■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章53
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固唾をのんで目配せすれば、ユージンも頬を硬直させ、食い入るように見つめている。
赤い髪に、派手なシャツ。
見越したような含みのある笑み、常に反応を見ているような──。
(──どうする)
見られた。
まさに発動したその現場を。
意表をつかれ、反応できない。とっさに言葉が出てこない。
油断していた。
無警戒だった。戻っているとは露ほども思わず、すっかり手放しで寛いでいた。そう、悪条件が重なったとしか言いようがない。普段は抜け目ないユージンも、疲労困憊で横着し、常の警戒を怠っていた。
後部の荷台に肩でもたれて、レノは紫煙をくゆらせている。一体何を考えているのか、愉しげな目を向けながら。
一部始終を、まさか見ていた?──いや、仮にそうにせよ、果たしてレノに見えただろうか。時空の壁が溶け出して、黒々とうごめく表層が。ありふれた風景から分離して、そこだけぽっかり闇をたたえた、異界へ続くその通路が。
いや、ファレスをかかえて彼女が放った熱量の凄まじさを物語るような、あの焔にも反応しなかったくらいだ、おそらく何も見ていない。視覚については、それでいい。だが、ならば、聴覚はどうだ?
(……いつからだ)
ざわりと動揺、喉が干上がる。唇を舐め、唾をのむ。
今にして思えば、実に無造作に会話していた。誰にでも聞こえる音声で。今の話を聞いたとしたら──。一体いつから、
そこにいた。
レノは普段と変わらぬ薄笑い。腹の中はまるで読めない。
そこにいた時間が問題だった。一体いつ戻ってきたのか、早くそれを確認せねば。何をどこまで聞いたのか。一体何を握っているのか──。だが、空恐ろしいほど勘のいい相手だ。切り出し方を誤れば、それをとっかかりにして踏み込まれる──。
躊躇と葛藤が渦をまく。うろたえ、思考が空転する。頭が十分まわらぬままに、問いがあえぐように口をついた。「……あんた、……いつから」
「行けば?」
虚をつかれて、口をつぐんだ。
ふと、目をあげたユージンも、いぶかしげに眉をひそめる。「──なに」
「だから」
レノが顎で町をさした。「お前ら、飯、食わねーの?」
薄く唇をあけたまま、二度、ユージンが瞬いた。
思考を走らせるように束の間目を伏せ、強ばった手足を、ゆっくり動かす。
吹っ切るようにして目をあげた。
「ああ、そうだよね。──なら、そうさせてもらうかな」
自信に満ちた顔つきは、いつものあのユージンだ。
さすがに一瞬うろたえはしたが、不意を突かれてひるんだ気分を、たちまち立て直したものらしい。落ち着いた風情で町をながめ、そちらへ向けて、おもむろに踏み出す。
すれ違いざま、目配せした。
(大丈夫だ)
──気づいてない。
素知らぬ顔で目の前を通過し、町への途上のレノへと歩く。
その姿を目で追ったレノが、頓着なく話しかけた。「そういやお前、伯爵は息災?」
「──ああ。寝たり起きたりというところかな。さすがに父も高齢だから」
「襲爵しねーの? 頃合だろ」
「いや、爵位は返上するつもり」
レノが怪訝そうに口をつぐみ、一拍おいてうかがった。「なんでまた」
ぶらぶらそちらへ向かいつつ、ユージンは困ったように苦笑する。「柄じゃないよ。僕は元々貴族じゃないし」
「やめて、その先どうすんの?」
「まあ、追々考えるさ。蓄えは一応あるし。──じゃ、後はよろしく。食事をしてくる」
「なあー」
「なに」
「──行ってくれば?」
え? とセヴィランは顔をあげた。
急に声をかけてきたレノが「だから飯」と向き直る。
「なんならお前も一緒に行けば? 昼も遅いし、腹減ったろ。馬車の番なら、俺いるし」
「……あ、ああ……そういう、な……」
まごつき、セヴィランは頭を掻く。
昼下がりの街道を、なんとはなしに見まわした。「そ、そうか──そうだな、うん……なら、悪いが、ちょっと俺も──」
「セヴィは、まだ、いいんだろう?」
強い語調がさえぎった。
「な、セヴィ?」
有無を言わさず、ユージンが制す。
踏み出しかけた足を引っ込め、セヴィランは無為にたじろぎ笑った。
「──あ、ああ。そうだった。うん──そういや、まだ、そんなに腹減ってないっていうか──俺はいいよ。あいつが飯から戻ってからで」
しどもどひるんで、レノに振り向く。実をいえば、今のやりとりで意識したおかげで、ひもじい腹が切ないが。だが、ああもあからさまに「来るな」と言われて、まさか、のこのこついても行けまい。
そ? と意外そうに首をかしげて「でも」とレノが振り向いた。
「今、ぐぅ〜って音しなかった?」
「し、し、してないだろ? いやだな、あんたの気のせいだって……」
レノの手前でユージンが(なにやってんだよっ!)と忌々しげな顔。
ジロリと舌打ち、肩を返した。「じゃ、僕はお先にね」
「なあー」
行きすぎようとしたユージンが、いかにもうんざり嘆息した。
「──なんだよ君は。まだ何かあるの?」
又も気軽に呼び止めたレノに、苛立った顔で振りえかる。「話なら、後でゆっくり聞くよ」
「アレ、俺の駒だから」
鼻白んだように口をつぐんだ。
レノが顎で示した荷台に、ユージンは無言で目を向ける。
事もなげなレノと対峙し、苦々しげに嘆息した。
「まったく、君は横暴だね。誰に身を寄せるかは、彼女が決めることだろう」
言い捨て、冷ややかに肩を返す。「じゃ、セヴィ」
腹に据えかねた勢いのまま、歩き出した肩越しに一瞥をくれる。
「後を頼む」
急な指名に面食らい、セヴィランは戸惑って頭をかいた。つまりは、レノを見張っておけ、と仄めかしたつもりらしいが──。
(俺は味方じゃねえっつの!)
ましてや、お前の子分じゃない。
内心むっとしていると、ぶらぶら入れ違いにやってきたレノが、棒読みの口調で顔を見た。「"レノには適当に言っといて"」
「……え?」
ぽかんとして、レノを見た。
だから、とレノは小首をかしげる。「気にしてたんじゃねーの? 戻った時間」
「──。あ、ああ。そうだったっけな、うん……」
そそくさ笑って頭を掻く。「いつから、いた」と訊いたのを律儀に覚えていたらしい。
(……いや、まてよ)
はたと気づいて、動きを止めた。
戻ってきたのがその辺りなら、あの話は終わっている。あとは差し障りのない話しか──
ほっと胸をなでおろし、ぐったり布壁に背を預けた。今回はどうにかなったが、油断大敵とはまさにこのこと、つくづく身に染みて反省する。
「で、なんの話?」
ちら、とレノが視線をくれる。
「悪口言ってた? 今、俺の」
ぎくり、と背中が突っ張った。
即席の笑みを頬に張りつけ、ぎくしゃくレノを振りかえる。「ま、まさか……」
ちらと見やったレノの横顔が笑みを含む。「仲いいな、お前ら」
「……あ?」
思考が彼方にぶっ飛んだ。
はあ!? と瞠目、振りかえる。
「冗談だろう!? なんで俺があんな奴と!?」
「なら、なんで、いつも、つるんでんの?」
うっ、と前のめりで固まった。
「そっ、……それは……まあ……」
ちょっと言えない。理由はあるが。
きょとんとレノは顔を見る。「だべってたろ? たった今」
「……まあ、そうなんだが……」
すごすご拳を引っこめた。どうにも承服できないが。
いささか腐って顔をゆがめ、──そうか、と気づいて目をあげた。
(……へえ、意外と繊細なんだな)
悪口なんかを気にするとは。
だが、実のところユージンとは、共同戦線を張るようなそんな楽しげな関係ではない。
今こうしてつるんでいるのは、単に間が悪かったからだ。出会いで正体を見破られ、彼女にバラすと脅された。そして、なし崩し的に連れになり、彼女を巡って攻防する羽目に──
(……何やってんだ俺は)
度々煮え湯を飲まされたこれまでの経緯が脳裏をめぐり、溜息で苦虫かみつぶした。
後手後手にまわっている。幾度も容易く出し抜かれるなど、以前ならば考えられない。あの程度の脅しなら、そもそも、どうとでも斥けられた。なのに、いいように丸め込まれてしまっている。
どうも頭がまわっていない。いや、元の体に馴染んでいない、それが一番の原因か。体の軽さに未だに戸惑い、気づくと意識がそれている。そう、つまりは注意散漫、その自覚は大いにある。あのユージンのことだって、これまでの言動を思い起こせば、わかりそうなものなのに。それにしても──
複雑な気分で、街道を見た。そこには、最寄りの町の入り口を目指す、あのユージンの小柄な背。「……貴族、だったんだな、あいつ」
「知らなかった?」
すぐに、隣から言葉が返る。
はっとして振り向くと、レノが笑って、ちらと見た。「友達なのに?」
「あ?──あっ、いや!」
独り言にはたと気づいて、あたふたレノに向き直った。「じ、実は、あいつとは知り合ったばかりで、まだそれほど立ち入った話は──」
「そ」
しどろもどろの愛想笑いで、いかにも怪しい言い訳だったが、それでもあっさり信じたらしい。納得したのか、そもそも大して興味がないのか、レノはぽんぽん所在なげに、煙草の灰を落としている。
「なら、教えといてやるけどさ、あいつの家は、オベール伯爵領を賜った、由緒あるトラビア貴族。ついでに俺は夜会つながり。お前、俺には興味ないんだ?」
「……え?」
「あいつの正体知った時には、あんなにしょげてたくせしてよ、俺には一度も訊かねーし」
「──あっ──あ、いや!」
急にすねられ、大いにあわてる。つか、毎日じかに世話してきたから、訊くまでもなく知ってるし!
「い、いや、決して興味がないとか、そういうわけじゃ──!」
「てゆーか、あの偏屈な爺さんに、ご落胤がいたとはな」
ふっ、と青空に紫煙を吐き、レノはまぶしそうに目をすがめる。
「どうやって丸めこんだんだか」
口調と話をあっさり戻され、セヴィランは空回りして連れを見た。「……え゛?」
「不思議だと思わない?」
レノは寛いだような体勢で、荷台の布壁に腕をもたせる。
「縁あって、大昔の肖像画を見たことがあってよ。夜会にも顔を出さねえ変わり者って触れ込みだったが、そっくりなんだよな、あいつの顔に」
思わず、セヴィランは口をつぐんだ。
とある可能性が脳裏をよぎる。嫌な予感をひた隠し、たじろぎ笑いで促した。「……つ、つまり?」
「あんがい本人だったりして」
ついに、応えに窮して押し黙った。
経験上、知っている。自分が老化しないのは。似たような素性のユージンも、おそらく事情は同じはず。どんな経緯でその絵に収まったのかは知らないが、あのユージンに限るなら、つまり、大いにありうる話で──
へら、と笑って頭を掻いた。
「い、いや〜、まさか〜。他人の空似か何かだろう?」
レノは紫煙をくゆらせている。
何も言わずに、顔を見ている。反応を見るように、ただ、じっと。
「……。な、な、なんだよ〜……?」
引きつり笑いを保ったままで、セヴィランは気まずく小首をかしげる。なぜ、そんなにじっと見る? なぜ、いつまでも口をきかない? その話題を遠ざけたくて、とっさにかばってしまったが──。もしや、なにか不自然だったか?──あ、そこは「親戚だから」とかなんとか言うべきだったか──!?
「──そーね」
身じろぎ、レノが紫煙を吐いた。
後ろ頭を幌にもたせて、夏の空をながめやる。
「あるわけねーか。そんなこと」
じっとり凝らした息を吐き、ほ〜……と密かにうなだれた。
これだけのことでぐったり脱力、何事もなくあくびしている連れを見る。飯から戻ってわずか数分。そのたった数分で、すでに何度、翻弄されたか……。
勘が鋭いのも困りものだな……と、町へ向かわされたユージンを見やった。徒歩で町まで行く羽目になった、哀れを誘う彼の背を。といって、むやみに援護はできないが。レノとはなるべく──いや、可能な限り絶対に、この男とはやり合いたくない。
すでに力を使い果たして、ユージンはよろめき歩いている。あ──
(……コケた?)
いわく言い難い思いで、漫然と見送る。なんて不憫な。あの異能をもってすれば、一瞬でどこへでも行けるのに。
異界への門を二度も開いて疲労困憊のユージンとしては、すぐにも寝床に飛び込んで、休息したいところだろう。だが、誰かに見られていては、異能は決して使えない。
じっとレノが、その背を見ていた。
見届けようとするかのように。別に興味などないのだろうに、よりにもよって、今の今──
奇妙な疑惑が、脳裏でふくらむ。もしや、これは深読みのしすぎか? だが、どうも、そうとしか思えない。
首をかしげて、頬を掻いた。なんだか、さっきから、
からかわれてないか?
「あんた、本当に面倒見がいいよな」
つくづく、というようにレノが見ていた。
急な誉め言葉に、セヴィランはあわてる。
「な、なんだよ、いきなり……」
かち合った視線は外したものの、含みがあるようで居心地が悪い。いつから、そうして見ていたのか。
チリ──と違和感が胸を焼いた。
何かをつかみ損ねたような嫌な焦燥。今、何かが分かりかけた。だが、意識がそれた瞬間に、よぎった影をつかみ損ねた。答えは、手の届く場所にあったのに。
もどかしさが心を逆なでする。逃げ去ったものは何だったのか、今となっては分からない。あと、ほんのもう少しで、何かが不意に氷解しそうな──
からかうような笑みで、レノが覗いた。「まだ気づかない?」
「な、何がだよ」
どうにも気分が落ち着かず、どぎまぎそわそわ、昼の街道に視線をめぐらす。
ふと、"それ"で目に留めた。
「──それ、あんたが持ってきたのか?」
車輪の陰に、ひっそり木桶。だが、なぜ、わざわざそんな物を──
用途に気づいて、意外な思いで振り向いた。
「案外、いいところあるんだな」
勝手気ままな道楽息子かと思いきや。
「なに急に」
「だから拭いてやろうってんだろ、ファレスの体。だから、あの桶に水汲んで──」
「誰が?」
拍子抜けして固まった。「……え?」
「水、そこに川あるから」
「……。俺、水汲み担当前提か? ついでにファレスの体も俺が……?」
「他に誰が?」
二の句が継げず、しばし固まる。
額をつかんで、うなだれた。「……てっきり、ファレスのためかとばかり……確かにあいつ、体臭きついが……」
飄然としたレノを見た。
「自分のためかよ」
「よくわかったね」
大正解、とレノはうなずく。
「体臭ってのもそうだけど、麻薬と酒がひどくてよ。渾然一体となって得も言われぬすげえ匂い醸してる。けど、荷台の中じゃ、逃げ場がねーし」
「そういうことなら、あんたが自分で──!」
「けど、そろそろ剥がしてやんねーと、」
ふう、と空に紫煙を吐き、煙草の手の甲で荷台をさした。
「あれじゃ、オカッパがもたねーぞ?」
うるせーしやかましーし面倒くせーけど、あいつ人並みに体力はねーから、と事もなげに事由を追加。
「つか、女男はともかくとして、あいつ、もうダメなんじゃね? 食わねーし寝ねーし動かねーし。もう、棺桶に片足つっこんだも同然つーか」
ぎょっと踊りあがって振り向いた。
「や、やめてくれっ! 縁起でもないっ!」
やつれて干からびたその姿をうっかり想像してしまい、ぶんぶん思い切り首を振る。連れは誰も知らないが、あながち冗談とも言えないのだ。そう、常に胸にある。あの夕刻の街角で彼女を──
「まー、なんにせよ」
緑ひろがる土手に目を据え、レノが青草をすがめ見た。
「怪物になる前に、始末しねーと」
詰まって、セヴィランは見返した。
「──お、おいおい。よせよ、物騒だな。確かにファレスは中毒者だが、その言い草は穏やかじゃないぞ。薬も大分抜けたろうし、そもそも意識も戻ってない。それを──」
がたん、と荷台で音がした。
何かが倒れたような大きな物音。だが、すでに買い取ったこの馬車に、積み荷など一つも置いていないが──。
はっと気づいて、セヴィランは駆け出す。もしや、ファレスが目を覚まし、禁断症状で
──暴れ出したか!?
ただちに馬車の後ろにまわり、幌に囲まれた荷台に飛びつく。
「おい! どうした!」
乗り出した肩が、凍りついた。
思いがけない光景に、愕然とその場に立ち尽くす。
「なんて、こった……」
奥歯をかみしめ、拳を握る。頭の働きが悪すぎる。
そうだ。いつかこうなることは薄々分かっていたはずだ。その予感があったればこそ、人探しを中断してでも、彼女の様子をうかがっていた。なのに──
考え得るかぎり、最悪の事態だった。
がらん、と物のない荷台の木床に、薄茶の長髪が投げ出されていた。
その端正な横顔の手前で、額をあらわにした黒髪が、仰向けで瞼を閉じている。意識の抜けた蒼白な顔。横倒しになった二人の姿──。
血の気が急速に引いていく。
血流が沸騰するような、全細胞が飛び跳ねるような、嫌なざわめきが駆けぬける。
連れは誰も知らないが、実は、彼女は、先日一度死にかけている。他ならぬ己が殺しかけた。ひょんなことで再会した、あの夕刻の街角で。よりにもよって覚醒の場に、運悪く居合わせてしまったがために。そう、これはどう見ても──
(俺のせい、か)
ツケを払う時がきた。
だが、何をどう償えばいい。
(又か……)
すべてが後手後手にまわっていた。なすすべもなく凝視した。底が抜けたような地表に立ち、拳を強く握りしめる。
「……なに。オカッパ、やっと起きたー?」
レノがあくびで身じろいで、煙草を踏み消し、やってくる。
のろのろ片手をもちあげて、手のひらで無為に顔をぬぐった。密かに恐れ続けたことが、現実のものとなっていた。日々様変わる状況に任せて、だらだら手をこまねく内に。どうする。彼女が、ついに、
死んだ。
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