■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章22
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月明かりの洗い場で、ピチャン──と小さく水が跳ねた。
廊下の片隅の洗面所で、鏡の中の自分を見つめ、セヴィランは愕然と頬をさする。
しわのない肌。みずみずしい頬。白髪の交じっていない頭髪。ひそめた眉の下できらめく瞳。射しこむ光の具合によっては、緑がかって見えるあの──。
「──どうなっているんだ」
明らかに二十代半ばの顔だった。いや、異変はそれだけではない。
全身が軽かった。精気が奥底からみなぎってくる。ここ数十年来感じたことのない、えも言われぬ充足感。曇りが除かれ、手足の指の、先の先まで、鋭敏に研ぎ澄まされていく。それは、とうの昔に失った感覚。だが、この期に及んで、なぜ急に。
今にして思えば、あの時だ。
街角で彼女とぶつかったあの時、得体の知れぬ違和感がよぎった。
あの時、確かに大気が歪んだ。
そして、ありありと変化を感じた。体の組成が組み変わり、ありとあらゆる細胞が、隅々まで目覚めていくのを。活力がほとばしるように凄まじい──。
あの時は知る由もなかったが、身の内から湧きあがったそのままに、何かの力が奔出した、その自覚は密かにあった。
それは、体の奥底で眠っていた、霞み、色あせた古い記憶。それが反射的に呼び覚まされて、だから、あわてた。彼女を殺してしまったと。
落雷に打たれでもしたように、彼女は棒立ちになっていた。
目を見ひらいて硬直し、呼吸困難に陥って。喉を詰まらせたと言っていたが、あの凄まじい覚醒に、あの時巻き込まれていたのだとしたら──。
タライをとりあげ、水を張った。
水をすくい、顔を洗う。
水場の端を両手でつかみ、力まかせに首を振る。
ピチャン──といやに余韻を響かせ、濡れた髪から水滴が落ちた。
しん、と音のない夜のしじまに、雫の波紋が広がっていく。
覚醒が起きたあの瞬間、体が彼女と接触していた。
彼女に不調の自覚はなく、何事もない様子だが、急変せぬとも限らない。
そう、この先、いつ何時、何が起こるかわからない。急に倒れて事切れるかもしれない。食事中に突っ伏したのは、その予兆ではなかったか。むしろ、あの激変で、無事でいられる道理がない。現にあの時、彼女は呼吸が止まっていた。対処が少しでも遅れていれば、死に至っていただろう。そうした覚醒の影響が──もしも今も、徐々に彼女を蝕んでいるとしたら、破損とその表われに時間のずれがあるのだとしたら──
かぶった仮面を剥がれたような、素の自分が鏡にいた。
無理に押しこめた記憶の深みで自覚し続けていたその顔を、暗澹たる思いでセヴィランは見つめる。
「──どうする」
巻き添えで殺してしまったら。
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