■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部 1章1話27
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少年の日に恋した女を、ずっと憐れだと思っていた。
さらさら梢のささやく木陰で。
柔らかな陽のさす庭の椅子で。
時は淡く、和らいで、そして、知らぬ間に消え入った。
ぼんやりかすんだ記憶の彼方で、まだ、さらさら鳴っている。
あの庭の、緑の梢が。
そっと澄ました耳の奥で。
もう、じきに日が暮れる。
物音がしたから、そろそろ目を覚ましたろう。
ほの暗い廊下の片隅で、カーシュは苦虫かみつぶして紫煙を吐いた。これから気の重い仕事に取りかからねばならない。反抗にあうのは目に見えている。だが、あの頑固なきかん坊を説得する必要がある。
最後の紫煙を外に吐き出し、石造りの窓辺を離れる。
たそがれ始めた廊下を歩いて、通風のため開けはなっておいた、連れの部屋の扉をくぐった。昼の暑気の名残りをさらって、窓からの夕風が吹き抜ける。
部屋には、闇が忍び寄っていた。
寝台の置かれた黄昏の窓辺で、連れは半身を起こしている。北方を治めるカレリアの領主、ダドリー=クレスト。今回の行程の保護対象だ。
すべての境が溶け出した、輪郭があいまいになる夕刻に、横顔が白くまぎれていた。身動き一つすることなく、自分の膝を見つめている。眉をしかめた深刻な面持ち。一体何を考えているのか──。
カーシュはぶらぶら寝台に近寄り、どさり、とザックを床に置いた。
物音で、ようやく気づいたらしい、癖っ毛頭が顔をあげた。
窓を背にして振り向いた顔が、薄くれの陰にぼんやりと紛れる。表情はよく分からない。だが、今は好都合だ。荷造りしたのは二人分。もう一つは連れの分だ。
水を張ったタライから、浸したタオルをとりあげて、身じろいだ額に押しつけた。「どうだよ、気分は」
「……ん。まあまあかな。たぶん、熱は下がってる」
難なく押し戻された癖っ毛が、そのまま枕に沈没した。
ごろり、と気怠そうに寝転がる。「手間をかけて悪かった。けど、体は大したことない。明日の朝には良くなってるさ」
「そいつは良かった」
仰向いた枕の上で、ダドリーがおもむろに目を向けた。
「俺に話があるんだろ?」
「ああ、そうだ」
薄暮れの寝台のかたわらに立ち、カーシュは静かにその顔を見おろす。「察しのいいお前なら、もう、薄々勘づいてんだろ」
「俺に、コリンを見捨てろと?」
落ち着いた声音で言い置いて、ダドリーは唾棄するように目をそらす。
「できるかよ、そんなこと。コリンはニックの息子だぞ。俺の親友の忘れ形見だ。それを──」
「もう動けやしねえだろ!」
一喝して反論を遮り、カーシュは軽い溜息で仕切り直した。
「そのザマで何ができるってんだ。そんなにぼろぼろで、ふらついてよ。もう立ってるのも、やっとじゃねえか。よくやったよ、お前はここまで。だが、ここらが潮時だ」
「カーシュ──」
「遊びは終わりだ。折り入って、お前に話がある。脱出についてだ」
説き付けようとしていたダドリーが、あっけにとられたように固まった。
「──脱出って」
つぶやき、困ったようにくすくす笑う。
「……なに言ってんの、無理だって。カーシュだって見ていたろ。外には、もう出られない。楼門も裏手の国境も、俺が封鎖したんだぜ。出入り口は他にない。だから封鎖って言うんだろ。それを今更どうやって」
「どうやって商都を出てきたか、そいつを思い出してみな」
商都? と怪訝そうに目を細め、はっ、としたように身を起こした。
「──まさか」
「その、まさかだ」
愕然と絶句したその顔を、真正面からカーシュは見据える。
「お前には今まで黙っていたが、俺たちは脱出し、自国へ戻れる。地下道を使ってシャンバールへ出、外海側から戻りゃいい」
「密入国までしていたのか!」
「お前だから、バラしたんだ」
ぐっ、とダドリーが言葉に詰まった。
眉をしかめて頭を振り、苦々しげに目をそらす。「──他言はしない。可能な限りは。だが、俺は」
「もういい。逃げろ。逃げていい」
カーシュは溜息で先を遮る。
「わかってんだろ。トラビアは孤立無援だ。このままここに居残っても、軍に踏みこまれて、それで終わりだ」
「だが、ネグレスコさえ見つかれば──」
「秘書官は現れねえよ。どんなに手分けして捜したところで、どんなに吉報を待ったところで、奴の方だって逃げてんだ。そう簡単に捕まりゃしねえ。それでこっちは時間切れだ」
「街から、出てはいないんだ」
ダドリーは軽く嘆息し、口を尖らせて目をそらした。「だったら、必ずどこかにいる。この街のどこかにだ。だったら、いずれは」
「もう時間がねえんだよ!」
カーシュは苛ついて未練を断ち切る。
「いつまで、そうしてとぼけていられる。かんかん照りの野っ原で、いつからラトキエが布陣していると思う。いつまでもあのまま動かねえはずがねえだろが。向こうにしてみりゃ、さっさとケリをつけたいはずだ。この日照りの炎天下で、兵卒の消耗も激しいからな。まだ仕掛けてこないのは、単に大将の到着を待ってんだよ。手柄を大将に差し出して、上にゴマをするために。そもそも封鎖が長引けば、街の連中が突出する。あの半狂乱を見たろうが。だが、街には、暴動を押さえる兵さえいねえ。城も街も恐慌をきたして一触即発の状態だ。遅かれ早かれ、いずれ内から瓦解する。門を開けるのは、ラトキエでなければ、あいつらだ」
言葉をきり、改めて相手の顔を見た。
「トラビアは、もうもたねえ。門をあけた途端、こっぱ微塵だ。そうなりゃ、お前はしょっ引かれる。この騒動の首謀者としてな。どう言い訳するつもりだ、他領の領主がトラビアくんだりにいた理由を」
「……なんとしてでも誤解は解くさ。俺はそもそも首謀者じゃない」
「潰されるぞ、お前」
有無を言わさず結論を投げた。
「ここにいるのが見つかってみろ、共謀の容疑がお前にかかるぞ。ディールと組んで国家転覆を画策したと」
眉をしかめた横顔が、夕刻の薄暮れに青白い。その顔がぎこちなく動き、いつものあの笑みを作った。「──やだなー、カーシュ、大袈裟な」
「国家転覆は死罪だろう!」
気配の一切を断ち切って、終焉の静寂が訪れた。
夕雲が赤く染まっていた。西空で不意に鳥が鳴き、山のねぐらへと引きあげていく。
館内のかすかなざわめきが戻る。カーシュは軽く嘆息した。
「わかっているだろ、お前にも。そんなたいそれた事をしでかせば、死刑になるってことくらい。どこの国だって、そこんところの事情は同じだ」
無言の視線は、シーツの下の膝あたり、癖っ毛顔は伏せられて、その反応は分からない。だが、目端の利くこの男なら、とうに勘定に入れていたはずだ。この最悪の可能性を。この地でラトキエに捕まれば、自分の身がどうなるか。おそらくは事の初めから。
廊下に面した木板の扉が、キィ──と夕刻の暗がりで軋んだ。
すっ、と黒が滑りこむ。
夕刻の薄闇に紛れて、しなやかな脚を交互に動かし、黒光りする体が近づいてくる。
軽く伸びあがって寝台に乗ると、ノアールは枕に前脚をかけ、連れのかたわらで脚を折った。
「──おい、猫。どいてろや」
カーシュは小さく舌打ちする。「今、こいつと、大事な話をしてんだよ」
ちら、とノアールが目を向けた。
ふん、と軽く鼻を鳴らして、牙を見せて、あくびする。そのままどっかり、前脚の上にうつ伏せた。興味はない、という顔で。
添い寝の顎を膝にのせられ、ダドリーは苦笑いした。
手の平で包み込むようにして、黒毛の頭をゆっくりとなでる。「こいつが守ってくれるってさ。──なあ、ノアール」
黒く長い尻尾の先が、調子をとるように不規則に揺れる。通じているのかいないのか。
カーシュは舌打ちで吐き捨てた。
「猫に何ができるってんだ。密偵にじゃれつくのとは訳が違うぞ」
相手は一国。一たび罪人と定まれば、この世のすべてが敵になる。
「俺にはお前を、無事に連れ戻す義務がある。それも報酬の内だからな。妙な具合に巻き込まれたが、それも、ここでおしまいだ」
膝で寝そべるノアールを見たまま、癖っ毛頭はうつむいたままだ。しばしカーシュは言葉をためらい、だが、苛立ちにまぎらし吐き捨てた。
「ここから先に進んだら、お前、多分おっ死ぬぞ」
静けさの中、反応はない。
居たたまれなくなり、夕焼けの窓に目をそらす。
「胸の辺りがザワザワすんだよ。なんだか嫌な胸騒ぎがすんだよ。こういう稼業も長くなると、理屈でなく、わかるんだよ。次に誰がくたばるのか。──俺は、お前を死なせたくねえ」
膝で寝そべるノアールに、ダドリーはまだ目を伏せている。
肩で大きく嘆息し、カーシュはたまりかねて振り向いた。「おい、聞いてんのかよ、癖っけ野郎! 帰るんだろう、女房の所に!」
鋭く、ダドリーが顔をあげた。
「おうよ! 帰るさ! 俺はまだ新婚なんだぞ!」
気を呑まれ、カーシュはたじろぎ、口をつぐむ。
不撓不屈の光をたたえて、瞳がまっすぐ睨めつけていた。何事にも揺らがぬ強い意志。覚悟を決めた者だけが持つ──いや、この男は元より、こんな相貌をしていたのではないか? 気安くさばけた笑顔の向こうで。
いささか気圧され、目をそらす。
「──なら、いい。行くぞ。今すぐにだ」
見やった端で、迷いの影が瞳を掠めた。
眉をしかめ、ダドリーがもの言いたげに口を開く。カーシュは声を張って遮った。
「何も言うな! 撤回なんざ許さねえぞ! 首根っこつかんででも連れて帰るからな!」
荷物は、既に用意してある。この連れと二人分。
「いいか、よく聞け。ここの領主には義理もあるだろ。坊主とおっさんを見捨てていくのは、そりゃあ、俺だって胸が痛てえよ。だが、お前も領主の端くれなら、ここはきっちり天秤にかけろよ、てめえの見栄と未来をよ」
動こうとしない理由はわかっている。
コリンとヒースを見捨てていけば、国家転覆の大罪は、彼らが被ることになる。だが、だからといってこの連れが、肩代わりするのは本末転倒、お門違いもいいところだ。何もしていないこの男が、収拾しようと動いた者が、危険を引き受ける筋合いはない。自らの命を賭してまで。
寝台に座った腕をつかんで、カーシュは顔を近づける。
「おっさんに門前で捕まったあの時、勝負はとうについていたんだ。そこで逃げておくべきだったんだ。あの時、俺たちは負けたんだ。お前も潔く負けを認めろ。ぐずぐず引き伸ばして何になる。この先どれほど奔走しようが、秘書官なんぞ現れやしねえ。望みなんざねえんだよ」
「──でも、俺は」
「いい加減に現実をみろ! お前みてえなのを "道化" ってんだよ! てめえのことでもねえくせに、のこのこでしゃばってきやがって。街の連中の反応を見たろう。あいつら、いつか、お前を売るぞ。我が身かわいさに突き出すぞ! 盾になったお前をだ! それでもお前は待つつもりか? 領主のニックは友だちだ? だから、それがなんだってんだ。死人に義理立てして何になる。お前の人生、まるごと死人にくれてやる気か? ああ、ああ、俺だってご免だぜ。お前の酔狂の巻き添えで、こんな所でくたばるのはよ!」
「カーシュ」
すっ、と声が耳に届いた。
決して大声の威嚇ではない。むしろ、静かな落ち着いた声だ。だが、無視することは許さない──。
腕が、静かに引き戻される。
癖っ毛の頭が、顔をあげる。
夕暮れの赤に照らされて、その目が真摯に目を見据えた。
「頼みがある」
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