■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部 1章1話28
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白み始めた平原に、敵の部隊の姿はない。
平原付近の山麓などに、ひとまず引きあげることにしたのだろう。
トラビアの広漠たる平原に、人の姿は認められない。荒れ地は一面、風吹き荒れる砂丘のごとく、薄い土色に煙っている。遠くかすんだ片隅には、小型の竜巻が三つばかり、くるくると蛇のようにのたうっている。
その手前にぽつんぽつんと、赤い杭が立っている。ラトキエが引いた立ち入り禁止の一線だ。これを越えて踏みこめば、埋もれた胡椒が舞いあがり、又も撤退を余儀なくされる。だが、今や気流は、一線を越えた先にある。そう、意図を上まわる光景だ。
石の回廊の狭間から、アスランは苦々しく眺めやり、長いまつ毛を静かに伏せた。
おもむろに開いた唇が、古の呪文を小さく紡ぐ。
薄茶に白んだ回廊が、長くゆるやかに続いていた。見渡すかぎり、人けはない。外壁を守る守備兵たちも見張り塔にいるのだろう、回廊を見回る人影もない。高く鋭い音を立て、風が耳元を往きすぎる。彼方からすばやく流れついた風が、石床をさらって吹きあげる。
ふわり、と髪先が舞いあがった。
金茶の髪が朝日にゆらぎ、火焔のように髪がゆらめく。
「Eloim, Essaim,frugativi et appellavi.」
──我は求め、訴えたり。
瞼がゆっくりと開かれた。
光を残した瞳から、金のゆらぎが消え失せる。
「──だめか」
顔をしかめて頭を掻き、アスランは小さく舌打ちした。蛇はまだ、のたうっている。
砂嵐の光景に、さしたる変化は見られない。いや、今や平原は、昼夜の別なく風にもてあそばれている。
「原因は」
アスランは肩越しに振りかえり、目を凝らすように瞳を細める。
「アレだろうな、やっぱり」
まだ薄青い北西の空に、堅牢な古城がそびえていた。トラビアの領邸、ディールの居城だ。視線を据えたその先は、執務棟に居並ぶ窓の一つ。
ぶらりと肩で振りかえり、苦虫かみつぶして眺めやる。
左右の腕を狭間に置いて、背後の石壁に軽くもたれた。明らかに異常な気象だが、騒ぎ立てる者はいなかった。皆"サージェ"と認識しているらしいのだ。今や外套の別名ともなっている、この時期特有の砂嵐と。もっとも、そんな時期はとうに過ぎ去っているのだが。
ふと、目をあげ、振り向いた。
唇に指を当て、いぶかしげに眉をひそめる。
「──今、何か」
首をかしげ、回廊に視線をめぐらせる。
「何か、そこにいなかったか?」
白み始めた空の下、風雨に褪せた回廊が、長くゆるやかに続いていた。それはひっそりと静まりかえり、やはり、見渡すかぎり人影はない。
身を硬くして気配をさぐり、浅く息を吐き、身じろいだ。
朝の光に手をかざし、アスランは目を細める。「残像かな。いや、案外──」
瞼を閉じて、ふっと微笑う。
「亡霊、とかな」
足を踏み出し、肩をすくめて歩き出す。
白い人影を見た気がしたのだ。何をするというでもなく、風に吹かれて立っていた。透きとおるように儚い姿で。
階段塔から地上に降りて、街壁沿いの日陰を歩いた。二階にある入り口へ、あくびをしながら石段をのぼる。
古城の薄暗い館内は、がらんとして人けなく、しん、と静まり返っている。明け方の広間を突っ切って、執務棟へと足を向ける。朝を告げる鳥の音の中、ひっそりとした廊下を歩き、「封鎖」の張り縄をまたぎ越す。
石造りの城館の、さらに奥へと足を進めた。無人の廊下を長らく歩いて、扉を無造作に押しあける。
黒く長い髪先が、窓からの風にあおられていた。
黒髪踊る向こうには、人の背を越す巨大な黒塊。
「──ああ、ギル。早いな」
いささか戸惑い、アスランは立ち止まった足を踏み出した。この部屋に、連れがいるとは意外だった。黒塊の変化を監視すべく度々足を運んでいるが、今日はいささか時間が早い。
なにやら妙な感じはしたが、術の行使で疲れていたため、特に理由を尋ねるでもなく、ぶらぶら室内に足を運んだ。部屋の中ほどに据えられた、天井までそびえる"それ"を、溜息まじりに仰ぎやる。
ぬらぬらと輝く爪の破片が、今や、七色の光彩を放っていた。
落下の衝撃で割っ欠けた、界主「荒竜」の爪の破片。やはり、活性化している。
「今日はひとり? ノアールは?」
連れの黒豹の姿を捜して、なにげなく視線をめぐらせる。
黒髪踊るその足が、竜爪に向けて踏み出した。
ゆっくり手が持ちあがり、指がぎこちなく伸ばされる。
「──ギル!?」
振り向きざま、アスランは身をひるがえした。
あわてて駆け寄り、肩をつかんで引き戻す。
チリ……と髪先が焦げついた。
引き戻した反動で流れた髪の、竜爪に触れた髪先が。
人形のようだった横顔が、ふと、気づいたようにまたたいた。
硬い面持ちに生気が戻り、人のものらしい表情が戻る。なんだ、というような怪訝そうな顔つき。
あぜんとアスランは竜爪を見、まじまじギルの顔を見た。
「何してんの。捕り込まれるぞ」
ギルはゆっくり手を広げ、我が手に目を落としている。「……俺は、何を」
呆然とした顔つきだ。
「魅入られた、か」
アスランは腕を組み、黒々と光る巨大な竜爪をつくづく見た。「いや、今さらか。こうしてここに引き寄せられているもんな」
「あの"鍵"も、だ」
ギルはつっけんどんに言い返し、思わせぶりに一瞥する。「この爪に呼ばれたのは。だから、ここにやってくる」
「そして、あの彼女もね」
やれやれとアスランは頭を掻いた。「にしても、まったく、なんでトラビアなんだ。よりにもよって、こんなゴタついた危ない時に」
一月ほど前のことだ。隣国で途方に暮れていた二人が、不穏な気を察知したのは。
尋ね人クロイツの消息を追い、急ぎトラビアに直行したが、実際には、この竜爪の波動だった。とはいえ、剣呑な事態には違いない。だが、なぜ急に覚醒したのか。
彫刻家がノミを振るったようだが、そんな瑣事ではないはずだ。そもそも彼は触れることさえ叶わずに、青鳥に襲われ、八つ裂きにされた。もっと重大な出来事がどこかで起きていたはずなのだ。永らくまどろんでいた竜爪を、深い眠りから揺り起こすほどの。
朝日にそびえる爪の破片を、ギルが「だが」と仰ぎやった。
「なぜ、急に"鍵"を見つけた」
唇に軽く指をあて、アスランはそれについて考える。
「──"鍵"が発動した、とかな」
思いついた、というよりも、思考の断片がぽろりとこぼれた、そんな感じだ。
まさか、とギルは首を振る。「どうやって。"鍵"を扱う力はない」
「そこは資格と言うべきだろうな。でも、"鍵"を発動したのは彼女だよ」
「夢で見たのか、その光景を」
「いや、これは予知じゃない。彼女は"鍵"の現所持者で "鍵"はひとりでに動きはしない。実行者が必ずいる。だったら彼女が順当だ」
ちら、とギルの顔を見る。
「竜爪が活性化した原因は、間違いなく"鍵"だろう。だからこそ防人は、アレを"鍵"と呼んだんだ。大体、そこまで影響を及ぼせる物など、早々あるとも思えないしな」
細く端整な眉をひそめて、アスランは虚空に目を凝らす。
「領主と傭兵がやって来たのは、この国の内紛絡み、俺たちとは別の要因だ。それは死んだ彫刻家にしても同様で、爪に呼ばれたわけじゃない。呼び寄せられたのは俺たちと"鍵" そして彼女だ。三者に共通する項目は──そう、なんだろうな──不安定ってことかな。もしくは不完全。この地平に在るための要件を欠いている。"鍵"は他界の主の一部。俺たちは出生が出生だ。生来この地とは馴染みが薄い。どちらも決定的に欠けている」
「だが、所持者については当てはまらない。変哲もない人間だろう」
「じゃあ、" 実は一度死んでいる " ってのはどう?」
「──ばかばかしい」
「それなら、存在の根本がゆらぐだろ?」
ギルが顔をしかめて首を振った。「死んだ者が生き返るものか」
「だよな〜」
うーん、とアスランは顔をゆがめて頭を掻いた。「なら、なんだろ。けどさ」
笑みを含んで目を向ける。
「何かあるよ。彼女にも、必ず」
ギルは淡々と見ていたが、顔をしかめて首元をゆるめた。
「──どうも、ここは息苦しいな」
開け放った窓辺へと、風を求めて歩いていく。「よもや俺が、この爪に捉われるとはな。捉われるなら、お前の方かと思っていたが」
「……なんでだよ」
アスランは苦笑いで顔をゆがめる。
「お前は軽薄で敏感だ。何事にも感応しやすい。逃げ足の速い猫のように」
「……。なにそれ。褒めてんの?」
腕を組み、肩で壁にもたれかかる。
「それはそうと、アスラン」
開け放った窓の向こうの、トラビアの街に目をやって、ギルは窓から目を戻す。「そろそろ手を緩めてはどうだ。街でまで風が暴れて、砂だらけになっているぞ」
「そうしたいのは、俺も山々なんだけどね」
溜息まじりに首を振り、アスランは改めて視線を向けた。
「詠唱が効かない。いや、効きすぎるというべきか」
「どういう意味だ」
「だから、風が収まらない。むしろ、ますますひどくなる」
「だが、発動したのはお前じゃないのか?」
「暴走している。もう俺には操れないし、破棄もできない」
はっ、とギルが気づいた顔で、巨大な竜爪を振り向いた。
「──このせいか」
"荒竜の爪"が活性化している。
「たぶんね。平原の敵を斥けておくには、都合がいいっちゃいいんだけど」
「だが、こうまで荒れては、肝心の"鍵"さえ近づけまい?」
「そう。そこが問題でね。ちなみに持ち主の彼女もね」
言って、アスランは溜息をついた。「あんまり気は進まないけど、こうなったら仕方がないかな」と、ぬらぬら輝く竜爪をながめる。
「壊すか、こいつを」
ギルが面食らった顔で見返した。「どうやって」
「あるだろ、アレが」
アスランは思わせぶりに目配せする。「自国を出る時、持たされたろ、防人に」
「──防人の槍、か」
つぶやき、ギルは怪訝そうに眉をしかめた。「"奇払いの鉾"を使う気か。だが、あれは」
「うってつけだろ。というか、それしか手はない。この爪は、他界とはいえ界主の身骨の一部だぜ。そんなものを粉砕するなら、そこらの打ち物では歯が立たない」
ギルは眉をひそめて一考し、軽くうなずき、廊下へ出た。
しばらくして、それを携え、戻ってきた。
手にあるのは骨董品のような一振りの武器。槍というには柄が短く、剣というにはやや長い。穂先もやはり幅広の両刃だ。柄との境の赤黒い房が、祭具のような風情だが、刃は曇り、輝きは鈍い。
「奇縁だな」
アスランはつくづくそれを見た。「まさか、こんな用途で使おうとはね。クロイツを──いや、狭間の者を討つ兵仗を」
「いや、見越していたろう、防人は」
ギルはそっけなく言い捨てて、促すように目を向ける。
「この手のことは、お前の方が得意だろう?」
差し出された聖仗を、アスランはしばらくながめやり、軽く手を振り、目をそらした。「いや、いい。任せる。朝っぱらから一仕事して、ごっそり力もっていかれたし。今の俺なら、ギルでも大して変わりはないよ」
「そうか」
ギルは軽くうなずき返して、"奇払いの鉾"を片手でつかんだ。
柄を握り、手に馴染ませるようにして一振りする。
ぬらぬら輝く黒塊へ歩き、聖仗を振りあげ、振りおろす。
激しく、黒髪が舞い散った。
壁まで吹っ飛んだその肩が、壁に張り付いた黒髪が、ずるずる力なくくず折れる。
からん、と乾いた音をたて、壁際の床に、聖仗が落ちる。
「ギル!」
あわててアスランは床を蹴った。
駆け寄り、肩を引き起こし、黒髪の被さった顔を覗く。「おい、ギル! 大丈夫か!」
ギルは床に手をついて、うずくまった体をのろのろ起こした。背中をしたたかに打ったのだろう、手が肩をつかんでいる。顔をしかめて、小さくうめいた。「……掠りも、しなかった」
「──ばかな」
あぜんとしてアスランは、肩越しに竜爪を振りかえる。ならば、今のは
──竜爪が聖仗を弾き飛ばした?
いや、"奇払いの鉾"は、狭間の者をさえ断つ槍だ。力関係はこれで正しい。この聖仗は竜爪に勝る。竜から剥離した爪の破片が、狭間の者を上まわるなど、土台あり得る話ではない。だが、それならば、この現実は──
窓からのうららかな陽を浴びて、竜爪は怪しく輝いている。今、ギルが言ったように、引っ掻き傷さえ認められない──はっ、とアスランは身構えた。耳を掠めた、かすかな羽音。
「よけろ! ギル!」
空気がしなるような風切り音。
すばやく転げた黒髪の後に、黒い塊が突き立った。壁をえぐる鋭いくちばし。
ザッ──と黒が、窓の向こうに現れた。
突如現れた数多の影、人の頭ほどの大きさの──
鋭く、アスランは振りかえる。
窓から飛び込んだ一群が、刹那、凍りついたように動きを止める。
ばたばた床に落ちていく。
すばやく振り払った腕を戻して、アスランは床の青鳥に目をやった。
「制裁にきた、というわけだ」
胸を切り裂かれた無数の鳥が、手前の床に転がっていた。その数ざっと三十ほど。風の刃で切り裂かれ、瀕死の羽をばたつかせている。そう長くかかることなく、すべて絶命するだろう。
ギルは壁にもたれかかり、顔をしかめて目を閉じている。普通の人間であったなら、襲われたのがギルでなければ、餌食になっていただろう。あの憐れな彫刻家のように。
連れの無事を目端で確認、「……後始末をしないとな」とアスランは気鬱に嘆息する。再び竜爪に挑んでも、また同じことが起きるだろう。張り巡らされた結界を、まずは和らげる必要がある。その手段を見つけなければ。"鍵"を入手しようにも、この竜爪を砕かぬことには、暴走した風に阻まれ、彼女がこちらに近づけない──。
思案に暮れて足を踏み出し、ふと、顔をあげ、歩みを止めた。
戸惑いに視線をさまよわせ、利き手を広げて、目を落とす。
「効いた、よな?」
詠唱が。
回廊では駄目だったのに。現にトラビア平原では、未だに呪が暴走している。同じように詠唱し、同じように術を用いた。だが、この部屋と回廊では成果が異なる。彼我のどこに違いがあるのか。あれから大して経ってない。体調も気象も大差ない。むしろ、今の二度目の方が、体力については落ちているくらいだ。それが何故、今回は──
「──まてよ」
もしや、用いた方角が問題か?
青鳥が襲来した窓の外は「街の南」 回廊から見たトラビア平原は「東側」。そういえば、回廊の方には波動があった。呪が乱れ、詠唱が消し飛んでしまうほどに強力な。とはいえ、どちらも「竜爪の周囲」で、条件に変わるところはない。
だが、東と南とでは「違う」のだ。たやすく埋められぬほど決定的に。その要素は一体なんだ。東には「あり」、南には「ない」もの──
唇を軽く指で引っかき、はっと思案の目をあげる。
「"鍵" か?」
平原方面には"鍵"がある。
そして、あの回廊の位置は、爪と"鍵"とを結ぶ線上。つまり、竜爪と"鍵"が
──引き合っている?
黒い巨塊はぬらぬらと、七色の光彩を放っている。無残に斬られた青鳥など、意にも介さぬ涼しい貌で。
竜爪の波動は密やかに、だが、徐々に威力を強めている。この爪は既に、数人の生気を蓄えた。その余勢を駆り、今度はギルをも取り込もうとした。もしや、修復の材料を集めているのか? あるべき姿を取り戻すために。
「──お前、まさか」
アスランは眉をひそめて竜爪を見る。
「"鍵"を呑み込むつもりじゃないだろうな」
はっと目を見開いた。
「……そうか。だから防人は、"鍵"の回収を命じたのか」
この竜爪とあの"鍵"は、いずれも界主の身骨の一部。だが、両者は属する地平が異なる。そして、今踏みしめている大地には、どちらも本来あるはずのないもの、決して出逢ってはならないものだ。
視界をふさぐ霧が晴れ、実相が顕わになっていく。愕然として、つぶやいた。
「……だから、あれは"鍵"なのか」
防人が"鍵"と呼んだその理由は「竜爪を活性化させる」というだけではない。はるかに深刻な脅威ゆえだ。
あれは、人の未来を握る鍵。万一、両者が接触すれば、たちどころに世界が
消し飛ぶ。
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