■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章62
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どこをどう、歩いてきたのか、わからない。
気づけば、雑踏をさまよっていた。
抜け殻のように歩いていた。どこへ行く宛てもなく。すっかり暮れた星空を仰いで、エレーンは小さく溜息をつく。
彼女がこちらを見やった刹那、視線がかち合ったような気もしたが、戸口にいたこちらの姿を認めたかどうかはわからない。いや、気づきもしないだろう。店は薄暗く混んでいて、もし、彼女に見られたとしても、一面識もないのだから。面識さえ、ないのだから。
「……ばかみたい」
くすり、と自嘲の笑いがこぼれた。
宵の冷気が、ひとりの肩をつつみこむ。
「あたし、一人で、ばかみたい……」
胸の寒々とした空洞をかかえ、街路の端に立ちつくす。
ケネルが受けとった鍵は一つ。つまり、彼女と同室なのだ。まだ早い時間というのに、二人は二階へあがっていった。親密そうに腕を組んで──
ケネルは彼女を大事にしている。店の中でもフードをかぶせ、彼女を人目から隠していたくらいだ。美しい彼女を守るために。男たちの邪な思惑から。そういうところが、ケネルにはある。
「……そっか」
そういうことか、と腑に落ちた。この街に入る前、あんなにも足がすくんだ理由が。
こうなることを、きっと、どこかで予感していた。だから、足が無意識に拒んだ。入れば、終わってしまうから。
ここが「決別の場所」だから。
「ばかだ、あたし……」
思えば、夜の町で見かけた時から、二人はそういう仲だったのに。見て見ぬふりを決め込んで。偶然会った知り合いだろうと自分自身を誤魔化して。心のどこかでわかっていたのに──
腕を、後ろからつかまれた。
何が起きたか反応できず、エレーンはのろのろ振りかえる。
相手は長く走ったようで、肩で息をついている。若い男だ。きつい瞳の、いぶかしげな顔。この脱色したようなぼさぼさ頭は、街門で別れたザイの部下の──
「こんな所で何してんの」
腹立たしげな口ぶりで、ジョエルが前に回りこんだ。
せかせかと覗きこみ、面くらった顔で眉をひそめる。「──なに。あんた、どうしたの」
「……別に」
「どうしたのか訊いてんだけど」
「だから別に。ほっといてよ」
「それじゃ何もわかんねえだろ」
面倒そうに顔をしかめて、ぼさぼさの頭をガリガリ掻いた。
「これだからわかんねえんだよ、女ってのは。しょぼくれて歩いてるかと思えば、急に不機嫌になるとかよ。──わかってんの? あんたの周り、やばい連中がうろついてんの。市場なんかに入っちゃ駄目っしょ。かっさらわれたら、どうすんの。少しは自分で気をつけろよな。たく。こんな手のかかる保護対象は初めてだぜ」
え、とエレーンは眉をひそめた。「……もしかして、尾行してきた?」
「土地鑑ないだろ、このあたり。一周して気がすんだら、連れ戻せって班長が」
「……言われなくても戻るわよ。だって、他に行くとこないもん」
もう、他に行く所がない。
「は? 今度はふてくされるとか」
ジョエルが辟易としたように顔をしかめた。
「俺らがあんたに何したよ。あんなに班長によくしてもらって、何がそんなに気にくわねえんだか」
「だからっ! 言ってないでしょ! そんなことは一言も!」
「──いたか」
呼びかけられて振り向けば、そぞろ歩きの雑踏から、若い男が駆けてくる。
ジョエルと同じ革ジャン姿。黒の短髪、落ちついた顔。同じく門で別れたダナン。
こちらの姿を見失い、手分けして捜していたらしい。合図の手をあげたジョエルを認め、足どりをゆるめて近づいてくる。
確認するように顔を見て、怪訝そうにジョエルを見た。
「何をした」
……は? とジョエルが、口を尖らせて一瞥をくれる。「──何って何が」
ぎょっと一歩飛びのいた。
「ち、違うからな! 俺は何も──」
「そんなに命知らずとは知らなかった」
ダナンは淡々と腕を組む。「知っているか、班長の贔屓だ」
「だから違うって! 俺じゃねえし!」
何が起きたかようやく気づいて、エレーンはあわてて頬をぬぐう。
「俺は何もしてねえからな。見つけた時には、このザマで──」
うろたえ始めた逃げ腰ながらも、ジョエルが挑むようにねめつけた。「あんたもそういう、まぎらわしい真似すんなよなっ」
「何かあったか」
委細かまわず、ダナンがおもむろに目を向けた。
静かに事情を尋ねられ、とっさに瞳を見つめてしまう。真正面から来られて逃げられない。淡々とした黒い瞳。物に動じぬ佇まい。相手の調子に巻きこまれることのない──。ぶざまに泣いている相手に気づけば、気まずく目をそむけるか、うろたえるのが普通だろうに。
ざわり、と胸の奥底が波立つ。
(なんか、この人……)
──ケネルに似ている。
今しがたの酒場が脳裏をかすめ、力が抜け落ち、へたり込んだ。
とっさに支えようとしたダナンの腕を、伝い落ちるような形になったが、ダナンにあわてた様子はない。とはいえ、関心がないでもないようで、一言だけ簡潔に尋ねた。「大丈夫か」
「……大丈夫じゃない」
唇をかんで、うなだれる。ぽろぽろ涙が伝って落ちた。だが、膝でつよく手を握り、こみあげた嗚咽は必死でこらえる。顔をあげずにうつむいていれば、この暗がりで、彼らには見えない。
あの夕刻の雑踏でずっと、彼女は寄り添っていたのかもしれない。目深にかぶったフードの下で、ケネルに笑いかけながら。ばかみたいに、知らない街を、ケネルを追っている間じゅう。
のこのこついて行ってその挙句、恋人たちに出くわした。──とんだ道化だ。
目の前の靴は、動かない。
ダナンが無言で見おろしている。問い質しもしなければ、迷惑そうに追い立てるでもない。慰めてくれるでもなかったが。
でも、無駄口はきかず、待っていてくれる。詮索せずに、ほうっておいてくれる。こんな道ばたで座りこまれて、さぞや困っているのだろうに。
早く立ちあがった方がいい。立って、笑ってみせないと。"なあんてね。冗談。びっくりした?" さあ、早く立たないと。わかっている。それはわかっているけれど、まだ、顔はあげられない。
「あんたの用事は済んだのか」
やがて、静かにダナンが尋ねた。
「……用は……うん、済んだ」
言葉にすると、胸が痛んだ。すべて、すっかり片付いてしまった。
すべてがうつろで空っぽだった。いっそ、すがりついてしまいたい時に、なぜ、彼がいないのだろう。ここにいるのが、せめて、あの彼ならば──
つのる想いが呟きとなって、知らないうちに口からこぼれた。
「……セレスタン、どこ?」
息を飲んだ気配がした。
怪訝にエレーンは顔をあげる。
見やった視線から二人は逃れ、すばやく目を見交わした。
ジョエルがどこか苛々と、眉をひそめてそっぽを向く。「なんで、そんなこと訊くんだよ」
先の怯んだ様子から一転、邪険な態度に面くらった。「え、だって……一人だけいないし。ザイに訊いても、何も教えてくれないし」
「──そりゃ、そうだろ。あのハゲは、」
「確保の連絡を、班長に」
たまりかねたような舌打ちを、静かな声がさえぎった。
ダナンが身じろぎ、雑踏に向けて目でうながす。
「お前は戻った方がいい」
我に返ったようにジョエルが見、顔をしかめて目をそむけた。「──そうする。お前は連れて、後から来い」
ぷい、と雑踏へ走り出す。
態度一変の理由が解せず、あぜんとエレーンは見送った。「……あたし、そんなに悪いこと訊いた?」
だが、いくら待っても返事がない。怪訝に思い、ふと仰ぐ。
たちまち雑踏にまぎれた背中を、ダナンは黙ってながめていた。ほんのわずか目をすがめて。
ひそかにエレーンは戸惑った。まただ。ぎくしゃくしたこの反応──。
セレスタンのことを尋ねると、なぜ、皆困ったような、忌々しげな顔をするのか。
前にザイに尋ねた時にも、態度がどこか変だった。今もダナンがジョエルの口を封じるように──。
初めは、小さな違和感だった。
だが、今のやりとりで、はっきり分かった。それとなく誤魔化してはいるようだが、彼らは何かを隠している。
そろりと目をあげ、思い切って尋ねる。「……今、追い払ったよね、ジョエルのこと。どうして?」
「あいつは喋りすぎる」
苦々しげに、ダナンは身じろぐ。やはり、触れられたくないらしい。
「ねえ、何かあった? セレスタン」
宵の雑踏のざわめきが満ちた。
そぞろ歩く人波を、ダナンの瞳はながめている。ゆらぎのない静かな横顔。口をひらく気配はない。エレーンは焦れて、かさねて尋ねる。「ねえ、聞いてる? セレスタンに何が──」
「あんた、秘密は守れるか」
急な念押しに面くらった。
「な、なんかあんの?大変なことが。あ、外に漏れたら、まずいとかいう……?」
ダナンが振りむき、目を見つめた。
なにかを見極めるような冷静な視線。無言の真顔にたじろいで、落ちつかない気分で唾をのむ。「ど、どうかしたの? セレスタン……」
「あの人はいない。あの人は──」
ダナンがためらうように口をつぐんだ。
だが、観念したように息を吐き、言い聞かせるように言いなおした。
「あの人はいない。死んだから」
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