〜 第2章「波動」 〜
「副長ぉ〜。いいすね? くれぐれも、いい子にしてるんすよ?」
街道沿いの投宿先で、セレスタンは寝台の脇にひざまずき、くーかー眠りこけたその額を、眉を下げてなでさする。
「女将の言うこと、よく聞くんすよ? 姫さん早く捕まえて、す〜ぐ迎えにきますからね?」
「──いつまでやってんだ。日が暮れちまうぜ」
廊下へ続く戸口の先で、様子を見に戻ったザイが、呆れた顔で嘆息した。
のっほっほっ、と鼻の下を長くして、セレスタンは頬杖で寝顔をつつく。「もうー! ほーんとかわいいんだからー副長ってばぁー! な〜、見てみろよ〜。このガキみたいにあどけないツラ!」
「副長の額が煙あげて発火するぞ」
そう、ずっとああして別れを惜しんでいるんである。もうかれこれ三十分ほど。
ファレスの頭をなでくり回し、寝顔の頬をぐにぐに引っぱり──ちなみに、本人が目覚めていれば、当然、瞬殺間違いなし。
無邪気な寝顔をつくづくながめ、ザイは窓際の卓を見る。「しかし、相変わらず大した腕だな。そんなに揺すって起きねえってんだから」
茶色い小瓶が転がっていた。卓の瓶の貼り紙には「睡眠薬」の角張った文字。
セレスタンがさし出す麦茶のコップを、ファレスは素直にごくごく飲んだ。「おっ。悪りぃな」などと笑顔さえ向けながら。そして、すぐに船を漕ぎ、あっけなく卓に突っ伏した次第。
細身とはいえこのファレス、実はかなりの手だれで豪腕。暴れ出したら、二人がかりでも押さえこめない。
「なーなーザイ。もしかして、これじゃねえ? 副長が今まで、人前で絶対寝なかった理由。だって、こんな顔で寝られてみ? 野郎どもが先争って──」
「先行くぞ」
白けた顔で肩を起こし、ザイはひと気ない廊下へ歩み出た。
「まったく。なんで、看病してくれる女の一人もいないかねえ」
戸口まで出てきた宿の女将は、頬に手を当て、不思議そうな口振り。「あんなに色男だってのにねえ」
かなり多めの前金を渡して、セレスタンは苦笑いした。「まあ、大抵の女は敵にまわす人すからねえ。一言口をきいた途端に」
「まあ、確かに口は悪いさ。けど、悪気はないし、きさくだろ?」
「──ま、そいつはそうすけど」
禿頭を掻き、セレスタンはあいまいな笑いで濁す。確かに想像もつかないだろう。今のざっくばらんなファレスからでは。
かつての彼を、女将は知らない。氷の目をした男のことを。顔を赤らめて言い寄った女を、どれだけ手ひどくあしらってきたかを。
苦悶のうめきと血しぶきの中、どれほど他人を殺めようが、眉一つ動かすことない、苛烈で冷徹な横顔を。
そう、気安く手を出してはいけない相手だ。そこにいると知れただけで、周囲がざわめき、凍りつく、荒れた戦場の"ウェルギリウス"──
今話題の当人ファレスは、西日の入る静かな部屋で、すーぴー大口で眠りこけているが。
ひぃふぅみぃ……と片手で広げた紙幣を弾いて「はいよ、確かに」と女将は確認、肉付きの良い頬をゆるめて、満足そうな笑みを向けた。「悪いねえ、こんなにもらっちゃって。で?」
紙幣の先でセレスタンを叩き、ちら、と意味ありげに横目で見る。「そういうあんたは、どうなんだい」
「……俺すか?」
面食らって己を指さし、セレスタンは記憶の浅瀬をざっとさらう。「ま、こう見えても俺だってね。置いてきた女の二十人や三十人は──」
「どうせ、商売女だろ?」
「なんで断言するんすか」
呆れた顔で女将は見やった。「な〜に見栄はってんだい。誰だっていいんだろ、どうせあんたは。そう顔に書いてあるよ」
「て、手厳しいすね……」
セレスタンはたじろぎ笑い、こそこそ黄色い丸メガネをふく。「かなわねえな、おばちゃんには」
紙幣の手で腕を組み、女将はつくづく顔を見やった。
「何やってんのさ、いい若いもんが。人生ってのは短いよ? あんただって、そう捨てたもんでもないのにさ」
苦笑いしてセレスタンは身じろぎ、廊下の窓から夏空をながめた。
「ま、俺の人生は、俺のもんじゃなかったすからね」
ふと、女将は口をつぐんだ。
眉をひそめて、じっと見る。「……は? なんだよ、どういう意味だい?」
「……へ?」
ぽかん、とした怪訝そうな顔を、セレスタンは引きつり笑いで振りかえる。「な、なにって、やだなあ、言葉通りの意味っすよ〜……」
「な〜に格好つけてんだか」
「……。と、とにかく、そういう事情なんで──」
軽く女将に頭を下げた。
「しばらくよろしく頼んます。なるべく早く引き取りますんで。見てのとおり態度悪いし、口も悪いしやんちゃだし、ごねて迷惑かけるでしょうが」
「悪ガキの扱いには慣れてるさ。万事あたしに任しときな。こう見えても、ちょうど、あんたくらいの年頃の息子を、女手一つで育てあげたもんさ」
女将は恰幅の良い胸を叩いて、手土産と思しき饅頭の包みをもちあげる。「ああ、あの礼儀正しいキツネ顔の人にも、くれぐれもよろしく言っとくれ」
「……了解」
ザイへの伝言を請け負って、セレスタンはあいまいに笑い返した。さすが秘蔵っ子、世渡り上手。中々手強い女将だが、難なく手玉にとったようだ。
街道の町の宿を出て、昼のひと気ない街路へ出た。
まだ強い昼の日ざしが、灰色の石畳に照りつける。むし暑い街路を歩きつつ、ザイは肩越しに宿を見た。「しかし、いいのかね。当の副長を置き去りにするなんざ」
「だって無理でしょ、あの調子じゃ」
夏日を避けるめがねをかけつつ、セレスタンは夏の日ざしを仰ぐ。
のほほんとしたその顔を、ザイはつくづく呆れ顔で見やった。「案外あっさりしてんだよな、このハゲ。ま、今に始まった話でもねえけどよ」
あんなに別れを惜しんでいたのに、一歩外に出れば、この通りだ。
出奔した彼女を追いかけ、ファレスは気負って商都を出たが、腹の負傷が痛み出し、いともあっさり寝こんでしまった。領邸で負った腹の傷が、開いてしまったらしいのだ。
もっとも、あれから昨日の今日だ。外を歩き回れるというだけで驚異的な回復力だが。
「あんな状態の副長を、一人で残していくってのは、俺だって心許ないけどさ。でも、ま、大丈夫だろ? 副長が目を覚ましたら、女将から伝言聞くだろうし、あの女将もいい人そうだし、副長を気に入ったみたいだし。ああ、息子みたいなもんなんだってよ」
めがね越しの目をまぶしげにすがめて、セレスタンも宿を見る。「けど、なにせ副長だからな〜。押さえられるかな、あのおばちゃんに」
「わけねえだろ、そっちの方は」
「けど、もう結構な年だぜ。あんな外見でも副長は、俺らよりよっぽど腕力があるしな」
隠しに突っ込んだ手を抜き出し、ザイは煙草をくわえて点火した。「覚えてんだろ、レーヌの飯屋の」
「ん──店を切り盛りしてた美人の女将?」
セレスタンは思い出した顔で振りかえる。「そういや副長、あの時ウォードと取り合ってたっけ。ガキみたいにいじましく。ああ、なるほど、そういうこと──」
「副長は年増に弱い」
さらっと辛辣に毒を吐き、ザイは空に一服する。「ま、置いてきて正解か」
「怪我人連れてちゃ、姫さん捜すどころじゃないからな」
「客と先に接触すれば、持ち逃げする恐れがある」
セレスタンは面食らって口をつぐんだ。
空を見やって訂正する。「──駆け落ちな、それ」
ファレスと同室で寝泊りした、この二人は知っている。寝付いたファレスがうわ言でまで、彼女を追いかけていることを。
「だが、客は渡さねえ」
ファレスが休む宿をながめて、ザイは肩越しに目をすがめる。「当面、副長は"敵"ってこった」
「おや。乗り気じゃないの。珍しく」
にやにやセレスタンが、思わせぶりに顔を覗いた。
鬱陶しげに顔をしかめて、ザイは舌打ちで目を背ける。「お前は頭か。そんなんじゃねえ」
「またまたまたぁ。照れなくたっていいだろう? なあ、正直に言っちゃえよ〜。姫さんのことが気になるって〜」
「危うく客を殺しかけた」
ふと、セレスタンは眉をひそめた。
小首をかしげて無言でながめ、くすり、とおかしそうに頬をゆるめる。「もう忘れてると思うぜ? 姫さんの方は」
この辛辣な皮肉屋は、妙に律儀なところがある。
「むしろ、なついてるじゃないの、大分お前に」
「──どうだか」
ザイは憮然と舌打ちし、苦々しく顔をしかめた。「そんなことより、どうにかしねえか。そのバカみたいな真っ黄のめがね」
きょとんと、セレスタンは瞬いた。「これ? けっこう気に入ってんだけど」
「そのツラ見るたび、気が抜ける」
「……。あっそ」
ひと気ない昼の街路を、街道に向けてぶらぶら歩き、空に向けて紫煙を吐く。
「しかし、まさか寝付くとはねえ。こんなこと初めてじゃね? 副長もやっぱり人の子か」
ランニングの襟ぐりを指でつまんで、セレスタンは顔をしかめて空をあおいだ。「一雨きてくんねえかな。こう暑いと、歩くだけで茹であがりそうだぜ。──て、あれ?」
ふと、街角で目をとめた。「なあ、ザイ。あそこにいる平服の奴──」
短髪の先をピンと立たせた、一見、町の若者風。だが、視線を走らせるその目は鋭い。
「なんで、ワタリがこんな所に?」
街道で集めた情報を、部隊に知らせていた連絡員だ。
「──ああ、あいつ、副長の下回りだっけか。副長がいきなり消えたんで、ここまで捜しにきたのかな」
「連絡なしで居場所を特定したってか。商都にいるってんなら、まだしも」
街道沿いという条件ならば、確かに町も限られようが、商都・トラビア間という長距離ともなると、やはり少ない数ではない。
そうする間にも、先方が気づいて駆けてきた。ザイは怪訝そうに向き直る。「よう、ワタリ。急用か?」
「──ああ、いや。今日は業務連絡じゃない。そんなことより」
ワタリは顔をしかめて汗をぬぐい、昼下がりの町中を見まわした。「あんたら、クロウを見なかったか」
「──クロウ? いや」
二人は顔を見合わせる。思わぬ名前だ。
聞けば、クロウは旅路で発熱、宿で伏せっていたのだという。それが寝床を抜け出して、勝手に出立したらしい。
「まあ、さすがに疲れたんだろうな。このところ移動続きだったから」
その女のような容姿に違わず、クロウに体力はさほどない。
「それにしたって、一体どこへ行ったんだか」
「つか、なんで、そもそも、お前らがいるわけ?」
首を傾げたセレスタンに、ワタリは汗をぬぐって振りかえる。「いや、それがクロウの奴が、血相変えて飛び出しやがって」
「あのクロウが?」
あぜんと二人は目配せする。
セレスタンが肩をすくめた。「こいつは驚き。あいつでも取り乱すことがあるとはね」
何物にも動じない、クロウの腹の据わりようは、部隊の誰もが知るところだ。
禿頭をかしげて、ワタリを見る。「なんで、また」
「それが──隊長が出奔したって聞いた途端に。夜もろくに眠れねえみたいで、うつらうつらしちゃ飛び起きてよ」
「──へ? 隊長? なんで、クロウが隊長を?」
「ま、そっちの話は置くとして」
ザイはワタリに目を向ける。「お前、本業の方はどうした」
「ああ、そっちは問題ない。今、国境の本隊には、トラビア方面の連絡員がついてる。副長が部隊を離れたろ。俺は副長付きだから、それでお役放免ってことで──」
そわそわワタリは町を見まわし、ふと、街角の先で目をとめた。
「あっ──たく! あんな所に!」
短い舌打ちで、街路を駆け出す。
向かった先を歩いていたのは、ほっそり小柄な旅装の背。肩につくほどの黒い髪。またたく間に追いついて、ワタリがその肩を引っつかんだ。
「なにやってんだ! まだ寝ていろ! あんなにふらふらしていたくせに!」
「──何をそんな悠長な!」
さらりと黒絹の髪が舞い、クロウが苛立ちまぎれに振り払った。
「隊長を、早く連れ戻さないと!」
もどかしげに顔をゆがめて、焦れた口調で言い返す。ひと気ない街路の中央に、ザイとセレスタンが立っているが、まったく目にも入らぬ様子だ。
クロウは充血した目で街道を睨んだ。「このまま進めば、どうなるか──」
「あの丈夫な隊長が、そう簡単に倒れるもんかよ」
ワタリは呆れはてた顔で腕を組み、持て余し気味に嘆息する。「たく。どうしたんだ、お前らしくもない。要は、ただの勘ってだけだろ?」
「わたしの勘は、気味が悪いほど、よく当たる!」
即座に言い捨て、クロウは苛々、爪を噛んで西を睨んだ。
「……嫌な予感がするんです」
( 前頁 / TOP / 2章TOP / 次頁 )
web拍手
オリジナル小説サイト 《 極楽鳥の夢 》