■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章64
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若い男だ。
脱色したような、ぼさぼさの頭の。あれは、一体誰だったか──たしか、ゆうべ言い合いになった、ザイの部下の──そう、ジョエル。
寝乱れた敷布の上にいた。
椅子も机も、何もない、い草の敷物の広い部屋。
隅には、大雑把に積まれた布団。ゆうべも、あのザイたちと、ここで雑魚寝をしたのだろう。
引き戸の向こうに立ったまま、ジョエルは、どことなく戸惑った顔つき。
ふい、と廊下へ肩を返した。「──待ってろ。班長を呼んできてやる」
「……いないの? みんな」
踏み出しかけた足を止め、ジョエルが横顔で目だけを向けた。
「下に、ダナンがいる」
……ダナンというのは、誰だっけ。
まだ霧のかかった頭で、それについて考える。
ずきずきと頭が痛んだ。熱をもって瞼が重い。……ああ、黒い髪のあの彼か。この彼と迎えにきて、宿まで送り届けてくれた、落ち着いた雰囲気がケネルに似ている──
そういえば、窓からさしこむ陽ざしが強い。
いつのまに夜があけたのか。
ぬるくなった敷布に手をつき、気だるい膝をなんとか立てる。「……なら、お礼、言ってこないと」
「あんた、下に行く気かよ」
ジョエルが面食らったように眉をひそめた。
意味がわからず見返すと、歯がゆそうに舌打ちする。「だから、──調子の悪い、ところはないのか。しびれるとか、苦しいとか、どこか気持ち悪いとか」
言われて、座りこんだ膝を見た。「……別に、なにも」
「──へえ」
ジョエルは顎をつかんで目をそらし、ぼそり、と壁につぶやいた。「あいつ、まともな方もイケるのか……」
用でもあるのか、まだ廊下に立っている。
少し困って、微笑みかけた。「あの、そこの戸、閉めてくれる? 服、汗だくで、着替えないと」
「──あんたさ」
たまりかねたように遮られた。
ジョエルは横を向いたまま、ガリガリ頭を掻いている。
「──あんたさ、もう泣くなよ」
顔をしかめてようやく続け、ぶっきらぼうに壁に言った。
「あのハゲがいなくても、俺らがあんたを守るから」
遠く世界から隔たった、深く静かな水底を、歩いているようだった。
ふわふわ足が、体全体が、おぼつかない。
四角く陽を切りとった玄関に向かって階段を降りると、宿の大抵にあるような、食事の店は一階になかった。
石床の廊下が奥へ伸び ひっそり静まった両側に、端まで引き戸を開け放った、い草の敷物の部屋がある。やはり、靴を脱いであがる造りで、膝下の高さに、い草の床。
向かいの壁はすべて腰窓、部屋にあふれた白い夏日が、尚のこと静寂を引き立たせる。
通路の左右どちらの部屋も、がらんとしてだだっ広く、部屋を仕切る壁がない。雑魚寝をするなら一部屋に、大人十人優に泊まれる広さがあるが、家具の一つもない空間は、客室にしては愛想がない。
ザイたちがよく利用する木賃宿であるらしいが、室内はおろか廊下も水場も、がらんとして人がいない。
玄関わきに戻ってみると、長椅子の置かれた、少し広くなった場所があった。
革張りの座面がひっそりと、窓からの陽を浴びている。やはり、誰の姿もない。「ダナンが階下にいる」と聞いていたが、もう出かけてしまったのだろうか。
ほの暗い玄関を出ると、強い夏日に目がくらんだ。
白く乾いた土道が、左右に長く伸びている。道幅は広くないから、裏道に面しているのだろう。道で陽炎がゆらぐような、日中の通りは閑散として、遠くの街角まで誰もいない。
出てきた建物を振り向くと、やはり、白茶けた壁だった。うっすら赤みがかった日干し煉瓦の。道のはるか向こうまで、似たような色合いが続いている。
この街はどこも総じて、乾いた大地のように白茶けている。ここザルトは大きな都市だが、その街の外観に、商都のような華やかさはない。常に風のある西方は、乾燥した強い日ざしで、褪色が早く進むのかもしれない。
小鳥がどこかで鳴いていた。
降りそそぐ陽を浴びて、屋根で梢がそよいでいる。
右隣の建物との間が、すこし広くなっている。それに気づいて裏へまわると、木陰の椅子に腰をかけ、新聞を広げた彼がいた。捜していた、短髪の──
「──ちょっと、いい?」
気後れしながら声をかけると、ダナンが紙面から目をあげた。
隣の椅子に新聞をおき、いぶかしげに顔を見る。
「あんた、具合は」
面食らって見返した。なぜ、皆、開口一番、同じことを訊くのだろう。さっきのジョエルもそうだった。そんなにひどい顔をしているのだろうか。
「……ん。ありがと。なんともない。なんか、ひどく疲れてるけど」
ダナンは「──そうか」と返事をし、だが、何かまだあるようで、ためらうように顔を見ている。
やむなく、ぎこちなく微笑いかけた。「あの……ゆうべはごめんなさい。あなたに迷惑かけちゃって」
「俺の方こそ、すまなかった」
言わんとする意味が分からず、小首をかしげて先を促す。ダナンが軽く嘆息した。
「あんなに泣くとは思わなかった」
視界をあまねく覆っていた、深い霧がたちどころに晴れた。
なんの話か不意に気がついて、エレーンはのろのろ目をそらす。「あ……セレスタンは……なんていうか、特別だから」
「喜ぶよ、あの人も」
労わるような静かな声に、ざわざわと心が騒いだ。
胸で握った指が震える。その現実を突きつけられて、嗚咽をかみ殺した唇がわななく。
一人で心細かったバルドールの町に、笑って迎えに来てくれた。
合宿所のような静かな館内、人の来ない三階の廊下の、隅に置かれた長椅子で、新聞をかぶって昼寝をしていた。助けられたレーヌの家に、すぐに迎えに来てくれた。高い上背。穏やかな物腰。黒い眼鏡とあの禿頭。もう、どうにも、できはしない。
もう、誰にも、どうにもできない、どこを捜しても、もう会えない。あの笑顔は見られない。もう、セレスタンはいないのだ。
どこにも。
「──すまない」
ダナンが椅子から立ちあがった。
ゆっくり、目の前に気配が近づく。伏せた視界に、革靴の先。
「すまない」
いたたまれなさが、その声ににじむ。
足元の野草を凝視したまま、エレーンは奥歯をかみしめた。まただ。また困らせている。この人は何も悪くないのに。
胸にこみあげた慟哭を、息を吐いて辛うじて押しこめ、気力を奮い立たせて顔をあげた。
「ううん。あなたのせいじゃないもの。むしろ、あたしが無理に話を──」
はっとして顔をあげた。
あわててダナンの顔を見る。「あ、あのっ、ごめんなさい。あの後、もしかして怒られたんじゃ……」
あの訃報を聞く前に、釘をさされたはずだった。これは内密の話だと。なのに、自分はザイに泣きつき、一晩中訴えてしまった。彼を奪われた理不尽さを。よりにもよって、あのザイに。伏せておくよう命じたのだろう、ダナンの班の班長に。
彼の立場がまずくなってしまったのではないかと、遅まきながら、おろおろうかがう。
いや、とダナンは首を振り、静かな瞳で見返した。
「俺の考えが足りなかった。参ってるあんたに言うことじゃなかった」
「──でも、あれは、あたしが無理に」
「行こう」
面食らって見かえすと、ダナンは怒ったふうもなく、乾いた道に踏み出した。
「なにか食べた方がいい」
細かな砂がさらさらと、乾いた街路に流れていく。
宿と同じ日干し煉瓦の、白茶けた石壁が連なっている。
きのう馬車を降りた時、門の向こうにそびえた街が、白茶けた外観だったのは、街の建物の大半が同じ造りであるためらしい。
明るい陽ざしで見る街は、どこもかしこも薄茶けていた。
道も、建物も、遠くの山も。そして、人々の装いも。たまに見かける身形はやはり、ゆうべと同じ《サージェ》だったが、今日は外套のフードをかぶり、メガネをかけた姿が目立つ。
ゆうべの肌寒さから、防寒用かと思っていたが、皆がまとう外套には、風で舞い立つ地面の砂と、常に照りつける強い陽射しを、防ぐ役割もあるらしい。確かに、なんの気なしに気楽な身形で出かければ、たちまち砂まみれになってしまう。だから、西を目指すセヴィランは──あの親切な《
どくろ亭 》の主は、この辺りの気候に備えて、旅路で《サージェ》を買ったのか。あの外套があったから、あの時、賊からかくまってもらえた──。
道に落ちた影が濃い。
軒下に吊られた風鈴が、ゆるい風にゆれている。
凪いだ昼さがりの街を往き、ダナンはとある飲食店に入った。
この辺りには珍しい、赤い鉄枠の垢ぬけた店だ。大きなパラソルの席をいくつか、店先の通りに出している。
歩道に面した前面をすべて開け放った店内に、ダナンはためらうことなく入っていく。
その寡黙なシャツの背を、意外な思いでエレーンは見やった。先の宿には食堂がないから、行きつけの定食屋にでも連れて行くのだろうと思っていたが、こちらが女性ということで、配慮してくれたらしい。
板張りの床に、四人がけの卓が八つ。昼時にしては遅いのか、客の姿は見当たらない。
ほの暗い奥のカウンターにもたれて、男が三人、暇そうにたむろしている。皆、黒い前かけを腰でしめ、黒っぽい色合いの、丸首シャツに銀のチェーン。そして、長めの茶髪頭。
壁の品書きから注文し、客商売にしては不愛想な店員の一人から、粥の盆を受けとる。
ダナンに続いて外に出て、店先に設えられた、パラソルの下のテラス席についた。店内の席はガラガラだが、屋外の方が、風がある。
寡黙な連れのダナンと二人、パラソルの下で食事をした。
ようやく半分食べ終えたところで、エレーンは軽く溜息をつく。やはり食が進まない。
向かいに座ったダナンの方は、傭兵は早食いの例に漏れず、ずいぶん前に食べ終わっている。そして、鶏の皿を脇に置き、膝で新聞を広げている。この彼も案の定、何も話さず黙っていても、痛痒を感じない人種のようだ。
指でもてあそぶばかりになっていた、匙を観念して膳に戻す。
律儀で寡黙な向かいの連れに、エレーンは頬杖で微笑みかけた。
「ねえ、あそこで何してたの?」
「──別に」
ダナンの応えは簡潔だ。いくらでも話はできるのだろうに、結論のみを率直に伝える。けれど、会話を嫌がっているのでもなければ、不親切なのでも邪険なのでもない。「新聞を読んでいただけだから、特に話すことがない」そう彼は言っただけ。応えるまでの少しの間が、思案を巡らせたことを物語っている。本当に、この人はケネルに似ている── 「……ねえ、ダナン。恋人はいる?」
「いや」
「募集してる?」
ダナンは身じろぎ、天を仰ぐ。
「特に考えたことがない」
「──そっか」
ふと、気づいたように振り向いた。
「今、俺を口説いたか?」
案の定の、反応の鈍さだ。
聞いただけ、とエレーンは微笑う。
「あたし、あなたが下にいるって、あのジョエルから聞いたから。──なんか皮肉な話よね。会えば、すぐに喧嘩になるのに、まっ先に顔を合わせたのが、あいつとか」
「それは別に不思議じゃない」
見ていた新聞を、ダナンは畳む。「しょっちゅう、顔を出していたから」
「……え?」
面食らって見返した。「え、なに? しょっちゅうって」
「あんた、覚えていないのか? あんたが寝ついたのは二日前だ」
ふと、ダナンは気づいたように、脇から新聞をとりあげた。
今日のだ、と手渡された日付に、あっけにとられてエレーンは見入る。それは確かに、二日の経過を知らせている。
「あいつ、あれで気にしていたらしくて。しょっちゅう部屋に出向いては、日がな一人で様子を見ていた」
「……そう、なんだ」
なんと返していいのかわからず、宿の方角を呆然と見やった。
その当人がいた、あの宿を。そっぽを向いた、しかめっ面。廊下でこちらを見つけた時の、あわてたような戸惑い顔。仕掛けた悪戯が見つかって、逃げ出す間際の男児のような──。
くすり、と思わず頬がゆるんだ。「……あの子、意外と、いい子よね」
「──"あの子" なんて言うな」
ダナンが溜息まじりに顔をしかめた。「聞いたら、あいつ、むきになって怒──」
「なに。誰の話?」
天板の端に、影がさした。
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