■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章52
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水面が、夏日にひるがえった。
青い草の斜面の先、川のせせらぎが絶え間なく聞こえる。
幌馬車の布壁に背をあずけ、セヴィランはぼんやり雲をながめた。
晴れた真夏の空の下、昼さがりの街道には、行きかう馬車も、人影もまばらだ。丘の高台につくられた遮るもののない乾いた道が、なだらかに西へと続いている。
交代で昼食をとるために、道端に馬車を停めていた。
出入りの邪魔にならぬよう、町の入り口を行きすぎた、夏草そよぐ街道の端に。
ここはバールという名の中規模の町だ。このまま西へ街道を進めば、要衝の街ザルトに行き着く。そこまで行けば、
「……ようやくトラビア圏内、か」
紫煙をくゆらせて物思いにふけり、ふと、セヴィランは瞬いた。
後ろの荷台で、物音がした。車内で人の動く気配── 一転せわしなく紫煙を吐いて、もたれた背を引き起こす。「──どうだ、首尾は」
荷台の端から顔を覗かせ、ユージンは眉をしかめて首を振った。
「駄目だね」
……そうか、と乗り出した肩を落として、元の布壁に背を投げた。
「まだ "サナギ"のままってわけだ」
すっかり固まった二人の様は、何かのサナギを思わせた。互いの境が溶け合って、殻の内にいるかのような。
ファレスを拾ったベルセを出てから、すでに二日が経っていた。
荷台の布壁いっぱいに猛っていた緑焔は、このところ成りをひそめている。とはいえ、すっかり消滅したわけではない。焔は依然ちろちろと、淡い緑の舌先を伸ばし、二人を包んでたゆたっている。
朦朧としたファレスを抱いて、彼女は一時たりとも離れない。
じっと荷台でうずくまり、食べもしなければ、横たわりもしない。ゆうべも宿で休むことなく、荷台の隅で夜を明かした。片時も体勢を崩さないから眠っているわけでもなさそうだが、何度呼びかけても返事はない。
ユージンが荷台を飛び降りて、足を引きずるようにしてやってきた。
こちらの隣の布壁に、大儀そうに背を投げる。「……一本くれない?」
「あ?──ああ」
胸の隠しを片手で探り、煙草の紙箱を勧めてやる。「進展なし、か」
「見つけたよ、彼女の居場所は」
「居場所?」
やつれた顔で一本くわえ、ユージンは煙草に火を点けた。「……まさか《 あわい 》にいたとはね」
「なんだよ、その《 あわい 》ってのは」
「──あんたに言っても、わかるかどうか」
頭痛でもこらえているように、眉をしかめて紫煙を吐く。「確かにそこにはあるけれど、この地上のどこにもない場所」
「からかっているのか?」
「世界は層をなしていて、膜一枚隔てれば、別の異なる地平がある。《 あわい 》は、隣接する時空の境、その中だ」
「……よく、わからないな」
そうだろうね、と吐き捨てて、疲れた様子で目を閉じた。
「普通は立ち入れない場所だから。まあ、あんたは──そうだな "生と死の境"とでも思っておけば、大体合ってる」
ぎょっと連れを振り向いた。「死んだってことか!?」
「死んではいない」
「なぜ、早く連れ戻さない!」
ユージンは面倒そうに顔をしかめた。
「あそこは時空がでたらめでね。時も場所も、常にゆらいで規則性がない。近づくつもりが遠ざかっていたり、不意に間近に現れたり。つかもうとしても、すり抜けたり、急に脇を通過していったり」
息を詰めて深海に潜り、怪魚と格闘しているみたいに──ごちるように呟いて、指の先で額を揉む。「捕まえるどころか、見失わずにいるだけで手一杯だよ」
「入り込めるくらいなら、お前には馴染みの場所なんだろ」
「普段は通過するだけだ。長居をするような所じゃない」
「だが、俺やお前ならまだわかるが、あの子はどうみても普通の子だぞ。なんだって、そんな所に──」
「知るわけないだろ、そんなこと」
川のせせらぎが耳に戻った。
眼下の河原で、水面がきらめく。土手一面の夏草が、陽射しに青く凪いでいる。
指の先で、紫煙がたゆたう。乗り出していた背を憮然と戻し、はっとしてセヴィランは振り向いた。
「おい、大丈夫なのかよ、そんな所にずっといて。つまり、そこは、生きた者のいるような場所じゃないってことだろ。まさか、あの子、このままじゃ──」
「まずいことになるだろうね」
物に動じぬこの連れにしては、川面を見やった横顔は厳しい。
「このまま《 あわい 》に留まれば、彼女は感化されて変質し、最終的には同化する、つまり、意識が呑まれて均される。おそらく、そんなところじゃないか」
「おい、待てよ、冗談じゃないぞ! なら、廃人になるのを、指をくわえて見てろってのか! 何か手立てはないのかよ!」
「だから、やってる!」
ひるんで、セヴィランは口をつぐんだ。
語気の荒さに気づいた様子で、ユージンはきまり悪げに目を背ける。「──手は尽くしている」
「すまん。つい……」
目をそらし、気まずい思いで頭を掻いた。
奮闘したことは、わかっていた。嗄れかけた声を聞かずとも。
幌を隔てた外にいて尚、あの"気"がピリピリ肌を刺すのだ。至るところに静電気がまとわりつくような不快な痛み。まして車内の近距離で、焔と対峙していれば、どれほど体力を消耗するか。
焦れる気持ちを溜息で吐き出し、せかせか紫煙を吸い込んだ。気を揉む。気が急く。何もできない──。
もう二日も、あのままだ。
町の宿に早く入って、彼女を休ませた方がいい、それは重々承知している。だが、触れるどころか、近寄るだけで神経を使う。あの獰猛な緑焔が、いつまた何時、息を吹き返さぬとも限らない。
「……あの人の言うことなら聞くんだろうに」
のどかなバールの町並みを、やるせない気分でながめやった。彼女と親しい赤毛の連れは、陽に照らされた町のどこかで、昼食をとっているはずだ。
「戻ってきたら、もう一度頼むか」
「無駄だろ。レノだよ?」
そっけなくユージンが一蹴した。「あいつが手を貸すわけがない」
「だが、さすがに二日目だぞ。いくら焔が見えなくても、尋常じゃないのはわかるはずだろ。あの人にあの子を起こしてもらえば──」
「近寄りもしないさ、ひどい中毒者がいるんだぞ」
「だが、ファレスを連れてきたのはあの人だろ。あのひどい有り様を見かねて」
「──あんたはまったく、バカがつくほど人がいいな」
うんざりしたように顔をしかめ、ユージンは嘆息まじりに紫煙を吐いた。
「他人に運ばせたに決まってるだろう。適当に金でもつかませて」
暗に、それを仄めかす。この荷馬車を入手した経緯を。つまりは、それが常套手段。力仕事など、あの男はしない──。
現に、以前頼んだ時にも、レノはうるさげに顔をしかめた。
『 いーじゃねーかよ、好きにさせりゃ。どうせ、そのうち飽きるって 』
確かに、きれいな手をしていた──そんなことをセヴィランは思う。
ほっそりとして指の長い、傷一つない、しなやかな──。元より彼は裕福な生まれ、力仕事とは無縁だろう。手指ばかりでなく肌艶も良いから、何を着ても様になる。つまり、それが上流階級ということか。
ちなみに、肌艶だけなら引けはとらない。もっとも、こちらは、この特殊な系譜ゆえだが。
「要は、金持ちの道楽だ」
舗装のない土道に、ユージンは気だるげに灰を落とす。
「彼女の知り合いだったから、面白がって連れてきただけ、つまりは一種の愉快犯だ。だが、予想した以上に大ごとになって、今ごろあいつも焦ってるんじゃないの」
そう、レノは意外にも、彼女らと荷台で寝泊まりしていた。
衝撃を受けた彼女の様子にさすがに気が咎めたか、ユージンの接近を阻止すべく牽制しているだけなのか、その辺りは不明だが。
「──ひとつ、確認しておきたいんだが」
ずっと胸にわだかまっていた、あの疑問をぶつけてみる。
「違っていたら言ってくれ。あの力の出所というか、あの焔を呼び出しているのは──」
ふと気づいて、口ごもった。
まったく馬鹿げた考えだった。そんなことはあり得ない。
視線を外して、先をためらう。だが、しまい込んだままでも埒があかない。
思い切って、口にした。
「出所は、あの子だよな」
指先で紫煙をくゆらせて、ユージンは川面をながめている。
横顔が、わずかに目をすがめた。
「ああ、彼女だ。ファレスじゃない」
「──一体何がどうなっているんだ!」
混乱をきたして振り向いた。
「あの子は至って普通の子だぞ。おかしなところなど何もない。そんな真似が、なぜ、できる。いや、そもそも何をしている?」
ふう、と長く紫煙を吐いて、ユージンが荷台へ目配せした。
「血色、良くなったと思わない? あいつ」
「──あいつって、ファレスのことか?」
面食らって、荷台を見た。
近寄れないながらも遠目から、たまに様子は覗いていたが、気にしていたのは主に彼女だ。ファレスの方はどうだったか。
そう言われて記憶をたぐれば、土気色だった顔色が、幾分ましにはなった気がする。
「まさかとは思うが、こう言いたいのか?」
足を踏みかえ、顎をなで、頭の中を整理する。
「あの子があいつを治していると? だが、なぜ、命を削ってまで」
「──そんなことより!」
苛立ったように言葉を遮り、ユージンがたまりかねたような目を向けた。
「今は、彼女を呼び戻すのが先だろ」
「──それは、そうだが」
「あんたも気づいているんじゃないの?」
土手下を流れる川面へと、苦々しげに目をそらす。
「"力"が、日増しに強くなる」
眉をひそめ、セヴィランは広い夏空を仰いだ。「……ああ」
それは肌で感じていた。力が急激に増していることは。あの彼女の放つ力が。
乾いた街道のはるか先、西の尾根の巨塊を見た。
「無関係では、ないんだろうな」
尾根を圧して巨大な竜が、ぬらりと、とぐろを巻いている。
「少なからず影響はあるだろうね。ノアニールよりもベルセ、ベルセよりもバールと、波動が次第に強まっているし」
鋭く双眸を据えている、西の竜に近づくにつれ。
麦わら帽子をかぶった農夫が、ガラガラ荷車を引いていった。
普段着姿の婦人らが、笑い交わして行きすぎる。昼さがりの街道は、不気味なほど穏やかだ。旅支度の人々が、のんびり町へと歩いていく。
「……誰も驚かないってんだからな」
何事もない通行人を、見るともなしにセヴィランは見送る。
「目の前で、こんなとんでもないことが起きてるってのに」
荷台の後ろに幌はないので、車内の様子は丸見えだ。だが、誰も反応を示さない。
幌の陰で身を寄せた、二人に訝しげな一瞥はくれても、その目は無関心にそれていく。二人から立ちのぼる淡い揺らぎが、見えていないのは明らかだ。
「あの人が荷台に乗りこんだ時にも、そりゃあ肝を冷やしたが」
鼻先で焔が燃え盛っていても、レノは何くわぬ顔で寝そべっていた。
「あれだけ目の前で煽られて、どうして何も感じないんだか」
「焔の出所が彼女なら、焔も 《 あわい 》にあることになる」
「つまり、二重写しになっている、一つ所の光景が 別々の場所で 起きているってことか? だが、俺は取り込まれそうになったがな。今も手足がチリチリしてるし」
「《 あわい 》の質と、俺たちは近い。だから彼女の異変が見えるし、向こうも同質を感知して、吸着しようとするんだろう」
水が紙に染み入るように。
つまり、こちらの世界の物とは、接触することはない。
「だが、それでも変じゃないか?」
なにがだよ、とユージンが辟易とした目で嘆息する。
「あの人のことは避けてたろ」
「──レノを異物として認識したってこと?」
そらしかけた目を、ふと戻す。
怪訝そうに眉をひそめて、唇に拳を押しあてた。
「あの焔は、こちらの物とは、接触せずにすり抜ける、そう思っていたんだが──。なら、水と油のように弾かれるのかな。もっとも、あのレノの場合は」
くるり、とこちらを振り向いた。
「 嫌 い なんじゃない? ただ単に」
表情のない冷ややかな半眼。
「……。いやに実感こもってるな」
思わぬ反応に引きつり笑い、ちら、とセヴィランはうかがった。「いつも、やり込められているもんなあ?」
「あんたこそ、どういうつもり?」
むっと苛立ったように眉をしかめて、ユージンは不敵な一瞥をくれる。
「いやに大人しいじゃない、借りてきた猫みたいに」
セヴィランはたじろぎ笑った。「……あ、いや、なんでもお見通しってあの顔を見ると、つい、な」
「ハッタリだから、それ。あいつの十八番」
「だが、やっぱり顔が似てるんじゃ」
「当然そうだろ。本人なんだから」
首根っこを抑えられている、それは紛うことなき事実だった。
そう、すっかり膝下に置かれている。道理を超えた力など、なんら持たない常人に。
常に機先を制される。
気づいた時には負けている。あれが、弁舌の鍛錬を日々積んだ "貴族の手並み"というものか。抜け目がないのか、勘がいいのか、どうも、彼には勝てる気がしない。
「どうでもいいよ、あんな奴のことは」
腹立たしげにユージンは吐き捨て、強い視線を振り向ける。
「そんなことより、彼女は俺が連れ戻す。どんな手を使ってでもね」
思わぬ真顔にそれを悟り、セヴィランは面食らって頬を掻いた。
(──まんざら嘘でもなかったってわけだ)
そういえばユージンも、ずっと御者台で寝泊まりしている。
自前の足で歩くしかない、地道に地を往くこちらとは違って、瞬時にどこへでも行けるのに。豪奢な屋敷で休んでもいいし、快適な宿での寝泊りも自由だ。だが、
「──お前、あの子はやめとけよ」
思わず内心が口をついた。
幌の布壁にユージンはもたれ、無言で目頭を揉んでいる。
溜息をついて、やむなく続けた。
「よく知ってんだよ、あの子の旦那を。長逗留していたあの人の所に、いつも遊びに来ていたからな。──いい奴だよ、友達思いで。ま、ちょっと不愛想なところがあるから、考えが分からん時も、たまにはあるが。あの人たちは仲が良くて、互いに信頼し合ってる。傍で見てても微笑ましいくらいに」
ユージンは、やはり無言のままだ。
焦れて、隣を振り向いた。
「頼むから、そっとしておいてくれないか。友達の一人が亡くなって、やっと乗り越えたところなんだよ。あの子はまだ引きずっているが、痛々しいくらいに頑張っている。何も知らないよそ者に、かきまわして欲しくないんだよ」
「……あんたには関係ない」
「俺にもわかるさ、お前の気持ちは。俺にもいたからな、そういう娘は」
だから「普通」になりたいと願った。想い寄せた娘と同じ、ごく「普通の人間」に。
「ひと夏だけの客だったが、俺ら夫婦にしてみれば、みんな親戚のガキみたいなもんだ。だから、幸せに暮らしてほしいんだよ。穏やかに。普通の奴と」
「──あんたは、本当にお節介だな」
ユージンがたまりかねたように嘆息した。
「もう一度言うけど、これは、あんたには関係ない。そんなことより、ずい分あいつに肩入れしているようだけど」
怜悧な瞳が、一瞥をくれる。
「レノは、信用しない方がいい」
戸惑い、思わず言葉を飲んだ。
「──そんなこと言って、邪魔なんだろ、あの人が」
なんとか気を取り直す。「だから俺をけしかけて、その隙にさらおうって魂胆だ。あいにくだったな、その手に乗るかよ。必ず阻止してやるからな」
「懲りないね、あんたも」
ユージンがやれやれと嘆息した。「勝負はついたはずだろう。それとも、また倒されたい?」
「あれは──ちょっと不覚を取っただけだろ」
彼女がレノと部屋にひきあげたのを見届けた後、彼女をさらいに行かぬよう、夜通しユージンと対峙したが、集中力が途切れた直後、意識が彼方へ飛んでいた。レノの警報で連れ戻したが。
思い出した失態に、顔をしかめて舌打ちし、自分の手足をながめやる。「この体には戻ったばかりで、まだ勝手がつかめないだけだ。つまり、まだ本調子じゃ」
「負け惜しみは見苦しいよ」
ユージンは一蹴、肩をすくめて背を起こした。「まあ、いい。彼女のこと、よろしく頼むよ」
「──お? やっと諦める気になったのか」
「一旦戻る。これじゃ埒があかないし」
煙草を落とし、靴の裏で踏みにじる。
「こんなに長く向こうをあけるつもりはなかったから、いくつか指示を出してこないと。レノには適当に言っといて」
「今ごろ屋敷の連中が、総出でお前を捜しているか」
「いや、仕事の方。じゃ──」
言うなり、布壁に手をついた。
意識を凝らすように瞼を閉じる。
セヴィランは軽く目をみはった。確かに、人の行き来も途切れているし、馬車の陰なら、人目もないが──。
相当疲れているらしい、と今更ながら気がついた。彼の事情を知っているとはいえ、姿を隠す手間さえ惜しんで、目の前で移動しようとは。
瞼を閉じた唇が、小さく呪文を紡ぎ出す。聞きとれない、風変わりな言語──。
さわり、と小さな風が起きた。
砂をさらい、裾をゆらし、足元から吹きあげる。布壁についた手のひらが、淡い光に包まれていく。布壁の皺や染みがぶれ、不意に輪郭があいまいになる。
呼び起こされて "気"がうごめく。
迫りくる何かの気配。音のない暗黒が、みるみる大きく膨らんで──
「何してんの?」
ぎくり、とその肩がすくみ上った。
あわててユージンが振りかえる。
声がしたのは荷台の後方。布壁の縁に、柄シャツの肩。
空に向けて紫煙を吐き、もたれた人影が振り向いた。
手に、煙草をくゆらせている。
にやりと口角ひきあげて、愉しそうに笑った瞳。細身の体格、赤い髪。
愕然と、セヴィランは顔を見た。
「……あんた」
まったく、少しも気づかなかった。
戻ってきた気配など、まったく微塵もなかったのに。いや、そんなことより、この男──
一体いつから、そこにいた!?
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