■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章91
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深い緑の長椅子の生地が、なめらかな光沢を放っていた。
飴色にかがやく卓に集い、懐中に奥の手を忍ばせて、笑いかわす商人の背。眼窩の落ちくぼんだ強欲そうな老人。立派な髭を口にたくわえ、腹のつき出た羽振りのいい商人。窓辺にたたずみ、歓談している、抜け目のない横顔は、地元の名のある豪商だろう。
深く、低いざわめきの中、紫煙が薄くたゆたっている。昼下がりの館内の、壁の陰の片隅にたむろし、ホールを見張る用心棒──。
艶のない卓に置いた、利き手の指から立ちのぼる、薄い紫煙を眺めやる。
あの男の戻りを待っていた。壁に身を潜ませて。失踪からの経緯を、まだ詳しく聞いていない。──とん、と指で灰を落として、ふと、ザイは振り向いた。
開いた扉の付近だけ、館内の陰りが払われて、夏日が床に射しこんだ。
昼の熱気をまとわりつかせ、真新しい空色の、丸首シャツの男が入ってくる。
片手をあげ、相手の注意を引けば、空色シャツが振り向いて、ああ、と笑ってやって来た。
「悪い。待たせた」
卓をはさんだ高椅子に、長い手足で腰かける。高い上背、黒眼鏡。特徴のあるあの禿頭。
「首尾は」
「今、頭と話してる」
「──とうとう命運尽きたってか」
ザイは卓で煙草をくゆらせ、ふっと天井に紫煙を吐く。「あのニヤケた風見鶏とは、ついぞ反りが合わなかったが」
「俺は嫌いじゃなかったけどな。怪我で何度か、世話にもなったし」
肩を軽く傾けて、セレスタンはズボンの隠しを探る。
煙草をくわえた向かいの連れを、ザイはすがめ見、促した。「で?」
「ああ、俺はお役ご免。コルザのおやっさんたちも向こうにいるし、身柄を押さえる手は足りてる」
「何をすっとぼけていやがるんだか。そうじゃねえだろ、てめえの話だ。頭かち割られたんじゃなかったのかよ」
失踪したセレスタンの行方の、捜索を開始した特務班は、翌朝には行方を突き止めた。だが、当人と連れ立ち、引きあげようとした矢先、潜伏中の首長と出くわし、セレスタンが捕り物に駆り出されてしまった。立ち入った話を民家でするのも憚られ、聴取を先送りにしていたために、事件後の詳細を聞いていない。
何事もない向かいの顔に、ザイは溜息で眉をしかめる。
「呆れてものも言えねえよ。念のためにと現場付近を聞きこんでみりゃ、向かいの民家のジジ・ババに交じって、ヘラヘラ食卓かこんでるってんだからよ」
発見時、のほほんと笑って振り向いた男は、現場付近の古い民家で保護されていた。そして、老いた夫婦に交じって、ちゃっかり朝飯を食っていた。
「ピンピンしてんじゃねえかよ、あの客。話を大袈裟にしやがって」
「なにが大袈裟。見ろよ、この傷。角材で思い切り頭張られて、危うくあの世に行きかけたぜ」
心外そうに傷痕を示され、ザイは思わず口をつぐんだ。
とっさにそらした視線がさまよい、唇を舐めて仕切り直す。「──なら、なんで、まだ生きてんだ」
「それが、俺にも、よく分からなくてさ」
まなじり下げてセレスタンは笑い、卓に置かれた灰皿を、長い指先でもてあそぶ。
「気がついたら、あの民家にいた。あの家の婆さんの話では、買い物帰りに俺を見つけて、爺さんを呼んできて連れ戻った、って言うんだが」
「あの腰の曲がった年寄りが、か? お前を担いで帰ったってのかよ」
「初めは俺も耄碌してるのかと思ったよ。だが、家の中は片付いているし、会話中の齟齬もない。多少の衰えは当然あるが、頭の方はしっかりしてる。そもそも嘘をつく理由がない。素朴で真面目で誠実な、どうみても堅気そのものだ」
「なら、単に思い違いだろ。大方、他にも誰かいて、そいつが家まで、お前を運んだ」
「一人ならまだしも、二人そろって思い違い?」
「あのよぼよぼの年寄りじゃ、二人がかりでも"お前"は無理だ。そうでもなけりゃ、話がおかしい」
「おかしいのは、それだけじゃない」
そっけなく一蹴し、セレスタンは紫煙から目をあげる。
「お前も、とうに気づいたろ。あの家で俺を見つけた時に。この頭のミミズ腫れ、確かに、あの時、かち割られたはずなのに、もう、ほぼ治ってる。信じられるか、昨日の今日だぜ。しかも、縫った痕さえない。おまけに顔の青あざまで、きれいさっぱり、なくなっている。──ザイ。俺さ」
捨て鉢な苦笑いで首を振り、探るように目を据える。
「本当に、まだ、生きてると思う?」
卓に乗せた手の先で、紫煙が薄くたゆたった。
窓からの陽が、床できらめく。向かいの真顔から目をそらさずに、ザイは慎重に口を開いた。
「まだ、足は、ついてんだろうが」
──まあね、とセレスタンが、目を伏せ、微笑った。
「だが、今にして思えば、これだけじゃない。宿舎が襲撃に遭った時、二階の窓から脱出したんだが、その時、姫さん、向かいの枝をつかみ損ねて──。落下の途中で拾ったまでは良かったが、着地でしくじって、足やって。てっきり折れたと思ったよ。だが、しばらくすると痛みは引いて、元の通り歩けるようになった」
話を脳裏で転がしながら、ザイは卓から目をあげる。
「魔法使いでもいたってか。そっちはお前の勘違いだろ。大方ひねっただけって話だ」
ふっと軽く息を吐き、仕方なさげにセレスタンは微笑う。「──かもね」
ざわめきが低く、くすぶっていた。
まばらに人のいる隅の卓には、鷲鼻にのせた丸眼鏡。太い指できらめく指輪。ヒダの入った白い襟。昼さがりの商館ロビー。
「──似合うだろ、この青いシャツ」
とん、と長い指先で、セレスタンが灰を落とした。
「親身になって世話してくれたよ、あそこの家の爺ちゃん婆ちゃん。いい人たちでさ、本当に。見ず知らずの俺のことを、本気で心配してくれて。しばらく体が動かなくて、どうにもならずに寝ていたんだが、体を拭いて、食わせてくれて、着替えをさせて、寝かしつけてくれて。どうしてなんだか自分たちの、息子だと思ってるようなんだよな」
「あ? 見てくれからして違うだろうが。そんなにでかいカレリア人がいるかよ」
──そうなんだけどね、とセレスタンは苦笑う。
「俺も、何度も、違うと言ったさ。目でも悪いのかと思ってさ。でも、どうしても息子だと言い張るんだよな。しまいには真顔で、親の顔を忘れたのか、って怒りだす始末で。そのわりに、息子がいたような形跡は、家中どこにもないんだけどさ。老夫婦二人の侘び住まいで、着替えがないから、わざわざ市場まで買いに出て、この色、お前に似合うからって、婆ちゃんが嬉しそうに俺に当ててさ。で、戻るって言ったら、泣かれて参った」
すぐ後ろにある壁に、ザイはやれやれと背を投げる。「一体何が、どうなってんだか」
「だから、たまには、顔を見に戻ることにした」
「……は?」
うっかり聞き逃しそうになり、あぜんと面食らって連れを見た。
まなじり下げて、セレスタンは笑う。
「だって、ほっとけないじゃない。見捨てるのか、なんて泣かれたら。年寄りしかいない所帯じゃ、できないことも色々あるしさ、あんなに慕ってくれるなら、なるべく助けてやりたいじゃないの。ほら、仮にも親なんだし」
「実際 "仮"だろ。正気に戻ったら、どうするつもりだ。家出でもしていた実の息子が、ふらりと戻ってくるとかよ」
「そうしたら逃げるさ、尻尾まいて」
そういうの得意だから、と自慢顔。
あっけにとられた口を閉じ、ザイは憮然と目をそらした。
「──やめとけ。正気の沙汰じゃねえ」
とん、と皿に灰を落として、セレスタンは目を伏せ、くすりと微笑う。
「ああ、正気の沙汰じゃない。けどさ、俺の実の親は、あんなに出来がよくなかったんだよ」
視線をやった床を見たまま、ザイは苦々しく眉をひそめる。
「夢は、醒めるぞ」
そこの家人がにわかに気づいて、罵倒で叩き出されるか、物取りと騒がれ、突き出されるか。
「──いいんだよ、一時でも」
穏やかな笑みで、セレスタンは微笑む。
「せっかく見られる夢があるなら、見ないでおく手はないだろう?」
ホールにくすぶる陰りを切りとり、床で夏日がきらめいた。
ざわめきが低く、くすぶっている。セレスタンの母親は、悪名高い盗賊に、実の子を売るような、ろくでなしだ。
パタン、と玄関の扉があいた。
表通りの喧騒が、低くくすんだ、ホールの陰りを掻き乱す。戸口できょろきょろ見回しているのは、敏捷そうな若い男。色の抜けたぼさぼさ頭。唇を尖らせたきかない顔つき。目を留め、足を踏み出して、「──班長」と即座に駆けつける。
セレスタンが声に振り向いた。
「よう、ジョエル。元気だった?」
ビクリとジョエルが足を止め、のろのろ、ぎこちなく目を向ける。
無言で突進、ぎゅっと、セレスタンにしがみついた。
ぐりぐり顔をこすりつける頭に、セレスタンは苦笑いで片手を置く。「もう、お前、何やってんの。また遊んでやるからさ」
「班長、用意ができました」
その後ろで、声がした。
ひっそり、そこに立っていたのは、物静かな風情の男。さっぱりとした短めの黒髪。聡明そうな落ち着いた瞳。毒薬使いの調合屋ダナン。飛び込んできたジョエルに続き、館内に入っていたらしい。ダナンは淡々と振り向いて、視線でホールの玄関をさす。
「馬は街道に回してあります」
ロジェとレオンが待機しており、準備は完了している、とのこと。
ザイは顔をしかめて紫煙を吐き、煙草を灰皿ですり潰す。「わかった。すぐ行く。先に行ってろ」
ダナンは連絡を終えてしまうと、おもむろにセレスタンに目を向けた。
「無事で、何より」
「お蔭さんで」
しがみつく頭をぽんぽんなでつつ、セレスタンはダナンに笑い返す。「悪いね、毎度世話かけて。今回ばかりは、マジで死ぬかと思ったよ」
ダナンが顔を強ばらせ、戸惑ったように突っ立った。
外した視線を床に泳がせ、ぷい、と玄関に肩を返す。
「──悪さばっかり、するからだ」
腕で、ぐいと顔をぬぐって、ジョエルもそそくさ、それに続く。「──じゃ、後で」
珍しいこともあるもんだ、と二人の背中を、ザイは見送る。
やれやれと首をまわして、高椅子の上から腰をあげた。「行くか」
「──姫さんがさ」
煙草を灰皿ですり消しながら、紫煙を吐きつつ、セレスタンが微笑う。
「許さないってさ、お前のこと。お前にやられた、俺のひどいツラを見て」
カルロの視界からセレスタンを消すため、カルロに処刑を目撃させたが、その際ザイは、本気でセレスタンを甚振った。担当業務は戦の後方支援でも、カルロは長年、衛生班の主任を務めた、乱闘に関する玄人だ。生半なことでは誤魔化されない。
愉しげに肘をついたセレスタンに、からかい混じりにうかがわれ、ザイは肩をすくめてザックを取った。
「なら、とっとと逃げますかね」
背を折った顔をあげ様、じろり、と勝ち誇った連れを見る。「へらへら嬉しそうに笑ってんじゃねえぞハゲ。こっちにばっか、面倒事を押しつけやがって」
「相手に、角材拾われた時にさ」
セレスタンも背を折って、運んであった自分のザックを、足元の床から取りあげる。
「あ、終わったなー、って思ったよ。あれで頭張られた日には、まあ、一巻の終わりだなって。実際、その後、ぶん殴られたわけだけど」
あきれ果てて、ザイは嘆息。「見てたんなら、なぜ避けねえ」
「姫さんに当たる」
ためらいもなく即答し、セレスタンは笑みの形に頬をゆがめた。
「逃げ場なんかなかったさ。頭に当たれば、姫さんは即死。腕に当たれば、腕が折れる。肩に当たれば、肩が折れる。どこに当たっても、ぶっ壊れること確実だ。俺が逃げた代償に、姫さんの体が不自由にでもなれば、俺は一生後悔する。そもそも、ザイ」
ちら、と試すように目をあげた。「お前なら、避けてた?」
「──たりめえだろ」
「本当に?」
ザイは軽く眉をひそめて、苦い舌打ちで歩き出す。「──行くぞ」
セレスタンも肩にザックを背負って、はいはい、と笑って後に続く。「ありがとな」
「何が」
「寝てないだろ。俺の行方捜してて」
「わかってんなら、くだらねえこと訊くな」
「感謝してる。ありがとうな、捜してくれて」
ザイは舌打ち、顔をしかめる。「仕方ねえだろ。てめえがいねえと、頭がうるさく泣くんだからよ」
「班長、肩でも揉みましょうか」
「──うるせえ」
のほほんと気楽な笑い顔が、すっと横を追い越した。
その手が、扉を押し開ける。
明るい空色のシャツの背が、夏日の中へ出て行った。
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