■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章74
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遠くの建物の二階の壁に、外灯が一つあるきりだ。
黄金を何十倍にも弱めたような、ぼんやり白い光源は、丸く石壁を照らすのみで、彼方へ伸びる煉瓦の街路は、夜の闇に呑まれている。
大通りから少し外れた、寂れた建物の前にいた。
住人は二階に引きあげたのか、一階の窓に灯りはない。
日干し煉瓦の白茶けた壁が、冴えた月影に連なっていた。月下の街路はひっそりとして、見渡すかぎり、ひと気はない。
外灯のあかりの届かない、裏道の町角に身をひそめ、セレスタンが向こうをうかがいながら、片腕を伸ばして制止していた。
出てくるな、ということらしい。フードの横顔をそわそわ見あげて、エレーンは外套の袖を引く。「ね、ねえ、どうかした? 早く逃げないと、追いつかれて──」
「姫さんの分の外套を、店から持ってこようかと思ったんですが」
町角の壁の陰の中、向こうの様子から目を離さず、黄色い丸めがねが横顔で言う。「平服姿のよそ者が、店の前をうろついてまして。おそらく与太者の仲間でしょうが」
「──え、もう!?」
動揺して目をみはり、エレーンは思わず背後を見る。「だけど、あたしたち、あんなに急いで──。追い抜かれた覚えもないし」
「ええ。宿舎の奴とは別口でしょう。たく。なんで、拠点が割れてんだか」
首をかしげ、釈然としない口ぶり。
「あ、ねえ。セレスタン?」
そわそわ背後をうかがいながら、エレーンは彼の袖を引く。「そしたら、セレスタンだけ行ってくる?」
ふと、セレスタンが振り向いた。
「だから、一人でささっと行って、お店から上着をとってくれば? あたし、ここで待ってるから」
与太者たちの標的は、自分であってセレスタンではない。ならば、その与太者たちも、彼のことまでは知らないだろう。それに外套姿なら、誰も気にも留めないはずだ。
一考するように視線を外し、だが、セレスタンは苦笑いで首を振る。「いや、やめておきましょう。そばに誰かいるならまだしも」
「平気だってば。隠れてるから。大体、そんなに子供じゃないしぃ」
「だめですって。危ないすよ」
一顧だにせず一蹴され、むう、とエレーンは眉根を寄せる。わかってる。こと作戦決行の場面では、セレスタンは判断を変えない。もっとも、こういう問答無用は、彼に限った話でもないが。
外套の肩をセレスタンは返して、町角の向こうに目を戻す。
「たく。どかねえな、あの連中。他所にやろうにも、仕込みがねえし」
壁の暗がりで目を凝らす、黄色い丸めがねの横顔が、くそ、と忌々しげに舌打ちした。「多勢に無勢か。こんな時にあいつらがいれば」
え? とエレーンは聞き咎めた。今聞こえた"あいつら"というのは、さっきの"エンジ"たちではないだろう。彼がこんなふうに気安く呼ぶのは──
「ね、ねえ、セレスタン?」
気がかりなことを思い出し、そわそわ彼の袖を引く。「あの、もしかして、喧嘩しちゃった?」
セレスタンが振りかえり、フードの頭を軽くかしげた。
「だって、さっき、通報したって」
──ああ、と合点した様子で身じろぐ。
「まあ、そんなとこすかね。けど、今はそんなことより、」
町角から肩を戻して、頭からフードを跳ねのけた。
首元のボタンに手をかけて、だが、ためらうようにその手を止める。
「ど、どしたの、急に。あ、暑くなったとか」
いえ、と苦笑いで首を振り、再びボタンをはずし始める。
ばさり、と肩に、脱いだ外套を着せかけた。
「えっ?」
肩を外套でくるまれて、エレーンはたじろぎ、目を白黒。「な、なに?」
「そろそろ行かないと、ヤバいんで。俺のじゃ大分デカいでしょうが」
「でも! そんなことしたら、セレスタンが」
外套が要るのは、彼も同じだ。母親を盾に脅迫されて、人目を憚っているのだから。
丸首シャツ姿のセレスタンが、苦笑って地面に片膝をつく。「──さすがにもう、バレてますよ。二度も宿舎に出入りすりゃ」
外套の生地をさばいて整え、手早くボタンをはめていく。
「だけど、それじゃ、セレスタンのお母さんが」
暗がりにうずくまるその肩の、ボタンを留める手が止まった。
「──おふくろの方は、」
ためらうように言葉が途切れる。
ふっと小さく息をつき、微笑ってボタンかけを再開した。「ま、何とかなるでしょ、大丈夫」
「──なんとかって!」
思わず、彼に身を乗り出す。
「だめよ、そんな(の──)」
がくん、と肩が前にのめった。
え゛、と顔を引きつらせ、エレーンはわたわたすがりつく。
はっし、と抱きしめた両手の下には、なめらかで生温かな皮膚の感触……?
「わわ!? ごめんっセレスタン!?」
ぎょっと彼から飛びのいた。
──つもりが、今度は派手に背中にのけぞり、じたばた仰向けで空を掻く。
すばやく腕が、背中を支えた。
「もう、なに遊んでんすか。ほら、裾から足どけて」
引きつり顔でその腕にすがり、エレーンはまごついて足をどける。「あ、ありがと」
外套の裾を踏んでいたらしい。暗がりを選んで進んできたから、目が慣れたと思っていたが、闇が濃く沈みこむ、足元の物の判別は、月明かりだけでは覚束ない。
夜目も利くらしいセレスタンが、溜息まじりに立ちあがった。
「やっぱり相当デカいすね」
「そりゃそーよ」
むぅ、とエレーンはふくれて見あげる。ただでさえ男物なのに、まして彼は長身なのだ。
服に着られた感のある、生地のあり余った我が身を見やって、エレーンは口を尖らせる。「これ、無理ありすぎないー? あたし、やっぱ、いいっ(てばー)」
「ダメっすよ」
「──うっ」
問答無用でセレスタンは一蹴。片手でフードを頭にかぶせる。
たちまち覆いかぶさったその縁を、指の出ない袖でもちあげ、むう、とエレーンは彼を仰ぐ。
ぶかぶかの胸にうつむいて、もそもそ袖を折り曲げた。言いたいことは色々あれど、押し問答しても、どうせ勝てない。
三回折った袖口から、自分の両手を引っ張り出す。地面に引きずる長い裾を、セレスタンは両手で持ちあげて、胴の前に生地を集めた。
「紐でもあれば良かったんですが、手でたくし上げているしかないっすね」
はい、と生地を受けとらされて、エレーンは頬をひくつかせる。「えー? ずっと持って歩くの?」
「支所に着くまでの辛抱すよ。目抜き通りはここから近いし、それを渡って通りを抜ければ、三番街はすぐですから」
まずは目抜き通りに向かうべく、丸首シャツ一枚になったセレスタンの長身に隠れて、向かいの歩道へ通りを渡った。
こんな近場を横断したら、見咎められそうな気もしたが、ここは街路灯から遠いので、明るい店内からは見えにくい、そうセレスタンは説明した。
夜闇にまぎれて車道を横切るその途中、隠れた彼の肩の向こうを盗み見れば、軒をつらねた店舗の灯りが、一区画先で輝いている。彼の言う目的の店は、手前の角の飲食店ということだが──。
その店は、遠目にも繁盛していた。ランプの灯った店内には、人の行き来が見てとれるし、歩道に出したパラソル席も、八割がた埋まっている。
なるほど、与太者風の男が三人、睨みを利かせるようにうろついている。一目でわかった。よそ者と。
そうした様を外からながめて、なぜ与太者に見つかったのか、エレーンはようやく実感した。時間がないにもかかわらず、彼が「外套」にこだわった理由を。
砂風の吹くこの街で、人も建物も白茶けた、一面同じ色彩の街では、私服の色調はそれだけで目立つ。ひときわ目を引く"目印"なのだ。だから、与太者は見誤ることなく、まっすぐ自分だけを追ってきた。周囲と違っているかぎり、どんなに逃げても紛れられない。
蝋燭ゆらぐパラソルの下、外套姿の客たちは、迷惑そうな顔つきだ。
あれでは営業妨害もいいところだろう。盆の上に飲み物をのせた、黒い前掛けの店員たちも、困ったような顔つきで──
「ん、あれ? あそこって」
向かいの町角に入ったところで、はた、とエレーンは振り向いた。
「え、なに? どうかしました?」
石壁の続く無灯の道で、小首を傾げたセレスタンに、「うん、あのね」と報告する。
「今日、あそこで、お昼ごはん食べた」
「……。昼めし?」
月影の中の黄色めがねが、え゛、と暗がりの顔をゆがめる。
「うん、絶対、あのお店だった。午後いっぱい、あそこにいたもん。黒い仔猫と遊んだり、店員さんとお話しとかして」
「……午後、いっぱい?」
「あ、だって、ダナンとジョエルが戻ってこなくて。だから仕方なく、ずっと一人で」
そう、通りに面したあの灯り。
黒い前掛けを腰でしめ、立ち働く店員の姿。建物の赤い鉄枠が、お洒落な風情をかもしていた、あの"エンジ"の店ではないか。
「……ああ、それで」
黄色い丸めがねを手のひらでつかんで、セレスタンが深くうなだれた。「 姫さんの仕業 だったんすか〜……」
「なによぉー。あたしがなんかしたー?」
「いえ。なんでも、ないんすけどね……」
そうは言いつつ脱力の態で、ゆるりと首振り、歩き出す。
どっと疲れたらしい長身を見あげて、エレーンもてくてく、首をかしげて横を歩く。
「なによぉー。変なセレスタン」
月明かりの裏道をしばらく行くと、灯りも煌びやかな繁華街に出た。
広い車道の両側に、等間隔に立つ街路灯。店舗の石壁が軒をつらね、外套姿の人々が、歩道をそぞろ歩いている。
西の都市ザルトの目抜き通りだ。
「向こうに渡ったすぐの所に、三番街へ抜ける通りがあります」
街の顔であるらしき、洒落た街路灯の鉄柱をつかんで、セレスタンが小さく息をついた。数台の馬車が横付けされた、広い車道の向こう岸をながめる。
「外套を着ていりゃ、見つかる心配は、まずないでしょうが、念のため、人ごみに紛れましょう。食材の屋台が多いんで、涼しくなった今時分じゃ、ごった返しているとは思いますが」
「じゃあ、この重たい上着も、もうすぐ脱げ──」
何かが気になり、頭一つ分上にある、彼の顔をふと仰ぐ。
ぎくり、とエレーンは息を呑んだ。
「ど、どうしたの? セレスタン、その顔!」
目の下、目の横、肉のない頬──いや、顔のことばかりではない。あわてて見れば、左右の腕にも、赤や青のあざが広がり、半袖の下には、白い包帯が覗いている。
「……こん、な……」
街路灯に照らされた、思いがけない痛々しい姿。予想だにせぬその事態に、言葉を失い、唇がわななく。
これまで覚えた違和感の事由が、みるみる一時に氷解した。
そうか、だから、と合点した。だから、何かぎこちなかった。だから、あんなに痛がった。ちょっと抱きついたくらいのことで。彼はたぶん大怪我をしている。服で見えないところもたくさん。だって、お腹をかばうようにして、前かがみになっている。
これまでの、何か不自然な場面が、次々腑に落ち、戦慄する。
「こんな怪我、してるのに……どうして……」
ざわり、と心の奥底で、あの時の気分がうごめいた。
確かに、最悪の事態は避けられた。確かに彼はここにいて、確かに彼は、死んではいない。けれど、これは──この彼の、こんな姿は──
こんな怪我を負っているのに、寝床を抜け出してきたというのか。昔の仲間に脅されて自分も身を隠していたのに、探査の目さえ掻いくぐって。そんなにしてまで、なぜ、ここに。
なぜ、そんな平気な顔で。
何もなかったような平気な振りで。こんな所にやって来るまで、なぜ、自分は気づかなかった。普段の彼とは、様子が違っていたではないか。部屋に入ってきたあの時に、すぐには彼と気づかぬほどに。
「……セレス、タン……!」
喉が引きつり、声が甲高く裏返る。
長身の背を少しかがめて、なすすべもなく突っ立った、困ったような微笑みを見つめる。
彼がなおざりに頭を掻いて、気まずそうに目をそらした。
だが、対処を考えあぐねたか、軽い溜息で目を戻す。
弱った顔で苦笑いした。「ほらー。すぐに、これだから。──ああ、大丈夫すよ。泣かないで」
「──ちっとも、」
彼のごまかしを跳ねのけて、エレーンは頬をもどかしくぬぐう。「ちっとも大丈夫じゃ、ないじゃない……」
たまらず地を蹴り、彼の懐に飛びこんだ。
とたん息を詰めた彼に気づいて、あわててシャツの懐から飛びのく。
「……ご、ごめん」
宙に浮いた手を握り、エレーンは焦れて目を伏せた。
自己嫌悪に苛まれ、いたたまれない思いでうなだれる。
「ごめんっ! ごめんねセレスタン! さっき思い切り抱きついちゃって! よそ見して木から落ちちゃって! あたし、なんにも知らなくて!」
夜空で揺らめく街路灯が、歩道の石畳を照らしていた。
目抜き通りの雑踏が、低いざわめきで行きすぎる。見知らぬ街の、見知らぬ人々。まるで別世界にいるかのように、安穏な日常を行きかう面持ち。伏せた視界の片隅で、節くれだった長い指が、ためらうようにつかの間さまよい、立った足横で、手のひらを握る。
「……ついてねえな」
ふい、と意識をそらすような仕草で、向かいの気配が身じろいだ。
どこか投げやりで、もどかしげな溜息。「向こうの方から来てくれるってのに」
え? とエレーンは顔をあげ、怪訝にあたりを見まわした。「……誰か来るの? 待ち合わせ?」
「──ああ、いや」
見あげようとした途端、頭に、手の重みがのった。
「何でもないんで、今のは別に」
長身の肩を軽くかがめて、なだめるようにセレスタンは苦笑う。
「俺のことなら平気ですから。姫さん一人くらい、なんてことないすよ。さ、先を急ぎましょ」
「──誰がやったの?」
唇をかんで、エレーンは見返す。
え? と面食らった呑気そうな顔を見ていたら、訃報に接して奈落に落ちた、あの時の気分が逆流した。
なんだか無性に気に障った。誤魔化してやり過ごそうとするその態度が。こんなに心配させたのに。そうよ。ひとの気も知らないで!
「こんなひどいこと一体誰が! 昔の仲間って言ってた人? 狙われて、リンチとかされて、だからセレスタン、死んだって嘘を──!」
「あー。いや、これは──なんていうのか」
セレスタンがたじろぎ、頬を掻いた。「ま、仕事上のことなんで」
「じゃあ、あたしの知ってる人? 見つけたら、ただじゃおかないんだから!」
「……ひ、姫さん、無茶は禁物すよ」
なぜだか明後日の方向に、セレスタンはそそくさ目をそらす。
「だって、そんなの許せないもん!」
「……姫さん、もういいすから」
「よくないでしょ! 全然よくない!」
逃げ腰な態度に苛立った。
「何があったか知らないけど、そんなの絶対許せないもん! また会えたから良かったものの、あたしが──あたしが、どんな思いで!」
「姫さん」
もの柔らかな、だが、注視を強いる呼びかけで、黄色い丸めがねが微笑んだ。
「俺さ、姫さんには、来てほしくないんすよ」
予期せぬ拒絶に、詰め寄りかけた足が止まる。「──えっ?」
「ねえ、姫さん」
改めて柔らかく呼びかけて、黄色い丸めがねが見おろした。
「俺がいるのは、嘘と暴力の世界なんすよ。本物の刃物でやりあうんすよ。馬鹿みてえにくだらねえ理由で、人が簡単に死ぬんすよ。そういうの俺は、上手くできちまうもんだから、これまで切り抜けてもこられたが、けど、姫さんはそうじゃない。俺らのいる所には、近寄ってほしくないんすよ」
「──だけど、」
とっさに手を伸ばしかけ、だが、今の戒めにためらって、おずおず手を引っこめる。
「……そう、それでいいんすよ」
うっすら寂しげにセレスタンは苦笑う。
背を伸ばして視線をめぐらせ、ひときわ明るく向かいで賑わう、脇道の入り口をながめやる。
「──ねえ、姫さん」
夜の目抜き通りのざわめきの中、黄色い丸めがねが振り向いて、笑って左手を差し出した。
「手、つなぎましょうか」
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