interval 6 〜 夜明け前 〜
あぐらに置いた肘下を、夜の冷気が、ひんやりなでる。
湿気をふんだんに含んだそれは、暑気を払拭する冷涼さ。むしろ、いささか肌寒い。
西の壁の連窓から、星明かりが射していた。
隣家の垂直な石壁のむこうに、濃紺の空が覗いている。この長い夜が明けるまで、今しばらくの時がかかる。
うすく盛りあがった掛布の下には、夜目にも白い客の顔。ゆうべ散々泣きじゃくった後に、糸が切れたように昏倒し、それきり意識が戻らない。
付きそいの番を部下と代わり、客の様子を見にきたザイは、開けはなった窓を、あぐらでながめる。
夏の明け方、街はまだ、未明の闇に呑まれている。
トラビア街道の要衝ザルト。
東方にあるノアニールと並んで、各地から集まる情報を、総括、分配する通信拠点だ。この木賃宿を装った投宿先──西方につめる鳥師の拠点は、目抜き通りをはずれた裏道にある。
古びた木造家屋の二階、座卓さえない大部屋は、薄闇にまぎれた四方の壁まで、がらんとそっけなく凪いでいる。日の出前のこの時刻、まだ、夜の気配が濃厚だ。
すべての事象が索漠と凪いだ、夜明け前の深い静けさ。
光も喧騒も眠りにつき、世界の相貌があらわになる、ひときわ深い静寂のとき──。かすかに廊下で、気配が動く。
部屋を出ていった部下たちは、とうに仮眠に入ったはずだが──。怪訝に、ザイは目を向けた。
「──へえ。こいつは驚いた」
引き戸の向こうの闇にまぎれて、男が一人たたずんでいる。
「ベルセで姿をくらませてからこっち、一切の気配を断っていた野郎が、ひょっこり顔を見せるってんだからよ」
廊下にいるのは、フードをかぶった長身の男だ。
裾の長い外套とめがねは、街でよく見る定番のいでだち。国堺の直轄領 「トラビア」を含むカレリア西部は、乾いた砂塵をまきあげて 「サージェ」と呼ばれる季節風が吹く。あの外套の通称の由来だ。
男の姿をながめたままで、ザイは片膝を立てて、腕をおく。「つか、なんで来るかね、このハゲは。てめえは"死んだ"はずだろう」
「見つかるようなヘマはしない。真夜中すぎのこんな夜更けに、出歩く物好きもいないだろ」
暗い廊下でセレスタンは、外套の肩を投げやりにすくめる。だから明け方まで待ったんだろ、と言わんばかりのあしらいで。
「もう、じきに夜明けだぜ」
ザイは濃紺の空を顎でさす。「そろそろ起き出す時分じゃねえのか」
「そんなに健全な手合いかよ」
頭のフードをとりながら、セレスタンがそわそわ上がりこむ。「で、どう? 姫さんは」
「──どうもこうも」
ザイは苦々しく顔をしかめて、場所をあけてやるべく腰をあげた。「お前を慕って泣いてたぜ」
靴を脱ぎ捨て、踏み込んだ足を、外套の長身が、ふと止めた。
「……へえ?」
いぶかしげに目を細め、思案を走らせるように視線をはずす。
にへら、と笑って、頬をかいた。
「マジ?」
いや〜、マジかよ、参ったな〜と、しまりなく笑って禿頭をさすり、寝床の枕元へ足を向ける。「もう、困ったもんだな、姫さんにも〜。──あ、さてはお前、姫さんに、無理させてんじゃないだろうな」
さりげないふうを装ってはいるが、足をいく分引いている。まだ、動きがぎこちない。
ザイはズボンの隠しから、煙草とマッチを取り出しながら、夜の窓辺へぶらぶら向かう。「多少の無理は織りこみ済みだろ。追手のあの数考えりゃ。これでも大分、加減した方だぜ」
寝床の枕元でセレスタンは、体をかばうようにして、右の肩をかたむける。
その手を先に床につき、あぐらで、どれどれ、と寝床に乗り出す。
虚をつかれたように凍りついた。
「……どういう、ことだ」
押し殺した声に、動揺がにじむ。
「なぜ、こんなに泣いている。なぜ、こんなに、ガタガタ震えて──」
たまりかねたように目を向けた。
「お前、姫さんに何をした。お前がついていると思うから、俺は──!」
「何言ってやがる。誰のせいだ」
あぐらの肩越しに見やったまま、セレスタンがいぶかしげに口をつぐんだ。
眉をひそめて考えをめぐらせ、はっと、弾かれたように振りかえる。
「──なぜ、話した、姫さんに!」
にわかに、その意味を察したらしい。
「この件とは関係ない。知らせる必要はないだろう!」
「むろん、こっちも、そのつもりでいたが、なんでか客が勘づいてよ」
ザイは、寝床を顎でさす。「往生したぜ。お前はどこだ、としつこくてよ」
「それで口を割ったのか」
憮然と腹に据えかねた口振り。
「こいつはもう、どうしようねえだろ。利口で手堅い調合屋でも、ほだされるってんじゃあよ」
「──ダナンか。たく! 何やってんだ!」
「誰がやろうが、同じこったろうぜ。ああしつこく食い下がられちゃ。あのとんでもねえお喋りと、四六時中一緒ってんじゃ、寝た振りしたって追いつきゃしねえ。そもそも、こっちの立場としちゃあ──」
煙草をくわえて、マッチを擦り、ザイはその先に火を点ける。
「畢竟、本当のところは言えねえんだからよ」
乗り出した肩をのろのろ返し、セレスタンが寝床に目を戻した。
腕をくんで、厳しい顔つき。客の顔に目に据えて、禿頭の背は動かない。
星明かりの大部屋に、浅い呼吸が続いていた。
ひっそり薄い寝床の中で、意識のない白い顔が、苦しげに眉をしかめている。
セレスタンが腕をとき、寝床の額に手を伸ばした。
「──熱が高いな」
汗で張りついた前髪を、指の先でそっとよける。「薬はもう、やったのか」
すでに平静をとり戻し、常の慎重な物言いだ。
「ダナンがなんだか、遮二無二にこしらえてたようだがな」
「──効くのかよ。あいつの専門は毒物だろう」
「毒も薬も根っこは同じだ。そういやジョエルも、なんだかコソコソやってたが。──ま、いくらなんでも、そっちは無謀だ」
同じ粉末を調合するにも、ジョエルの手駒は火薬の方だ。
「姫さん、何か持病でも」
「聞かねえな」
「ここまでひどくなる前に、なんの手も打たなかったのか」
「着いた時には、ピンピンしていた。着くなりジョエルとやり合って、とっとと市場に飛び出してったぜ。いつものあの能天気な面で。次にまさか、こうくるなんざ、誰に予想できるかよ」
「──。つまり」
苦しげに声を押し出して、セレスタンがうつむき、めがねを取った。
「俺ってことか、きっかけは」
暗がりの中、目頭を揉む横顔が、ひどい青あざになっている。あぐらの膝に戻したその手が、やりきれないように拳を握る。「なんで、こんな──! 俺のせいで、姫さんは──」
「俺は、たまに思うんだが」
膝で紫煙をくゆらせて、ザイは星影を仰ぎやった。
「ひょっとすると、この客は、とうに死んでんじゃねえかってよ」
窓の外の軒下で、夏虫が静かに鳴いていた。
星々が冴え冴えとまたたいている。枕元で座した外套の背が、薄い闇に紛れている。
びくり、とその背が強ばった。
あぐらのまま肩をかがめて、セレスタンが口元に耳を寄せる。
腰をかけた窓の手すりで、ザイは怪訝に目を向けた。「どうした」
「……俺を、呼んでる」
ザイは窓枠に頭をもたせて、早暁の闇に紫煙を吐く。「難儀したぜ。泣き止まなくてよ」
「──おい。まさか、宵からずっとか?」
虚を突かれたように硬直し、セレスタンが愕然と振り向いた。
無為に視線をさまよわせ、困惑顔で、顎をぬぐう。
その手を、恐々客に伸ばした。「……姫さん」
「妙な気は起こすなよ」
即座に、ザイは釘をさした。
「預かりもんだぜ、この客は」
ちら、と制した目の端に、思いがけない光景がかすめる。
はっと、ザイは振り向いた。
「おい! よせ、何をしている」
セレスタンが背をかがめ、客を引きずりあげている。
「そこいるのがバレてみろ。これまでの苦労がぶち壊しだぞ。もういっぺん殺されてえのか!」
「いいよ。それでも」
「──おい!」
「何度だって死んでやる」
そうする間にもセレスタンは、ぐったりとした客の体を、あぐらの懐に抱えこむ。
壊れやすいものを抱くように、常より数段丁寧に、注意深く抱きかかえ、腕の黒髪に顔をうずめた。「だって、俺を、呼んでるんだよ……」
「──何考えてんだ。気が知れねえ」
呆れた絶句で吐き捨てて、ザイは苦り切って舌打ちした。
「死ぬような思いを、したってのによ」
じっと背を向けたまま、セレスタンは客を抱きすくめている。震え続ける小柄な体を、冷えた夜気から守るように。
くぐもった声が、その背から漏れた。「──悪い。あれだけ骨おってもらって」
「よせと言っても聞かねえくせによ」
掛布と枕の乱れた寝床を、白々星明かりが照らしていた。
セレスタンは背を丸め、客を抱いてうずくまっている。
「──姫さん──姫さん。大丈夫だから──」
客に呼びかけ、労わる声。赤子をあやすように背をゆすり、腕のつむじに口づける。
「ここにいるから──大丈夫だから、泣かないで──」
夜目にも白い客の顔が、顔をしかめて小さくうめいた。
床に落ちた手が持ちあがり、シャツの脇をつかみとる。
夢中で懐によじ登られて、セレスタンが虚を突かれたように硬直した。
「姫さん……」
懐の中で泣きじゃくる客を、腕を回して抱きすくめる。
胸のざわめきに顔をしかめて、ザイは苦々しく空を見た。また客がうわごとで、連れを呼んでいるのだろう。必死に。懸命に。なりふり構わず。やはり、同じこの場所で、泣きやまない客をかかえて、途方に暮れていたあの時のように。
本当に、嫌なものだとザイは思う。こんなふうに泣かれるのは。
ぼんやり闇をながめた脳裏に、古い疼きが淡くよぎる。連れの予期せぬ訃報に接して、へたり込んだ、やつれた顔が。まだ若かった母親の──
「……姫さん?」
意識を割った戸惑い声に、かすれた記憶から、引き戻された。
声の変調を聞き咎め、寝床に視線を走らせる。
禿頭の背が呆然と、自分の懐をながめている。
「今度はどうした」
セレスタンの手がもちあがり、客の頬を恐る恐るなでた。「……震えが、止まった。俺の声で?」
「──偶然だろ、そんなものは」
肩透かしに顔をしかめて、ザイは苦々しく一蹴した。
客の意識は戻っていない。要は、思い入れのすぎた読み違い、見きわめの甘い感傷だ。あの常に冷静な男が──。
あぐらで背をむけた半身を、白々と星明かりが照らしていた。
常の黒めがねをとり去った、禿頭が懐にうつむいている。この男にしては珍しく、困惑したように頬をゆがめた、胸を締め付けられたような横顔で。
扱い慣れない不可思議な思いの、持っていき場がない顔で。
夜風たゆたう窓枠にもたれて、初めてだな、とザイは思う。死線にあってさえ飄然としていた、この男の泣き顔を見たのは。
さりげなくそらした目の端で、うつむいた禿頭の唇がわななく。
「……あんたのためなら、」
じっと動かない外套の背から、慈しむような声が、ぽつりと漏れた。
「あんたのためなら、なんでもしますよ」
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