■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章92
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真夏の日差しを遮って、あの彼女が立っていた。
送り届けたはずだった。市場通りの脇道に、宿を取っていた親類の部屋へ。それが──。
椅子の背もたれに腕をかけ、あぜんとケネルは、外套姿の彼女を仰ぐ。「クリス、なぜ──」
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。部屋から追い出されたわけじゃないわよ」
いたずらっぽくクリスは笑い、マドラーをさした冷たいグラスを、卓に置いて腰をおろす。
「返さなきゃと思って、捜していたの」
身をよじり、外套の上から横掛けした、ポシェットを開いて、封筒を取り出す。
「はい。借りていた宿代と食事代。本当に助かったわ。すっかりお世話になっちゃって」
ああ、とケネルは、卓に置かれた封筒を見る。「律儀だな。別にいいのに」
「借りたままなんて嫌だもの」
「しかし、よく、わかったな、ここが」
「何度か立ち寄ったでしょ、このお店。だから、ここで待ってれば、隊長さんと会えるかなって。でも、よかったわ、今日会えて。ザルトで大事な商談があって、あの後、父がこっちに着いたの」
「そうか。親御さんも一安心だな」
「ええ。泣かれて参っちゃった。でも、父の商談も済んだし、もう明日にも帰ることになるわ。そうしたら隊長さんに会えなくなるし、だから──」
思いつめたように早口で続け、はっとしたように口をつぐんだ。
「……ありがとう、親切にしてくれて。あなたのこと、忘れない」
声を詰まらせ、食い入るように顔を見る。
大きな瞳が潤みを帯び、細い肩がわずかに乗り出す。ケネルはおもむろに口を開いた。
「それで、気は済んだのか?」
ふとクリスが動きを止め、怪訝そうに小首をかしげた。
「訊き方が悪かったか。なぜ、俺を刺さなかった。機会はいくらでもあったろう」
無言で、クリスが眉をひそめた。
細い指が天板をさまよい、卓に目を伏せ、ふっと微笑う。「──やだ。隊長さん、知ってたの?」
「少し、偶然が多かったようだな。同じ相手に、そう何度も会うものじゃない」
「でも、最初に会ったのは偶然よ?」
思わず、ケネルは苦笑いした。つまり、二度目以降の遭遇は、意図していたということだ。ずっと後を尾行してきたから、何度も助ける羽目にもなった。彼女の珍しい風貌に目をつけ、絡んでくる与太者から。
「それに確かロズモンドには、娘はいなかった、と思ったがな」
「なによ、わたしが名乗った時には、少しも気づいてなかったくせに」
腹立ちまぎれに頬杖をつき、クリスはむくれて横を向く。「なら、まるで覚えてないのに、話を合わせてたってわけ?」
「俺にも立場があるからな」
「でも、店があるのは本当よ。父が旅行に連れてきたのは、こっちで商談があったからだし、店はモンデスワールの大通りにあるもの」
「そうか」
「──だって、そうじゃなかったら、」
クリスはもどかしげに眉をしかめて、親指の爪を軽く噛む。
「だって、ロズモンドって言わなかったら、わたしのことを助けてくれた? だって、困っていたんだもの。あなたを見つけてついて行ったら、父とははぐれるし、荷物はなくすし、無一文にはなっちゃうし! みんな、あなたのせいじゃない!」
「そうだな」
「──それだけ?」
警戒するように眉をひそめて、射るような瞳でクリスが見据えた。
「訊かないの? わたしが誰だか。それとも、そんなことには興味ない?」
「──いや、聞いても、おそらく思い出せない。心当たりがありすぎて。あんたの兄弟でも殺したか」
「まあね、そんなところ」
ケネルは面食らって口をつぐみ、不機嫌そうな相手を見返す。「あっさりしてるな。それだけか」
「だって、覚えてないんでしょ?」
「まだ、俺を恨んでいるか」
クリスがひるんで目をそらし、はっ、と殊更に横を向く。
「……なんで逃げないのよ、わかっていたなら。なんで、もっと注意をしないの。食事をさせたり、連れ歩いたり、隣の寝台で平気で寝たり──そんなにボケっと親切で、あなた本当にあの戦神? 寝入ったところを刺されたら、どうするつもりだったのよ」
「よほどの事情があるようだし、手傷を負うくらいは構わないさ」
「手傷だけじゃ済まなかったら? 大人しく殺されてくれるわけ?」
「俺を討ち取るのは、あんたには無理だよ。それに、少々事情が変わった」
挑発するように見据える瞳に、ケネルは軽く嘆息する。
「悪いが、もう、この命、くれてやるわけにはいかなくなった」
唇を噛んでクリスは見つめ、ふい、と卓に目を伏せた。
眉をひそめてうつむいた肩を、痛ましい思いで、ケネルはながめる。
その気はあるかと尋ねたものの、その答えは、とうに出ていた。ここ数日そばにいながら、なんの手出しもできなかった。一日の大半、隣を歩き、同じ卓で食事をとり、同じ部屋で就寝し──そして、持ち時間を使い果たして、結局、親族に引き取られていった。つまりは、そういうことだった。
昼の人けない往来を、さらさら砂が流れていく。
歩道に落ちた、影が濃い。クリスは目を伏せている。何を考えているものか、頬をかたく強ばらせて。強く、賢く、無力な刺客──。
そう振る舞っている自覚はあった。無意識の内にも、か細い相手を圧し潰している、と。哀れだな、とケネルは思う。力をもたない者は、哀れだ──。
ふと、天板の隅に意識を戻した。
今、とん、と"黒"が飛び乗った。手のひらほどの大きさの、何か黒いかたまりが。
まん丸の瞳が、見つめていた。
前脚をそろえた華奢な肩で、じっと顔を見あげている。
「──なんだ、お前、どこへ行ってた」
手を伸ばし、頬をゆるめて拾いあげた。
反射的に顔を背け、ケネルは思わず相好を崩す。「──こらっ、よせよ。くすぐったいだろ」
たちまちシャツを這いのぼったそれが、せっついて顔を舐めている。ひたむきに。懸命に。
バールで拾った仔猫だった。
餌をもらって味をしめたか、どこまでもどこまでもついて来て──。
見あげて、か細い声で鳴く、親とも慕うか弱い仔猫を、強く追い払うこともできずに、結局ここまで連れてきてしまった。
いつも、気まぐれに出ていっては、いつの間にか戻っている。捜す時には見つからないのに、ひょんな所でこうして出くわす。ゆうべも夜道ですり寄ってきたかと思ったら、さっさと宿舎に入って行った。あれから姿を見なかったが、一体どこで何をしていたのか。
しつこく舐める仔猫の頭を、手のひらでなでつつ、ケネルは笑う。「わかった、わかった。何もないよ。まったく、お前は現金だな。腹が減ると戻るんだから」
こうして甘えてすり寄れば、いずれは飯にありつける、と仔猫なりに心得ているのだ。
「あいにく今は、ソーダしかないぞ。これじゃ腹はふくれないだろ。──たく。しょうがないな。何か注文するか、食えそうなものを」
「へえ。珍しい」
白けた調子で声を投げ、クリスが興醒めしたように頬杖をついた。「ご機嫌じゃない、隊長さん」
気恥ずかしさを誤魔化すべく、ケネルは卓からグラスをとる。「俺はただ、あんまりうるさく、ねだるから──」
「寝たんだ、彼女と」
ぶっ、と飲みかけたソーダを吹いた。
ゲホっ、ゴホっ、とむせ返って向かいを見返す。「な、な、何をいきなり……」
思わせぶりに小首をかしげ、くい、とクリスが眉をあげる。
「な〜んか、わかっちゃうのよねえ? わ、た、し」
ぷい、とふくれっ面で、横を向いた。
「なによ。わたしには目もくれなかったくせに」
あぜんとケネルは固まった。深刻な討ち手から一転、恋人のように拗ねられて、とっさにとるべき態度に窮する。
ひとまず、年長者らしく咳払いした。
「度を越した悪戯は、いつか必ず痛い目をみるぞ。男の寝床に、裸でもぐりこむなんて、何かあったら、どうするつもりだ」
「いいわよ、わたしは。隊長さんなら」
「何を言ってる。子供のくせに」
「子供じゃないわ!」
むっとクリスが目をむいた。
「もう、十六なんだから! 子ども扱いしないでよ!」
ケネルはたじろぎ、本気の剣幕に片手をあげる。
「──わかった。悪かったよ。悪かった」
あの朝、目覚めて驚いたのは「同衾していた」ことだけではなかった。相手が存外に幼かったことを、確信する羽目になったからだ。
「なによ、振られたって言ったくせに」
クリスはマドラーを取りあげて、グラスの氷をカラカラ回す。
「一緒になるの? 商都に着いたら。ずっと追いかけてきたんだものね」
ケネルは飛躍に面食らい、たじろぎながら苦笑い。「色々あって、すぐには無理だが──ケリがついたら、飲みに行こうと約束はしたな」
「それだけ?」
「迎えに行く、つもりでいるよ。生涯守る、と約束したから」
「なんで、そんなに、あの女がいいのよ」
白けきった頬杖で、眉をひそめて、そっぽを向いた。
「別の人の奥さんでしょ。いくらだって、いるじゃない、あなたに憧れてる女なんか」
「こうなった以上、責任はとらないとな。それに、」
晴れた空をケネルは仰ぎ、陽のまぶしさに目を細める。
「俺は、誓いを立てたから」
古い石畳の溝をさらって、細かな砂まじりの風が吹いた。
まだ暑い昼さがりの街路は、凪いだように閑散としている。口をつぐんだ相手に焦れて、顔をしかめてクリスが促す。「──ねえ、なによ、誓いって」
ケネルは苦笑ってそれには応えず、浅い溜息で仕切り直した。
「いずれにせよ、ひとまず商都に戻さないとな。こんな所まで来ちまったが、これ以上、西には近づけたくない」
「……ふーん。大切なんだ、彼女のこと」
胸をよぎった記憶の苦さに、ケネルはわずか眉をひそめる。
醒めた残像をやり過ごし、夏日にかがやく道をながめた。
「ああ。誰より大切だ。俺の自由になるものなら、何をくれてやってもいい。──わからないものだな、人生ってのは。こんなことが起こるんだから。女と暮らすことなんて、二度とないと思っていたのに」
「今日はお喋りね、隊長さん」
苛立った声にさえぎられ、ふと、ケネルは我に返った。
気まずく苦笑い、不機嫌な向かいに目を戻す。「──そうか?」
「それにしても、遅いわね、彼女」
ぎくり、と強ばって見返した。「な、何を言って──」
「だから、待ち合わせしてるんでしょ、ここで」
クリスは街路を見まわしている。
「──そんなこと、言ったか? あんたに」
「あら。だって、そうじゃないのに、一人でここに座ってる? こんなかわいいパラソルの下に?」
鋭い指摘に、とっさに詰まった。
つまり、クリスは居座って、客を一目見ていこう、との腹積もりらしい。
なんとかして思い止まらせ、一刻も早く帰そうと、そわそわ向かいを振りかえる。
口に、何かが押し当てられた。
あたたかく、柔らかな感触の。肩に、細い女の手──。
顔を振って手を払い、乗り出しかけた肩を引く。
ガタ──と椅子の脚を鳴らして、飛びのくようにして立ちあがる。
はっと視線を走らせた。
街角は閑散として、あの姿はどこにもない。
ほっ、と手の甲で口をぬぐい、腹に据えかね、向き直った。「また、そういう悪ふざけを」
「悪ふざけじゃないわ」
乗り出した肩をゆっくり戻して、クリスが肘をついて軽くにらむ。「悪ふざけじゃない」
大きな瞳に、力がこもる。今にも叫びそうに唇が震える。
ぷい、と不貞腐って横を向いた。「なによ。いいじゃない、キスくらい。わたしたち、初めてじゃないんだし」
「──いい加減にしてくれ。こんな表通りの店先で。もし、誰かに見られでもしたら」
「誰がいるっていうのよ、こんな暑い真っ昼間に」
「だが、」
「怖い? 彼女にばれるのが」
とっさに、返す言葉に窮した。
細い指を卓で組み、ちら、とさげすむようにクリスはうかがう。
「そんなに心配? あの女のことが」
つっけんどんな勢いに押され、あぜんとケネルは立ちつくす。
はたと屈んで、卓の上から仔猫を拾った。
「──あ、ああ、悪い。腹減ったな、チビ」
腕に抱きとり、卓から離れる。
「何か食うもん、厨房でもらうか──悪いが、ちょっと待っててくれ」
パラソルの下にクリスを残し、そそくさケネルは歩き出す。
客のない店へと向かう背で、密かにげんなり嘆息した。「──なんだ。今日は、いやに絡むな」
何をそんなにムキになっているのか、ケネルにはさっぱりわからない。そして、やっぱり、女の饒舌には太刀打ちできない。相手は、まだ少女というのに。
ああ、まったく、想定通りに動かない。あの客の機嫌さえ意味不明が常というのに、まして年頃の娘の気まぐれをや。
真昼の陽射しが遮られ、ほの暗く感じる店内に入り、カウンターの店員に声をかける。
ご注文すか、と奥から出てきた、茶髪の気だるげな店員が、腕のそれで目を留めた。
「あっ、お前! また来たのか。──すみません、テーブルに載りましたか。どうも、餌場になっちまってるようで」
慣れた手つきで仔猫を抱きとり、頭をなでて、目じりを下げる。「なんだ、飯かよ。しょうのない奴だな〜」
何気ない口調はそのままに、二、三新たな報告を受ける。
バーを装った情報拠点の、店員姿の鳥師によれば、今朝方から現在までに、大きな動きがあったようだ。街への出入りもいくらかあり、滞在中の顔触れが変わった。片が付いた案件もいくつか。それに付随する些細ないくらかの情報も──。
頭の隅にそれを入れ、こそり、とケネルは切り出した。
「悪いが、頼みがあるんだが」
はあ、とあいまいな顔つきで、茶髪が仔猫から目をあげた。
「俺の連れを見かけたら、遠ざけておいてくれないか。その、連れが店に着くのを、できるだけ遅らせてほしいんだが」
ちら、と茶髪がテラス席を見た。
眉をしかめ、ひそひそ話で顔を寄せる。「……もしかして、修羅場すか」
「……。そういうわけじゃ、」
二ッと心得たように茶髪が笑った。
「いいんすよ、隠さなくっても。わかりますよ〜? 鉢合わせはまずいっすもんねえ? そういうことなら、お任せあれ。宿舎から来るなら、この道でしょうから、なんとか途中で食い止めて、どっか観光にでも連れ出しますよ」
奥から出てきた茶髪の腕に「──なあ! チビになんかやってー」と、片手ですくい上げた仔猫を預け、黒い前掛けをいそいそ外す。
そそっ、と小走りで駆け戻り、共犯の笑いで耳打ちした。
「どうぞ、そちらはご存分にっ」
「……助かる」
ふぁいとっ! と小声で拳を握り、いそいそ店を飛び出していく。
明らかに浮かれたその背を見送り、ケネルは溜息まじりに店を出た。「たく。あの野郎。他人事だと思って……」
他人の不幸は蜜の味。火の粉の降りかからぬ野次馬の、物見高さはいずこも同じ。
だが、客とクリスを会わせるなど、とんでもない冗談だ。
そうでなくてもあの客は、あることないこと邪推して、かじってくるような猛獣なのだ。しかも相手は、生意気盛りの思春期の娘。これで、ただで済むはずがない。場合によっては血で血を洗う、一大抗争にまで発展しかねない。そうなれば無論、こっちもただでは済むはずもなく──。
うむ、と拳に固く誓う。ここは断固、全力で阻止だ。
ぶらぶら先の卓に向かうと、クリスは卓で手を組んで、ぼうっと一人、気の抜けたような顔。
何かの動きを片隅で捉え、ふと、ケネルは足を止めた。
石畳を転がるそれを、なんの気なしに、しばし目で追う。
ころころ、風に転がっていく。
くしゃくしゃに丸めた薄い紙が。紫色の紙くずが。
「──まあ、対処できるか。ファレスがいれば」
つぶやき、元の席へと戻り、椅子の背もたれを片手で引く。
音で、クリスが目をあげた。
すぐさま目を伏せ、グラスをいじる、その細い指先が、落ち着かなげにそわそわ惑う。
「──祝杯をあげない? 隊長さん」
強ばった声には気づかぬ振りで、ケネルは座席に腰をおろす。「祝杯?」
「お陰さまで父とも会えたし、隊長さんも彼女に会えた、でしょ?」
「──なるほどな」
ふっと微笑って、ケネルは水滴したたるグラスを見る。「いいよ。わかった。乾杯しよう。だが、済んだらすぐに離れろよ。いいな」
クリスが面食らったように口をつぐんだ。構わずケネルは、グラスをとる。
「じゃ、それぞれの再会に」
つられて持ちあげたクリスのグラスに、自分の縁をカチンと合わせる。
自分のグラスを一気にあおり、気の抜けたソーダを飲み干した。
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