CROSS ROAD ディール急襲 第3部3章7
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 闇に沈んだホールの時計は、八時を回ったところだった。
 二階の部屋に引きあげて小一時間が経過したが、扉の外に気配はない。
 食事を平らげた一階で、すでに舟をこいでいた客は、部屋に戻るなり長椅子に寝そべり、またたく間に寝入ってしまった。何か夢でも見ているのか、いぶかしげに眉をよせ。
 店の黒服が持ってきた、鶏の揚げ物が盛られた皿が、手つかずのまま冷えきっていた。
 床においた灰皿には 「く」 の字に折れ曲がった吸い殻の山。
 開け放した西の窓から、夜風が気だるく入ってくる。あぐらで座りこんだ床の上、ファレスはくわえ煙草で月を睨む。
「引き渡す、べきだよな」
 むろん、ギイはそのつもりだ。
 強行して連れ去れば、たちまち後を追ってくる。考えるまでもない、わかりきった話だ。あの参謀一行は「確保」の指令を受けている。組織の頂点・統領から。引きかえこの身は、しょせんは無数の駒の一つ──。
 部隊の中に身をおくかぎり、当面、先行きは安泰だ。
 資金は潤沢。ヘマして捕虜にでもならないかぎりは、飢餓に陥ることはない。なにせ、財源は大商会、複数の鉱山を隣国に有し、手広く事業を展開するカレリア三大商会の一──。
 灰皿をとり、煙草をすり潰して紫煙を吐く。
 眉をしかめて、こめかみを揉んだ。両手で後ろ手をついて肩を倒し、闇がただよう天井を睨む。
 選択肢は三つある。
 一つは、客を商都に戻し、クレスト公館に引き渡す。
 あの一室で請け負った、任務を完全に終わらせる。指示をしりぞけ、予定通りに。
 一つはトラムへ連れていく。部隊で身柄を保護するために。
 国境トラビアで睨みあう、ディール、ラトキエ両陣営の覇権争いが終わるまで──言うまでもなく定石だ。ザルト・商都間は距離がある。紛争地域の移動には、少ながらず危険が伴う。そして、後のもう一つは、
 ──いや、これは場当たり的な、とるに足りない妄想だ。
 漠としたひらめきを、首を振って振り払い、ごろりと床に身を投げた。
 視界を圧する夜の天井。横臥し、頭を片手で支えて、長椅子の客をながめやる。
 無為に利き手を寝顔へ伸ばし、黒髪の地肌を指先で掻いた。
 月影で眠る客の頭に、溜息まじりで手のひらを置く。ギイの顔がちらついた。無灯の闇に身をひそめ、月影の寝顔に目を凝らす。遅かれ早かれ、いずれ確実に・・・手を離れる。それはわかっていたはずだ。だが、どうせ手放さねばならないならば──
 うるさいほどの虫のが、余すところなく夜を覆う。
 ばさり、とどこかで鳥が羽ばたく。薄く口をあけたまま、客は眠りこんでいる。ふっくらなめらかな頬の線を、指の先でそっと辿る。
 口をあけたその鼻を、くい、と二本の指でつまんだ。
「起きろ。行くぞ、あんぽんたん」
 
 
 夜の町には、まだ、まばらに人がいた。
 商会裏手から通りへ出、市場通りへ車道を横断、屋台を冷やかす人の流れに紛れこむ。
 あくびをかみ殺して歩いている連れは、寝ぼけまなこで目をこすっている。
「……もー。なによー。こんな夜中にぃ〜……」
 口をあおいで、くわ、とあくびし、ぷりぷり、ひとくさり文句を垂れる。
「ねー、ケネルは〜?」
 きょろきょろ夜道を見まわした。「どっか行くなら、一言断って行かないとぉー。急に消えたら心配す──」
「どの口が言うんだ、どの口が!?」
 思わず、がなって振り向いた。
 なによぉ、と連れは口を尖らせ、だが、どこ吹く風で屋台を見まわす。「そんなのいいから、ねー、ケネルは〜?」
 ファレスは苦々しく吐き捨てた。
「帰った」
 あんぐり、連れが振り向いた。
「──か、帰ったぁ?」
 魂が抜けたような顔で呆けている。
 窓から客をぶん投げてやると、根性だして引っつかまった。植栽の枝にぶら下がり、引きつった顔でののしりながら。
 だが、それに続いて先に着地し、地面に客を降ろしてやると、すんなり文句を引っこめた。やいのやいの言うかと思いきや。つか、こいつ、なんで慣れてんだ?
 ともあれ、外套を買って連れに着せ、まばらに店を開けていた屋台の道を通り抜けた。
 砂風で転がる紙くずを見ながら、町壁の暗がりを選んで進む。いつの間にやら復活していた連れの抗議は無視して流し。
 路地を抜け、しばらく進むと、夜闇に呑まれた視界がひらけた。行く手にそびえる重厚な門。
 地方都市ザルトの街門広場──。
 追手の影がないことを、視線を走らせて確認し、馬車の行き来のない道を、足を速めて向かいに突っ切る。
 分厚い石造りの門をくぐって、ザルトの街の外に出る。大陸の草地をさらった夜風が、途端に、ひんやり頬をなでた。
 夜の闇の暗がりの、方々に点った黄金こがねの灯り。屋台つらなる門前市。
 ──どっちだ。
 手前の道に目を戻し、ファレスは左右を見比べる。
 幅の広い土道が、闇の先まで続いていた。東西に延びるトラビア街道。左は商都へ続く道。右はトラビアへ続く道──。
 意を決し、ファレスは踏み出す。
 ふと、足を止め、怪訝に辺りを見まわした。
 屋台群を振りかえる。門前市の低いざわめき。黄金こがねに輝くランタンの灯り。屋台でたむろす客の顔にも、受け答える店主にも、変わった様子は見られない。だが、
 風が・・止んだ・・・
 ぴたり、と虫も鳴き止んだ。世界が意識を向けたように。
「もーむり〜。あたし、もう歩けないぃぃい〜!」
 神経をそばだてたその肩を、がっくり脱力でファレスは落とした。
 ずっと、ぐちぐち、ぶー垂れてた連れだ。
「門を出て一分で ぇ上げてんじゃねえぞコラ」
 ちんたら歩く手を引っ張り、叱り飛ばして歩かせる。
「だあってえ、出発、夜中とかあ〜。あたし、すんごく疲れてんのにぃ〜」
隣町となりまで大した距離じゃねえ。歩きで精々五、六時間ってとこだ。──あっ、てめっ!? 道端で座りこむんじゃねえっ!」
 両手で膝をかかえた連れが、口を尖らせ、顔を仰いだ。
「ねーおんぶぅ〜」
「──あァっ!?」
 てめえはどこのくそガキだっ!?
 
 二人分の荷物とともに、阿呆を背負しょい上げ、行く手を見た。
 とたん、首に両手をまわし、しがみついてくる背中の重み。
 戸惑い、視線がさまよった。不意にこみ上げた覚束なさ。これまで感じたことのない、空漠とした心許なさ。それは、そのまま"命"の重み──。
 舌打ちで動揺を振り払い、夜の街道にファレスは踏み出す。「──畜生。行くか」
「愚かな」と声が、横から思考に滑りこんだ。
 怪訝に声を振り向けば、脇に子供が立っている。
「なんだ、てめえは」
 白い服の小柄な男児だ。肩で切りそろえた黒い髪先。ちら、と前髪の下から見やった。
西へ・・行こうというのだろう?」
「……あ?」
 幼い外見にそぐわない、落ち着いた声音に面食らう。しかも、見透かしたようなこの物言い──
 とっさのことで返事に窮し、だが、我に返って顔をしかめた。「こんな夜更けに、ガキが一人でうろついてんじゃねえぞ。親の所にさっさと戻──」
 苦々しく振りかえり、あっけにとられて動きを止めた。
 いない。子供が。
 思わず周囲を見まわすが、それらしき姿はどこにもない。門前市のざわめきが、低くくすぶっているばかり。
 忽然と姿が掻き消えた。あたかも幻であったように。もう、雑踏に紛れたのか? 夜のまばらな雑踏に。
「──妙なガキだぜ」
 首をかしげて目を戻し、気を取り直して歩き出す。
 《 人神こぞって西へ向かう 》
 抑揚のない声がひらめく。
 ファレスは闇を睨んで眉をひそめた。耳元を掠めた無音の・・・言葉。
 うすら寒く心がざわめく。こちらの行く先を言い当てた、浮世離れしたあの物言い。そういや子供の輪郭が、ほの明るく見えやしなかったか? しかも、子供の服というより、神官のまとう装束のような──。
 ──いや、と首を振り、歩き出した。ほの明るく見えたのは、夜闇に白い衣服のせいだ。それに、街門を出て右に進めば、方角は「西」に決まっている。
 街道を、西へ向かっていた。
 今ごろギイは、封じ込めたと思っているに違いない。出奔に気づいて探すにしても、女連れなら、最前線は当然避ける、そうギイは踏むだろう。ならば、裏をかいてやる。
 門前市の賑わいを離れ、月下の真っ暗な街道を、連れを負ぶってひた進む。いかにもここは街道だが、あいにくこんな夜間では、馬車など一台も通らない。
 ギイは、まるで動じなかった。
 もっとも、すごんで引くような、可愛らしい手合いでは元よりない。客はひとまず分捕ったが、たかがあれしきの牽制で引き下がりはしないだろう。おおかた階下で陣取って、館外への出入口を見張っている。万一の事態に備えて。
 その読みは正解だ。
 だが、こちらは女連れ。部屋の窓から脱出するとは、よもや思いもしないだろう。様子が変だと気がついて、二階の部屋に踏みこむのは、おそらく明日の昼あたり。まあ、半日稼げりゃ上等か──。
 商都に戻せば、命はない。
 連れはこれまで幾度となく、刺客に命を狙われてきた。刺客を放った雇い主は、面子を潰された北方貴族。領土に戻せば、次こそ確実に葬られる。だが、トラムに連れこめば──。
 部隊で待ち構えたギイたちが、身柄を要求するのは確実だ。連れには嫌疑がかかっている。今や一番の容疑者だ。確証を引き出そうとするギイの顔には、明らかに不審が浮かんでいた。あの男の言うことは、不愉快なほどわかっている。
 焦点の合わない虚ろな瞳で、ひとり街道をさまよっていた。それが事件を起こして混乱し、動転してのことならば、あのただならぬ様にも説明がつく。
 組織の頭を狙ったからには、公開処刑は免れない。まして、あの参謀ならば、最も効果的な手段を用いて見せしめにしようとするだろう。処刑が絡む仕事なら、さしあたり差し向けられるのは、
「──特務か」
 かの面々を思い浮かべ、ファレスは苦々しく眉をひそめた。指令を確実に遂行する日頃の実力を知るだけに、なるべくならば当たりたくない相手だ。
 これから告げるべき事柄を、頭の中でより分けて、軽く息を吐き、口を開いた。
「いいか、阿呆。よく聞けよ。ここから先は開戦地だ。お前の他領の称号は、厄介極まりない代物になる。軍の兵隊のみならず、部隊の奴らもこっちの敵だ。今までのようなわけにはいかねえ。もう、部隊は盾にならねえ。どこで誰に取っ捕まろうが、自力でそこを切り抜けにゃならねえ。だが、お前は心配するな」
 つかの間ためらい、一息に言う。
「俺が守ってやるからよ」
 平坦に伸びた暗い道が、ゆるやかに彼方へ続いている。
 不思議なほどに風がない、静かに凪いだ夜の中、丸い月が浮かんでいる。深刻な事態に困惑したか、彼女は口を開かない。
「──おい、阿呆、なんとか言えや」
 気まずく舌打ち、肩越しに気配へ目を向ける。「人がわざわざ、下らねえ話を──」
 顔をゆがめて停止した。
 拳をにぎり、わなわな地団太。
「寝てんのかよっ!?」
 苦り切って目を戻した。
「たく。こっ恥ずかしい台詞を吐いちまったじゃねえかよ。柄にもねえことはするもんじゃねえ」
 舌打ちで見やった目の端で、むにゃ、と寝顔が顔をしかめる。
「……ふぁ、れすぅ〜……」
 ピク──とファレスは足を止めた。
 そろり、と肩越しに寝顔を覗く。
 目をすがめた警戒の視線で、そろそろ顔を近づける。
 じぃっと寝顔を間近で観察。己の名を呼んでいる……?
 ぎこちなく相好を崩した。「しょ、しょうがねえな、寝ぼけやがって、」
「ばかあ……」
「──ぬ? あ゛ァっ!?」
 いきり立って振りかぶった。
「てめえ!? もういっぺん言ってみろ! 誰のためにこんな苦労を──!」
「……もぉー、」
「あァっ!」
「しんぱい、したんだからあ〜……」
「──しっ?」
 がなった顔で、ただちに停止。
 無言で凝視する間にも、連れは、むにゃ、と顔をすりつけ、肩から首へと潜りこむ。
 それを目で追い、思考が停止。
「……。よし」
 握った五指をニギニギ伸ばし、そおっと平手で頭をなでた。
 軽く揺すって背負い直し、闇に呑まれた道の先に目を向ける。
「待ってろ、もう少しの辛抱だ。町に着いたら存分に、寝床で寝かせてやるからよ」
 選択肢は三つある。
 一つは、客を商都に戻し、クレスト公館に引き渡す。
 あの一室で請け負った、任務を完全に終わらせる。指示をしりぞけ、予定通りに。
 一つはトラムへ連れていく。部隊で身柄を保護するために。
 国境トラビアで睨みあうディール、ラトキエ両陣営の覇権争いが終わるまで。あるいは、客の容疑が確定するまで。そして、もう一つは、
 ──さらって逃げる。
 誰も知らない最果てへ。恨まれても、構わない──。

 月下の道を踏みしめて、街道の西へ足を踏み出す。
 世界が眠るこの内に、少しでも遠く離れねば。
 夜がまだ、闇の内に。
 
 
 

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