宗家嫡男アルベールが率先して収拾に当たり、なんとか収束しつつある。
それを受けてアルベールは、再び出立準備を始めていた。同時にそれは、開戦までの貴重な時間が、いよいよ残り少なくなった事を意味している。
今朝方届いた不審な書状を、ラルッカは苛々と一瞥する。
書状の要点は簡潔だった。
── この未曾有の騒動を、処決できる人物が、この国には一人だけいる。
だが、国王に直訴に及べば、その責任は免れない。ことによれば、懲罰もありうる。だが、進軍を止める手立てが他にない──。
八方ふさがりに顔をしかめ、ラルッカは拳で机を叩く。それにしても、不可解だった。王都に動きは、未だない。あのディールの急襲で、商都はこれほどの騒動というのに、王都は沈黙を守っている。合理的な理由は、一つしかなかった。
王都に、報告が届いていない。
そして、王都への上申は、筆頭領家ラトキエの務め。つまり──
「……どういうつもりだ」
握りしめた拳をひらき、ラルッカは指先で机を叩く。
つまり、ラトキエが意図的に情報を差し止めている、そうとしか考えようがなかった。確かに、我が身の不祥事など、あえて公表したくはない。だが、王都に伏せるには、事はあまりにも重大で──
はっと、ラルッカは目をみはった。そう、事はあまりにも重大だ。だが、それを上回る事情があったら──。情報を遮断したその意図が、別のところにあるのだとしたら──。
にわかに悟り、息を飲む。
「まさか……」
見開いた目が、狼狽に揺れる。胸が暗くざわめいた。もしや、彼の、宗家嫡男アルベールの目的は──
組んだ両手に、祈るように目を閉じた。「……早く、手を打たなければ。さもないと、ダドリーが」
──潰される。
コツコツ、廊下で音がした。
廊下を叩く硬い靴音。女性のヒールだろうか。
いや、とラルッカはいぶかしく思う。政務棟に女性はいないだが──。
ばたん、と扉がぶしつけに開いた。
驚いて、ラルッカは目をあげる。ノックもせずに、あけるとは──。
叱責を込めて戸口を見、とっさに戸惑い、絶句した。
「……どうして、君が」
思いもしないその顔が、眉をひそめて立っていた。
何者にも屈しない凛とかがやく大きな瞳。白い肌に薔薇色の頬。見る者誰もが振りかえる人形のように整った顔立ち。高価な服をまとった肩には、手入れの行き届いた栗色の巻き髪。常に背筋をまっすぐ伸ばし、誰からも目をそらさない──。
ぞろぞろ男たちが後に続いた。
十人近くもいるだろうか。みな、胴を布でくくっただけの特徴的ないでだち──確か、南海レーヌの漁師が好む「着物」と呼ばれる民族衣装だ。
その中に、見知った顔がいくつかあった。こざっぱりと短い白髪まじりの頭髪、あのあごひげの壮年は、漁港レーヌの元締めオーサー。そして、顔が隠れるほど前髪の長い、色の抜けた薄い茶髪は、彼の養子のアルノーだ。
思わぬ面々に言葉を失い、あぜん、とオーサーの顔を見る。
オーサーが面目なさそうに頬を掻いた。「すまねえなあ。行くって、きかねえもんだから」
「──頼みますよ、オーサーさん」
ラルッカは脱力の溜息で顔をしかめた。クレストの婚儀に出席した帰途、漁港レーヌに立ち寄った彼女について「面倒をかけるが、よろしく頼む」と彼に手紙を送っている。
その当のエルノアは、両手を腰に足を踏ん張り、咎め立てるような目を向けている。
山積みになった書類の片隅、狭間に積まれた封書の山を、ラルッカは溜息で一瞥した。それは彼女からの手紙の束、半分以上は未開封だ。内容は、行く先々から書き送ってきた近況。投宿先の住所つきの。
つまり、彼女は、なぜ迎えに来ない、と怒っているのだ。
令嬢の毎度のわがままに内心辟易としながらも、彼女を説得すべく腰をあげた。「すまない、エルノア。今日は帰ってくれないか。今はとても、君の相手をしている暇は──」
「ラル。話があるの。よろしいかしら」
にこりともせずエルノアは、つかつかヒールで部屋に踏みこみ、ほっそりとした腕を組む。
ラルッカは苛立たしい思いで嘆息する。「だから無理だと言っている。職場には来ないよう、いつも言っているだろう。なぜ、大人しくしていてくれないんだ」
「──そう頭ごなしに言ってやるなよ」
オーサーが見かねて割りこんだ。
「忙しいのは分かるがよ、これでもずい分我慢した方だぜ。ああ、いじらしいほど待っていたさ。レーヌでずっと大人しくしてたよ。けど、あんたが迎えに来ねえから、商都の正門くぐれなくってよ。それで、本場のミモザ祭まで見に行く始末よ。ま、お陰でこっちはいい思いさせてもらったが。しかし、ご令嬢ってのは、さすがに違うな。宿を丸ごと貸しきって、宴会三昧ってんだから」
「申しわけない。今は仕事が立て込んでいて──。話はまた、別の機会に──」
言いかけ、はっと動きを止めた。
視線をめぐらせ、エルノアを見る。
押しやられた椅子が、けたたましく鳴った。
床に倒れた椅子に構わず、彼女に向かって大股で歩く。
とっさにたじろいだ細い肩を、ラルッカは強引に引っかかえた。
「──ちょ、ちょっとラルっ!?」
ぎょっ、とエルノアは顔を見上げて、あわてて手を突っ張った。
「何するのっ! こっ、こっ、こんな所で! ひっ、ひっ、人が見て──っ!」
壁で見ていた男たちが、あんぐり一斉に乗り出した。
抱きすくめられたエルノアは、真っ赤な顔でもがいている。がむしゃらに手足を突っ張るが、構わずラルッカは掻き抱く。香りの良いしなやかな髪に、細い肩に顔をうずめて。
戸口付近の男たちは、言葉もなく固まっている。ごくりと唾をのんだそれぞれの目は、若い二人に釘付けだ。
壁にもたれた薄茶の髪が、着流しの腕をゆるりと解いた。
この急展開にも一人だけ動じなかったアルノーだ。もたれた肩を壁から起こし、隣の袖を、くい、と引く。
「お暇しましょう。野暮ですよ」
目配せした扉の向こうに、大型のソファーと寝乱れた毛布。
「お?──おっ、おっ、おう!──おうっ!」
遅まきながら、はたと悟って、オーサーがあわてて目をそらした。
「すまなかったな、送り届けるのが遅くなっちまって。──あ、いや、そんなに帰りを待っているとは、思いもしなかったもんだから。ま、あんたもいい若いもんだ。許婚が戻ってくりゃ、早いとこしっぽりってのが人情ってもん──」
「それじゃ、俺らはこの辺で」
アルノーが軽く頭をさげ、そつなく話を切りあげた。
「積もる話もおありでしょうから、こっちのことはお構いなく。そこらの茶屋にいますんで。用があれば寄ってください」
着流しの裾を無造作にさばいて、連れを廊下へ追い立てる。
名残惜しげな様子ながらも、一同ぞろぞろ部屋を出て行く。
西日射しこむ執務室に、抱き合った二人が残された。
ひっそりと薄暗い玄関ホールを通りすぎ、政務棟から歩み出た。
石畳の人けない街路は、もう夕焼けに染まっている。
カツン──とヒールの足を止め、エルノアは眉をひそめて振り向いた。
後にしたばかりの執務室の窓には、もう灯かりが点っている。窓辺で動く人影を見つめ、ぎゅっ、とかたく手の平を握る。
手入れの行き届いた長い髪を、振り払って背を向けた。
カツカツ硬い靴音が響く。きつく口を引き結び、人けない行政街区を、南へ進む。
街路樹の続く石畳を、エルノアは苦々しく睨めつけた。今朝方、門前に現れた、不遜なあの男を思い出す。
連れの彼らと三日三晩豪遊した後、ようやく商都に戻ってくると、執事が一報を持ってきた。
それはとんでもない内容だった。
彼らと寛いでいた自宅の居間から、あわてて外へ飛び出すと、門柱を過ぎた塀の日陰に、あの男がもたれていた。軍人を思わせる身形の男だ。はき古した細身のズボンに、年季の入った黒革の編み上げ靴。痩せ型で短髪の、左の耳には黒いピアス。
『 あんたに頼みがあるんだがな 』
あのふざけた不遜な男は、上背のある背をかがめ、薄笑いで切り出した。
『 ちょっと彼氏に、抱かれてきてくんねえか 』
ぶしつけさに顔をしかめ、やり過ごそうとした矢先、一言で足を止めさせた。
『 ダドリー=クレストを知っているか 』
終始、男は薄笑いを浮かべ、だが、茶色の瞳でじっと見つめて、噛んで含めるように淡々と話した。
両手は隠しに入れたまま、指の一本も触れることなく。そう、何も強制されてはいない。だが、気づけば言いなりになっている。
不思議なほどに命令し慣れた口振りだった。そう「頼みがある」とは言いながら、それは命令そのものだ。
見知らぬ男の言うことなど、聞いてやる義理はなかったはずだ。無視して通りすぎても良かった。だが、逆らうことが、なぜかできない。するりと男は反感をかわして、いとも簡単に言い包めてしまう。
一通りの話が済むと、男は不満を見透かしたように目をすがめた。
『 なに、あんたは言う通りにすればいい。すべきことは、全部彼氏が知っている 』
西日射しこむ執務室。
礼儀正しいラルッカの、常ならぬ無礼な振る舞い。そして、耳元で聞こえた密かな囁き。
『 ──君に、頼みたいことがある 』
細い眉をきゅっとひそめて、エルノアは唇を噛みしめた。彼の頼みを聞いたなら、大財閥の娘とて、ただで済むとは思えなかった。冗談などでは済まされない。いや、今や事の是非ではない。問題は間に合うかどうかだ。
「──わたくしに、できないことなど、なくってよ」
夕陽の街路を、エルノアはじっとねめつける。
君に、頼みたいことがある。
君にしか、頼めないことなんだ。
声をあげたり、反問しないで、注意深く聞いてくれ。
何があっても、信じて欲しい。
今は、俺だけを信じて欲しい。
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