■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章88
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静かな夏虫の音が耳に戻った。
月明かりの大部屋は、暗がりの淀みが出て行って、がらん、と広く静まっている。
「──しかし、驚いたな」
不意のつぶやきに振り向くと、ケネルが窓辺で懐を探り、皆が出払った廊下を見ていた。
腰窓に腰かけ、一本くわえ、窓の外へ一服する。
「ザイが他人を懐に入れるってんだから」
「……商都に戻るの? あたしたち」
建物の軒下の草むらで、夏虫がリーリー鳴いている。
「早急に商都に帰還して、クレスト公館に送致する。領邸に戻れば、安全だ。統領はあんたの正体を知らない」
「だけどケネル、セレスタンが──!」
「知らせを待つような余裕はない」
「──だけど!」
「ザイたちが行った」
語気を強めて、ケネルは打ち切る。
「後のことは連中に任せろ。あいつら特務は精鋭揃いだ。動いたからには、なすべき任務は確実にこなす。セレスタンについても、早急に捜し出して回収する。生きていても死んでいても」
はっと思わず息を呑み、さらりと言ったケネルの言葉を反芻する。「……生きていても、死んでいても」
「そうだ」
エレーンは軽く唇を噛んだ。なら、セレスタンに会えずに帰るのか……。
「──怒ってる、よね?」
ケネルがひどく不機嫌に思えて、その顔を盗み見る。
「来てくれたんでしょう、病室に。──その、待ち合わせ、してたから」
窓で紫煙をくゆらせていたケネルが、横顔のまま眉をしかめた。
「──すまない。忘れてくれ。あの時、俺は、どうかしていた」
「ご、ごめんね、ケネル。約束破って。だけど、あれは仕方がなくて──」
「問題は、そこじゃない」
はっとして言葉を呑んだ。
「……そっか。そうよね」
突き放すような物言いに、戸惑い、膝に目を伏せる。もう、問題はそこじゃない。今となっては、遅すぎた──。
ケネルが気まずげに身じろいだ。
「明朝、俺たちは街を出る。移動手段は、すぐに確保する。到着まで三日、遅くとも四日というところだ。商都に着いたら──」
「そうしたら、さよなら?」
思わず、口をついて出た。
窓で紫煙をくゆらせて、ケネルは目を伏せ、苦笑い。
「むしろ遅すぎたくらいだろ。本来なら豊穣祭が、終わった時点で撤退していた。開戦国に部隊を置くのは、望ましいことではないからな」
「……それで、終わり?」
「商都のクレスト公館に、あんたの身柄を引き渡せば、あんたといる理由がない」
淡々と言い渡されて、エレーンは唇をかみしめる。それで終わり。本当に、全部。
公館に送り届けたら、ケネルも自国へ、彼女と帰る──。
「──ケネル。聞いて」
顔をあげて、ケネルを見た。
「初めは、ケネルの目、だったの」
これでお別れというのなら、彼に伝えたいことがある。
「"強い目"だと思ったの。ううん。ケネルは実際に強かったけど、ケネルの強い目が怖かった。でも、それが始まりだったの。初めて行った天幕群のあの部屋で、ケネルと初めて会った時、ケネルだけが助けてくれた。お礼を言いに近くに行ったら、真正面からじっと見て──変わった人だなあって思ったわ。観察されているみたいで落ち着かなくて、気持ちがなんだかざわついて──。でも、あたしにはダドリーがいて、ディールがどんどん攻めてきて、そんなこと言ってる場合じゃなくて、でも、ケネルのことが気になって、ずっとケネルといたくって、どこにいても、誰といても、ケネルのことばかり気になって」
自分でも驚くほど、静かな気持ちで、ケネルを見た。
「あのね、あたし、ケネルのこと、」
「──待て」
はっとしたように、ケネルが制した。
「だけど、ケネル──」
「よせ! 駄目だ、台無しになる」
強い語気に、息を呑む。
「もっと、早く言うべきだった」
煙草を灰皿ですり潰し、ケネルが窓から腰をあげた。
目を据え、苦々しげに歩いてくる。
「あんたに、話すことがある」
ぎくり、とエレーンは身構えた。その話って、つまり、彼女の……
「そんなの、いい!」
「いいから聞け」
「こんなこと、言えるわけなかったの! 今なら言える気がするの! やっと言える気がするの!」
だって、彼女のいる人に!
自分にだって、ダドリーがいる! それでも、それでも、ケネルのことが──!
「今だけでいいから、あたしを見て! あたしの言うこと、ちゃんと聞いてて!」
「──だから、ちょっと、待てと言って、」
「わかってる! みんなあたし、わかってるから!」
はねのけるようにして首を振り、ケネルの顔を振り仰いだ。
「別に何も望んでない! ケネルが好き! ケネルが好きなの!」
しん、と夜の静寂が満ちた。
い草の敷物の白い表に、白々と月影が射している。
はあはあ、肩が上下していた。
息を荒げて見つめる頬に、一筋、涙が伝い落ちる。高揚していた。全力で走った後のように。
(いっ、……いっ……!)
──言ったーっ!?
体を、動揺が駆けめぐる。
ありったけの勇気を奮い起こして、まだ胸が高鳴っている。いや、今の告白は衝動に近い。むしろ、今の方が、ずっと、よっぽど──。いや、でも、よくやった自分! たとえ、この告白に、少しの見込みもなかろうと。
だって、ずっと苦しかった。全部吐き出してしまいたかった。いつも、心がざわざわして。いつでもケネルの気配を捜して。そう、
ここで散っても、いっそ本望!
「──まったく。あんたは」
押し切られる形で黙りこんだケネルが、溜息まじりに口を開いた。
「あんたが何を考えているのか、俺にはさっぱり、わからない」
当惑顔にようやく気づいて、エレーンはわたわた頬をぬぐう。
「──ご、ごめんっ、そうよね。当然よね。今さら言われても、困るよね」
訳が分からなくて当然だ。約束を反故にしておきながら、手のひら返して告白するとか。ケネルにすれば、身勝手極まりないだろう。
「やだ、あたしばっか舞いあがっちゃって──あ、でも、安心して」
笑みをつくって、顔をあげる。「困らせるつもりなんか、あたし全然──」
肩に、ケネルの手が置かれた。
その手が持ちあがり、頬をなでる。
(……え?)
ケネルの目が探るように見つめる。
首をかしげるようにして、そっと顔を近づけた。とっさに身を固くして、エレーンは硬く目をつぶる。
どきどき胸が高鳴った。
ぎゅっと手のひらを胸で握る。全神経が集中する。頬をすべる唇の感触──。
気配が離れ、呆気にとられてケネルを見た。
くすり、と笑いがこみ上げて、泣きたい気分で目を伏せる。
「……そっか。……ありがと。慰めてくれて」
愚図った子供をなだめるような。
あのヴォルガを抜け出した晩、追い払われたテントの前で、飴玉を握らせた時のような。こんな、子供だましの──。
うつむき、軽く唇を噛んだ。ケネルにとっては、その程度。自分はその程度の存在なのだ。夏日に灼かれた時計塔の、あの屋上での出来事は、ケネルにとってはただの過去。あの時くれた約束も。彼女がいる今となっては、何もかもが、
──遅すぎた。
あの屋上が恋しかった。ケネルが現れた時計塔の。強い夏日にさらされて、ケネルの髪が風になびいて──。
手を伸ばしても、届かない。天に舞いあがるほどに幸せな、あの時の気分には。あの時ケネルは、詰め寄る自分に、こんなことを言ったっけ。
『 いつか、すっかり片がついたら、戻ることもあるだろう。そうしたら、どこかに飲みにでも行くか 』
なだめるための、ケネルの嘘。朴念仁の不慣れな優しさ。なぜ、逃げ出してしまったのか。約束していたあの部屋から。
もう笑うしかなくなって、微笑み、口の端に乗せてみる。
「──いつか、すっかり片がついたら、そうしたら飲みに連れてって」
せめて、返そう。彼がくれた優しい嘘で。
「"いつか"なんて日は、やってこない、そう言ったのは、あんただろう」
……え? と振り仰いだ唇を、彼の唇が素早くふさいだ。
いつの間にか、うなじをつかまれている。
反応できず突っ立った体を、ケネルの手が抱きしめる。ケネルの手が、髪をなでる。無我夢中で抱きしめ返した。覆いかぶさった革ジャンの背を。
倒れこんだ背をケネルが支え、夢見心地で唇が離れた。
敷物の床に転がったまま、ケネルの顔を間近で仰ぐ。ケネルが軽く肩を起こして、上目遣いでつぶやいた。
「──まあ、誓っちまったことだしな」
見返したケネルの、その口元が悪戯っぽく笑う。
「いつまでも自制を期待するなよ?」
「……え゛」
ケネルの唇が、耳をかすめた。
なめらかに固いその頬が、左の首筋に潜りこむ。目端をかすめる視界には、月影の外の天井の暗がり。
求め続けた愛しい重みを、両手を伸ばして抱きしめた。
ちゅんちゅん、スズメが鳴きかわす翌朝、
ケネルの隣で、目が覚めた。
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