書類を広げた執務机を、指の先でそわそわと叩く。
 やはり、身が入らない。
 首尾がどうにも気になった。彼女はうまくやれるだろうか。いや、気をもんでも仕方ない。事態はすでに動き出している──。
 首を振り、眉をひそめて息を吐く。
 窓辺の大振りな机から、未決書類を取りあげる。今朝から何度、同じことを繰り返してきたかわからない。だが、今は吉報を待つしかない。気を取り直し、手元の書類に目を落とす。
 ふと、ラルッカは顔をあげた。
 通風のため開け放っていた扉の向こうで、人影が足を止めたのだ。
 きちんと身形を整えた、すらりと品の良い青年だ。落ち着いた佇まい、秀麗な面差し、その頭髪と同色の、はしばみ色の理知的な瞳。
「──これは」
 目をみひらき、ラルッカは椅子から腰を浮かせた。「──アルベール様」
「ああ、かけたままで構わないよ。すぐに戻らなければならないんだ」
 笑みを浮かべて軽く手をあげ、彼はそれを押しとどめる。「時間がなくてね。そろそろ発たねばならないから」
 人けない執務室に視線をめぐらせ、ゆっくり足を踏み入れる。
「……そうですか。それでは」
 困惑しながらも腰を下ろし、ラルッカは机で指を組んだ。「どうなさいました。何か急なご用でも」
 現れたのは、ラトキエ領家、宗家嫡男アルベール。彼が忙しない現場に顔を出すのは、珍しいことだ。
 室内を眺める視線を戻して、アルベールはおもむろに切り出した。
「実は、そろそろ身を固めようかと思ってね」
「──それは、おめでとうございます」
 思わぬ話に一瞬つまり、だが、ラルッカはそつなく微笑を返す。意外な話だった。彼は妻を娶ることを、ずっと渋っていたと聞いている。
「それで、君に許しを得たいと思ってね」
「──私に?」
 面食らって相手を見返す。
 部屋をながめた視線を戻し、アルベールはおもむろに振り向いた。
君の大事なもの・・・・・・・を取りあげるような真似は、僕もしたくはないんだが、父の容態が思わしくなくてね。せめて意向に沿えればと」
 言葉の意味をにわかに悟り、ラルッカは顔を振りあげた。「しかし、エルノアは、私の──」
「不満だろうね、君は」
 思わぬ真顔と目がかち合い、ラルッカはとっさに言葉を呑む。
 戸惑いがちに目をそらした。「──存じあげませんでした。アルベール様がエルノアに、ご関心をお持ちとは」
「いや、そういうわけではないんだが」
 どこかそっけない口調で、アルベールは続けた。「だが、父の意向ではね」
「──しかし、アルベール様」
「当家の更なる繁栄を、慮ってのことだろう。君も家門の一員ならば、ここは呑んでもらいたい」
 強い直視から目をそらし、ラルッカは視線をさまよわせる。
 不意打ちの、予期せぬ話に困惑していた。言葉を探し、あえぐようにして口から押し出す。「しかし、なにも彼女でなくても──アルベール様のお相手ならば、ふさわしいご令嬢が他にも大勢いらっしゃいますでしょう。こう言ってはなんですが、エルノアの家格では、宗家との釣合いがとれませんし」
 彼女の身分は貴族階級ではない。生家は確かに富裕層だが、無位無官の一市民だ。
 アルベールはゆるやかに腕を組む。
「彼女の生家ドゴール家は、カレリア随一の大財閥だ。その令嬢を、家門に加えることには意義がある。それがわからぬ君ではあるまい?」
「しかし、彼女の奔放な性格は、宗家の家政を任せるには不向きではないかと」
「──あの父君は甘いからな」
 何を思い出したのか、アルベールは苦笑いした。「さぞ、わがまま放題に育てたのだろう。だが、これからは僕が・・許さない」
「承諾しましたか、エルノアは」
 たまりかねて押し出した言葉は、挑みかかるような調子になっていたかもしれない。
 くすり、と困ったようにアルベールは笑った。
「許しを求める必要が?」
 はしばみの瞳で、傲然と見返す。
 ラルッカはあぜんと言葉を呑んだ。いや、商都を治めるラトキエ領家を相続し、次期当主の座に就くだろうこの彼と、一金満家の娘とでは、いや、その父親であったとしても、初めから力量が違いすぎる。
 相手の沈黙を見てとって、アルベールは冷ややかに一瞥をくれた。
「彼女には、当家に来てもらっている」
 ガタン──と椅子を大きく鳴らして、ラルッカは思わず立ちあがった。「……今、なんと」
「聞こえなかったかい? 僕のところにいる・・・・・・・、と言ったんだ」
 絶句でその場に立ち尽くす。だが、彼女とは、つい昨夜、顔を合わせたばかりではないか──。我知らず、疑問が口をついた。「……一体、いつ」
「昨夜は共に過ごしたよ」
 試すような視線を向けて、ちら、とアルベールは思わせぶりに見る。「まあ、多少はてこずったようだけれどね」
 ラルッカは二の句が継げず立ち尽くした。つまり、あの後──政務棟から外に出てすぐ、連れ去ったということか。だが、矜持の高い彼女のことだ。大人しく言いなりにはならなかったろう。突然自由を奪われれば、驚いて怒り、暴れたはずだ。とはいえ、しょせん女の細腕、できることなど高が知れている。
 抵抗むなしく引きずられる彼女の様が脳裏をよぎり、ラルッカは痛ましさに眉をしかめる。
「帰せ、とわめかれて往生したが、今も、僕の部屋にいるはずだ」
 浅い溜息で、ラルッカは尋ねた。「……閉じこめている、ということですか」
「安心したまえ。誰も彼女を手荒く扱いはしないはずだ。すぐに・・・主人になるのだから」 
 はっとラルッカは顔をあげた。「──それは」
「トラビアが片付き次第、挙式する」
 はしばみの瞳が直視していた。決定事項を告げるように。
 ラルッカは戸惑い、目をそらす。「──ずいぶん急なお話ですね。しかし、なぜ、この時期に。とかく今は立てこんで」
「わからないかい?」
 思わせぶりにアルベールは笑った。
今だから・・・・だよ」
 皮肉な笑みで言い置いて、さばさばと振りかえる。
「それに、こうしたことは早い方がいい。ああした強情な姫君には、一から躾けが必要だからね。ゆくゆくは当主の母にもなるのだから、いつまでもお嬢さま気分でいられては困る」
 うっすら微笑った頬を引き締め、改めてアルベールは目を向ける。
「君に異存は?」
 刺すような視線を無言で見返し、ラルッカは顔をしかめて目をそらした。
 窓に視線をめぐらせて、よく晴れた夏の空をながめやる。
 風が、髪をかすかに揺らした。降るような蝉の音に聞き入り、降りそそぐ夏日に目を細める。
 ラルッカは軽く身じろいで、ゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ。アルベール様。私に異存など、あろうはずもございません」
 ほんの束の間、アルベールは形の良い眉をひそめた。
 苛立たしげな憤怒が、目の内によぎる。だが、彼は静かに微笑んだ。
「それはよかった。君は実に聞き分けがいい。実のところ、難色を示されるかと危惧していたが、どうやら、それも杞憂だったようだ。トラビアへ発つ前に、君の許しを得られてよかった」
 はしばみの瞳でじっと見つめ、踵を返して扉へ向かう。「仕事の手を止めて、すまなかった。職務に戻ってくれたまえ。──時にラルッカ」
 思い出したように足を止め、その背中で言葉を続ける。
「君の聡明さは理解している。不正を許さぬ志の高さも、的確で迅速な処理能力も、鷹揚な一門には得難い資質だ。だが」
 よどみなく言い置き、肩越しに一瞥をくれた。
「過ぎたる賢しさは、身を滅ぼす。才気走ると危ない・・・よ?」
 ラルッカは息を詰めた。
 不意の警告に頬が強ばる。アルベールは背を向けて歩き出し、その後ろ姿が廊下に消えた。
 足から力が抜け落ちて、へなへなと椅子に腰を下ろす。
 座面の端をつかんだ指が、ほんのわずか震えている。怖気はにわかに腕を伝い、またたく間に首筋へと達する。
「──甘く、みていた」
 歯を食いしばって呻吟し、ラルッカは拳で天板を叩く。出し抜いたつもりが見抜かれていた。いや、あの聡いアルベールが、それに気づかぬはずがないではないか。誰もが容易に思いつく、この国の王への直訴に。
 朗報を待ちわびた今朝方とは、今やすべてが逆転していた。手の内には、もはや何の策もない。考えうる限り、これは最上の策だったのだ。だが、それでも容易く絡めとられた。これで切り札も封じられた。いや、失ったものは、友を救出する機会だけではない。
 暗い地の底を這うように、自覚がざわざわと押し寄せた。
「……エルノア」
 愕然と震撼し、手の平で額をのろのろとつかむ。
「──すまない」
 苦悶が、奥歯からこぼれ落ちた。伴侶に頓着せぬことは知っていたが、よもや、そんな手を講じようとは。
 悔やんでも悔やみきれない失態だった。
 この嵐が去った後には、一身に責任を負うつもりだった。だが、彼女を危険にさらしたのみならず、その未来も、自由をも、すべてこの手で奪ってしまった。挑む相手を・・・・・間違えた・・・・からだ。
 不審な書状に惑わされ、冷静な判断を欠いていた。あの挑発に踊らされ、次の一歩を踏み違えた。──だが、とラルッカは眉をひそめる。
 釈然としない。
 確かに、直訴を画策した。伏せた実情を暴露するのは、一門の利にも反しよう。とはいえ、あの反撃は、いささか過剰で感情的だ。
 そう、彼が持ち出したエルノアとの婚儀は、どう考えても、この件には不要だ。発覚を仄めかして釘をさし、計画中止に追い込めば、それで十分な効果はあがる。というのに、なぜ、わざわざ、そんな真似を──。
 エルノアとの婚儀について、理由をいくつかあげていたが、つまるところ後付けだ。彼は親の意向に逆らえぬような、従順な腰抜けなどではない。これまでも縁談は多々あれど、諾々として従いはしなかった。容態悪化に歩調を合わせ、折れてやるような男でもない。
 とはいえ、穏やかな気質のあの彼が、エルノアに関心を寄せていたとも思えない。顔を合わせる機会はあれど、二人の間に接点はなかろう。むろん、そつなく相手はするだろうが、互いに関心をもつ先が違いすぎる。だからこそ、油断していた感が否めなかった。万一、事が明るみに出ても、彼女に目が向くことはなかろうと。使われただけの彼女の身に、累が及ぶことはない、そう高をくくっていたのだ。最悪の場合でも、咎は我が身一つで食い止められると。
 だが、アルベールはそうしなかった。
 エルノアの身柄を速やかに押さえ、自らこちらに出向いてきた。それを殊更に知らしめるために。彼女の自由を将来にわたって奪いとり、仲を永久に引き裂いたことを。
 ざらり、と底のない悪意を感じた。
 そう、これは"悪意"だ。今の手ひどい仕打ちといい、ダドリーへの冷淡な対処といい──。報復の矛先が向いているのは、この身一つに限らない。あのダドリーも同様だ。アルベールは日頃、執務に私情を持ちこまず、何事もおくびにも出さないが、心の深い闇の内で、密かにそれを培っていたのだとしたら──。
 だが、身に覚えなど一向にない。
 彼との付き合いが始まったのは、この職に就いてから、ここ二年ばかりのことになるが、ダドリーをも含めた話となると、この範疇に収まらない。他領を拠点とするダドリーと彼との接点は元より少なく、二人が接触したとすれば、それ以前の、あの夏の日々に──領邸の離れで暮らすアディーの元に集っていた、あの短い期間に限られる。
 その間、同じ敷地内で暮らしていたアルベールと、顔を合わせたことがあったかもしれない。とはいえ、彼は多忙を極め、仲間に加わることは、ついぞなかった。
 だが、何かが、そこであったのだ。今は亡きアディーがいた、あの輝かしい夏の日々に。
「──一体、俺たちは何をした」
 眉をひそめて、卓で手を組み、じっとラルッカは考えこむ。
 開け放った窓の外で、木立が静かにそよいでいた。
 机に広げた書類の端を、夏日が白く照らしている。昼下がりの政務棟は、閑散として音もない。
 微動だにせぬその肩で、午後の木漏れ日が揺れていた。
 
 
 

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