■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章93
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町角の隅の切り株に座わり、エレーンは膝の頬杖で、左右の道を見比べる。
行きつ戻りつ、挙句くたびれ、座りこんでしまった次第。そう、実はずいぶん前から、この辺りをうろうろしている。
「もおおぉー。どうしたもんだかなー……」
二個目のパンを取り出して、いささか自棄気味にムシャムシャかじる。
ケネルの朝ごはんにと用意した、人気店の評判の──。てか、甘い一夜の翌日というのに、なんで先に食べに行くかな。
胸が詰まって、しゅんとした。近ごろ、些細なことで傷つく。
だったらいーわよ、とパンをかじった。こっちだって、お腹はペコペコ。なによ、ひとが苦労して、せっかく行列に並んできたのにっ。
「なによ、鈍感、無神経!」
町角を睨んで、代わりに罵倒。無視して勝手に出かけるとか。そんなに腹が減ってたのか? 記念すべき朝だったのに。
ともに一夜を過ごしても、ケネルはちっとも変わっていない。そうやって無造作に傷つけて。男って生き物は、なんで、あんなに無神経なんだか。
はあ〜……と長い溜息で、膝をかかえてうつぶせた。
「……なんでかな」
ケネルは「好き」って言ってくれない。
勇気を奮い起こして告白したのに。
愛の言葉を囁くどころか、ケネルは決して口にしない。自分の立ち位置をきめるような、決定的な言葉は、いつも。
「ほんと、あのタヌキ、ずるいんだから……」
異民街のケネルの部屋で、売ろうとしたこっちの荷物、とりあげた時みたいな「あと出しジャンケン」平気でするし──。
ふと、口をつぐんで眉をひそめた。
「ずるいのは、あたし、か」
からになったパンの包みに、八つ当たりして、くしゃくしゃに丸めた。
ついでに店で買ってきた、コーヒー牛乳の蓋をあけ、ぐびり、と片手で瓶をあおる。
目をみはって、二度見した。
「なっ、なにこれ、絶品っ!?」
とにもかくにも、ごくごく飲んだ。
ぷはあっ、と至福の満面の笑み。
苦みと甘さのさじ加減が絶妙だ。パンはどうってことなかったが、コーヒー牛乳は又とない逸品。さてはあの店、人気なのは、パンじゃなくってこっちの方か!?
「んもー。なあにが"気分"よジョエルの奴ー。やっぱバリバリ甘党なんじゃないよー」
いやいや、今はそんなことより、答えを出すべき問題がある。
曲がり角、なんである。
右に曲がれば、ケネルのいる飲食店。赤い鉄枠が小綺麗な、エンジたちの洒落た店。
片や、道なりに直進し、市場を抜けて通りを渡れば、ハジさんのいるラディックス商会──。
だって、気になる。セレスタンのことが。
ザイに後のことを一任していた、ケネルの口ぶりから察するに、商会に寄ることはなさそうだし。
宿で会ったあのエンジの、何事もない様子では、悪い知らせは、ないようだけれど。
あの後、寝床で目覚めれば、部屋はすっかり明るくて、今後の進路をどうするか、ケネルと何も話していない。
でも、ケネルは迎えに来たのだ。
商都にこちらを連れ戻すつもりで。こうして再会した以上、すぐにも出立するだろう。
──どうする?
そういうことなら、自分はどうする? ケネルに会えば、なし崩し的に商都に帰ることになる。
ここまで来れば、目的地トラビアは目前だ。
大陸北端のノースカレリアから、こんな西の彼方まで、はるばる大陸を南下したのは、ディールの捕虜となっているダドリーを返してもらうためだ。
そして、次になすべきは、あの彼と面会し、なんとしてでも説得すること。ディールの首都トラビアを攻めるべく布陣する、ラトキエの総領息子アルベールさまと。
初めから、目的が違うのだ。ケネルと、この自分とは。
ケネルは商都に連れ戻したい。自分はトラビアに向かいたい。目的地はそれぞれ、街道の東西、街を出れば、方向は真逆。自分が異を唱えれば、ケネルは必ず阻止に出る。
今となっては、ケネルこそが壁だった。
味方であれば頼もしいが、その分一たび敵に回れば、これほど強大な相手もない。
「……どう、したら」
仰ぎやった青空を、じんわりやかましい蝉の音がつつんだ。
じりじり夏日に溶けそうな、代り映えのしない町角を睨む。ようやく想いを遂げたのだ。二度とケネルと離れたくない。ケネルといれば、これまで通り、なに不自由なく保護してもらえる。でも、だけど、だからといって、
「……ケネルの言いなりで本当にいいの?」
これまでも。今も。これからも。
この目の前の、曲がり角が、実質的な岐路だった。
ケネルと行くか、トラビアに向かうか。ケネルを選ぶか、自分を取るか、二者択一の分かれ道。
この選択で、一変する。自分を取り巻く状況が。
どちらを選ぶかそれ次第で、今後がすべて変わってしまう。それに気づいてしまったら、どうにも決めかね、踏ん切れない。
ゆうべ一夜を共にしたが、ケネルはそんなことで考えを変えない。
『 トラビアで危険を冒すには、あんたの動機は、あまりに些細だ 』
あの時計塔の屋上で、ケネルはそう一蹴した。
そして、続けて断言した。「トラビアには行かせない」と。
いや、これまで会った誰一人、いい顔をする人などいなかった。レノさまも、ザイも、セレスタンも。それは無謀だと、皆が言う。あの優しいセレスタンでさえ、首を横に振ったのだ。他の誰に聞いたところで──
はた、と膝から目をあげた。
「……や、ちょっと待って。そういえば」
そう、そういえば、いたではないか。そうした主要な面々とは、毛色の違う連中が。
あのノアニールの袋小路で、ザイとセレスタンに取りついて、我が身を挺して逃がしてくれた──。セレスタンの話によれば、なんでか商会にいるらしい、あの──。そう、あの勇猛果敢な、
「……三バカ、……かあ……」
がっくり、脱力で肩を落とした。ああ、意気があがらない。数少ない味方というのに。
いつでもどこでも無駄に強がる、三人の顔が脳裏で騒いで、思わずげんなり顔をゆがめる。うるさいほどド直球の、あの気概だけはありがたいが、いつでも実力が伴わない、というか。
「──ケネルが行ってくれたらなあ」
溜息とともに、本音が漏れた。
ケネルが付き添ってくれるなら、それで万事解決なのに。
馬で飛ばせば、トラビアなんて、すぐそこだ。また与太者に襲われても、ケネルがいれば安心だ。そもそも、ケネルが一番いい。ケネルの側から離れたくない。けれど──
気鬱の種を思い出し、はあ……と膝に突っ伏した。
そうしたことに関しては、ケネルたちは気にしないようだが、胸に芽生えた苦い陰りが、大きくふくれ始めている。ずっと、ずっと、気づかない振りできたけれど……
「けど、これって、完全に、」
その先を、口にするのをためらった。
些細な言い訳をこねまわし、だが、上手く受け身をとれないままに、諸刃の危うさが口からこぼれる。
「……不倫、よね」
思いがけない陰鬱な響きに、ぞくり、と背筋が寒くなった。
不倫など、よくある話だし、世間の人々と同じように我関せずで見ていたが、いざ当事者となってみれば、それほど気軽なものではなかった。深入りせぬよう気をつけていたのに、なのに、どうして、こんなことに──。
自分は確かに"向こう岸"にいた。「正しい」側に立っていた。そんなの駄目だ、人の道にもとる、そう公言して憚らなかった。なのに──。
とうに妻子がいることを、ダドリーはずっと伏せていて、それを不実となじったけれど、その彼と同じことを、いつの間にか自分もしている。むしろ、慣例に則った情婦よりも悪質だ。自分はすべて承知の上で、ケネルと一線を越えたのだから。
なんて脆いものなのか。人の振りかざす正義とは。
ちょっとよそ見で気を抜いただけで、穏やかな道を踏み外す。その立ち位置が覆るのは、あっという間だ。
迷惑をかける、つもりなんかない。
誰も傷つけるつもりはない。ただ好きになっただけなのだ。けれど、それは人道上、世間に許されることではない。
三日で喧嘩してそれきりの、形だけの夫婦だった。あのレノさまに言わせれば、まだ内輪の話でしかなかった。でも、誤魔化しようもなく知っている。これが「裏切り」であることは──。
どこからか漂うそれが、膝にうつぶせた鼻をくすぐる。
昼時の煮炊きの匂い。どこかの窓から、子供の泣き声。元気で、そして容赦のない。当たり前の日常の物音。耳慣れた穏やかな──。
膝に目頭を押しつけて、エレーンは小さく息を吐く。
なんだか無性に遠かった。この真っ当な日常が。幼い頃から含まれていたこの「明るい世界」から、いつの間に弾かれてしまっていたのか。
かつての自分が安穏と、当然のように居られた世界。誰も泣かせることのない、誰に責められることのない、本当に何でもない、ごく普通の、当たり前の──。一体なぜ、こんなことに──
「……。そっか」
むくり、と膝から顔をあげ、エレーンは瞠目、手を打った。
「そっか! それでいいんじゃない!」
食事の紙くずをリュックに詰めこみ、わしわし背負って、立ち上がる。
急ぎ足で、踏み出した。
迷うことなく町角を右折、前を見据えて店へと急ぐ。
ダドリーのことは、今でも大事だ。
一番つらい時にそばにいて、ずっと、そばで励ましてくれた。
立ち直るまで手を伸べて、いつも隣で注意深く、真顔で見守ってくれていた。でも──
指輪を返そう。ダドリーに。
そして、元の、友達に戻ろう。
放せば良かったのだ、ダドリーの手を。
やっと手に入れた居場所だから、必死でしがみついていたけれど。玉の輿を逃すのが惜しくて。一人ぼっちに戻るのが怖くて。
でも、やっと目が覚めた。
誰かと片手をつないだままで、向き合えるようなことじゃない。
一緒にいたいと願う相手は、誰でもいいってわけじゃない。
ダドリーには、自分は要らない。
サビーネがいる。子供もいる。家同士の縁組で、恋愛感情などはない、とダドリーは説明したけれど、それでも、彼とサビーネたちは歴とした家族なのだ。
それで、すべて上手くいく。
アルベール様と面会し、ダドリーを連れ戻して、話をつけよう。
指輪を返して、友達に戻ろう。そうケネルを説得し、ラトキエの軍まで連れて行ってもらおう。二人の今後に関わることだ。それなら折れてくれるかもしれない。
今すぐケネルと話したい。自己満足でくくられてしまう、あやふやな動機などではなくて、きちんと確かな理由があれば、これなら話を
──聞いてもらえる!
気が急き、足が、どんどん速まる。
往く手に、道がひらけていた。
誰憚ることのない、豊かで自由で明るい道が。立ちこめた続けた霧が晴れ、世界がすっきり開けている。この曇りない幸せを、空の向こうに叫びたい。
あの彼女のまっすぐな瞳に、応えることができなかった。
ずっと、後ろめたかった。伴侶のいるこの立場が。けれど、やっと胸を張って言える。
あたしだって、ケネルが好き。
負けないくらい、ケネルが好き。
そうしたら、ケネルも言ってくれる? ねえ、ケネルも、そうしたら、
「好き」って、あたしに言ってくれる?
ふと、駆け急ぐ足を止めた。
いや、足が動かない。
──動けない。
自分の異変にようやく気づいて、エレーンは怪訝に足元を見る。
チリ──と焼けつくような痛みを感じて、あわてて、それを服から出した。
呆気にとられて、それを見つめる。
「え……な、なにっ? なんで……」
手のひらにのせた、翠玉のかけら。
大きくヒビの入ったお守りが、じんわり熱を持っている。服の中に入れていたから、陽に当たることさえ、なかったのに。いや──
目をみはって凝視した。
さっと "赤"が、射したのだ。
血液を思わせる赤い流れが、堅い石の内側で、流れるように動いている。その上、石が、震えるように振動して──。
陽射しに硬くきらめいて、どくん、どくん、と息づいていた。
みるみる強く輝いて、深紅に染まり、光を放つ。
石の異変の光景が、視界いっぱいに飽和して、意識が薄れ、霧散する。
「──行か、ないと」
うつむいた口から、つぶやきが落ちた。
のろりと目をあげ、今きた道を引きかえす。
静かな街路を歩き続け、大きな十字路をいくつも過ぎた。とろんと瞼が半分おりた、焦点の定まらないうつろな瞳で。
魂が抜けたようにふらふら歩いた。
やがて、往く手に見えてきたのは、地方都市ザルトの街門広場。
まだ馬車の行き来のない、気だるく凪いだ石畳の広場を、足を止めずに突っ切った。
重厚な街門をくぐり抜け、閑散と客のない、門前市を右に折れる。
西へと向かう街道が、白くなだらかに続いていた。
目的地トラビアへと、その道を示すように。
青く晴れあがった炎天下、うつろな瞳でふらふらと、だが、脇目もふらずにエレーンは歩く。
「待ってて。今、行くわ……」
だって、彼が待っているから。
「今行くわ、荒竜」
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