■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章76
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人ごみの先が、ぽっかり開けた。
道の左右に建ちならぶ白茶けたレンガの建物の間に、濃紺の星空が見えている。行きかう人々の頭の向こうに、街路灯の白い灯り。
ふっつり、道が途切れていた。あの行く手の暗がりは、荷馬車行きかう
大通り。
「──ここまで来れば」
ほっと、息を抜いたのがわかった。
黄色い丸めがねの横顔を、意外な思いでエレーンはうかがう。ひそかに気を張っていたらしい。ぶらぶら歩いているように見えたのに。
──そうか、とようやく気がついた。平気そうにしているから、うっかりそれを忘れてしまうが、今、彼は万全ではないのだ。
そぞろ歩いて気がつけば、混雑した市場をぬけ、通りの端までやって来ていた。
支所のある三番街は、大通りを渡った向こうの一帯と聞いている。ならば、突きあたりに見えている、あの通りの向かい側が、もう、目的地の三番街──。
頬が、ぎこちなくほころんだ。
なんとはなしに息をつく。"エンジ"が部屋に飛びこんできた時には、どうなることかと思ったが。
宿にいた彼らの協力で、なんとか脱出もやりおおせたし、支所に着いて落ちつけば、ケネルとも連絡をとるという。木から落下した自分を受け止め、セレスタンが足を痛めた時には、何もできずに途方にくれたが、なんとかここまで辿りつくことができた。セレスタンの言葉は気になるけれど、まず、ここまでは上出来だ。目的地の支所に着いた。何より、もうすぐ、
──ケネルと会える。
あたたかな何かがじんわり広がり、肩から力が抜けていく。
気持ちも足どりも軽くなる。ようやく、それを思い出した。「あ、ねえ、荷物おいてきちゃったんだけどー」
「取りに戻るのは無理っすね」
「でもー。すんっごく大事なものが入っててー」
そう、着替えなんかはどうにかなるが、どうにもならない物がある。リナから借りた制服だ。失くしたなどと言ったらば、どんな恐ろしい目にあわされることか……
まなじり吊りあげ、激怒で詰めよるリナの顔が思い浮かんで、顔をゆがめて、ぶるりと身震い。
「ポシェットも持ってこなかったから、お財布なくて一文なしだし」
「じゃ、着いたら、人をやりますか。三バカも向こうにいることだし」
「……はあ? ボリスたちぃ?」
今、ぞんざいで失礼な意訳があったが、さらっとつつがなく受け流す。
「へー、ザルトにいるんだー、あの三人。ノアニールじゃなかったっけー?」
ザイやセレスタンというならともかく、あの三人に限っていえば、自力で追いついてこられる感じがしないが、あんがい機動力があるらしい。
気の毒そうな溜息で、セレスタンが天を仰いだ。「……冷たいっすね〜、姫さんは。あのチビのイガグリなんか、必死でザイにかけ合ってましたよ」
「かけ合うって何をー?」と首をかしげてセレスタンを仰ぐ。
はっとエレーンは息をつめた。
唇をかんで、意識を凝らす。この感じ……
引っ張られるようなこの感じ。ほんの微かな気配だけれど、ぴん、と糸が張ったような。
行きかう市場の雑踏に、あわてて視線をめぐらせた。
視界をふさいだ邪魔なフードを、もどかしい思いではねのける。……どこ?
(ケネル!)
急な動作を見とがめたのか、かいま見えた雑踏の向こうで、ふと、人影が振り向いた。
向かって右手の酒場の前だ。店の扉を出てきたばかりの、平服姿の五人連れ。
先頭の男と目が合った。
一瞬、何が起きたかわからない。
「あ、お前!?」
指をさされて、我に返った。あの顔、どこかで見覚えが。あれは──
「姫さん!」
強く腕を引っ張られ、人波を縫って脇道に逃げこむ。こちらが説明するより先に、セレスタンは事情を察したようだ。
たちまち顔をこわばらせ、男たちが追ってきた。
ごった返す人波を押しのけ、通行人に罵声を浴びせて。
物々しい気配に触発されて、あの日の記憶がよみがえった。ノアニールの街を逃げまわり、ついには捕まり、連れて行かれたあの酒場。陰気に荒んだ店の奥、鈍く射しこんだ夏日の陰で、一人、酒を飲んでいた──。
気だるそうに酒瓶をつかむ、倦んだような目をした男。艶のない黒い蓬髪で、ひどく顔色の悪い土気色の頬。赤銅色の痩せぎすの胸。ケネルの心臓をせしめるために、こちらをつけ狙う海賊ジャイルズ。「人魚の肉」の伝説にすがり、不死身の肉体を手に入れるために。
そう、あの顔に覚えがある。二階の物置に監禁した、あの残忍な海賊の、
──手下。
与太者たちが吠えながら、野犬のように追ってくる。
店舗のない脇道は、街灯も少なく薄暗い。路地の左の壁際に、木材やロープが雑然と寄せられ、積まれている。露店を設営した際の廃材らしい。明るくにぎわしい市場通りの、打ち捨てられた舞台裏。
月あかりの静寂を、与太者の罵声と、剣呑な足音がかき乱す。
前を見据えるセレスタンに外套の肩をつかまれて、エレーンは一心に路地を走った。
白茶けた石壁の路地。周囲の建物はひっそりしている。誰も外に出てこない。この騒ぎは聞こえているのだろうに。
助けが来る当てはなかった。
ケネルの気配は遠かった。こんな危機に陥っていることを、宿に居残った"エンジ"たちは知らない。支所にはボリスらがいるはずだが、そちらに向かっていたことも、あの三人には知る由もない。頼みの綱のザイたちも、詰め所で拘置されている──。
すがる思いで、壁に視線を走らせた。窓から誰か見てやしないか。誰かが通報してくれれば──!
がくん、と肩が前にのめった。
とっさにつまずいた足元を見れば、暗い地面に白っぽい何か──設営で使った角材か?
たたらを踏むも踏みとどまり、目をあげ、構わず前に進む。
途端、肩が大きく傾いだ。
あっ、と思った時には投げ出され、肩をしたたかに打ち付けた。地面に半身を叩きつけられた痛み──。
「姫さん!?」
転げた地面の暗がりに、驚いてセレスタンが駆け寄った。
「──さ、起きて」
追っ手の足音がバタバタ迫る。
助け起こされ、裾を踏んで転んだ体を、エレーンはあわてて引き起こす。だが、遅かった。
五人がたちまち追いついた。
すぐさま壁際に追いつめる。一人が憎々しげに顔をゆがめて、無理やり腕を引っ立てた。「よくもこんな所まで、逃げたもんだな、このアマが!」
顔を間近に近づけたのは、物置に閉じこめた、あの時の男。
「──姫さん!?」
切迫したセレスタンの声。
長い腕で絡めとるようにして、体を抱きとり、壁際に転がる。
もぎ取り返したセレスタンに、だが、とり囲んだ与太者が襲いかかった。
口々に罵りながら、殴る蹴るの容赦ない暴行。大きな手のひらで頭をつかみ、押し込めるようにして懐に抱いて、セレスタンは地面にうずくまっている。
「──や、やめて! おねがい……やめてっ!」
かばわれた腕の隙間から、必死でエレーンは懇願する。
与太者たちの包囲の中で、セレスタンが袋叩きにされていた。
四方から無下に足蹴にされ、それでも引きはがされまいと、歯を食いしばって耐えている。だが、多勢に無勢の狼藉に、逃げることはおろか、その場を一歩も動けない。その上、ただでさえ大怪我を──
「どけ! このハゲ野郎!」
業を煮やした荒ぶる声に、はっとエレーンは頭上を仰いだ。
夜空の月影に、踊りあがった人影。
その手が、何かを振りかぶる。
手にした物の重みに任せて、思いきり体を後ろにひねり、力任せにそれを振り抜く。
ガッ──と暗がりで音がした。
セレスタンの背中が大きく跳ねて、どさりと地面にくずおれた。
固唾をのんだ気配がした。
ひるんだ気配が闇にただよい、周囲を取りかこむ与太者の間に、たじろいだような沈黙が広がる。
「──お、おい」
ぱっくり割れた後頭部から、どくどく黒があふれている。
「セレ、スタン……?」
どくん、どくん、と耳元で、鼓動が耳鳴りのように鳴っていた。
彼の姿は見えているのに、像が意味を結ばない。どんなに目を凝らしても、何が起きたか把握できない。
あっという間の出来事だった。
地面に血液が滴っていた。路地の地面にくっついた、彼の黄色い丸めがね──。
そのかたわら、彼を強打した与太者の手には、廃材置き場に転がっていた、さっきつまずいた、あの
──角材。
倒れ伏したセレスタンから、手荒く腕を引っ立てられた。
夜空ひろがる道の往く手に、明るい賑わいが見えてきた。
次の町の、入り口の灯り。
「なー」
月下の街道を歩きつつ、レノは連れに話しかけた。
「あいつ、なんで、動かねえんだと思う?」
顎でさしたその先には、街道の先の、西の尾根。──いや、黒々とたたずむその上に、夜目にも赤い巨大な竜が、鱗の胴をうねらせて、ぬらりと覆いかぶさっている。
凍てつく氷を思わせる端正な白い横顔が、レノの問いに不愛想に応えた。「動かないんじゃなく、動けないんだろう」
「理由は?」
「姿を現したなら、目的がある。だが、動かないなら、動けない。恐らくあれは投影だ」
「なら、実物はあの下か」
土手の野草の暗がりで、夏虫が静かに鳴いている。
夜風に吹かれて歩きつつ、レノは連れに一瞥をくれる。「街中にアレがいるっての? あんなバカでかいものが、トラビアの市街に? 騒ぎがあったとは聞かないけどな」
「市街にいるとは限らない」
「なら、居場所は地中ってことか。だが、それなら何しに、のこのこ出てきた──」
ふと、レノは足を止めた。
隣の肩も立ち止まり、行く手の夜空をながめている。今の異変に気づいたらしい。
パシ──! とどこかで大気が爆ぜた。
次いで夜空に、鮮緑の波頭がひるがえる。
赤褐色の瞳をすがめ、レノはニヤリと口端をあげた。
「ザルト、か」
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