【ディール急襲】 第3部2章

CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章70
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 しゃがみこんだ卓の下、どきん、どきん、と胸が打ち鳴る。
 とっさに隠れたヒダの中、身を縮めて息を殺す。周囲をおおう白い卓布。身を固くした視界には、歩道のせた石畳──。
 うつむき見据えたその端に、靴が唐突に現れた。
 街路を踏んだ革靴の先が、昼の夏日を浴びている。いかにも履きこんだ、頑丈そうな──。やはり陽を浴びたズボンの両足。乾いた生地の、すそのあたりが白っぽい。街路の砂をまきあげる、この風のせいだろうか。
「どこへ行った、あいつ」
 どきん、と鼓動が飛びはねた。
「こっちへ来たと、思ったんだがな……」
 ──ケネルの、声。
 久しぶりに聞くケネルの声。それだけで、胸がいっぱいになる。あのケネルが、そこにいる──。
 ぴくり、と仔猫が顔をあげた。
 華奢な手足を、思いきり突っ張る。知らない声に警戒したか、しきりにもがいて身をよじる。あわててエレーンは抱きすくめた。
(お、おとなしくしてて!? お願いだから)
 ケネルの注意を引きたくない。猫が足元から飛び出せば、何かの拍子に覗くかもしれない。
 白い裾の向こうには、歩道に立つケネルの足。仔猫が急に暴れたが、気配に気づいた様子はない。
 あの彼が、そこにいた。
 この卓の、すぐ脇に。
 不思議な巡り合わせに、胸が波立つ。
 ザルトは有数の街道の都市で、店など他にいくらでもあるのに、宿から離れた街はずれまで、なぜ、ケネルはやって来た? あたかも、ここを目指すかのように。そう、まさに、
 寸分たがわず・・・・・・
 もしやケネルも、こちらの気配をたぐり寄せて──
 ……いや、そうではないだろう。
 だって、ケネルは気づかない。
 こんなに近くにいるというのに。手を伸ばせば、届くほど、こんなにすぐ近くにいるのに。
(……何やってるんだろう、あたし)
 隠れた卓下で膝をかかえて、エレーンは苦々しく眉をひそめた。ずっとケネルに会いたかったくせに。なのに、いざ、その段になったら、なぜ、こんな所に隠れている。
 ……決まってる。
 今しがた、釘をさされたばかり。用がないなら、邪魔をするなと。あのケネルの彼女から。
 ケネルを振った覚えなどないし、言い分がないでもないのだけれど、彼らの事情は聞いていた。ケネルと彼女に起こったことは。彼女と一夜を共にしたこと。所帯をもつ予定であること。今は、顔を合わせたくない──。
 卓布の裾のむこうには、乾いた土のついたズボンの足。
 まだ、ケネルは動かない。いったい何をしているのか。何がそんなに気になるのか。この気負いのない様子では、自分がここにいることに気づいたふうでもなさそうだけれど──。
 浅い溜息で、首を振った。そう、いつだって、こっちばかり。
 こっちばかりが気にしてる。こっちばっかりがケネルを見てる。ケネルはちっとも気づかない。こんなにすぐ、近くにいるのに。
 ……いや、それも当然か。同じ街にいるなんて、ケネルは思いもしないのだから。それは、わかっているけれど──
 そっと、ゆっくり身じろいで、しゃがんだ膝をかかえ直す。それでも、ケネルに見つけてほしい。
 隠れているのは知られたくない。けれど、ここにいることに気づいてほしい。こんなに近くに、
 ここに・・・、いるのに!
「──ちょうどいいか」
 独り言が、耳にとどいた。
 けた歩道にたたずんだ、ケネルの頑丈な革靴が動く。
 気配が離れたその直後、ふっと大気が軽くなる。
 気張った肩から、力がぬけた。安堵とも落胆ともつかない、浅い溜息が靴先に落ちる。ケネルはどこへ行ったのかと、卓布の端をそっとめくる。
 椅子の脚の向こう側、夏日を浴びた石畳。歩道の先まで、姿はない。日陰になった町角にも。
 そのまま視線をめぐらせば、ケネルは店の中にいた。ほの暗い奥のカウンターで、店員と何か話している。やり取りしているのは、あの"エンジ"
 ふと、ケネルが振り向いた。
 あわてて顔を引っこめる。
 卓布の裾の隙間から、慎重に外をうかがえば、ケネルに気づいた様子はない。"エンジ"に何か促されたようで、人けない街路を見渡している。
 その肩を返して、踏み出した。店のほの暗い板床を歩いて、間口を開け放った店から、
 ──出てくる。
 突然のことにあわてふためき、天板の支柱に張りついた。
 つかつか、ケネルの気配が近づく。
 夏日にけたレンガの歩道に、ズボンの足が現れた。
 白い卓布の向こうを凝視し、ごくり、とエレーンは唾をのむ。まっすぐ、ここに戻ってきた? ならば、まさか、
 ──気づかれた?
 バン──! と天板がとどろいた。
 頭上の激しい衝撃に、びくり、とエレーンは首をすくめる。
「──畜生」
 腹立ちまぎれの苛立った声。もしや、卓を叩いたのか? 
 天板の下で、あっけにとられる。確かにケネルは傭兵だから、荒っぽいところもあるけれど、 声を荒げてののしるなんて。
「くそ! どこへ行った!」
 足が動いて、きびすをかえす。
 それにともない気がゆるみ、あの気配が次第に遠のく。
 隠れていた卓布から、そろりとエレーンは顔を出した。街路の町角を見渡しながら、その背が小走りで遠のいていく。
 店の中から、人が出てきた。
 同じくそちらに目を据えているのは、店でケネルに対応していた、臙脂えんじのシャツの店員だ
 用済みの店には目もくれず、ケネルの背中が町角を折れる。
「──これだよ」
 顔をしかめて"エンジ"はながめ、ヒュウ、と揶揄まじりの口笛を吹いた。「あー、おっかねえ」
 濃紺のシャツと黒シャツも、店の中から恐々出てきた。ひっそり凪いだ昼の街路を、当惑顔で見まわしている。もう、いないか、という顔で。
 三人それぞれ歩道に立ち、顎をなで、頭を掻き、途方に暮れたような渋い顔。店での会話は知るべくもないが、中で何かあったのだろうか。
 エレーンは隠れた卓の下から、猫を抱いて、渋面をあおぐ。「……あのぉ」
 声に気づいた三人が、ふと、足元に目を向ける。
 ぎょっと、半歩飛びのいた。
 何をそんなに驚いているのか、あんぐり口をあけて、互いを見かわす。
 臙脂えんじのシャツがのろのろと、絶句したまま目を向けた。
 何度か口を開閉し、やっと、といった感じで口をひらく。
「……あんた、いたの?」
 キツネにつままれたような困惑顔。まあ、そりゃ驚きもするか。小さな子供でもないかぎり、地べたでしゃがんで見あげていれば。
「──か〜っ! たく! アリかよそんなの」
 片手で頭を掻きむしり、濃紺のシャツが顔をしかめた。
 こっちのことよりケネルの方が気になるようで、彼が消えた町角を、肩を落としてながめている。「……おい、どうするよ」
「──どうするったって」
 途方に暮れたように黒シャツがごち、昼の静かな町角に、舌打ちで視線をめぐらせる。「仕方ないだろ、この場合」
 お手上げだわ、と肩をすくめて、捨て鉢な足どりで戻っていく。
「そうだよな〜……」と頭を掻いて、濃紺のシャツもやれやれと続く。それを見送った臙脂えんじのシャツが、つくづくというように振り向いた。「あんた、なんだって、そんな所に」
「あ、──えっと、その、」
 エレーンはぎこちなく、えへへ、と笑い、卓の下から、もそもそ這い出る。「ちょっと、この子がもぐっちゃって」
 そんな呆れはてた顔しなくっても〜、と仔猫をなでつつ、引きつり笑い。
 いかにも投げやりに"エンジ"が見、ふと、腕を見返した。
「──あっ、お前」
 腕の仔猫と"エンジ"の顔を、エレーンはきょとんと見比べる。「え、この子、知ってるの?」
「こいつの縄張りでね、この辺は」
 はあ、と"エンジ"は、溜息で身じろぐ。
「うちの店もエサ場らしくて、ちょくちょく顔を出すからさ。こっちも店の残りをやったり──しかし、いたのかよ。参ったね」
 言葉の後半、往生したような繰り言でつぶやき、"エンジ"はガリガリ、顔をしかめて頭を掻く。
「どこへ行ったかと思ったよ。帰ったにしちゃ、あいつらが戻った様子もないしさ」
 不平とも非難ともつかない愚痴。
 はあ、とエレーンはあいまいに微笑った。なぜに、そんなに行方を気にする? もしや、会計がまだだったとか──いや、食事の膳を受けとった時に、ダナンが勘定を済ませたはずだ。あ、食後のデザート、サービスしたのに、挨拶もなしとはなんたる不届き、けしからん、とかそういう話か……?
(そんなに固そうには見えないけどな〜)と"エンジ"の顔をそろりとうかがい、先の町角へ目を向ける。「それで、今の人、何をしに?」
 そう、そんなことより、ケネルの話が気にかかる。
 彼が折れた町角に、ああ、と"エンジ"も目を向ける。
「二十代半ばの若い女を見なかったか、って訊くからさ、たった今まで、ここにいた、と言ったら」
 "ここ"のところで、卓の天板を指先ではじき、溜息まじりに頭を掻く。
「あの通り、えらい剣幕で飛び出していった」
 鋭い痛みが胸に走り、とっさにエレーンは目を伏せた。
「……そう、ですか」
 ここで話をしていたあの彼女を、ケネルは捜しに来たらしい。だが、ようやく店を探し当てた時には、すでに帰った後だった──。
 通りに張り出した街路樹の、枝の緑がさらさら揺れる。
 指先の感覚が失せていく、手のひらを、ぎゅっと固く握る。「──ダナンに伝えてもらえますか、先に宿に戻るって」
「は?──いや、もうちょい待ちなよ。いくらなんでも、もう戻ってくるだろうし」
「ううん。もういい。先に帰る。なんか、ちょっと疲れちゃって」
「──。あ〜」
 連れの姿を捜すように "エンジ"が頭を掻いて見まわした。「なら、ちょっと待ってて。送ってく」 
「い、いいです。まだ明るいし」
「まあ、遠慮すんなって。どうせ、俺も交代あがりだし」
「あ、でも、泊まってる宿、どこだか知らな──」 
「知ってる」
 エレーンは面食らって見返した。「……え?」
「だから、あんたらが泊まってる宿ところ
 街路の先を"エンジ"はながめ、事もなげに振り向いた。
「あそこ、俺らの下宿なんだよね」
 
 
 くしゅん──とくしゃみで目が覚めた。
 かかえた膝から目をあげれば、窓の外は濃紺の星空。い草の敷物の室内も、すっかり暗くなっている。
 がらん、と広いい草の床に、月明かりだけが射していた。
 夜間に使う鉄枠のランプが、引き戸の近くに置いてあるが、今は壁の暗がりで、このまま静かにうずくまっていたい。
 "エンジ"は一緒に部屋までくると、窓を開け放って換気をし、「じゃあね」と階段を下りていった。店で働く人たちの下宿は、建物の階下であるらしい。
 しん、と静かな肌寒い宵、壁の暗がりで膝をかかえる。そういえば、仔猫がいない。
 気づいて、暗がりに姿を捜す。窓から射しこむ月明かり。がらんとした敷物の床。家具一つない暗い壁──。
 あの後 "エンジ"から残りものをもらって、店先で皿を平らげた仔猫を、部屋まで連れ戻ったはずだった。"エンジ"によれば、この宿は、仔猫の棲み処すみかでもあるようで、しょっちゅう部屋に入りこんでは、丸くなっている、とのことだったから。
 ぼんやり視線をめぐらせて、左端の窓で目をとめた。
 開け放った窓の外、濃紺の夜空を背景に、枝を張り出した大木があった。どっしり太い枝の先が、窓のすぐそこまで迫っている。
「……なんだ。行っちゃったのか」
 枝を伝って降りるなど、猫には造作もないだろう。
 軽い溜息で立ちあがり、夜風たゆたう窓へと歩いた。こっちが眠ってしまったから、退屈して出て行ったらしい。気分の滅入ったこんな時こそ、一緒にいてほしいのに。
 建物の軒下の草むらで、夏虫がリーリー鳴いている。
 がらんと広い、月明かりの部屋。誰も、いない。
 送ってくれたあの"エンジ"も、長居をせずに引きあげた。店に伝言を残したはずだが、ダナンもジョエルも戻ってこない。
 窓枠に気だるく寄りかかり、星のまたたく空を見あげる。
 昼の一連の出来事が、ぼんやり脳裏によみがえる。あの彼女に言われたこと。ケネルが突然現れたこと。こちらに気づかず、駆け去ったこと──。
「……そっか」
 目を閉じ、くすり、とエレーンは微笑った。なぜ、ケネルが現れたのか、ずっと考えていたけれど、その答えがようやくわかった。
「そっか。彼女と喧嘩・・したんだ……」
 それで彼女を追ってきた。それならば、つじつまが合う。まるでケネルを突き放すような、彼女の奇妙な言動も。
「……ばかみたい」
 もう、とっくに終わっていた・・・・・・のに。あの診療所での待ち合わせは。あの暑い時計台の上で、ケネルがくれたあの言葉は。ケネルはもう、次の相手と出会ったのだから。
 妙に静まった、凪いだ気分で、夜空にかがやく星々をながめる。
 階下の茂みで、夏虫がリーリー鳴いている。
「……あたしも、終わりに、しないとね」 
 窓辺にもたれて、息を吐く。
 不意にあふれ出たその熱が、体の隅々にまで広がった。もう、誤魔化しようもないほどに。
 エレーンは戸惑い、瞳をゆらす。「……どうしよう」
 ケネルが好きだ。
 ──どうしようもなく。
 銀の星々がまたたいていた。
 夜闇で梢が、さわさわそよぐ。夜風が腕に肌寒い。ふと、廊下を振り向いた。
 建物のどこかで物音がした。
 音の出所は、階下のようだ。ダナンたちが戻ったのだろうか。
 "エンジ"が帰り際に閉めていった引き戸が、暗がりの中で静まっていた。何気なく耳をすませば、どことなく騒がしい。かすかに聞こえる話し声。何を言っているのかわからないが、あわてたような気配が伝わる。
 階段をあがる音がする。やはり、ダナンたちが戻ってきた? それにしては、足音がいやに荒いけれど──
 何かを思うより早く、廊下の引き戸が、だしぬけにあいた。
 暗がりの中に立っている、不躾な相手を怪訝に見やる。
 はっと、エレーンは身構えた。
「──だ、誰?」
 暗い廊下に立っていたのは、フードをかぶった外套の男。
 上背があり、黒いめがねをかけている。裾の長いサージェとめがねは、街でよく見る組み合わせだが、その人影はどう見ても、ダナンたちでも "エンジ"たちでもない。そういえば、階下が騒がしい。つまり、この男は、
 ──侵入者。
 相手を確認するように、廊下のサージェが小首をかしげた。
 月明かりの逆光で、こちらの顔が見えないらしい。外套の裾を蹴りさばき、男の足がつかつか踏みこむ。
 気づいた時には、遅かった。
 後ずさった肩が、後ろの窓に突き当たる。逃げ場を失い、おろおろ無為に部屋を見まわす。
(ど、どうしたら……)
 今、誰もいないのに!
 突然のことで反応できず、足が萎えて動かない。そうする間にも、サージェの男が距離を詰め、あっという間に目の前に迫る。顔を覗きこむように小首をかしげたその拍子に、フードの端で銀光がきらめく。
 肩を、ついにつかまれた。
 顔をそむけて目をつぶり、エレーンは喉の奥で悲鳴をあげる。
「ひ〜めさん」
 つぶった瞼を、ふとあけた。思いがけない、この呼びかけ。この声は、
 ──まさか。
 思考と現実が混乱をきたし、頭がうまく働かない。なにがなんだか、わからない。
 こちらの肩に手をかけて、外套の男が立っていた。
 フードの縁から肩まで垂れた、銀の細い鎖が光る。男は困ったように苦笑いし、片手でフードを取り払う。
「しょうがないよな。だって、誰もいないんすもん」
 引き戸の向こう、暗がりの階下で、荒い物音が続いていた。
 夏虫が静かに鳴いている。月明かりを浴びたその顔を仰いで、エレーンは愕然とつぶやいた。
「……セレス、タン?」
 
 
 

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